海底の踊り子

@_naranuhoka_

海底の踊り子

海底の踊り子

希咲の絵を前にすると、あかんぼうの爪で胸をひっかかれたような痛みをおぼえる。            

カフェテリアを出て隣接したホールに入ると、階段の踊り場の壁に飾られている絵が変わっているのに気づいた。淡群青で描かれた大きな油彩画。希咲の作品だということは、名札を見なくてもわかる。彼女はそういう絵を描ける人間だ。

 階段を上がり、絵と向かい合う。少年の横顔の胸像だった。幼い顔つきに似つかわしくないほどの厳しいまなざしで前方を見据えている。少年が見つめている先のものまで見通せそうなほど、絵の世界がキャンバスの外へと広がっている。

胸が擦れたようにちくりと痛む。石を投げ込まれたみずうみの水面のように、心の底が波立つ。自分の内で波紋が広がるのがわかる。生まれて初めて海を見たひとって、こんなふうに感じるのかもしれない。

いいとか悪いとか、きれいとかそうじゃないとか、そんな基準、希咲の絵を前にするとすっ飛んでしまう。まだなんの表情も知らないあかんぼうの笑みのうつくしさと同じ種類のなにかが、希咲の絵にはある。去年、公開実技コンクールで一年生では初めて一位をとったらしい。

 希咲の絵見た? 相変わらずすごいよねーセンス。感覚が並外れてるっていうか、ほんとすげー。

 絵を描くために生まれてきた子ってほんとにいるんだね。希咲の絵見て初めてわかった。

 あーあ、次の作品提出、希咲先輩にやってほしー!

 希咲は私より一学年上で、でも歳は同じ。アトリエでもよく会うけれど、話したことはいちどもない。絵と同じで、希咲はいつも誰かに囲まれている。希咲の周りだけ、ずっと夏のひかりが集まっているみたいだ。才能のある人に、ふさわしいひかりが。

 天才、奇術師、魔法使い、などと様々に称えられたりやっかまれたりしているけれど、希咲はそんな枠を越えている気がする。飄々としていて存在じたいファンタジーめいている。そのくせ、作品はいつだって世界の本質をあますことなく描き出していた。

 私はしばらく絵を眺めていた。無意識のうちに、スケッチブックをかかえる腕に力がこもる。

 ああまたなにも描けなくなるな、と漠然と思った。アトリエに行って次の作品に向けて何枚かデッサンするつもりだった。でも、こうなるともうイメージが湧かなくなる。希咲の絵を見たあとだと、自分のどんな絵も価値をなくしてしまう。もう『希咲っぽい』絵、希咲が描きそうな絵しか描けなくなる。比べるなんてどうかしているとはいいかげん、わかっているのだけれど、でもどうしても考えてしまう。希咲ならこうは描かない、とか希咲ならこのモチーフをどう描くのだろう、とか。そのくせ、実際にたずねたことはない。

 人の出入りが多いこの階段に飾られる絵は、展覧会で一等をとった作品だけだ。

「希咲の絵、またかわったの?」

 一緒にごはんを食べていた先輩が、いつのまにか隣にいて、私と同じ角度で絵を見上げていた。すごいよねー相変わらず、と屈託なく笑う。

「……希咲先輩の絵って」

 卑屈に聞こえたら厭だな、と思いながら言葉を選んでつむぐ。「なんでこんなにすごいんですかね」

 誰かが開けっ放しにしたドアから風が吹いてきて、春の匂いが鼻をかすめる。沈黙が、一秒、二秒、とカウントされるたび、こんな妙なこと言わなきゃよかった、と後悔がひたひたと胸にしみてきた。

「そりゃあ」

 たっぷりと間をとってから先輩が言う。

「才能があって、その才能の重さに耐えきれる器があるからだろうね」

 そうですね、と私はひとりごちた。

 希咲は、才能という目に見えないものを、絵というこれ以上ないほどわかりやすいかたちでみせてくれる。そうして、私みたいな凡才をいとも簡単に打ちのめす。

「……先輩」

 うん? と絵から目を離さないまま先輩が訊き返す。

「私、中学のときにも見たことあるんですよ。彼女の絵」

「って、希咲の、中学の時の絵?」

「そうです、コンクールの展覧会で、たまたま」

 あれはいつだっただろう。中三の夏。あの頃の私は、絵の道に進もうなんて思ってもいなかった。

「彼女の絵を見て、美大に行きたいって思ったんです」

 あのとき、私は絵から目を離せなかった。

 その絵がひかりを放っているように見えたからだ。

「……絵をやる人間として、それが幸せなのか不幸なのかわかんないや」

 先輩がつぶやく。もしかしたら、ものすごく失礼なことを言われているのかもしれない。でも私はそうだろうな、と素直に思ったから、そうかもしれません、と返した。

行こうよ、先輩が私の肩を触れた。そこからいま私が抱いている感情が流れだしてしまいそうで怖かった。

 今日も希咲はiPodのイヤフォンを耳に突っ込んだまま、アトリエにやってくるだろう。大抵、すぐにはキャンバスやスケッチブックには向かい合わず、携帯をいじったり、購買で買ったお菓子なんかを食べている。それに飽きたら、その辺にあるチョコレートの銀紙を剥がして口に放り込むような仕草で筆を取り、キャンバスに絵の具を塗りつける。無作為に、適当に色を選んでいるように見えるのに、出来上がる絵は残酷なくらいに完全なものばかりだ。

 希咲があの油彩画を描いていた隣で、私は肩にタオルをかけてキャンバスに向き合っていた。大きなサイズのキャンバスは、きちんとイーゼルに置いてあるのに、巨大な壁みたいにこっちを威圧してくる。手の甲でなんどぬぐっても鼻の頭から汗が噴き出した。描きたいものをあたまの中からそのまま取り出せないいらだちで、筆がずるりと上滑りした。

写実的な、見えるものに忠誠な絵しか描けない私とは違って、希咲はまるっきり違う世界を、それでいてまっさらな絵を描く。晴天のような、誰が見ても腑に落ちるような、でも誰にも真似できない絵を魅せてくれる。見る人の心を一瞬で掴んで、かっさらってしまうのだ。

 滝のような才能を持て余している希咲には凡庸な人間の苦しみなんて見えていないんだろうか。ほかの学生たちが進まない作品制作に行き詰まってている中、いともたやすく作品を仕上げて、ほとんど確実に賞を取る。

 希咲の持つ力があまりに強烈だから、この大学で絵をやる人間のほとんどは、希咲の才能と自分を比べたりしない。小手先のものではないと知らしめる、ある種残酷ですらある周りを圧倒するような大きさだ。

 それなのに私はまだあきらめられない。才能なんかないのに、希咲のように、ひかりを放つ絵を生み出すことを望んでしまう。

 先輩のあとを追って階段を上りきった。最後の段を上がったところで、振り返る。

 希咲の絵は、あの日と変わらずまばゆいひかりを放っていた。

希咲の絵を初めて目の当たりにした日。

あのときの強い衝撃は、いまでも胸に焼きついている。

 中学生の時点で、自分には絵の特別な才がないとわかっていた。写生大会では三年     連続金賞を取れたけれど、それは個性を殺してただ見たままに紙に再現しているだけということで、美術のコンクールなんかではあまりたいした賞は取れない、そういうありきたりな美術部員だった。でも、はなから絵は趣味と割り切っていたから、澪は絵がうまいね、と褒められていれば私は満足だった。

 いちどだけ、歴史のある全国規模の大きな美術コンクールで、佳作をもらった。中三の夏のことだ。

 うちの学校で全国美術コンクールの入賞者が出たのは初めてらしく、私を職員室に呼んだ顧問教員も興奮していた。俺も鼻が高いよ、と背中を叩かれたけど、とくに実感も感慨もなく、はぁ……と軽くうなずいただけだった。

 でも、部室で報告すると、こちらが驚くくらいに「どえーっ」と即、波のように歓声が起こった。

 えっすごいよすごいよ澪、新聞に載るよあんたの名前! 超手柄ー!

 先輩マジ尊敬です! もう美術部のことバカにされたりしませんって!

 部員にわあわあ騒がれ、クラスメイトからも「全国のコンクールで賞取ったんだって? すごいねー」「西嶋さんやるじゃん」と賞賛され、自分でもだんだんうれしくなり、内心ぽうっとした。あまりにたくさんのひとからすごい、さすがと言われて、そうなのかも、私ってすごいのかも、と思い始めていた。だって全国だよ? 県とか地方のでも難しいのに、全国コンクールで賞取るとか普通はまず無理じゃない? とても平凡で幸福な中学生だった私は、舞い上がる気持ちを止められなくなった。

 せっかくだから、と顧問教員がその展覧会に皆を連れて行ってくれた。自分の絵が飾られているから連れて行ってもらう、というのが私をますます得意にさせた。

 でも、中に入ったとたんきゃあきゃあと騒いでいたみんながぴたりと口をつぐんだ。一瞬の間があってから、静かにざわめき出した。

 何よ、と思って覗き込んで、私は息を呑んだ。

 入り口の一番目立つところに飾られた、大きなおおきな号のキャンバス。油彩の人物画だった。夏の夕暮れの路地に立ち尽くす制服姿の女生徒、という構図自体はまあありきたりで、別にとくべつ斬新でもなく、奇をてらっているわけではない。

 それなのに、その絵は圧倒的な存在感を放っていた。

夏の、息苦しいぐらいに立ち込める蒸し暑さ。足元から伝わってくる熱。夕方のうら寂しい空気。辺りを通り抜ける、髪を重く揺らす風。舞い上がる砂埃。聞こえてくるのは、染み入るようなひぐらしの鳴き音。もう一歩も踏み出したくないくらいの「夏」が、見る者にぐんと差し迫ってきたのだ。

 漂砂が水底でゆらりと波立つように、胸の底がぐらりと大きく傾いたのがわかった。どうしてこんなに動揺しているのか、自分でもわからなかった。ただ、私は確かにその絵の中に立ち尽くしていた。焦点を留められたみたいに、目を離せなかった。

ごう、と風が鳴る音を聞いた気がした。胸の真ん中で、なにかが強く煽られる。

 かなわない、とかじゃない。

 そう本能が伝えていた。どんなに模写しても、この気迫、切迫感を写しとることは不可能だった。呆然と立ち尽くして絵を見つめるしかなかった。

選んだ道

 筆ペンで書いたような、明朝体のくっきりとした題字をじっと見つめる。後ろで部員が「すごいねーさすが大賞」「おんなじ中学生が描いたとはとても思えん」などと囁きあっていたけれど、会話に加わる気にはとてもなれなかった。絵を見ているうちに、胸が苦しくなって、その絵の前から離れ、部屋をぐるりと一周した。

