ハンガリー舞曲第5番

@_naranuhoka_

ハンガリー舞曲第5番

ハンガリー舞曲五番


ブラームスを聴くといまでも、不恰好にごつごつとした骨っぽい指に心臓を静かに掴まれるような感覚になる。陽に灼けた手と白く輝く鍵盤は不釣り合いで、どこか違和感さえあったのに、映一君の指から弾かれる音は一つひとつ澄んだ川底で研いだ小石のように、丁寧なものだった。

ピアノは別に、好きじゃなかった。小学校に上がる前から習っていたけれど、「習わされていた」という感覚の方が近い。すぐに遊びに行きたくても、帰宅した後毎日三十分ピアノを練習しなければならなかったし、就ていた先生は有名な音大を出ていて、レッスンはいつも厳しかった。あまり練習をしてこなかったり、上手く弾けない箇所がつづくと、指揮棒で容赦無く腿を叩かれた。恐くて母親に言いつけることもできず、帰ってから恐る恐るショートパンツをめくって、蚯蚓腫れの赤く爛れた跡を確認しては目を逸らした。

映一君の存在は、小学生の時から知っていた。年に一度ある発表会で一人だけ、同学年に男子がいるなと思っていた。クラスで野生の動物のように常に騒いでいる男子とは種類が違う少年だった。静かでめったに口をきいているのを聞かなかった。わたしよりずっと丁寧に繊細な演奏をするのに、スポーツ刈りにしているのがちぐはぐな印象だった。誰よりも練習を一生懸命しているらしく、わたしが練習をたいしてしないでレッスンに来ると、先生がよく名前を挙げて引き合いに出した。男子なのに変な人、としか思わなかった。

ピアノをやめたい、と思ったことが全くないわけではないのに、気づけば中学生になっても通っていた。母親に、言いづらかったのかもしれないし、習いごとはなにか、部活が忙しくなったとかレッスンの曜日に塾に行くようになったとかそういう物理的な理由がなければ辞めてはならないもの、という思い込みがどこかであったのかもしれない。さして熱心に練習に取り組んでいたわけではないので上手くなったわけでもないし、才能がほんの少しでもあるとも思えなかった。それでもわたしは、先生に指示されるまま、課題曲を指定され、二ヶ月単位で先生が納得するレベルにまで仕上げては次の曲に移った。とくに、弾いてみたい憧れの曲があったわけでもなく、好きな作曲家がいるわけでもなく、初めからマス目が用意されていて、スタンプを全部押していくような感覚が一番近かったかもしれない。

小学生までは、ピアノといえば女の子がやる習いごとで一番人気でたいていのクラスの女子の半分はピアノかあるいはエレクトーンを習っていた。でも中学に上がっても習っていたのは、クラスに一人二人といったところだった。実際、わたしが通っていたピアノ教室も、同期の子たちは進学と部活を理由に次々とやめてしまった。

あの男の子は、中学に上がってもつづけていた。真っ先にやめるだろう、と思っていたら、中学に上がって曜日を変えたのか、四月になると私のレッスンのあと入れ違いに教室に入ってくようになった。相変わらず坊主に近いスポーツ刈りのままで、無骨な見てくれは洋館風のピアノ教室の中で浮いていた。それでも、下で自転車を駐輪場から出して漕ぎ始める時に頭の上から降ってくる演奏は、同期の誰よりも繊細だった。要するに、巧かった。わたしより曲が変わる周期が早く、一ヶ月半ほどで課題曲が変わっていた。

毎週すれ違うので、向こうもさすがにわたしのことを覚えたらしく、見かけたら、目を合わせて会釈くらいはするようになった。違う中学に通っていたので、部活を何かしているのか、クラスでどういう立ち位置なのかとか、まるで知らなかったが、先生伝えで、野球部に入っていること、姉も同じ教室に通っていたが、中学生に上がる前にやめてしまったので彼もやめるのだろうと尋ねたら、続けるつもりだと言われて先生の方が驚いたということ。向こうにも先生がわたしのことを伝えていたのだろう、どうも、とでもいうふうに口を動かして通り過ぎていく。学校が違う異性の顔見知りというのが新鮮で、ちょっとだけ背伸びしているような気がした。

