指
@_naranuhoka_
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生まれて初めて欲しいと思った男は、その時すでに許嫁を持っていた。嗚呼欲しい嗚呼口惜しい。小夜子は男の家を見に行ったその日、一晩中泣き明かした。男の名は清次という。姉が注文した小紋を届けに来たのを、小夜子が代わりに受け取った。後で奉公人に、そんな事お嬢様がしなくても宜しいのに、と諫められた。ふしだらな、と流石に口にはしなかったが、目がそう咎めていた。嫁に行く前の娘が外の男と口をきくことは禁じられている。
小夜子が出たのは偶然だった。庭に出ようと履物を持っていく際に、男が品物を持って現れた。急のことだったから、奥に引っ込もうとした時には眦の切れ上がった漆黒の双眸に捉えられ、その場で足を糊で固めたように身動きできなくなった。なんて綺麗な、鋭い眼差し――よく研いだ劔のようだ。
「妹さんかな。お姉様に、お着物が出来上がりましたのでお届けに参りました」
風呂敷に包んであった小紋を差し出され、あ、ともう、ともつかない不明瞭なことしか言えずに固まっていると、男はふっと唇をゆるめて石のようにこわばって握り締められた小夜子の手を、血管の浮いたごつごつとした無骨な両の手で丁寧にはがして広げた。もう一方の手も同じようにされ、触れられた先から血が通いだし、躯のなかを激しく満ち引きする。
そうして広げさせた両手に、そっと小紋を載せた。悪戯っぽい笑みを浮かべ、お代金は改めてお受け取りに来ますと言って去って行った。男からはひらいたばかりの新書のような、紙の匂いがした。
暑くもないのに頬が火照り、寒くもないのに指先がふるえた。小夜子には初めての感覚だった。帰ってきた姉に、風邪でも引いたのかと心配されて鏡を見れば、湯上りのように耳朶まで桃色に染め上がっていた。
恋をしてしまったのだわ。
母が定期的に買い与える読み物ではなく、こっそり盗み読んだ姉の部屋にある読み物の中で、主人公が吐露した感情をいま自分が躯じゅうでひしひしと痛感しているのだと小夜子は思った。その物語の中では、主人公の少女は家が取り決めた相手とではなく、惹かれあった者同士で結ばれていた。
わたしもいつかは、とその時は漠然と異国に思いを馳せるような気持ちでいたけれど、その相手と出会ってしまったのだ。
小さな胸に秘めておくにはまだ小夜子はあまりにねんねだった。この胸の心細さや昂りを誰かと分かち合いたい一心で、その日の晩、自室に一番仲良くしている年の近い女中の晴を招き、たからものを見せびらかすような気持ちで昼間の出来事を打ち明けてしまった。耳年増な晴は目を輝かせた。
「ええ、そんな素敵な人だったんですか」
「そうなの。ほんのちょっとの出来事だったのだけれど」
「千夜子さまにご相談なさってみては」
晴は姉の名を出した。小夜子は首肯かなかった。
「お姉様にこんな話したら、きっとふしだらだって叱られる。けして言わないで、誰にも」
「はぁ、わかりました」
晴は自分よりは歳上で、年配の奉公人から聞いたおませなことも教えてくれる。けれど、晴も恋をしたことはない。貧しい武家の娘として、立派な侍の殿方に見初められることが、晴の――晴の両親の望みだった。
「また会えるかしら」
「お代金を受け取っていらっしゃらないのでしょ、きっとまたお目にかかれますわ」
「そうよね、そうなのよね」
家人に不審に思われる前に母屋に晴を帰し、床に就いた。身も名も知らぬ男に触られた両の指が熱でも灯ったように火照って、なかなか寝付けなかった。
翌日、小夜子はなんども玄関をうろうろと通った。あの男は来るのか。来ないのか。自分の知らぬ間に家にもういちど訪れていて、姉がすでに代金を払ってしまっているのではないか。余程自室で勉学に勤しんでいる姉に尋ねてみようかと駆られたけれど、その所為で男と接することを禁じられるのはもっと恐ろしい。内臓の裏側が削られるような思いでなんども戸口を覗いた。
「おや」
新しく生けられた竜胆に気を取られていると、不意に戸が開いた。心臓が喉元まで跳ね上がる。
「今日もお姉様は不在かな」