 あの夏の絵から逃げたつもりだったのに、他の絵も、あの絵ほどではなくても何か、こちらに訴えかけてくるものを内に孕んでいた。花でも人物でも風景でも、目があってこちらを見ている感じがするのだ。

 くらりと目眩がした。胸の内側が、ひりひりする。

一人でいられなくて友達のところへ行こうとしたけれど、誰も私の絵なんか見ていなかった。私の絵は、隅っこで小さくちいさくちぢこまっていた。全身の血が流れを止めて足元にすとんと落ちるような思いがして、思わず目をそむけた。飾られているのではなく、さらされている、と思った。

 バスの中であんなに膨らんでいた得意な気持ちは、針でぷうと突かれた風船みたいにとっくに弾け、ぐしゅぐしゅにちぢれて、吹き飛ばされてしまっていた。

 たまらなく恥ずかしかった。自分の絵をまっすぐ正視するのが怖くてうつむいた。自分の絵が、こちらを見つめ返してこないことをみとめたくなかったからだ。

 体の内側が火照って熱い。こめかみを流れる汗はひどく冷たかった。

 キャンバスを壁からはずして今すぐ自分の絵を持ち帰りたい、と強く思った。

 あの夏の絵を描いた子にだけは、絶対に見られたくなかった。

 

あんなに打ちのめされたのに、私は次の部活も休まず出席して、スケッチブックを広げて3Bの鉛筆を手に取っていた。

 もう自分の絵なんか目にしたくないと思っていた。というよりは、そうなるだろうな、と帰りのバスに揺られながらうっすらと予感していた。でも、私は白い紙を見ると鉛筆を走らせずにはいられなかった。

 すっかりばさばさになったスケッチブックをめくる。果物や紙風船、静物や部員の横顔を描いたもの、漫画のキャラクターのラクガキ、デザイン画に自画像、中庭で描いた水彩の風景画、美術資料に載っている名画の模写。版画の下絵なんかもあった。でも、どれも大した絵じゃなくなっていた。あの絵を見てから、いままで私がちまちまと積み上げてきた描くことへの価値観は、竜巻でも起こったみたいにあっというまに蹴散らされてしまったのだ。

 一番新しいページに、コンクールで入賞した絵の下絵がある。花瓶に生けた薔薇。花瓶の下に布を引いたり花びらを散らしたりして、光の辺り具合が一番きれいな向きをつくって描いた。でも、単に技術的にきれいな絵は紙の中で息づくこともなく、飛び出してはこない。最初から「画」だけでしかないみたいだ。

 そりゃあそうだ、絵に描くために配置気にして並べたんだから。でも、きっとそれじゃだめなのだ。

 記憶を頼りに、『選んだ道』を描いた。こちらを見据える少女の絵。真夏の閃光みたいな、世界中に散らばっているひかりの粒をキャンバスにひゅうとかき集めたようなまぶしい絵を、スケッチブックに再現してみるつもりで鉛筆を動かす。どっちかと言えば人物画は静物画より得意なので、そんなに難しい作業じゃなかった。でも、あのむせかえるような濃厚な夏の匂いは、とても描き写せなかった。色のない鉛筆だから、というだけではなく。

 お腹の底から、夏の空の入道雲のようにむくむくと欲望が沸いてくるのがわかった。

描きたい。あの絵を、あんな絵を、自分の手で創りだしてみたい。

 私は、志望校を県立高校から洋画科のある私立高校に変えた。そして、一年浪人したのちに今の美大に入学した。

 そして、夏の閃光の女の子に出会い、あの絵が自画像――希咲自身を描いたのだと知ったのだった。

「きぃ、今日ジョイサ行こうよー! サークルの子らで集まるんだと!」

アトリエにずかずかと入って来て、希咲に向かって叫んだ子がいた。栗色の巻き髪。確か、市川茉莉、とかなんとか。いつもひらひらしたピンクとか赤とかオレンジか暖色系の服を着て、食堂やカフェで騒いでいる。

「えー何時から?」

 希咲は軽い笑みを浮かべている。宙に漂うたんぽぽのわたげみたいに、この人はいつだってつかみどころがない。

「七時から。んで帰りに居酒屋で飲み会」

「どうせカラオケにも酒持ち込むんでしょ? どれだけ飲むの!」

 じゃあ即行来いよー、みんなにきぃ連れてくって言っちゃったから、と手をぶんぶん振り回しながら巻き髪が出ていく。「んじゃね」と希咲は自然なしぐさでイヤフォンを耳につけ直した。アトリエにいた他の人間に「うるさくしてごめん」と一言謝ることも、気まずそうにすることもなく、するりとキャンバスに向き直る。

 希咲のほかの科の友達がアトリエに来るのはそうめずらしいことじゃない。今日一緒にカフェ行こー! とか、さっきの授業ノート貸して、とか、サークルの先輩がきぃ紹介してって言ってた、とか、あらゆる科の人がやってくる。だいたい、さっきの子みたいに華やかさをまとった、派手で階段教室のうしろをグループで一列陣取るようなタイプ。

 希咲は襟足をすいた黒髪のショートヘアで、取り巻き集団に比べたらだいぶメイクは薄いけれど、いつも雑誌から抜けてきたような洒落た格好をしている。アトリエにも平気で白いシャツを着てきたりする。エプロンだとか白衣も着ずに、汚れるがままキャンバスに向かう。

 アトリエの外で見る希咲は、いつも派手なグループといる。入学してから驚いたのだけれど、別に絵が好きで好きでしょうがない人だけが美大に来るとは限らないということだ。そういう子たちにとっては、絵をやることはファッションやアクセントでしかない。

希咲は、そのみんなから「きぃ」と呼ばれている。みんな、というのはアトリエの外の人のことで、私たちは使わない呼び方だ。直接呼びかけるときは「遠野さん」、本人がいないところでも「希咲」「希咲さん」と呼ぶ。

きぃ。

そう呼びかける高く澄んだ声は、彼女たちがいる世界の扉を開く切符みたいだ。

別にうらやましくなんかない、というポーズをとっていても、時々、こんな風に感じる自分がいて、ふたつの世界を自由に行き来できる希咲が少しうらやましくなる。


入学してしばらく経っても、いまだに美大の独特な空気には慣れない。芸術家としての才能だけを皆が見ている気がする。いちいちセンスを試されているようで、落ち着かないのだ。

澪、美大受かったの!? すげー!

一ヶ月ほど前に電話した中学時代の友達の声が、その時の温度を保ったまま耳にぽふんと残っている。友達と同じ高さのテンションではしゃぐポーズをとりながらも、私はどこか冷静でいた。美大に入れたというだけですごいと思われがちだけれど、入学してきたすべての人間に才能があるわけじゃない。受験をパスできる技術よりさらに上の力を持っている、あるいは伸ばせるとは限らないからだ。器用なだけの人や、絵自体に興味があまりない人だって、いないわけではない。

私だって所詮、小器用なだけの人間に過ぎないのかもしれない。そんな小手先のもの、ここでは何の役にも立たないというのに。

『西嶋はまだ、自分の絵が描けていないな』

高校のとき講評で言われた言葉。

見抜かれている、と内心汗をかいた。図星だった。大学生になった今も、その言葉を忘れてはいない。

 描きたいものはあるんだけどな、と鉛筆を鼻とくちびるで挟む。描きたいもの、というより、絵にあらわしたいもの。

閃光。一瞬のひらめき。それしかあたまにない。

開いたままのスケッチブックはまだ白い。見ているうちに平坦な紙の中に奥行きができて、吸い込まれそうだ。

初めてのコンクールがある。締め切りは夏休みの終わり。私は昔から、絵の題材を決めるのに、他人より時間がかかる。これだ、という決定的根拠がないから、ちょっとしたことで揺れがちだ。決めたあとも、なんどもデッサンしているうちに、こんなもの描いて何になるんだろう、となげやりになってしまうことも少なくない。

最近はアトリエにも行かなくなった。なに描くか決めた? と訊かれることよりも、俺はこうするよとか私はこれだよと聞かされるのがいやだった。むかしから自分が他人の意見に惑わせられやすいたちだというのはわかっているし、いざ絵を描こうとしたときに、視野が狭まってしまう。

でも本当はわかっている。それはまだ聞き流せるのだ。問題は、ほかにある。

希咲に会いたくないのだった。もちろん、別に言葉なんか交わしやしないのだけれど、本人がいるいないにかかわらず、どうしたってうわさが耳に入ってしまう。希咲の話を聞いたあとで、純粋に自分の絵を描ける気がしなかった。

なにを描きたいのか。

なにを表したいのか。

描きたいという意欲はあるのに、肝心の題材が決まらない。いつもどうやって決めていたかすら、もう思い出せない。腕時計に目をやって、ふうっと声に出して息をついた。

絵を描くという行為は、私にとって生理的欲求で行うものだ。だから、目をつむれば眠りにつくわけではないように、絵を描こうと思えばいつでも描けるわけではない。いつも、描きたいという気持ちだけが空回りしている。描かなきゃ、に近いのかもしれない。

 週末展覧会行かない? と友達から誘いのメールが来ていたけれど、まだ返信はしていない。そういうところに行けばインスピレーションもらえるかも、とこういう時期に美術展に行く人は少なくないけれど、私は人の真似になってしまうのが怖くてなかなか足を運べずにいた。

他人の真似はしたくない、なんて、創作に携わる人間なら誰でも思うことだ。誰だって、自分オリジナルのなにかがほしくてたまらない。でも私が描きたいのは希咲がみせたまばゆい閃光なのだから、矛盾している。そんなこと、わかっている。

あのひかりを、自分の手で生み出したい。そのためにはどうしたらいいのか、そんなことばかり考えている。考えるだけだから、スケッチブックは白紙のままだ。

希咲の絵楽しみだねー、またホールに飾られるよね、とカフェでそんな言葉を聞いた。大学のあちこちに学生の作品が飾られているけれど、一番目立つホール前の階段に飾られる絵は、都内のコンクールで一等になったものだけだ。

私の在学中に、私の作品が大学に飾られる日なんて来るのだろうか。想像もつかない。

結局、美大に来ても私は私のままだ。私は私という枠からはみ出せないまま、今年、二十歳になる。ずっと行きたいと焦がれていた場所が「ここ」になっても、なんにも変わらなかった。