あれは中学二年の年、夏休み最後のレッスンの日だった。蝉時雨が、熱気を含んだコンクリートに染み入るように響いている夕方だった。

いつものようにレッスンが終わり帰ろうとしたら、「今日は清海ちゃんも残ってくれる?」と引きとめられた。わけがわからないまま教室のソファにいると、映一君が野球のユニフォームを着たまま教室に入ってきた。わたしが居残っているのを見て、「まだでしたか?」と怯えたような表情で先生に問うたが、「今日はふたりに話があるから、清海ちゃん、悪いけど映一君が終わるまで待っててくれる?」と先生がわたしに向かって返したため、わたしと映一君はお互い目を瞬かせながら視線を交わし、わたしは少女マンガに手を伸ばし、映一君はリュックから楽譜を取り出した。他の生徒のレッスンを聴くのはほとんど初めてだった。夏の終わり特有の強い西陽が、教室ごと洗い流すように浸していた。あまり視線を感じたらやりにくいだろうな、とは思いつつも、演奏が見事でつい引き込まれてしまった。陽に灼けた粗削りの指がせわしなく鍵盤を動き回り、音の奔流を生み出していた。先生のレッスンも、明らかにわたしがいま取り組んでいるものとはレベルが違い、先生はわたしが何年経っても覚えられない外国語の音楽指示語をいくつも使って指導した。レッスンの時間が逆でなくてよかった、と人知れず赤面した。楽譜を線でなぞるような、丁寧なだけの弾き方だと思っていたが、こうして改めて聴いてみると、男の子らしい大胆な荒さも時々垣間みえた。ショパンの『英雄ポロネーズ』ーー今にして思えば、中学二年生にしてはうんと厳しい難曲を果敢にこなしていた。

レッスンは一時間弱で終わった。先生は映一君にソファに座るように勧め、自分はその向かいに座った。おずおずと、猫一匹ぶんほどあけて映一君が隣に座った。

「話なんだけどね。今年の発表会、連弾してみない?」

えっ、と声が出ていた。「俺たちがですか」と訊く映一君の声は、うわずっていた。さっきはとくに気に留めていなかったが、思ったよりもずっと、おとなの男の人のように声が低かった。

「そう。今年、生徒さんが少なくて、一人一人の曲を増やそうかとも思ったんだけど、それよりは連弾があった方が面白いかなって。二人は曜日同じだし、連弾の練習も日にち日合わせやすいでしょ」

はぁ、と気の抜けた返事が二人同時から零れる。連弾なんて、したことない。たまにきょうだいでやっている年はあったが、いずれも皆兄弟か姉妹、せいぜいそれも小学校中学年までしかしないものだと思っていた。ましてや自分たちは同じ教室というだけでさしたる交流もなく、もう中学二年だ。

わたしの表情を読んだのか、先生は「まぁそんな顔しないで、もう曲も決めたから」と大らかに笑った。「ちゃんとレベルも中学生向きの、有名な曲にしたから」

そう言って先生が取り出した二人分の楽譜は、ブラームスの『ハンガリー舞曲五番』だった。ああ、と反応したのは映一君だけだった。

「映一君、わかる?聴けば清海ちゃんもわかると思うけど」

CDがかかる。確かに、聴き馴染みのある曲だった。激しいアップテンポな曲だ。わたしがこんなの弾けるんだろうか。

リアクション出来ていないわたしの隣で、映一君は目を閉じて聴き入っている。不安がさざ波のように押し寄せてきた。

できない。先生の持っている楽譜は、連弾用なのにすごく細かい。ただ長い間ピアノを弾いてきただけのわたしが、この人と演奏を分かち合うなんて不可能だ、きっとついていけない。

断らなければ、と膝の上で拳を固めた。先生、と意を決して顔を上げた瞬間、「あの」と隣から声がした。思わず横を向くと、思いがけない近さで映一君と顔を突き合わせる格好になり、顔に血がわっと集まった。