緊張で身動きできそうにもない頭を、やっとの思いで首肯かせる。早くしなければ姉か奉公人が来てしまう。それにしてもなんて綺麗な人だろう。浅黒く灼けた肌、くっきり通った鼻梁、手首の不恰好な骨の出っ張りすら、好ましく見えた。触れたらどんなふうなのだろう、などと考えついて、忽ち顔が朱に染まる。
「困ったな」
またいらして。余程そう言ってしまいたかったが、凛々しい眉がハの字に下がっているのを見ると、とても言えなかった。
「……代金ならわたしが代わりに」
勇気を振り絞って、震える声でようやく口にした。男の口元が、安堵でほころぶ。
「お待ちくださいませ」
急いで父の部屋に向かう。姉や母が買い物や支払いの際、父の部屋にある小さな壺からお金を使っているのをなんどか見ていた。祈るような思いで手を入れると、手が小判に触れた。ほっとして、何枚か掴み取り、胸にかかえて足音を立てぬように玄関に走り戻る。姉の部屋から声がかけられた気もしたが、立ち止まらなかった。心臓が疾まる。
抱えてきた小判を見て、男が眼を見開いた。思いがけずたくさん持ってきてしまったようだ。小夜子には金の価値も品物の値段の相場も何一つわからない。
「足りますか、」
「十分です。三枚で足りますよ」
受け取って、男は簡単に去って行った。小夜子は残りのお金を抱えたまま、呆然と立ちすくむ。のろのろと父の部屋に戻り、壺に金を返した。思い立ってもういちど玄関に行ったが、薄い紙の匂いが残っているだけだった。胸がきゅうと痛むのを感じ、小夜子は拳で胸元を抑えた。
外に出ると、道を歩く男が小さく見えた。いけない、と思いつつ、小夜子はそっとその後を追った。男の行く先を見届けたかった。どんな見世で働いているのか、どんな家に住んでいるのか。踏み込み過ぎてはならない、と諌める自分もいるけれど、恋を知って逸る心を抑えられそうにない。足だけが冷静に、一歩ずつゆっくりと男の後を追う。男は小夜子に気づくことなく、すたすたと大股で歩いてゆく。独りで街中に出るのは初めてで、心細くなる。誰かに見つかって、父か母の耳に入ったらどうしよう。恥をかかせるな、拐しにでも遭ったらどうする。きっと厳しく叱咤される。
嗚呼、出掛けに晴に手拭いでも借りてくるのだった。顔が出ていることが心許なくて、そっと俯く。男が早足で角を曲がり、慌ててついてゆく。
――あ。
男が向かっているのは見世ではなく、自宅であった。白い着物を着た若い女が庭先で庭弄りしている。男が手を振ると、女はぱっと顔を上げ、清次さん、と溢れるような笑みを浮かべて男の元へと駆け寄る。
清次はそれを愛おしげに見つめ、あろうことか男の胸に女を抱き寄せたではないか。
躯の内側から凍てつくような思いがした。躯じゅうの血が足元へとすとんと落ちる。指先の感覚がなくなり、足に力が入らず立っていられない。
何も聞こえない。見えているもののすべてから色が失せてゆく。色も厚みも喪った視界のなかで、女の履いている薄汚れた下駄の紅い鼻緒かだけがくっきりと目に映る。やがてそれも消えた。
どうやって来た道を戻ったのか、もう思い出せない。気がつけば自室にいて、布団の中で枕を濡らしつづけた。聞きつけた姉と母が血相を変えて部屋に入ってきたが、何と言っているのか、慰めているのか、理由を問いただしているのか、それとも叱りつけているのかすらまるで解らない。いつの間にか夕暮れに部屋が染まり、枕元には母でも姉でもなく、晴が心配そうな面持ちでそっと小夜子の髪を指で梳いていた。腫れた目蓋を開けると、汗をかいた額を濡れた手拭いで拭いてくれる。
「お夕餉は要らない」
「無理をすることないですわ。湯浴みも今日はお休みなさいませ」
汗をかいた肌が冷え、ぶるりと震えた。晴が用意してくれた乾いた蹴出しに着替えると、乱れて散り散りに飛んでいた心がようやく一つに集まってきた。
「晴、わたし今日あの人に会ったのよ」
晴がハッと眼を見開き小夜子を見つめ返す。
「どうか、なさったんですか。酷いことを言われたり、」
「そうではないの。今日もうんと素敵でうんと優しかったわ。でも」
紅い鼻緒が脳裏に浮かび、脳天が腫れ上がるかと思うほどの怒りが瞬く間に燃え盛る。
「……でもいいの。わたしの運命の方ではなかったみたい」
多くを語ろうとしない小夜子に晴はまだ何か言いたそうにしたが、「左様でしたか」と淋しげに微笑んだ。
