ある騎士のこと

 湿った暗闇にぼうっと光る仄白い肌と、その肌に刻まれた無数の赤黒い線を、静かに睨む。掲げた松明に映る、冷たい床に倒れ伏した影が微動だにしないことを確かめると、ダーグは躊躇うことなく、床に流れるうねった髪を無造作に掴んで引き上げた。

「ううっ……」

 哀れを誘う声を総無視し、床から持ち上げた小柄な身体を確かめる。吊り落としの拷問で脱臼したはずの肩は、きれいに治っている。背中に刻まれた笞打ちの傷も、見た目は痛そうだが血は既に止まっている。さすが、敵味方双方に賞賛された魔術師。苦い思いと共に、掴んでいた髪の毛はダーグの手から滑り落ちた。

 ダーグが仕える、現在は王を名乗る人物につい最近まで敵対していた、ダーグ達とは異なる一族に所属する騎士兼魔術師。その策謀と武術と魔力で以て、ダーグ達をさんざん悩ませてきた者。それが、現在ダーグの目の前で床に突っ伏して呻いている人物。ひ弱そうに見えるこの影が擬態であることは、先程既に確かめた通り。これまで何度も、戦いの場で騙され続けてきている。今更引っかかってたまるか。華奢な影の方へ唾を吐くと、ダーグは呻くのを止めた背をじっと見やった。

 サシャという名のこの騎士が所属していた一族との戦いは、ダーグ達の一族の勝利で終わった。だが、サシャが仕えていた族長の首は取ったが、族長に仕えていた重臣と従者数名、そして族長の息子がその母親や乳母諸共消えてしまっている。彼らの行方を吐かせるためにダーグの同僚がサシャを拷問にかけたが、敵ながら流石というべきか、さんざん痛めつけたにも拘わらずこちらに有利な情報は全く手に入っていない。ならば。もう一度、華奢な背を睨むと、ダーグは傍らに控えていた牢番を見やった。

「朝になったら、こいつを釈放しろ」

「えっ?」

 ダーグの言葉に、牢番が目を白黒させる。その表情に僅かに口の端を上げると、ダーグは湿った牢を出た。


 次の朝。

 牢から出され、捕らえられていた砦を背にした細い影を、砦の影から確かめる。一騎打ちなら五分五分にする自信はあるが、相手が相手だ。後をつける場合は用心に用心を重ねる必要がある。逸る心を抑えつつ、あくまで慎重に、ふらふらと小道を歩く影が見え隠れする距離を保ちながら、ダーグはサシャの後を追った。目的は勿論、サシャが匿っているであろう敵方の重要人物を見つけること。族長の息子を捕らえることができれば、復讐という後顧の憂いは無くなる。サシャを捕らえて殺しても、隠れている敵方の戦力はほぼ絶滅するが、更なる安心のために、未来の敵は排除しておかなければ。ダーグの予想通り住む人の少ない山の方へと向かう華奢な影を見張りながら、ダーグは一人、頷いた。

 その時。唐突に、見えていたはずの影がかき消える。

「なっ!」

 叫ぶより早く、ダーグの身体はサシャが居たはずの場所へと飛び出していた。……居ない。確かに、先程まではこの場所を、頼りなげに歩いていたはずなのに。隠れる陰も無い、草も疎らな場所を、ダーグは何度も見回した。

「き、消えた……?」

「しかし、何処に?」

 念のためにとダーグの周囲に配備していた部下達の驚きを聞きながら、心の底から唸る。魔術師なのだから、姿を消す魔法くらいは使えて当然。それを失念していたダーグが悪い。

 こうなったら。

「とにかく探せ! そんなに遠くには行っていないはずだっ!」

 こうなったら、地を這い回ってでも見つけ出してやる。強い決意と共に、部下達に指示を出す。散らばった部下達の背を確かめると同時に、ダーグ自身も、見当をつけた方向に走った。


 幸いなことに、サシャの足取りはすぐに掴めた。

「ならず者達に襲われていたところを助けてくれたんです」

 部下が見つけた、大木の下で腰を抜かしていた若夫婦の言葉に、ダーグは誰にも分からないように肩を竦めて息を吐いた。追われているのに、人助けをするとは。だが、……あいつらしい。昨日、ダーグの同僚がサシャを捕らえることができた理由も、街道を旅する商人を襲った盗賊達を追い払っていたからだそうだ。あいつらしいが、バカ正直すぎる。だからこそ、力の無い一族に味方し、今は逃げ回っている。自業自得だ。心の奥底にあるのは、蔑み。だが次の瞬間、ダーグが感じたのは、空虚としか言いようのない感情だった。