「……よろしく」

思いがけない言葉に声が詰まる。「じゃあ、決まりね。振り分けはもう決めてるから、来週からこれもさらってきて」

先生の明るい声にあたまをぐいと押し込まれるようにして、頷くしかなかった。溜息を呑み込むのが精一杯だった。

次の日からもらった楽譜で練習を始めた。わたしが割り振られたのは座る位置でいうと右側、つまりは主旋律側だった。先生になんども伴奏と交換して欲しい、と交渉したが、跳ね除けられた。公平に見て映一君の方が巧いから、安定感の要る伴奏は彼に任せなさい、とあらかじめ予想していたことを説明された。わかってはいたが、それでも、旋律を担当する方が失敗が目立つ気がして、荷が重かった。それに、なんとなくだけれど、映一君の方が旋律を弾きたいんじゃないかな、という気がしていた。元からこの曲を知っていたくらいだ。

取り敢えず音符を一通りさらい、一週間で両手で合わせて弾けるようなレベルにまではなった。発表会は冬、十二月の末だ。あと四ヶ月でなんとかなるのだろうか。もらった楽譜を黒い画用紙に貼りながら、ピアノ教室で漏らし損ねた溜息が零れた。

一通り出来上がってから二人で合わせましょう、と言われて安堵したのも束の間、「九月の四週目の水曜日、合わせて見るから、悪いけど清海ちゃん、ちょっとレッスンの時間延長するから時間の都合あけておいてね」と言われ、緩みかけた頬は忽ちこわばった。猶予は一ヶ月ない。それに、今月からは自分の独奏曲もそろそろ練習を始めなければならない。

発表会はもしかしたら今年で参加するのは最後かもしれない。来年は受験生だ。十二月の末までピアノを練習している余裕などきっとないだろう。

愛の夢、アラベスク、月光……先生は名曲ばかり用意して選ばせてくれたが、どれも、ああ聴いたことあるなぁ、と思うだけで、これが弾きたい、とピンとくるような曲はなかった。

取り敢えず借りたCDを鞄にしまい、教室を出る。廊下のベンチに、映一君がぽつりと座っていた。後ろ手で閉めたドアの音で、顔を上げる。っす、と限りなく絞った声で挨拶された。立ち上がり、リュックを背負おうとしているところに、一歩、近づいた。思いがけなかったのか、映一君の肩がびくりと跳ねた。

「独奏の曲、決めてる?」

「……発表会で弾くやつ?」

「うん」

っしょ、とリュックを背負い、後ろ手で手を組んだ。「まだ、き、決めてないけど、昨年と同じ作曲家にする」

咄嗟に意味が掴めず、三秒ほど沈黙になる。そして、思いだした。

「……って、ブラームス?」変な言い方をするな、と思った。

「そう」

「なんで?」

こくりと喉仏が動いた。樹に埋まった小さなこぶしみたいだ。

「……好きな、作曲家やから」

じゃ、と短く挨拶して中へ入っていった。その背中はいつにもまして、ぴんとまっすぐ伸びていた。

先生が選んだ曲の中にはブラームスはなかった。映一君と被らないようにしているのだろう。

改めてCDを聴いた。結局、これがいい、という決め手は見つからず、ほとんど消去法のようなかたちでリストの『愛の夢』を弾くことにした。インターネットでダウンロードした楽譜が一番シンプルに見えたのと、タイトルに惹かれた、ただそれだけだ。

先生の予告通り、九月の最終週に初めて連弾曲を合わせた。テンポを私が弾けるスピードまでゆっくりに下げ、メトロノームがわざとらしいのろさでリズムを刻むのが恥ずかしかった。それでもなんとか、映一君に軽んじられまい、と必死についていった。焦りが弾き方に表れ、なんども指が転びそうになり、喉の奥から嗚咽のような熱がカッと込み上げる。先生はいとも容易くそれを見抜き、「清海ちゃん、見栄はらないでゆっくり弾きなさい」と言い放ったので、顔から火が出るかと思った。意地になってそこからは自分でもいらいらするくらいゆっくりと弾いた。隣でわたしの気まぐれな速度に合わせて伴奏を弾く映一君を気遣う余裕など、もうほとんど残っていなかった。