なんにも。


あ。

 コンビニから出て、ふっと月のひかりがいつもより明るい気がして頭上を見上げた。目の前の高層ビルの、あまり高くない階の部屋にまぶしい明かりがひとつ、ついていた。

人が、踊っている。ひとりきりだった。

絵のモチーフを探すため、電車を乗り継いで新宿に来ていた。普段おもむかないような突拍子のないところに来れば、なにかひらめくんじゃないかと思ったのだ。一日かけて歩き回り、写真を撮ったりスケッチしたりしてみたけれど、ぴんとくるものはひとつもなかった。コンビニに寄ったのは歩きづめで痛めてしまった足首に貼る湿布を買うためで、身体はくたくたになっていた。歩き疲れたからというよりは、また描きたいものが見つからなかった、というあせりと落胆のせいで。

 夜のビルの中で踊っているのは、ここから見てもわかるくらい身の引き締まった細身の女の子だった。脚を上げたり、後ろに伸ばしたり。バレエだろうか。部屋の照明が青っぽいせいか、夜中の水族館をゆったりと泳ぐ魚みたいに見えた。ここからでもわかるほど険しいまなざしで、なにかを見据えている。

ふいにすっくりと脚が後ろに高々と伸ばされ、そのまま上体だけを水平に倒す。

まるでビルから飛び立とうとするように。

 あ、ともう声を出してしまっていた。

近くで見たい。自然とそう思った。好きな食べものを目のまえに出されると唾液がたまるような、反射的感情だった。今日新宿でなにを見ても食指は動かされなかったのに、心臓が身体のなかで浮かび上がっているみたいで落ち着かない。

なんだろう、と思う。なんだろうこの気持ち。いらだちにすら似て、身体のなかがむずむずする。胸の内側に爪を立てられているような、たぶん、ただのクラスメイトが「すきなひと」に代わる瞬間にとても似ている。

急に疾くなった心臓を鎮めるために、ゆっくりと息を吐いた。

どうしようかな、とポケットに入れっぱなしだったiPhoneで時間を見る。9:36。いまから駅に行かないと、九時台の電車に乗れない。でも、ほとんどかたちだけのしスタジオないのはわかっていた。私はあの人が踊っているのをもっと見たい。見なきゃ気が済まない。

 信号が青になったので迷わず渡る。びっくりするくらい簡単にビルに入れた。

 たぶん、五階とか六階とかその辺の部屋のはずだ。ロビーに進むと、「7:00~ 本日貸しスタジオ使用自由」の貼り紙があった。あの様子だとレッスンなどではなさそうだったし、うん、大丈夫。

 地図を確認し、エレベーターで五階を選ぶ。夜の新宿は人工のまばゆい光があっちこっちに散らかっていて、上から見ると宝石箱のなかみをぶちまけたみたいできれいだった。

 短い機械音ののち、戸が左右に開く。蛍光灯の明かりがぽつぽつとついた廊下を歩いていているうちに、スピーカーからの音漏れしている部屋を見つけた。Cスタジオ、とプレートが掛かっている。コンビニから見た位置的に、きっとここだ。

 ドアノブをきゅっと掴む。冷たさがてのひらに伝わって気持ちいい。

 心臓が、胸をせっつくように強く打つ。せーので勢いよく腕を引いた。練習の邪魔になる、この部屋じゃないかも、人が増えてたら困る、理性からばらばらとそんなことがわきあがってきたけど、中からこぼれてきた照明の光が案外眩しくて懸念も飛んで行った。視界が真っ白くなる。おもわず目を細めた。

「……誰?」

 澄んだアルトの声が私を捉える。外で見た時にはわからなかったけど、彼女はけっこう小柄だった。バーに手をかけて、脚を水平に持ち上げている。音もなく脚を下ろし、そこそこの音量で鳴っていたステレオを停止させた。つかつかとこちらに歩み寄ってくる。

「ダンスサークルの人? 貼り紙見なかったの、今日のニナ先生のレッスンなら休講だよ」

 肩についた埃でも払いのけるような口調で言う。慌てて「そうじゃなくて、あの、私美大生です」とこたえた。

 彼女の目が、信じられない、というかたちに丸くなる。眉が少しひくついたけれど、持ち上がっていた肩がすとん、と落ちた。

「……って、あ、吉祥寺の? え、で、なんで美大生の人がここにいるわけ? そもそもなんで入れたの?」

「いや、なんか普通に入れましたよ」

 彼女の目が、きょとんとしている。メイクのせいもあってきつい顔立ちだけど、鼻筋の通ったとてもきれいな人だった。大きくはないけれどまなじりの切れ上がった、あたまの良い猫みたいな目をしている。晴れた日のみずうみの水面のような、空をそのまま、青色のまま映しそうなほど澄んだアーモンド形の瞳は、今は、私を映し出している。

「なんで? 止められなかったの?」

「あ、私、タンクトップ重ね着してるからダンス関係の人と思われたのかも。下のタンクトップ、絵の具で超汚れてるから隠すために上からもう一枚着てるんだけど」

 彼女がわたしの服に視線を移す。そして、ふっと息を吐いて、気持ちよさそうに声を上げて笑った。

「確かにあなた、ヒップホップっぽいからストリートダンサーだと思われたんじゃないの。ほんとなら予約してないと入れないのに」

 あははは、と笑った声のまま、「それで、なんでここに来たの? ここから大学、遠いでしょ」とたずねてくる。私はさりげなく後ろ手でドアを閉めた。エアコンはついていなくて、廊下よりずっと暑い。こんな蒸し暑いところで踊ってたんだ、この子。

「新宿にはたまたま来たの。んで、ふっと上見たらビルの中に踊ってる人いて、あ、きれいだな、って思って、見たくなって、ここにたどり着いたの」

 我ながらめちゃくちゃな説明だった。さっぱりわからない、という顔をして聞いていたが、『きれいだなって思って』のところで彼女の頬からすっと力が抜けるのがわかった。

「ねえ、もっかい踊ってよ。さっきの」

 胸の内側が、熱を取り込んでくるくると回る。ずっと求めていたのは、こういう衝動だったのかもしれない。

「私、見たい」

 ぐん、と身体の中でなにかが突き抜ける音がした。

 彼女はくるんと黒目を動かし、身をひるがえしてステレオの再生ボタンを押した。流れてきたのはクラシックだろうか。

「あたしね、」

 こちらを振り向く。笑っていた。

「透音。井上透音っていうの」

透きとおった音、で、とうね。軽くウォーミングアップをしはじめる。夜の新宿を映す鏡のような一面ばりのガラスに向き合った、次の瞬間、ガラスの中で透音が森を駆ける鹿のように力強く跳ねた。

 同時に、わたしの中でなにかが勢いよく弾けるのがわかった。

   これだ。

   私の題材はこの子だ。

 

大学の画材屋さんで大きキャンバスを買った。子供の身長ほどあるかもしれない。

「うわ、デカっ」

オイルを買いに来ていた友達が、私の持つキャンバスを見て声を上げる。「戸、通る? 一人で運べる?」

「だいじょーぶっ」と店を出る。こんな大きなキャンバス、美大を卒業するまでに使うことなんてないと思っていた。でも、透音のバレエをおさめるには、このくらい大きくないといけない。

 基本的に、絵描くときはこっちに来てもらわなきゃいけないと思うけど、それでもいい?

 一曲踊り終わったあと、タオルで汗を吹きながら透音は言った。コンクールが近いこと、透音をモデルに油彩画で勝負したいということを伝えると、気持ちよくうなずいてそう言ってくれたのだ。

 だいじょうぶ。いくらでも行くよ。

あなたの絵を描かせてくれるのなら。

透音のダンスは、まるで水の底に映るまだらなひかりのようだった。しなやかで、身体に関節なんてついてないみたいに自由に跳ねて、伸びて、やわらかに弾む。宙に浮いているみたいに跳ぶのだ。無駄なものが一切ついていない身体は、剥き出しの努力そのものだった。バレエなんててんでわからない私も、めくるめく緊張感と躍動感に、あっというまに魅せられてしまった。

 あたし、来年フランスに留学するんだ。あそこにある劇団に入りたいの。子供の時からプロのバレリーナになるの、夢なんだ。

 はきはきと、それこそ透き通ったガラスのような声で語る透音を見て、この人は一番星になれる人間なんだ、と確信した。私みたいな、宇宙に無数に散らばる石屑のひとつなんかじゃなくて、自分の力でひかりを放っている星。私にないもの。

 この子を描いたら、描きたかったものを創り出せるかもしれない。そう直感的に思った。

 ひさしぶりにアトリエに行き、スケッチブックをめくる。昨日、結局家に着いたのは夜中の一時だった。それから朝までかかったラフ。バレエを見た時から構図は決めていた。たくさんのスポットライトに照らされながら、脚を大きく上げて踊るバレリーナ。おかげで一時間しか寝られず目の下には見たこともないような真っ黒い影ができていたけれど、テーブルに置きっぱなしだったスケッチブックが朝陽に反射しているのを見て、足の先まで満足感で充たされた。

 ヴヴヴ、とポケットの中で携帯が振動した。画面に『いのうえ』と表示されている。誰だろうとおもったけれど、それが透音の名字だとすぐに思いだす。

【八時までレッスンだけど。そのあと来る?】

 

二回読んで、返信を打つ。

【もちろん】

きっかり五分後、携帯が震えた。

【おけ。じゃあ八時に昨日の場所ね】

ふふっと勝手にくちびるが笑ってしまう。誰かからメールが来てこんなふうに笑うのって初めてかもしれないな、と思う。

 ふいに希咲がアトリエに入ってきて、私の買ってきたばかりの特大キャンバスをちらりと見た。コメントはなかったけれど、希咲の目にキャンバスがふれただけで少し得意な気持ちになる。

 私だって、希咲みたいにひかりを生み出せる人間になりたい。みんな、なんて言わないから、誰かの五感に訴えかけてくるものを創りたい。

 そのためにこの美大に来たのだ。

 

アトリエ内の半分が夕暮れ色に傾く頃、いちど家に帰った。ボリュームをできるだけ絞った報道番組を見ながら、素うどんを啜る。

東京にはびっくりするくらいの数の人がいて、大学生もたくさんいて、美大生に限っても相当な数の人間がいて、想像するたびわけもなく不安に襲われる。

 去年、地元に残った友達に会うたび、私はまだ予備校生でしかなかったにも関わらず「いいな、澪は。都会で夢を叶えられるから」と羨ましがられた。その時は、好きで残ったくせに、と内心むっとしたけれど、いま思うと、あの感嘆には別の意味も含んでいたのだろう。 

 夢を叶えられるからここに来た子なんて、いない。ただ、その夢は地元に残っていたら絶対に叶わないだろう。

 でも、彼女たちが言うほど、私たちは夢を見ているわけじゃない。自分が画家になれるなんて、思ったこともない。そんなのは、本当に例外の一握りの人だけ。自分の能力の幅なんて、周りを見ればもういやというほどわかってしまう。美大という場所柄だろうか、「才能」と名づけるしかないような力を持つ人がたくさんいる。そういう人たちを前にすると、もう、平伏するしかない。「自分」という輪郭が、しゅるしゅると空気を抜いた風船みたいに小さくなっていくようだ。