「お嬢様にお似合いな殿方は、きっといつかまた現れますわ」
「そうね、わたしにはまだ恋は早かったみたい」
胸が千切れるような思いでなんとか微笑みを作ってみせると、晴も安堵したようだった。
諦めなければ、と思えば思うほど苦しくなった。清次さんというのか。ぴったりな名だ。名を呼んでみたい。名を呼ばれてみたい。あの女に代われたらどんなにいいか。悲しみは時間が経つにつれ、女への怒りへと変わっていった。
行けば傷つくのは自分だと解っていながら、翌日も清次の自宅へ足を運んだ。惨めで情けないなどとは思いもかけなかった。只管、清次の顔が見たかった。
女が清次の許嫁であることは、その日に知った。男の名が清次と綴ることも、清次は仕事の昼休みに自宅に戻っていることも。
女は大概家の中に居たが、時たま庭に出て猫の相手をしたり、庭の花を摘んだりしていた。さして美しい訳でもない、色白いだけの幸の薄そうなぼんやりとした顔に見えた。清次が帰ってくると、絡みつくような婀娜っぽい声で纏わりつくのが、駆け寄って引き剥がし突き飛ばしたくなるほど許せなかった。清次の引き締まった逞しい胸に図々しく顔をうずめ、耳打ちをしてクスクスと笑う顔が醜いと思った。白粉が清次の紺地の着物に移っているのに気付き、頭にカッと血が逆上せあがった。
わたしこそがふさわしいはず、わたしこそが清次さんのおそばにいたい。嗚呼、一体何だってあんな許嫁なんかが居るの。
毎日通い詰めては唇を噛み締めた。食欲は失せ、頬の肉が痩けて眼だけがぎらぎら光るようになった末娘の変わりように両親も姉もすぐに気が付いた。なにかあったのかと心配そうに、或いは苛立たしそうに聞かれても、小夜子はけっして口を開かなかった。月の障りでも長引いているのだろう、とお門違いな勘違いをしているようだが、小夜子にとってはどうでもよかった。自分と清次に関わること以外、全てが無味乾燥なものでしかなかった。
どうしたら自分が清次の隣に行くことができる?
生け花や茶道の最中も上の空で、頭のなかを駆け巡るのはそのことだった。清次の眼差し、すべらかで暖かな掌、そして許嫁の女の厭らしい笑み。
のこのこと手を拱いていれば清次とあの女が有ろうことか所帯を持ってしまう。清次さんとわたしが結ばれるには、一つしか、たった一つしか手立てがない。
家人が寝静まった丑三つ時、そっと床から抜け出した。燭台に灯りを灯し、音を決して立てぬように、廊下を抜き足で忍び歩く。
戸を滑らせるようにして人ひとり通れる分だけ開け、座敷の奥へと進む。床の間に飾られた懐剣に手を伸ばす。父の自慢の骨董品だ。見た目にそぐわず、ずっしりと持ち重りする。息を詰めて鞘から取り出すと、小夜子を脅かすようにぬめぬめと妖しく輝いた。張り詰めた小夜子の血の気のない表情と燭台に灯る鬼火のような灯りだけが、まるで水鏡を覗いているかのようにくっきり映っている。
そっと袂に押し込み、自室に戻った。頭だけは、冷えびえと冴え渡っていた。
頭の中で何度も繰り返していた。実際に行動を移す時も、小夜子は自分でも驚くほど冷静だった。
くるしい……くるしい……
目の前で女が苦悶に満ちた顔を醜く歪め、引き攣らせている。刺した時の反動で眼球が半分出かかっていた。思わず顔を顰める。嗚呼なんて汚い。こんな女、清次さんの隣には絶対にふさわしくない。
白い着物は中央から真っ赤に染まっていた。温い血が小夜子の頬を濡らし気持ちが悪い。けれど今はそんなことに構っていられない。昼になれば清次が帰ってきてしまう。
垣根の外から、薄く喧騒が聞こえる。明るい午前のうちからまさかこんな壮絶なことが起こっているとは誰も思わないだろう。
刃を押し返しながらも、ずぷりとのめり込んでいく肉の弾力の感触がまだ掌に残っている。噴き出した血は指の股を伝い、手が滑った。女の着物で手を拭い、生気を喪っている女を抱え込み、井戸まで引きずる。丁度いい具合に大きな石があり、それを段差にしてなんとか重くのしかかる女を突き落とそうと試みる。半身を井戸に押し込むことまではなんとか成功したが、瀕死の躯のどこにまだそんな力が残っているのか、なかなか小夜子の肩から手を離そうとしない。このままでは女の重みで自分まで井戸に落ちかねない。なんとか持ちこたえようと、歯を食いしばって指を引き剥がそうとするが、なかなか剥がれない。庭には凄惨な血の海が残っている。誰かが文でも持って来てれば、忽ち騒ぎになってしまう。