連弾のレッスンは三十分ほどで切り上げられた。「遅くなっちゃったし、もう暗いから気をつけてね」と先生に見送られて二人で階下に降りた。二人きりになった途端、勝気な気持ちは消え失せて心もとなくなった。あれで練習したの?などと怒られたらどうしよう、とはらはらしていたが、やはり何も言われなかった。

黙々と靴を履き替える横顔は無表情で、わたしに対して腹を立てているようにも、あきれているようにも見えた。なにか弁解すべきだろうか、と思ったけれど、技量不足を素直に謝れるほどおとなじゃなかった。ふてくされて自分もスニーカーに履き替えた。

「弾く曲、なに?」

ぼそっと声をかけられた。向こうから話しかけられたのは初めてだった。

「『愛の夢』」答えると、薄暗いなかでも、映一君の表情がわずかにやわらかくなるのがわかった。

「いい曲選んだね」

じゃ、と出て行ってしまう。遅れて外に出ると、学校指定のヘルメットをつけずに彼が自転車で駐輪場から出てきたところだった。いくらか決まり悪そうに笑って、帰っていった。

十月になり、文化祭の準備で忙しくなった。十一月には合唱コンクールもある。映一君の学校は秋に運動会をやるので、わたしよりも忙しそうだった。部活も相変わらず厳しいようで、いつもユニフォームは真っ黒に汚れていた。

それでも、毎回のレッスンを聴いていて、練習だけはいつもしっかりとしているのがわかった。楽譜を見据えるまなざしは、部活帰りで疲れているせいか、誰も寄せつけないよつな鬼気迫る険しさで、見ていて心臓が疾くなった。

「野球部もあってピアノもやっとったらしんどくない?」

レッスンの後尋ねると、うーん、まぁ、そうかも、ともごもごした声で呟く。

「まぁ……両方、好きやから」

「なんか、偉いね」

特に照れるわけでもなく、「卒業したら、わからんけど」と言う。「野球の方は、そのあともするかわからんから」

「えっ、じゃあピアノはつづけんの」

驚いたあまり、非難めいた訊き方になった。しっかりとした顎が、迷いなく深く沈む。

「音大……行くつもりやから」

絶句してしまった。わたしの沈黙をどう捉えたのか、照れくさそうに、「いや、まだわからんけど、全然」と言い訳のようにつづけた。「でも行くつもりでつづけとる」ーー独り言のような響きだったこっちが本音なのだろうな、と思った。

「すごいね」

自分でも、本気とも皮肉ともわからない感想だった。音大、という響きは、わたしにとって「宇宙」とか「来世」くらい遠いもののように思えた。とくに礼は口にせず、「まだわからんけど」とまっすぐ窓の外を遠く見やる。

紺色の空に、強く銀星が瞬いていた。この男の子は、きっと自分より遠いところで大人になるのだろうな、と思った。

最初に気づいたのは、映一君の方だった。

文化祭が終わった途端、行事で疲れたのか風邪を引き、土曜日の午後に大学病院に診てもらいに行った。受け付けを済ませ、名前をよばれるのを待っていたら、向こうの廊下から歩いてくる男の子がいた。最初は特に気に留めていなかったけれど、相手がこちらを注視しているのに気づき、目が合った。あ、と声が漏れた。

いたずらがばれた少年のような、ばつが悪そうななんとも言えない表情で、おっす、というふうに口が動いた。ユニフォームを着た映一君が、所在無さげにわたしの前で歩みを止めた。

ピアノ教室の外で会ったのは初めてだった。病院の、どこか青白い光に満ちた清潔な廊下に佇む映一君は、いつもより自信なさげで、幼く見える。

「病院にもユニフォーム着てくるんやね」

わたしの軽口に、まぁ……と曖昧な返事をする。抱えていたファイルは診察票ではなく、大きな字で「吃音改善プログラム」と書いてあった。

わたしの視線に気づいた映一君は「毎月行ってるんだ」と早口で言った。「小二の時から、ず、ずずっと」映一君の顔は、目を合わせているのが申し訳なるほど真っ赤になっていた。