 だからと言って、絵をファッションにするつもりなんかない。

 携帯が震えた。箸を置く。

【レッスン早く終わりそう。ごはん一緒にたべよ。8Fに和食屋さんあるからそこで】

 

努力で夢を掴もうとしている透音。いや、彼女はもう掴んでいるのかもしれない。

【いいよ。楽しみ】

送信してから器を片付け、カバンに財布と携帯を放り込み、スケッチブックを抱える。タクシーを捕まえて「新宿まで」と乗り込んだ。

 流れてゆく夜の街を横目で追い越す。背景を新宿の夜景にしてもいいかもしれない、とふと思った。


「澪! おはよ」

八階でエレベーターが開くと、透音が廊下から飛び出してきた。いまの時間帯にそんな挨拶をされると、透音がバレリーナであると同時にダンサーであることを実感する。

「行こ。お腹すいたの」

けろりとした顔で笑う。和食屋はわりと混んでいて、ちらほらとダンサーらしき人もい たけれど、透音がただまっすぐ奥の席に行ったので安心した。

「なに食べる?」

「私はいいや。家で食べて来たから」

「わかった」

 透音は店員さんを呼んで、定食をひとつ頼んだ。「あと、冷やし飴ふたつお願いします」私に目くばせする。

店員さんが去ると、「ここの冷やし飴ほんと絶品だからさ」と子供のようににこにこする。目の下が小さな丘のようにふくらんだ。

「バレリーナってカロリー制限してるイメージあるんだけど」

「やせすぎでもだめなの。適度に筋肉なくっちゃ踊れないよ」

透音の声はどこか水に似ていて、話しているというよりは、なにか歌をくちずさんでいるみたいだ。

いきなり、透音はがばりと身を起こした。

「ねえ。いつもあんなことしてるの?」

「へ」

 あんなこと、の指すものがわからず訊き返す。透音がにひっと笑いながら頬杖を突いた。頬が左手の下でつぶれ、目が三日月のかたちになる。

「澪ってばいきなり乗り込んで来たじゃん。いつもあんなふうにとつぜん『モデルやってください!』ってナンパするの? あぶなくない?」

 あれナンパか、と顔に熱が集まるのを感じた。あらためて自分の行動を思いだす。

「してないよ。知らない人にモデル頼んだの、初めてだもん。透音の時だけ、」

 びびっときたんだよ、とか、へんな力が働いて、とか、勝手に足が動いたから、とかなにかつづけようと思ったけど、どれも口に出して言うのが恥ずかしくなってやめた。

 宙ぶらりんになった間を埋めるように、さば煮込み定食と冷やし飴が運ばれてくる。わーい、と透音が姿勢を正す。

「きれい。器」

 透音が冷やし飴の入った切り子硝子の器をつついていた。水色と薄紫の塗料が流し込まれていて、なんだか涼しげだ。テーブルに映る影がまだらになっている。窓辺に置いたら影が伸びてきれいだろうな、と思う。

「これ食べるとね、すっごく力湧く。朝まで踊っていられる」昨日、透音の練習を零時に回るまで見ていた私は、その言葉が決して大げさなものではないことを知っている。

繊細な装飾のついた匙ですくうと、飴は金色の絹糸のように伸びる。舌先で舐めると、甘さよりも冷たさがぴりっと舌を焼いた。

「おいしい」

「でしょ」

透音のくちびるが味噌の色に染まっている。目が合うと、めだまをくるりと動かして肩をすくめた。

きれいな子だな、とあらためて思う。顔の造りが、というよりは、くるくると変わる表情のひとつひとつが。

「でも、嬉しい」

 さばを箸で崩しながら透音が上目遣いではにかむ。

「ん?」

「だってさ、モデルなんて、なんかちょっとかっこいいじゃん。絵に描かれるなんて照れる」

 私がなにも言えないでいると、時間差で恥ずかしくなったのか、透音はぱくっと子供みたいに大きく口を開けてさばを頬張った。

 きゅ、きゅ、きゅ、と靴を鳴らしながら、爪先立ちでターンを繰り返す。フローリングの床に、鏡みたいに透音が映る。汗が床にぴっとはねた。

私は床に体育座りをして、スケッチブックを抱え込んでいた。キャンバスはまだ壁に掛かっている。構図はだいたい決まっているけれど、何枚か違うポーズをデッサンした。「ポーズで停止しなくていい?」と言われたけど、バレエをつづけてもらった。動きつづけている人を描く方が絵の中でも自由に動かせるし、秒単位の瞬間的な絵になる。

 脚を肩まで上げて、ぱっと下ろして連続ターン。身体の線が本当にきれいだ。私の持つ木炭も滑らかに紙の上を走る。

「透音」

「ん?」

「超きれい」

 音楽が止む。透音は「なにいまの、口説き文句みたいだよ」と肩にかけていたタオルで汗を拭い、ペットボトルの水を口に含んだ。

 努力している人は、無条件にうつくしいと思う。見ていて、こっちまで背筋にはりがねが一本すっと入るような気持ちになる。

「すごかったよ」

 言葉だと、子供のような単純な語彙でしか言い表せない。

「見てて、どきどきした」

だから私はキャンバスの中に描く。

 透音をモデルに選んでよかった、と心の底から思う。どうしてだろう、夜中のビルで透音を見た瞬間、この子を描きたいと思った。沸き上がってきたのは、食欲とか睡眠欲に似た種類の欲望だ。生きるために必要なもの。

 壁一面に埋め込まれたガラスに向かって、透音はストレッチを始めた。休憩中にも関わらず、指先から足の爪先までぴんと張り詰めているのがわかる。

 透音の背筋を貫く一本の軸は、一体何なのだろう。

 どうしたら、それをキャンバスに描けるのだろう。

 上半身を倒して、ぺったりと床にくっつける。どれほど長い間バレエをつづけていたら、こんなに身体が柔らかくなるのだろうか。

 描きたい。木炭を、必死に動かす。

 希咲は、希咲自身が閃光なのだと思う。彼女だけに太陽の光が集まっているみたいだ。だから、あの夏の自画像はあんなにも輝いていた。

 私は、たぶんそうはなれない。

 でも、このバレエダンサーの女の子を描くことで、ひかる絵を生み出せるはずだ。

 そう、希咲みたいに。


それからも、お互いのスケジュールが空いている日は絵のモデルをしてもらった。ほとんどは、あの新宿のビル。真夜中の海底のような新宿で、透音は踊りつづける。

 熱中しすぎて終電がなくなると、時々泊まらせてもらった。ほんのたまに、うちの美大に来てモデルをしてくれることもある。

 回を重ねるにつれ、キャンバスの中に、じりじりと這うようなスピードで透音が浮かび上がってくる。もどかしいけど、それすら心地いい。キャンバスを眺めていると、腹の底が、やわらかいもので一杯に満たされてくる。

「最近、ずーっとアトリエ漬けじゃん。どうしたの?」

 集中してキャンバスと向かい合っていたら、ひょいと先輩に覗き込まれた。「わっ」と叫んだ声が、天井の高いアトリエに響き、赤面してしまう。

「もー、叫んじゃったじゃないですか。いきなり声掛けないでくださいよ」

「いきなりってか、結構まえから後ろに立ってたよ。あんた気づいてなかったけど」

 辺りを見回してしまう。昼間あんなに人がいたのに、日曜日の夕間暮れの室内にはぽつりぽつりとしか残っていなかった。すっかり固まってしまった筋肉を伸ばす。かくん、と関節が鳴った。

「しっかしまぁ、でっかいキャンバスだよねえ」

「はぁ」

 すっかり汚れてしまったエプロンをはずし、たたむ。先輩が、下絵のスケッチブックを指差した。

「この子、バレリーナだよね。友達? あっもしかして妹さん、とか?」

「や、赤の他人です。モデル頼んでて」

 先輩は目を見開いてまばたきしていたが、「まーそういうこともあんのねー」と鼻にくしゃっと皺を寄せて笑った。

「そっかそっか、うん、でも、バレリーナっていいモチーフだと思うよ」

「ありがとうございます」

 先輩がキャンバスの中の線を目でなぞる。

「身体の線がきれいだし、見た目だけじゃなくて、努力してるっていう感じだもんね。イメージが」

 先輩の言うとおり、透音は、一般が抱いているバレリーナの心象そのものだ。努力の結晶のような人間。

「うん、でも、すっごいいい。澪、こないだ風景画だったけど、人物画の方が向いてるよ。描いてるときも生き生きしてるもん」

「……って、まえの絵だめでしたか?」

 おどけたふうを装って軽くたずねる。「うーん、なんだろ、パースは正確だったんだけどねー」と先輩が真顔に等しい表情で呟いた。声が素だったので、私はさりげなく傷ついてしまう。

 わかっている。あの絵は、自分の全力を向けたわけじゃない。作品提出の締め切りが早まって、なにも手をつけていなかったからあせって一週間大学に泊まってなんとか間に合わせた絵だ。あんなの作品とも呼べない。急いだのが丸わかりだった。美術展でも、先生に「西嶋、筆遣いに焦りが出てるぞ」と言われて、絵が返ってきたあとすぐ焼却炉に入れて燃やしてしまった。

「大作、期待してっからね。大変だと思うけど頑張って。モデルさんにもよろしく」

 じゃあお先、と先輩がアトリエを出ていく。私はぷうとキャンバスに息を吹きつけ、消しかすを落とす。うん、なかなかいいかも。

 スケジュール帳では、今日は透音がバイトがあるとかでまるっきり空いていた。ひさしぶりに早く帰ることにして、荷物を持って大学を出た。

 アパートに着くのと同時に、宅急便で段ボールが一箱届いた。送り主は実家。ひぃふぅ言いながら中に運び込む。おばあちゃんちが農家なので、お米とか野菜が定期的にばんばん送られてくるのだ。野菜を全部しまったところで、携帯が鳴った。

『もしもし澪? 荷物届いた?』

 母からだった。

「いま帰ったとこ。届いてたよ」

『よかった。カレーのルーとかシチューのモトも入ってるから作って食べなさい』

「あーうん」

 携帯を肩と顎で挟みながら冷蔵庫に向かい、麦茶のペットボトルを取る。コップにそそぎ、こくこく喉を鳴らして飲みほしたところで、母にため息をつかれた。

『澪。聞いてる?』

「聞いてるってば。なに」

『もう、あんたはほんとに。卒業後のこと考えてるの?』

 突飛すぎて少し笑ってしまう。「私まだ一年だよー? むしろ入学したばっかだし」と言うと、『笑い事じゃないわよ』と声を詰めてくる。『のんびりかまえてたら四年なんてあっという間なんだからね』