焦りで手が滑る。右手で着物の袂に手を突っ込み、まだ血が乾き切っていない懐剣を取り出した。自分の顔の横にある女の指を掴み、鋸を引くように中指をひっつかんで斬り落としにかかる。耳を劈くような断絶魔の苦しみが耳元で上がり、身の毛がよだつ。
ごりごりと骨を斬る振動が直接小夜子の躯に伝わり、あまりのおぞましさに顔が歪む。自分の肩まで斬ってしまわないかが心配だった。
ぷち、と皮膚が裂ける感覚があって、真っ赤な肉の断片が足元に転がり落ちた。それでも残りの四本が執拗に小夜子の肩を掴んでいる。もう二本、同じように小刀でなんとか切り落とした。
途端、指から力が抜け、肩の重みがとれた。女が何かに引き摺り込まれるようにして井戸の底へと落ちてゆく。
かっと見開いた青白い睛が小夜子を真っ直ぐに睨みつけていたが、やがて見えなくなった。
鈍い音が底の方で響き、小夜子はその場を駆け出した。庭の隅にある手水場で簡単に手と顔を洗う。血をかぶることを想定して赤い着物を着てきてよかった、と小さく微笑んだ。
女の血の溜まった庭は酷く生臭い匂いが立ち込め、小夜子は顔を背けた。おお怖い、おお醜い、と独りごちて、何食わぬ顔で屋敷に戻った。
清次の許嫁が殺害されたことはその日のうちに触書が回った。小夜子の屋敷にも、聞き込みがきた。「外には出ておりませんゆえ」と答える姉の隣に居たが、年端のゆかない小夜子に疑いが向けられることはつゆほどもなかった。女の両親が血眼になって犯人を探しているものの目撃人は誰もおらず、清次は気を落として消沈しているという。
小夜子は姉の傍らでひっそりとわらった。邪魔をする者は居なくなった。清次さんと結ばれるのはわたし。
織物問屋で染織を生業としている清次に縁談を持ち掛けるのはそう難しいことではなかった。好いた人がいる、あの人のところでないと嫁ぎたくない、と父に駄々を捏ねたところ、あっさりと縁談がまとまった。裕福な商家の娘である小夜子であれば後ろ盾ができると親方が踏んだのであろう。
「なにも、おれのところでなくても小夜子さんならどこでも嫁ぎ先があったでしょうに」
祝言を挙げた夜、げっそりと窶れた顔で清次は力無く呟いた。縁談に関しても、殆ど親方に任せっきりで、ふたりが口をきくのもあの日――小紋を届けに屋敷を訪れてきた日以来であった。
「知っているでしょう。おれは許嫁を殺された、不吉な身です。小夜子さんにふさわしい人は他に居たんじゃないかな」
自嘲するように頬を歪める清次の胸に、そっと頭を預けた。
「わたしは清次さんを愛しております。たとえ一度不幸な目に遭っていたとしても、わたしと幸せになってほしいのです」
清次はじっと小夜子を見つめていたが、やがて眼に涙を浮かべた。
「許嫁を亡くしてから、おれは余生を忍んで生きる身だとばかり思って投げやりになっていた。それなのに、小夜子さんのような人に見初められて、妻を娶ることができた。ありがとう、おれも小夜子さんを大切にする」
そう言って温かな躯で小夜子を抱きしめた。躯じゅうが痺れ、気がふれそうなほど幸福だった。
やがて愛を睦み、小夜子は清次の子を孕んだ。腹は日に日に大きくなり、蒸し暑い夏の昼間に破水した。産婆が呼ばれ、小夜子は母の手にすがりつきながら激しい陣痛に耐える。
どれほど長い時間痛みに耐えていただろうか。ようやく赤子が生まれたのは、日をまたぐ寸前だった。
「色の白い、かわいい赤ちゃんですよ」
産婆から、まだ臍の緒が繋がったままの、血にまみれた赤子を受け取る。布を裂くような細い声で泣き出す我が子を、しっかりと抱きすくめた。小さな両手が小夜子に向かって迷いなく伸ばされる、愛おしさに眼を細めた次の瞬間――小夜子の甲高い絶叫が部屋をつんざいた。
産み落とされたばかりの赤子とも思えぬ強い力で小夜子の肩にひっしりとしがみつく小さな左手。
そのうちの真ん中の三本の指が、関節からえぐれたように切れ落ちていた。
2016年?
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