「ごめん……それ、なんて読むん?」

ファイルを指差すと、映一君はますます顔を赤く火照らせた。小さく俯いてしまう。

「きっ……きき、きつおん。どっど吃るってこと。いまみたいに」

明らかに、ちょっとつっかえたというレベルではなかった。どんな顔をしていいかわからなかった。マスクをしていてよかった、と思った。

「しゃべるときにそういう症状が出る、ってこと?ずっと?」

「うん……むかしから、かっカ行とタ行とか、あとだっだ…だっ濁音は吃る」

知らなかった。寡黙なのは、もともとひととはなすことにあまり興味が無い性格のせいだと思っていた。

「それって、治るん?」

映一君の薄い唇がキュッとすぼまる。無邪気で無神経なことばかり口にしていた、と気づいたのは家に帰って吃音について調べてからだった。

「大人になったら治る人も、おる。けっけどそのままの人もわりと多い」

その言い方で、映一君が自分をどちらに捉えているのかわかってしまった。

「……そっか」

「そっちは? かっ風邪?」わたしの沈んだ相槌を押しやるように顎をしゃくる。

「咳風邪。いまクラスで流行っとって」

もっとしゃべらなきゃ、とあたまをめぐらせて考えていたが、なにも思いつかない。映一君はいたたまれなさそうな表情で、すっと目をそらした。

「……そっか、お大事に。また来週ね」

早急に会話がしめくくられる。ばいばい、と慌てて手を振ったけれど、映一君はもうわたしを通り過ぎ、早足で階段を降りて行った。吃音、という鉛筆を転がしたような硬い響きだけが、胸の底に残っていた。

次の週の連弾のレッスンでは、病院で映一君と会ったことは話さなかった。先生が吃音について知っているのかわからないにしろ、風邪ではない理由で来ていた映一君は、あまり話してほしくはないだろうな、とさすがにそれくらいわかるから。

もう十一月の半ばなのに、連弾はちっとも噛み合わなかった。ふたりとも自分のテンポで走ってしまい、先生が久し振りに本気で怒って指揮棒で肩を叩いた。わたしはふてくされ、映一君はどこかうつろなようすで暗くなる窓の外に目をやっていた。

「あなたたちは連弾のとりを飾るんだから、もっとそれを自覚して練習しなさい。週に一回だけじゃ合わせられないんなら、休みの日にも来てふたりで練習したらどう」

ぴしゃりと突き放された。勝手にうちらを最後にしたのはそっちじゃん、連弾だって好きでやってるわけじゃないんですけど、と口走りたくなった。けれど隣に座る映一君が低く絞った声ですみません、と本気で申し訳なさそうな表情で謝ったので、わたしは口をつぐんだ。あなたはどうなの、というふうに先生がこちらをずっとにらんでいたが、黙り込んで知らん顔した。

結局レッスンは二十分で切り上げられ、追い返されるようなかたちで教室を出た。わたしは腹を立てたままだった。半分は、うまく映一君と演奏を揃えることができなかった自分への苛立ちだった。

「……休みも来て練習する?」

映一君がぼそりと訊いた。先生の言いなりになって練習をしようとしているのが嫌気が差す。自然と声が尖った。

「いいよ、連弾なんかもともと先生が勝手に決めたことやん」

振り払う口調で一息に言った。「休み潰すの、嫌なのはわかるけどもう一ヶ月きっ切っとるんやし……」と弱気に呟くのがまた癪に触った。べつに休日が潰れるのが嫌でごねているわけじゃない。