「……わかってるよ」

 リモコンを拾ってテレビをつける。競馬とか囲碁とか昔の韓ドラとかしかなくて、すぐに消す。

『今までちゃんと聞いてなかったけど、澪は将来何になるの』

 その問いは幼い子供に対してするもののようで、一瞬戸惑った。中学生に上がってからは目先のことを問われることの方が圧倒的に多くて、もっと先のことなんて、うっすらとしか思い描いていなかった

『画家になりたいの?』

 違う、と気づく。もう「もっと先のこと」なんかじゃない。二、三年後にはたぶん全部が決まっている。

「……画家にはならない。そんなのになれるのはごく一部だよ」

 どれだけの競争率か知らないくせに勝手なこと言わないでよ、という母への苛立ちで、つい声に力がこもってしまう。

 けれど母は言った。

『ねえ澪。美大に入ったからには、画家とか、イラストレーターになるんじゃないの? 社会人になったら絵、やめるわけ? そういうものなの?』

 黙って電話を切った。

母に八つ当たりしてしまった自分に、じゅくじゅくと唾液のように嫌悪が湧く。ベッドに寝転がって、タオルケットにくるまった。

私は子供だ。それは、相手が母だったから、ではないことに、自分でとっくに気づいている。


 希咲の存在を知ったのは入学してすぐのことだった。「二年でやばい人いるらしいよ、一回生のときすでにいろんなコンクール総なめにしたって」「プロの画家に師事してるとかって聞いたけど」「海外の美術誌に載ったことあるんでしょ?」いろんなところでいろんな人がトオノキサキという人のことを話していた。そこそこ名の知れた美大だから、スター的存在はやはりいるのだな、と思いはしたけれど、さほど気に留めていなかった。その時は深くわけを考えなかったけれど、無意識のうちに、自分とはまったく種類の異なる人間の存在に辟易していたのかもしれない。

希咲の姿は構内でもわりと目立った。べつだん目を引く容姿をしているわけではないのだけれど、いつも派手な感じの人に取り巻かれていて、ちやほやされている、という印象だった。私はそれを、遠くでへぇと思いながら見ているだけだった。私とは関わらないだろうな、と思っていたからだ。

初めて顔をはっきり見たのは、入学して一週間経った金曜日のことだった。全学年が使えるアトリエに向かっていたとき、誰かがこちらに向かってくるのが見えた。すれちがいざまにふと顔を上げてその子の顔を見たとき、記憶の糸がなにかにひっかかってぴんと張るのを感じた。夕陽に照らされた彼女の顔のまわりや全身に、金色の光の名残をまとっていたからだ。    

あ、知ってる、と思った時にはもう通り過ぎていた。背中をすうっと撫でられたみたいに、ふわっと首すじに鳥肌が立った。

慌てて振り返る。春の、まだやわらかいひかりを羽みたいに背負った背中は、オレンジ色にひたされていた。

あの子。あの、夏の絵の中の子だ。

記憶はだいぶ薄れているはずなのに、もう、わかってしまった。確信だった。

きっちりと計ったみたいに切り揃えたショートヘアが、ピアノの鍵盤みたいに白いうなじでゆれていた。夕映えに身体の線をふちどられた後ろ姿は、ふわりと角を曲がっていった。

あの子も同じ大学だったんだ、とぼんやりと思った。同時に、それが遠野希咲だと知ったとき、どうしてだろう、湧き上がってきたのは、嬉しさや感慨でもなく悲しいと思った。子供の頃、毎日一緒に遊んでいた幼馴染が遠くに引っ越してしまった日と、同じ感情が湧いてくるのを持て余していた。もっと正直な言い方をすれば、絵の優等生であるひとには、地味でいてほしいという勝手な思いもあったかもしれない。

心の中では呼び捨てにさえしているのに、春からずっと、なんとなく遠巻きに見ている。もっと素直に憧れられれば楽なのだとは、わかっているのだけれど。


エチュードに合わせて、黙々と透音は踊りつづける。来週、新しいステージの割り当てが発表されるそうだ。たぶん、今回のは主役取れると思う。淡々と告げられ、私はあっけに取られてしまった。レベルが違いすぎる。

 キャンバスの下絵は、なんとか完成した。そこに絵の具で色づけていく。それは本物の透音に近づくということだ。

 なんどもなんども回転するのに、透音の軸は一ミリもずれない。地面に刺した鋼索みたいだ。きれいに筋肉のついた四肢が、まるで織られたばかりの絹のようにしなやかに優美に伸びる。プールで泳ぐひとの身体に、水面に落ちるまだら模様の陽射しが映るように、水族館の床に映る水槽のなかの水の流れのひかりのように、透音の身体には絶えずひかりが映っている。それはゆらゆらとかたちを変えるけれど、途切れることはない。

 絵を彩りながら、感嘆が自然と洩れてしまう。筆を動かしたまま、声をかける。

「すごいよね、透音は」

 透音はターンをやめない。爪先立ちで小さくステップ、アティチュード、そしてジャンプ。

「なんでそんなに頑張れるの?」

 透音は困ったように小さく笑った。

「……澪が思ってるほど、あたし頑張ってないよ」

「頑張ってるじゃん」

 脚が、ほとんど地面に垂直になるほどまっすぐに持ち上がる。

「私、絵が好きで美大入ったけど、そんなに好きなことに頑張れない」

 少なくとも、私は透音ほど必死にやってはいない。真摯に絵だけと向き合うには、絵に執着心を持っていない。生活の一部として打ち込んでいるだけで、絵を描くために生きているわけじゃない。絵を取り上げられても、さびしくはなっても淡々と受け入れられてしまう気がする。

「描かれてるとさ、いま指見てるな、とかすごいわかるよ」

 ふっとこちらを向いて笑う。数時間もの練習で、床は透音の汗で濡れていた。「小さい時から汗で床が濡れるまでやってたの?」と聞くと、軽い仕草でうなずく。また、何度目かの溜め息が洩れた。

 陽の当たる場所で、透音は踊っていくのだろう。大きな舞台で、何万人もを前にして、踊りつづけるのだろう。

 希咲のようだ。希咲の絵は、きっといろんな人の目に留まって、いろんな偉い人に声をかけられるに違いない。

「……澪?」

 透音が動きを止めていた。はっと顔を上げる。知らないうちに眉間に皺を寄せていた。

「なんでもない」

 慌てて口角を持ち上げる。

「透音はすごいな。ほんと尊敬する」

 希咲の絵が脳裏に浮かぶ。ひかりに満ちた絵。特別という称号にふさわしい力。

「透音みたいに、才能があって努力もしてる人はプロになってもやっていけるんだろうね」

 透音は、ちろりと上目遣いでこちらを見た。

「……澪は? 画家にならないの?」

 なれないの? じゃなくてならないの? か、とくちびるが勝手に二ミリくらい歪んでしまう。母からの電話を思い出した。わ、へんな笑い方、と透音が呟く。

「私に、プロになる力なんてないよ」

「……ふうん」

「たぶん、手堅く美術の教員とかになるんだと思う」

 卑屈にならないように言い方を気をつけたけれど、透音には伝わらなかっただろう。話題を終わらせたくて、口を閉じ一番細い筆で顔の輪郭を丁寧になぞっていく。顎のラインを確かめようと顔を上げると、透音は横を向いて夜景に目をやっていた。鼻が高いから横顔の方がきれいだな、とふと思う。

「ま、好きなことで食べていけるのはほんの一握りってことよ。だから透音はすごいよ、ほんと」

 笑いかけたのに、透音は特に表情を変えないまま、曲を再生させるために立ち上がった。

 

まだ練習すると言う透音を残して、駅に向かって帰る。春の匂いと夏の匂いが混じった空気は、むんわりと重たい。毎朝日めくりカレンダーをちぎるたび、じりじりと春の割合が夏に押し出されて目減りしていくのを感じる。髪に湿気がまとわりつくのを、早足になって振り払う。

 夜の都心を歩くことにももう慣れた。とっちらかっているように見えて、このネオンあふれる街は意外と片付いている。だから、頭にスペースが空いて、普段はしまいこんでいるいろいろなことを考えてしまう。

 美大に入ったからには、画家とか、イラストレーターになるんじゃないの? 社会人になったら絵、やめるわけ?

 澪は、画家にはならないの?

 実際には責められたわけじゃないのに、リピートされる声は私の胸を容赦なく刺す。胸の内側が、逆剥けしたみたいにひりついて痛い。吐き出せない溜め息が肺に積もって、肋骨がきしむ。

 どうしても、いまの美大に来たかった。一年前、受験に失敗して、今年は地元の国立を受けろと親に言われた。でも、絵が描きたくて、絵しかやりたくなくて、美大受験専門コースがある都内の予備校に入学した。わざわざ東京まで出てきたのは、地元だと気持ちがぐらついてしまうとわかっていたからだ。やっぱり普通の女子大生になって、美術サークルをやればいいや、とあきらめてしまうと思ったからだ。

 でも、それでもよかったのかもしれない。私は画家にはなれないし、なろうとも思っていない。わざわざ美大に入らなくても、ちょっと絵がうまい女子大生、で十分だったのかもしれない。

 私は、一体なにがしたいのだろう。

 ひかりを放つ絵を描けなければ、美大に来た意味がなくなってしまう。

 足を早める。透音というひかりといると、影が濃い。いつもは気づかない、自分の生き方とか考えのほころびが照らされ出す気がする。それとも、ここが新宿という街だからなんだろうか。よくわからない。

 やりきれないような気持ちになり、ふっといま来た方を振り返った。

 明かりがついた部屋がひとつ、闇の中にぽつんと浮かんでいた。

 都内の美術展で賞を取った希咲の作品が、画壇の目に留まり、業界誌から連絡があった、とアトリエで誰かが話していた。


端々まで水が詰まっているようなみずみずしい葉は、明るい緑をしている。それらが折り重なって、大学までの道には濃い影が落ちていた。強い陽射しは網膜まで容赦なく突き刺してくる。

キャンパスの中庭の色彩がビビッドになり、夏がぐん、ぐん、と日に日に濃度を強めているのが肌でわかる。夏は、気温も湿気も色も、強くて濃い。むせったいくらいに。

 アトリエに来る美大生も増えている。コンクールの締め切りが刻々と近づいていた。あんなに頻繁に訪れていた希咲の取り巻きでさえ、課題があるとかでここ最近は見ていない。

 エアコンがついていないことに加え裏山から蝉がはいってくるので窓も開けられず、美大生たちの熱気で、いつになく湿気の密度が高い気がする。誰も声を発しない部屋の中央で古びた扇風機だけがからからと音を立てて首を回していた。