 その感情を強く払い去り、若夫婦が示した方向へ部下と共に向かう。道の先にあった小さな村では、更に強力な手掛かりを得ることができた。

「ああ、あの人ね。薬草に詳しい人」

 村の市場で卵を売っていた老婦人が、ダーグの質問にあっさりと答えてくれる。

「この近くの森に住んでるって言ってたよ。時々、利かん気の強そうな小さな子を連れて来てたねぇ」

 やはり。老婦人の言葉に口の端を上げる。やはりあいつは、主人であった族長の息子を匿っている。逸る心を抑えつつ、ダーグは村を出、サシャが隠れ暮らしているという森の方に足を向けた。部下達を率いて囲み捕らえるか、それとも。熟考し、答えを選ぶ。あいつが相手だ。部下が何人いようとも、子供一人を守りつつ逃げるのは、あいつなら朝飯前。ならば、油断させるためにも、ダーグ一人で行くのが良いだろう。森の外側を囲むよう部下達に指示を出してから、ダーグは一人、鬱蒼と茂る木々の中へと歩を進めた。

 獣すら通れそうにない、道無き道を、油断無く辺りに目を配りながら歩く。邪魔な草木を掻き分けて進むと、予想通り、小さいが美しく整えられた空間が見えてきた。古い木々に囲まれ、ぽっかりと開いた空間にあるのは、今にも倒れそうな小屋と、これまでの道では見当たらなかった種類の草が生い茂る小さな庭。そして。ダーグの目にもすぐに薬草だと見分けがつくその庭の草を、摘んでいたのは。

「やっと来た」

 華奢な身体の上にある、武勇の徒には見えない柔和な顔が、ダーグを見て微笑む。その笑みから何とか目を逸らすと、ダーグは開けた空間を、影の影まで見通すようにぐるりと見回した。ここにいるのは、ダーグとサシャ、二人のみ。目的である、小さな子供は、見当たらない。何処に隠しているのだろう? 体温の上昇を感じながら、ダーグはもう一度、今度は微かな音をも聞き逃すまいと全身を鋭敏にした。

 その時。微かな風の動きに、はっとして横を向く。確かに、どう見ても人だとしか思えない小さな影が、大木の向こうに、ある。見つけた。ダーグは素早く、小さな影の方へと地面を蹴った。だが次の瞬間。不意に目の前に現れた華奢な影に、僅かに怯む。その隙につけ込んだかのように、衝撃が、ダーグの腹から全身を貫いた。

「ぐっ……」

 身体を支える力を失い、地面に膝をつく。一瞬だけ見えた、柔和な顔に刻まれた冷徹さはしかしすぐに、暗闇にかき消された。


 目覚めて見えた、草を雑に編んだだけの天井に、思わず目を瞬かせる。ここは、何処だ? 混乱したダーグの思考はしかしすぐに結論を導き出した。おそらくここは、ダーグが先ほど見た、サシャが隠棲する見窄らしい小屋の中。自分が生きていることに首を傾げる間もなく、ダーグは寝かされていたベッドから上半身を起こした。

 目の端に見えた小窓から、見るともなしに外を見やる。小さな庭に佇む華奢な影の横に見えた小さな影に、ダーグは思わず小窓に飛びついた。あの子供の顔は、確かに、ダーグ達に敵対しそして屠られた族長に、瓜二つ。

「どうしても、行かなきゃ、ダメ?」

 甘えた泣き声が、風に乗ってダーグの耳に届く。

「奥方様と姫様達を、あなたの母様と姉様達を守れるのは、あなただけなのですよ、若君様」

 サシャの服を掴んで揺らす子供と、その子供の髪を優しく撫でるサシャの姿を確かめるや否や、ダーグは目の前の壁を蹴った。

「サシャっ!」

 壊れた小屋を強く踏みつけ、数瞬で、華奢な影の前に立つ。しかし僅かな時間で何処に隠したのか、子供の姿は、無い。

「何処に隠したっ!」

 微笑みを浮かべたサシャの、服の襟を掴んできつく締め上げる。

「……此処では無い、場所に」

 サシャの口から出てきたのは、思いがけない言葉。

「なっ……?」

 どういうことだ? 首を傾げた拍子に、サシャを掴んでいた手が緩む。地面に座り込んだサシャは咳をして息を整えると、ダーグを見上げてにこりと笑った。

「探しても無駄だよ」

 その笑みが、勝ち誇った言葉を紡ぐ。

「あの場所に至る道は、私しか知らない」

 そして不意に。華奢な影は力を失い、ダーグの足下に頽れた。

「なっ」

 頭が、真っ白になる。呆然とする身体を何とか屈め、ダーグはサシャのぐったりした身体を抱き上げた。

「毒を、飲んでいたのか?」

 微笑んだままの口から流れ出る黒い血と、その血の匂いから、それだけは理解する。小さな主君を守るために、サシャは自身の力を駆使し、そしてその命を捨てた。……全く、バカな奴だ。既に冷たくなっている、敵のものであるはずの華奢な身体を無意識に強く抱き締めたダーグの口から漏れたのは、嗚咽だった。

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