「でも部活あるんやろ、どっちにしろ無理やん」

「……どっ、ど土曜の午後は空いとるから。やらん?」

弱気そうだった表情がひるがえり、むすっとしてわたしを見据えている。まるで自分が物分かりの悪い子供のように扱われているみたいで余計意地を張りたくなった。

「空いてないん?」

「……そういう問題じゃないんやって」

「なんなんけよ」

映一君の目が険しくなる。「せっかくシメに弾かせてもらうのに、あんな下手な演奏やるつもり?俺は厭や」

「そりゃそっちは音大目指してるからやる気あるかもしれんけどわたしはもう今年でやめるし」

一瞬、一重の眼が見開かれた。言ってやった、という気持ちで少し心が張る。

「……音大行くとか行かんとか、かっかか関係、ないやろ」

低く呻くような声を、「あるよ」と押し返した。「正直、独奏曲さえ失敗せんとけばどうでもいいよ、あんな難しい曲連弾でやるとかわたしには無理なんやって」

「あのさぁ」

声を遮られた。「俺……どっどうせとっととととと途中で、やっ野球辞めることになるやろうけど、一回もててて、ててっ、てっ適当に野球したことなんか……ない」

喉か口のどこかが壊れたんじゃないかと思うほど激しいつっかえかただった。吃音のことを知ってからときどきカ行やタ行がつっかえてるな、とは思っていたけれど、機関銃をめちゃくちゃに打ったように音がつんのめるのを聞くのは初めてだった。聞いていてこちらの息が詰まってしまった。

激しくつっかえたせいで息切れしたのか、苦しげに喘いですらいた。かまわずわたしを見据えながら、「これからも、ずっと本気でやる。ぴっピアノのも……野球も、どっどどっどちも」とつづけた。はぁはぁ、と肩を揺らして息をついているのを見ていると、居心地が悪くなった。

そんなにしゃべらせてごめん、と謝ったほうがいいのだろうか、と思いかけてやめた。さすがにそこまで厭な人間じゃない。

「……三十分しかやらんからね」と不機嫌な声で呟くと、「三時にくっ来るから」ともっとぶっきらぼうな返事が返ってきた。そのまま乱暴な足取りで階下まで一気に降りていく。映一君が開けたドアから風がこちらまで吹きつけてきて、そのつめたさに涙が出そうになった。

いままでで一番ピアノ教室に行きたくなかった。風邪を引いたとか家の留守番をしなければならないとかなにか理由をつけてサボろうかとも本気で考えた。でも、映一君の連絡先を知らないことに気づき、行くしかないのだろうな、とのろのろと自転車に跨った。冬が近かった。濡れた枯葉の匂いと冷え切ったコンクリートの匂いが混じった風が吹きつけていた。

自転車を停めていると、上からピアノの音が聴こえてきた。映一君の自転車はすでに駐輪場の隅に停まっている。真面目だなぁ、と溜息が漏れた。とにかく、今日は何が何でも三十分より長い時間練習する気はない。

「……来たよ」

あてつけのようにカバンをソファに放り、楽譜を持って隣に行く。映一君は黙ってわたしのために楽譜を少しずらした。

全く練習しないで行こうかとも思ったが、逆に完璧に演奏した方がイヤミになるんじゃないかと思い、いつもより丁寧に練習してきたせいか、この間の噛み合わなさが嘘みたいにするする弾けた。連弾って息を合わせて弾けると楽しいんだな、と今さら気づきくやしくなった。

弾きながら、こわばっていた頬が緩みそうになって無理やり不機嫌な表情をつくりつづける。そっと横目で伺うと、くしゃみを我慢しているようなおかしな表情で楽譜を睨んでいた。同じことを考えているんだろうな、と思った。

弾き終わる。最初になにか言うもんか、と勝手にふにゃふにゃと動きそうになるくちびるを噛んでいたけれど、映一君はあっさりと「なんか上手く弾けたね」と感想を述べた。素直に同意できず、「まぁ、こないだのがひどすぎただけやろ」としか返せなかった。練習たくさんしてきたん? などと訊かれたら顔が真っ赤になってしまっただろう。

「とりあえず、何回か合わせて通せば今日はこれでいい?」

「わかった。俺も指導できるわけじゃないしね」

結局三回通して練習をやめることにした。わざわざ休日に集まる意味あったのかなぁ、と思わなくもなかったけれど、ぎすぎすした雰囲気がなくなってほっとしているのはわたしのほうだった。突っ張っていた意地は、いつのまにかやわらかくほぐれていた。