五時をまわり、外では紅緋色の夕日が目一杯照りつけていて、火事のようだ。なんだか、アトリエ内の学生から発せられるエネルギーが具現化したのかと思ってしまう。

中学時代から抜けないくせのせいで、筆の根元を持つから、描くそばから汗ですれ、タッチは生傷みたいになる。なめらかさには程遠い。でも、「描いてる」っていう感じがしてすごく、いい。

 少し離れたところに、希咲もいる。人のキャンバスに隠れて、なにを描いているのかわからないけれど、集中しているのはここから見てもわかる。希咲の輪郭だけ、混沌としたアトリエの中でひときわくっきりしていた。難問に挑む哲学者のように厳しい眼差しで絵に向き合う横顔は、そのまま彫刻になってしまいそうだ。

 大きなキャンバスの中でスポットライトを浴びる透音は、下塗り段階ではほとんど完成していた。あとは、背景。たっぷりとしたひかりを描き込めば、背景は完成する。それから、たくさんの観客。

 とつぜん、唸るような音がして筆を取り落としてしまう。それが机に置きっぱなしだった自分の携帯だと気づいて慌てて手に取った。振動が机に直接響いたせいで、みんなが一斉にこちらを見ている。顔に熱が集まるのを感じつつ、画面をスライドさせる。

【今日空いてないって言ってたけど、約束ドタキャンされて時間まるまる空いたよー。もし都合よかったら新宿来る?】

透音からだ。

 発表会が近いので学校の強化練習があったらしく、連絡じたいしばらくぶりだった。会っていないのにずっと透音の絵を描いていたせいか、本人から連絡が来るとなぜだか恥ずかしい。片思いしてるみたいだからだろうか。

【行く。何時から?】

【七時半かな。ひさしぶりだから、絵見るのたのしみ。期待してる】

携帯を置き、息を吐く。告白するまえの女の子みたいに、どきどきしていた。この絵を見て、透音はなんて言ってくれるだろう。すごいよ澪、と称賛してくれるだろうか。

 透音に会うまでに、少しでも絵を進めたくて、ぎりぎりまで絵の具を塗りつづけた。色を重ねれば重ねるほど、透音は輝きを増して、全身からひかりを放つ気がした。

 私にはないもの。

 でも、透音は持っている。才能と、努力という、ひかりを。

 

ひさしぶりに来た新宿のビルのロビーでは、シニヨンを結い、黒のレオタードとスパッツを身につけた子たちでひしめいていた。みんなおなじ髪型と恰好をしているので、見分けがつかない。どこに透音がいるのだろう。呼びかけたいけれど、目立つのも嫌だ。誰あれ、絵持ってる、美大生? ざわめきの中からそんな断片的な声が聞こえた気がして、慌てて角を曲がってロビーを抜けた。途端、前で「わっ」と声がする。

 透音が立っていた。

「澪! ひさしぶり」

 きょとんとしたまま、透音が笑う。まえより身体のラインが締まっている気がした。会いたかった人に無事に会えて、安堵する。

「よかった、いっぱい人いるから、透音見つけらんないかと思った」

 ロビーの人だかりが、移動を始めたらしい。エスカレーターの開く音がふたつ、重なる。

「うちらも行こうか」

 透音が指差したのは地下につながる階段だった。「いつもの部屋じゃないの?」と訊くと、「だって今日、人多いもん。行こ」と手を引かれる。私も、他の人がいるところで絵を描くのは嫌だなと思ったので、黙って後をついていく。

「合宿お疲れさま! どうだった?」

 階段を降りるふたりの足音だけが響く。

「すっごい疲れたよー。途中、脱走したかった」

 透音が片頬だけで笑う。少し削げた頬に微妙な翳りが滲んでいる、気がしたけれど、埃まみれの蛍光灯に照らされているせいだろうか。

透音が入っていったのは、倉庫のような空き部屋だった。地下なので窓もない。すすで壁も床も汚れているけど、キャンバスを壁に立てかけ、地べたに道具を置く。下がりそうな気持ちを必死に押さえた。透音はそんなことは気にならないのか、軽くストレッチを始める。

 私は椅子を探して、イーゼルがわりにした。絵をそうっと立てかける。地下室より、絵の中の方が明るい。蛍光灯の青ざめた光を弾いて白っぽく輝いた。

「合宿、結構きつくて」

 脚の筋肉をほぐしながら透音が言う。

「もー、脚が吊って脚が吊って。合宿中湿布貼りまくってた。最後はもう身体がどういう仕組みで動いてんのかわかんなかった。ユニゾンとカノンを休憩なしで繰り返してさ。あ、カノンってのは、群で同じ動きをずらして踊ることなんだけどね」

 今日の透音は妙に饒舌だった。「やっぱすごいね、プロになるための学校の合宿って」と言うと、ふっと私の顔を見た。持ち上がっていた頬がすとんと落ち、真顔になる。

「ん」

 ぶらんこから降りる子供のように小さく頷き、うつむいてしまう。温度差に違和を感じ、内心うろたえた。

「……透音?」

 顔を覗き込む。透音はくちびるをへにょりと曲げ、体育座りをして膝を胸まで引き寄せた。睫毛が蒼白い頬に影を落とす。

「……ごめん、あたしやっぱり疲れてるのかも。へんなこと口走っても、気にしないで」

「私、帰ろうか?」

 透音は目を閉じ、ううんとかぶりを振った。

「や、それは大丈夫。絵描いて」

「ほんとにいいの?」

「平気」

 透音の薄蒼い目蓋がふるえている。こんな様子を見るのは初めてで、不安になった。華奢な肩をつかむ。

「ねえ。疲れてるなら休んだ方いいよ。無理したら身体壊しちゃうし」

 透音は目を見開いた。下から私を射すくめる。

「これくらいのことで身体壊してたら、とっくにだめになってるよ。だいたい、いいも何も絵描かないと困るのは澪なんじゃん。人の心配してないで、いいから描けば?」

 居丈高な物言いにむっとするよりも、いつになく激しい口調に戸惑う。黙って透音の目を見つめるしかなかった。短い沈黙が地下室に満ちる。どこかで水滴が落ちる音がした。

「……ごめん、いまのは絡んでた」

 ぽつりと透音がつぶやく。

 ううん、と言ってはみたものの、飲み込みきれない石が、音を立てて胸の底に落ちた。

 なんでだろうと思う。なんで今日はこんなふうなんだろう。

 今日の透音へんだよ。

 そう言おうとしたけれど、へんなのは私なのかもしれない。

しばらくふたりともなにも言わなかった。いままで何度も透音とふたりきりでいたけれど、こんな空気になったことはなかった。こういうときどう振る舞えばいいのかわからない。なにかを言えば言うほど、ふたりの間にあるなにかが、取り返しのつかないくらいにねじれてしまうような気がした。

 油絵の具の入った木箱を開け、パレットを出す。しばらく会っていなかったから、こんなふうになってしまったんだろうか。透音が合宿明けで疲れてるから、だろうか。いつもと違う場所だから、だろうか。そうだ、ここが光の差さない地下室だからだ。

「……澪こそ、あたしがいない間、なんかなかったの」

上体をぺたりと床に倒しながら言う。

「なんもないよ。いつもと同じ、絵だけ描いてた」

 そっかと透音がつぶやく。

「夏だからもう、汗だくになってさ。エアコンもないし、蝉入るから窓も閉め切ってた。みんないらいらしててやばかった」

 しゃべりながら、なんでこんなこと話してるんだろうと思う。これが、自分のほんとうに話したいことなのかもよくわからない。ただ、しゃべってなきゃ、笑ってなきゃ、というあせりにくちびるがせかされていた。また静寂がこの暗い地下室にみちるのが厭だった。

「お昼にみんなで食堂行ったんだけどね、冷やし中華売り切れてて暑い中ラーメン食べたの。ますますいらいらしながらずるずる啜ってた。はたから見たら私たち殺気立ってたと思う」

 一所懸命しゃべっているのに、透音はどこかうわの空だった。話を切り、透音? と呼びかけると、間を置いて「あ、ごめん」とこちらを見る。思ったとおり、話を聞いていなかったからしい。

 やっぱり、今日の透音はへんだ。

 シャツにこぼした墨汁みたいにじわじわとにじむように胸に巣食いはじめた不安に気づかないふりをして、キャンバスに向かい合う。さすがに絵には反応してくれるだろう、と思い「ねえ」と意識して声の調子をワントーン上げ、透音を振り向いた。

「絵ね、結構進んだんだよ」

 やっと絵を見せられるのがうれしくて、つい声が弾んでしまう。透音は上半身を伸ばしながら「そっか」と言った。腰をひねって立ち上がる。

「今ごろ透音、合宿頑張ってるんだろうなぁって思いながら描いた」

「見せて」と言って透音がこちらに来た。私は裏返しにしていたキャンバスを掲げて彼女に向ける。

「じゃん! まだ途中なんだけど、どう、会心の作だよ」

 透音の目が、丸く見開かれた。そして、瞳のひかりがすっと強まる。

 まばゆい無数のスポットライトを全身に浴びて、手足をしなやかに高々と持ち上げて、踊っているバレリーナ。そして、彼女を見つめるたくさんの聴衆。満ちているのは、静けさと、鼓動。

 ほとんど透音の目と同じ高さで、絵の中で透音が踊っている。透音は、角膜がすっと浮かび上がりそうなくらい、目を見開いて食い入っていた。そのくちびるが開かれるのを、ただ、待つ。

「澪」

 賞賛の言葉。すごいよ澪。魔法みたい。澪先輩すごい、わたしも先輩みたいな絵が描けるようになりたい。まだ絵つづけてるの? すごいね! うちらには絶対できない。澪の受かった美大って倍率すごく高いんでしょ? 尊敬する、絶対画家になれるよ。プロみたいだよ。うちらとは格が違うよ。すごいよね、澪って、すごい。