「じゃあ、きっ、き気をつけて」

映一君は椅子にいるままだった。「残るが」と訊くと「じっじ、じ自分の曲練習していく」と言う。

「……聴いとってもいい?」

困惑が瞬時に目に浮かんだ。断られるかと思ったけれど、「いつもと同じやと思うけど」と言われただけだった。

映一君の独奏曲はブラームスの『二つのラプソディ』だった。独奏も連弾も狂想曲になるので先生がやんわりと止めたらしい。「でも今年どうしても弾きたいらしくて、彼も頑固なところあるから、結局こっちが折れたの」と苦笑いする先生の話を聞いて、映一君は本当にピアノを好きでつづけているんだろうな、と思った。

『二つのラプソディ』は曲自体は穏やかなくせに、指がこんがらがるんじゃないかと思うほど複雑な動きで鍵盤の上を走る。楽譜はもう暗譜しているのだろう、ずっとまっすぐに同じところを見据えていた。そんな険しいまなざしで人を見つめたら誰でもひるむんじゃないだろうか、とぼうと思い、想像のなかで映一君がわたしの目を楽譜越しに鋭く射抜き、慌ててそっぽを向いて本棚に並ぶ楽譜のタイトルを目で追った。

あらためて、本当に巧いなぁと思う。ピアノと取っ組み合って格闘しているような激しい弾き方は、とてもわたしにはできない。それはわたしが女子だから、という理由だけなんかではなく。

習い始めたのは年長の頃だからわたしの方がやっている年数は長いのに、たぶん練習量が違うのだろう。それか元々の素質だろうか。ピアノを好きだという気持ちの強さだろうか。こんなふうに弾けたら少しはピアノを好きになっていただろうな、と初めて思った。

ピアノや音楽を職業にしたいと思ったことはいちどもない。家でクラシックを聴くこともほとんどない。毎年合唱コンクールで伴奏を頼まれて弾くけれど、歌うよりはましだとか、去年もやったからという理由でしかなかった。

そもそも、人より得意なことや好きな趣味じたいあまりないかもしれない。将来の夢について授業で取り扱うときもなにを書けばいいかわからなくなってしまう。

演奏が終わった。「巧いね」と声を掛けると、うっす、と曖昧な返事が返ってきた。その反応で、学校でも言われ慣れてるんだろうな、と思う。

「なんで、ピアニストになりたいって思ったん」」

映一君は驚いたように目をまたたかせた。

「音大行くからって、ピッピピアニストになりたいわけじゃないけど……まだしっかりはき、決めとらん。ピッピアノとか音楽を仕事にするかは、まだわからん」

てっきりピアニストになりたいのだと思い込んでいたので、面食らってしまった。それに、音大を目指しているのに仕事にするかはわからない、というのはあまりにもアバウトで行き当たりばったりな気がする。

顔に不服が出たのだろう、「でっででも」と言葉をつっかえながら映一君はつづけた。「……小学生のときは、わりと本気でピッ、ピピアニスト目指してた」

「そうなん?」

「……しゃべらんくて済むから」

さらりと言われ、黙り込むしかなかった。すっと目を逸らされる。

「小学校のとっ時の方がきっ、き吃音ひどかったから、ぜっぜっぜ絶対、話さなくて済む職業がいいって思ってた。野球も好きだったけど、応援とかかっか掛け声あるのはきっ、きき嫌いやったし、それはいまもそんなに好きじゃない」