 すごい。

「澪」

 いつも想像していた、私を称賛する声。褒め称える声。

透音のくちびるが動いた。あは、と空気の抜けるような乾いた声が漏れる。

「澪の嘘つき」

 冷たい氷の塊をいきなり頬に当てられたみたいに、顔の筋肉がかたまってしまった気がした。

透音は笑っていた。くちびるを歪めて、絵を見つめながら笑っていた。

「なんでこんな絵描くの」

 ねえ、と私を見る。蛍光灯から背をむけているので、目に光が映っていない。

「あたし……こんなんじゃないよ」

 耳に届いた声は、あまりに切実で、大きな手で頭をぐいと上から掴まれた気がした。喉の奥が閉じてしまったように、声を発することができない。


「こんなんじゃないよ」

 もう笑ってなんかいなかった。はっきりと、私を見据えている。

 自分の音がする。血液が全身に巡る音だとか、ばねみたいに打つ心臓の鼓動だとか、抑えている息づかいだとか、唾を飲み下す音とか、私にしか聴こえない音が。

「とくべつだって思ってるんでしょう」

 ほんとうは、わかっている。誰も私に「すごい」なんて、言わない。言わないし、言ってくれない。

「澪はあたしのこと、とくべつなんだって、思ってるんでしょう。とくべつで、才能があって夢を叶えるために努力してるんだって」

 透音のくちびるが、よくないかたちに曲がっている。

 この子、なにを言おうとしてるんだろう。

「バレリーナだもんね。めずらしいもんね。大学生にもなってプロのバレリーナ目指してたら、そりゃあとくべつな才能のある人だって思っちゃうよね。最初にバレエの大学行ってる、って言ったとき、澪の目すっごい輝いてたもん。わかってたよ、普通の人にそういうこと言ったら、天才扱いされるってこと。わかってて言ったってのも少しあるし」

淡々と言い切って、すっと絵の中の自分を撫でる。ゆびさきに、乾ききっていなかった絵の具がすれた。絵を破られるんじゃないかと身を硬くしたけれど、透音は手を下ろした。

「あたしはとくべつな人間なんかじゃない。勝手に澪があたしに夢を見てるだけだよ。こんなのあたしじゃない」

 透音の発する言葉は、ほとんど銃声のようだった。

「澪は、なりたい自分をあたしに照らしあわせてるだけだよ。もうやめようよ、こんなこと」

「なんで、」

 それ以上なにかを言わせたくない一心で、くちびるが勝手に早回しにしゃべった。

「なんでそんなこと」

 ぶれることなく見つめ返してくる透音の瞳孔。なんてきれいなんだろう。初めてこの子の目に見つめられたときも、そう思ったことはくっきりと覚えているのに、いまは透音のまなざしの強さやまっすぐさが怖い。

自分が透明になって、ていねいに中身を見つめられているような感覚になる。

「ほんとは澪だってわかってるくせに」

 吐き捨てられる言葉に、顔の下の筋肉がひきつれるようにこわばる。

「あたしはね、ほんとうはこんなにすごくなんかない」

「……そんなこと、」

「こんなふうになれない人間なんだよ」私が言いかけた言葉を断ち切るような強さで、言い放つ。

「ごめんね」

 険しかった表情がふっとやわらかくなる。いま、透音の微笑みの下に、どんな表情が隠れているのか、私にはわからない。

「澪が思ってるような人間じゃなくて、ごめん」

私は一体、なにを間違ってしまったのだろう。だとすれば、透音はいつからその間違いを見つめていたのだろう。

「嘘ついてたのはあたしのほうだよ」

 透音は壁によりかかった。「あたしは留学もできない。バレエ団にも入れない。主役すら取れない。バレリーナにも、なれない」

 自分の顔が、声もなく歪むのがわかった。

透音はなにを言っているんだろう。これから、なにを壊すつもりなんだろう。

「すごいね透音、ほんとすごい、すごい、って言ってくれるの、もう澪しかいない」

 なんども言った言葉。

「だからうれしくて。たとえ嘘でも、とくべつな存在でいられるのがうれしかった。だから澪の前ではすごい人間のふりをしてた」

 ほんとうは、透音に向けて言っていたのではないのかもしれない。

「才能あるすごいバレリーナなんだって思われていたかったし、澪もそう思いたがってたよね」

 ねえ、と首をかたげる。くちびるをにっと横に引いて。

「次の舞台……主役じゃなかったの?」

今度のはたぶん、主役取れると思う。いつか聞いた台詞が、頭の中からふってくる。

「ごめんね」

 また謝らせてしまった。今日でなんどめだろう。透音に心から申し訳なさそうに謝られるたび、みぞおちが手で握り潰されているみたいに響くように痛む。

 約束ドタキャンされた、ってメールで送ったでしょ? それね、選抜の子だけ特別レッスンがあったんだけど、あたしはそれに選ばれなかったの。だからまるまる予定空いた。そしたら澪に会いたくなった。

 とくべつだ、って言われたくなった。

「……透音は、」

 ぐ、と握りこぶしに力を込める。絵の具の黄色が手の甲についていた。

「透音は特別だよ」

 かなしくてしょうがなかった。自分はとくべつなんかじゃない、と断言する透音。主役じゃなかったから、謝る透音。

「だって、すごい、すごい努力してるじゃん」

 どうしてだろう。すごく、かなしくて、悔しくて、やりきれない。

 透音にもうそんなこと言わせたくない。言わせてはいけない。

「私はバレエなんてわからないよ。でも、透音のバレエ、すごいじゃん。いつも絵に描いてたんだから、それぐらいわかるよ。たとえ主役じゃなかったとしても、それで透音のことをどうにか思ったりしない」

 一息で一気に言った。語尾がふるえ、余韻だけ、残骸のように宙に残る。

 透音は黙っていた。真空のような沈黙の中、私は透音の結ばれたくちびるだけを見つめていた。

 しばらくして、透音は静かに息を吐いた。ずっと溜めていたものを吐き出すみたいに。

「すごいって言うけどね。澪、わかってないでしょ。もうそういうレベルの話じゃないんだって」

憐みと軽蔑の入り混じったまなざしで、自分が突き放されていることがわかった。もう、すがりつくことだってゆるされない。

 小雨が降っているような、やわらかい膜の張った透音のひとみが私をとらえる。

「あたし、学校じゃ劣等生なの。本当にすごい子はとっくに海外に留学してるよ」

 がつんと心臓を蹴飛ばされたような気がした。

透音から自分の話を聞くのはほとんど初めてだった。私たちは、お互いのプロフィールを最低限しか話していない。もしかしたら、それすら話していなかったのかもしれない。

 だって、絵を描くのにそんなことは必要ない。そう考える自分がいた。

「あたしよりバレエを長いことやってて、バレエが好きな人間なんているはずないって、思ってたんだけどね。でももうそういうことだけじゃ勝負できないんだよね、こういう段階にまでくると」

 必要なかったから、私は透音に、透音についてのなにかをあまり聞こうとしなかった。

 でもそれは、透音が才能ある有望なバレリーナだと信じていたかったからかもしれない。 想像でつくりあげた透音の像というパズルのピースが、ゆがんでばらばらと崩れてしまうのを、見たくなかったからなのかもしれない。

「澪、調べたりしなかったみたいだね。だって、変に思わなかった? 二十歳のバレリーナ志望人間がいまの時点でまだ国内にいるなんて。澪は知らないと思うから教えてあげる。日本にいるかぎりプロのバレリーナにはなれないの。資格をとれないし、海外に留学するしか手立てはない。そもそもプロでやってくなら、あたしの年齢だともう中堅にあたるの。あたしよりずっと年下の子たちが留学したりして海外のバレエ団にどんどん入ってる」

どうしてだろう。私はいま、透音の話を聞きたくないと思っている。

「高校のとき、何回か海外のバレエ団のオーディションも受けたよ。でも全部落ちた。クラッシクバレエのサークルがある普通の大学を受験することも考えたけど、やっぱり、バレリーナになれる可能性とか、バレエで生きる道をあきらめきれなくて」

 膝から崩れ折れそうになった。足に力が入らない。

 私はいままで、透音のなにを見ていたのだろう。透音について、なにを知っているつもりでいたのだろう。透音のなにをキャンバスに写していたのだろう。

「そんな小さいちいさい可能性、もうどこにも転がってないって、わかってたのにね」

透音のことをなんにも知ろうとしないで、どうして透音のすべてを描き切れると思えたんだろう。

「どこでどう踏ん切りつければいいのかわかんないまま、今年二十歳になる」

 そもそも、私はほんとうに透音を描いていたのだろうか。透音と向き合っていたのだろうか。

「……でも」

 しぼりだした自分の声が情けなく揺れる。漏れてきた言葉も揺れた。

「だとしてもあなたは特別だよ」

 私が透音について知っているのは、それだけだ。

「特別なひとだよ」

 一心不乱に子供の頃からの夢を追いかけ、目に見えない才能にすがらないで、目に見える努力をしつづける透音。

 普通の大学生が持っていて、私が未練がましく手放せないでいる保険のきく世界をすべて振り捨て、ひたすらバレエを踊る透音。

 それが特別ということだ、と思う。

「だから、さっきから言ってるじゃない。澪はそう思いたいだけなんだって」

あきれたように言い、片眉をひくつかせる。

「ねえ、あたしは澪が思ってるようなとくべつな人なんかじゃないんだよ。普通になるのが怖いだけだよ。子供の時からずっとバレエだけしてきた。あたしからバレエを取ったら、なんにも残らない。謙遜とかじゃなくて、ほんとになんにもないの。それくらいしがみついてるの、子供の頃の習いごとにね」

 まくしたてられ、私はなにも言い返せない。

 ばかみたいだよねー、と幼子をなだめるような口調で透音は無表情で呟いた。

「だから、あたしがいまバレエをやめたら、負けるの」

「……誰に」

 透音がすっと私を見つめた。世界を相手に挑みかかるような眼の強さに気圧され、たじろぐ。

「普通のみんなに」

 そうか、と気づいた。

 この子はずっと、バレエなしの自分で勝負できないでいるのだ。

「だからずっと、いまさらやめらんないでずるずるつづけてるの。しがみつくのをやめたら、バレエをやってきた十七年間がなんの価値もなくなる。自分が積み上げてきた過去のすべてを否定しなきゃいけないなんて、耐えられない。そういうものにすがればすがるだけ、足元が危うくなるってのは痛いくらいわかってるし、そういう選択をした自分に酔ってるのかもしんないって、自分でも思うけど」

 目の奥をじっと見つめられる。

「あたしは普通になりたくなかったし、とくべつな自分になることを捨てられなかった。でもだからってあたしはとくべつになれたわけじゃない」

 スニーカーの中で足の指をぎゅっと丸めた。

 そうしていないと、もう立っていられない。

「澪があたしのこととくべつだって思いたがってるの、最初からわかってた。だから、とくべつな存在である自分を演じてただけだよ」

 私が絵を描いたから。

 特別な存在である透音、を求めたから。

 だから透音は、その通り振る舞った。透音はそう言っている。

「くだらないでしょ?」

 きゅっとくちびるの端を持ち上げて吐き捨てられる。こんなつもりで私は透音を描いたわけじゃない。こんな言葉を引き出したかったわけじゃない。

なにか言いかえさなきゃ、と思う。透音の自嘲をぐちゃぐちゃに踏み潰してしまいたい。でも、くちびるは回らない。なにを言っても何の説得力も持たないことに、自分自身気づいてしまっているからだ。

いままであんなに楽しかったのに。どうしてこんなことになってしまったのだろう。

「心のどこかで、澪だってわかってたんじゃないの?」

透音が、自分と同じ種類の人間であることを。

認めたくなかった。だから、希咲と透音を重ねようとしていた。でも透音は、自分と私を重ねてみていたのだ。

「あたしは、ほんとはこんな努力、してない」

 真夜中の新宿で、休むことなく踊りつづけていた透音の姿が蘇る。

「澪にはそういうふうに見えてただけ」

 にっこりと微笑む。なんてかなしい笑い方なんだろう。こんなふうに笑わせる私は、なんて残酷なことをしてきたのだろう。

「透音」

 透音は返事をしない。黙って曲をかける。

「透音」

 曲が流れる。透音は私から背を向けた。

「もう出てって」

 私を見ないまま言い放ち、振り付けをなぞり始めた。仕方なく、のろのろと荷物を片付ける。涙が出しっぱなしだったパレットにぽっと落ちた。アトリエで出した絵の具がにじむ。

「ねぇ澪」

 背中で声がする。いつもと変わらない、花から零れる水滴のようなやさしい声で。

「画家って、向き合いたいものを選んで描くっていうじゃん」

「……うん」

 パレットを木箱にしまう。

「澪が向き合いたかったのって、ほんとは澪自身なんじゃないの」

 心臓を直接手で鷲掴みにされた気がした。

ずっと、透音を見上げていると思っていた。透音は私には届かないうんと高い場所で踊っているのだと思っていて、同じ高さのところには希咲がいるのだと思っていた。

「あたしと澪って、よく似てるから」

透音は最初からわかっていたのかもしれない。鏡を覗き込むようにして、私と同じところにいる自分を見つめているのかもしれない。

でも、私は鏡を見なかった。反射してできる虚像を勝手にでっちあげて見上げつづけていた。

「だから、ほんとはすごくなんかないあたしを、澪は無意識に見抜いてたんだよ。澪、人を見る目あるよ。少なくともあたしなんかより、ずっとずっと『才能』がある」

 私は返事をしなかった。

 そのとおりだと思ったからだ。

 

アトリエでは真ん中に人だかりができていた。誰かの絵に騒いでいるらしい。加わる気にはなれなくて、隅にイーゼルを立てる。キャンバスは裏返しに壁に立てかけたままだった。

見たくない、と思った。モデルに烙印を押された絵なんて、とても向き合えない。それなのに私をアトリエに突き動かしたものは、何なんだろう。

「みーお!」

ふいに肩を叩かれ、びくついてしまう。「何その反応傷つくんだけど」と苦笑された。

「先輩」

「見た? 希咲の絵。完成したんだって」

人だかりの中心にいるのは、希咲らしかった。困ったように真ん中に座っている。

「ちょっとごめん」

 ひとを押し分けて中心に向かう。キャンバスがあった。キャンパス内の雑踏を描いた絵。たくさんの人が交錯している。近くで見ると、ここにこんな色を、などとあらためて希咲のセンスに気づかされる。

 ああ、と思う。まただ。また希咲は閃光を創りだした。

「希咲」

 思わず呼びかけてしまう。あ、初めて呼ぶのに呼び捨てにした、そもそも向こうは先輩なのに、と内心あせったけれど、希咲はとくに表情を変えずに「なに?」と私と目を合わせた。

「どうやって描いたの」

輪をつくっていた何人かが、怪訝そうな目を私に向けた。美大生にあるまじき常識はずれで稚拙な問いだ。わかっている。でも、聞きたかった。聞かなきゃいけなかった。

「どうやったら描けるの」

 たとえ才能がなかったとしても、私だってえがきたい。私だって閃光を描きたいし、閃光になりたい。いま、気づいた。

「そんなの」

ふっと希咲の目がやわらかくなごんだ。この人は、私に対してこんなにやさしい表情を浮かべるんだ。知らなかった。希咲の絵に惹かれて絵を志して、偶然同じ大学にまで入れたのに、私は希咲を見ようとなんてしていなかった。

「見たまま描けばいいじゃん」

 目の下をふくらませて笑う。そんなのあたりまえじゃん、という声だった。

「そっか」

 ありがと、と言って自分のキャンバスに向かった。最初から訊けばよかったのだ。どうやって描いたの、どうしたら描けるの、と。

 えいっとキャンバスを真っ正面から見つめた。キャンバスの中で、ひかりと注目をいっぱいに浴びる透音。でも、そんなのはあたしじゃないと透音は言った。

 ほんとうは、なにを描いたのか私は知っている。

これは、私がなりたかった私だ。それを、透音に投影した。

そんなのは嘘つきだと、透音は言った。嘘つきだったのは、お互い同じだったのかもしれないけど、おあいこなんかにはならない。

じっとキャンバスをにらみつける。

 見たままを描けばいいと透音は言った。その言葉を噛みしめる。

宝箱でも開けるみたいに、そっと油絵の具の入った箱を開けた。マリンブルー。それから、ウルトラマリン、コバルトブルー。白と黒と黄色ふたつ。取り出して、パレットにたっぷり出す。摘みたてのフルーツのように光を映してつやつやと輝いた。

 初めて透音を見たとき、水底で泳ぐさかなみたいだと思った。底には水面で揺らめくひかりが反射して映っている。水底だから、地上のひかりはあまり届かない。でも、その水底は海じゃないかもしれない。すぐ頭上に、水面が揺れているかもしれない。一すじの細いほそい陽射しが差し込む瞬間があるかもしれない。

 地上じゃなくて、水底で踊るバレリーナ。それが、見たままの透音。ありのままの私。そう思った。

 希咲の描く絵が輝きを放つのは、希咲に才能があるからじゃない。希咲が、まっすぐに世界を見つめているからだ。歪めたり曲げたりしないからだ。

 浴びたかった賞賛。欲しかった尊敬。べつに、褒められるために絵の道を選んだわけでは決してないけれど、やっぱり私は絵でたたえられたかった。すごいねと言われたかった。好きなことだから、あたりまえだ。そのために絵を選んだのだ。

 私の絵で誰かを幸せにしたい、なんて立派なことは嘘でも言えないし、自分を満たせればそれでいい、なんて謙虚なことも思えないけれど、でも絵をやりたい。そう思えた。

 筆洗いに筆を浸す。スポットライトを描いた時のままだった筆から、赤い絵の具が血のように染みでてくる。

 赤が完全に消えるのを待ってから、いま出したばかりの絵の具で海の色をつくりだす。水底だけど、暗い色じゃなくて、光の粒をたっぷり含んだプールのような、弾力のあるような淡い青の水。

ほんとうはわかっているのに、わからないふりをしつづけてきたことが、私にはたくさんある。見たいものと見たくないものを振り分けて、傷つかないように自分を守ってきた。

でも、もうそんなことできない。

 透音の立つステージは、スポットライトがあまりなくて、踊り子を照らし出さないかもしれない。観客が三百人ほどしか入れない、地下にある小さなちいさな粗末な舞台かもしれない。それでも、私は見つめる。観客席でひとり、小さなステージで踊りつづける透音を、にげないで見つめるから、嘘なんてつかせないから、どうか踊っていて。観客も踊り手もひとりしかいないけれど、でも、ずっと見つめつづける。どうか、ステージを降りて踊るのをやめたりしないでほしい。

 ひかりの上に、ゆっくりと海を重ねる。ひかりを浴びていた透音が、深い海の中につつまれていく。

透音はその中で溺れていたのかもしれない。私のまえでは軽々とやってみせていたけれど、ほんとうはもっと、ずっと、切実なものだったのかもしれない。

透音が後ろ手で隠していた秘密に、私は気づけなかった。でも、いまは違う。だって、それは私もかかえているものだったからだ。

ほんとうに描きたかった閃光を、しっかりとキャンバスの中にとらえるために、私はしっかりと筆を握りなおした。


「……澪?」

 肩になにかがふれた。薄く目を開けると、目の前に机があった。慌てて身を起こす。体の中で傾いていた内臓が正しい位置に戻るような感覚になる。壁の時計を見ると、日をまたぐ直前だった。

「……まだいるなんて思わなかったからこんな時間に来たんだけどね」

 少しだけ決まり悪そうな顔で苦笑いする透音が、そこにいた。

「きれい」

 私がなにか言う前に、透音がイーゼルに立てた絵を見て呟いた。

 何時間もかけて塗りなおした透音が、キャンバスの中の海底で踊っている。その身に水面のひかりを映しながら。

「ごめん、昨日、怒るばっかで絵のこと褒めてなかった。だから来たの」

「そんなこと、」

 わざわざいいのに、と言おうとしてやめる。透音がじっと食い入るように絵をみつめていたから。

「描いてくれて、ありがとう」

 つむがれた言葉に、身がふるえそうになる。点で描いたようなこまかな色んな感情がわっと押し寄せ、体を鋭く刺し貫いて、あまりの快感に指の先がわずかに痙攣した。

「やっぱり、描いてもらってよかった」

 透音の声もふるえている。なにかを振り切るように、ポニーテールを左右に揺らして。

「選んじゃったんだから、もう、進むしかないんだよね」

 何時間もの練習のあとに電車を乗り継いで来て疲れているはずで、、目元にくまも残っているのに、言い切った透音の表情はどこまでもすがすがしい。

心の底が、たぎるように熱くなる。私はまなざしを高く持ち上げて、キャンバスを見つめた。

「あきらめきれないんだったら、引き受けるしかないよね」

 うん、とうなずく。

「自分で選んだんだからさ」

 自分の人生なんだからさ、と透音が呟く。

 透音はバレリーナになるために、踊りつづけるだろう。ぼろぼろになっても、自分が選んだものを投げたりはしないで、黙々と、バレエをやりつづけるだろう。

 私だって、きっとそうだ。才能を見つけられないまま、ひたすら絵を描くだろう。自分で閃光を生みだすために、キャンバスに向かいつづけるだろう。

「できるよ」

 透音の右手をぎゅっと握った。私のてのひらのなかで、細い指がふるえている。

「私たちならできるよ」

 透音がゆっくりと左手で顔を覆った。私は黙って、絵の中の透音を見つめつづける。



追記。高校二年生のとき、創作ダンスでは使ったエンヤの「anywhere is」から着想を得て書いたものを大学一年のときに推敲してオール読物新人賞すべった作品。バレエやってた人からしたら突っ込みどころ満載かな。比喩に溢れていて、悪くないじゃんと思いました

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海底の踊り子 @_naranuhoka_

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