一旦息を落ち着かせ、「で、でっでも」とつづける。「弾くことは、好きやから……こっこれからもつっ、つつつづけたい」

派手につっかえたあと、「ピッピ、ピアノは練習すれば滑らかに音がでっで出るし、いいよな」と寂しそうに笑った。

どうして映一君がピアノを誰よりも練習しているのか、やっとわかってしまった。何か言いたくて仕方なくて、口が勝手に早回しに動いた。

「映一君、もう一回連弾練習付き合ってよ」

とっさに下の名前で呼んでしまい、口にした響きが耳に届いた途端かっと頬が熱を持った。目が合う。こわごわと見返したけれど、耐えきれずにまなざしを落とした。

映一君はおずおずと笑った。「いいよ」と椅子を半分ずらす。

男の子を苗字以外で呼ぶのはほとんど初めてだった。勝手に踏みこんでしまったような決まり悪さと、普段の自分から少しだけ離れたような昂揚感がないまぜになって胸の底に流れ込んで、心臓の位置がキュッと持ち上がる。

楽譜を持って隣にすわった。何気ない表情はくずさなかったけれど、距離の近さにいまさらになって動揺した。いまじぶんから発されている熱が簡単に伝わってしまいそうな近さだった。

椅子を離すのも感じが悪く、結局そのまま一緒に弾いた。ほとんど間を置かずに弾き始めたのにすんなり息が合う。二人で合わせて弾いているというより、一つになって大きな右手と左手になったみたいだった。溢れ出る音の渦に共鳴するように心音が打ちつけ、音のなかに自分が織り込まれていくような錯覚すらあった。腕がふれあうたびに音の強弱が揺れた。でも、今日弾いたなかでーーいままで連弾したなかで一番いい演奏ができたのは、この日だった。浮遊感で弾き終わったあともあたまがぼうっとした。映一君も弾き終わった途端、泳ぎきって対岸にたどり着いた人のように気だるげに椅子にもたれた。

「ありがとう」

頭で考えて口にしたというより、するりと言葉が口をついた。

「ありがとう」と映一君も言った。お礼の言葉はつっかえないのはいいな、と思った。

発表会の日当日は、これが最後だという感慨に浸る間もなく、緊張しているあいだにあっという間に自分の番が来て終わってしまった。

独奏の『愛の夢』は、自分でもびっくりするくらい上手く弾けた。全員の演奏が終わったあと、先生が「受験勉強に疲れたらいつでも弾きに来なさい」と花束を渡してくれて、泣いてしまいそうになった。

独奏のとりをつとめた映一君の演奏は、音楽がわからない人間なりに、圧倒されるものがあった。会場にいるみんなが、確かにその瞬間は映一君に向かってひれ伏しざるをえない力を放っていた。演奏の後、ステージでお辞儀をしたあと一瞬目が合ったのは、きっとわたしの思い込みだろう。

母親が先生に挨拶している横をすり抜け、会場を出た。親同士で立ち話しているそばで、所在なさげに映一君がぽつりと立っていた。

お疲れ様、と声を掛けると、「……そっちも、お疲れ」とぼそりと返ってきた。

連弾は、正直なところ、記憶が曖昧だ。白い鍵盤が照明を弾き、ピアノに向かうと目が眩んだ。せーの、と低い声で映一君が声を掛け、自分の隣で映一君の指がすごい速さで走り、それに必死に食らっていくような感覚だけがあった。母親にあとで聞くと「上手かったわよ」と褒められたけれど、『ハンガリー舞曲』を聴くときに思いだすのは一緒に練習したあの日のことの演奏なんだろうな、と強くつよく予感した。

「連弾、終わりやね」

「……やね」

「映一君は来年もピアノつづけるんやろ?」

強く頷く。わたしの本当に言いたかったことに気づいたのか、改めてわたしを見て、「じゃあきょっ今日で、終わりなんだな」と呟いた。そうだよ、と少し喧嘩腰の口調で言い返す。

清海ー、と後ろから呼ぶ声がする。わたしを探しているのだろう。映一君の方が耳ざとく反応し、あせったように「そしたら、また」と片手を上げた。そのままわたしの前から去ろうとするので、思わず口走った。

「またなんてないよ」

はっとしたように足が止まる。困ったような表情で、わたしを見下ろす。迷ったようにくちびるが小さくわなないた。

「……来年、弾いても、佐々木さんはきき…き聴きにこないんだな」

苗字で呼ばれ、傷つきかけたけれど、『きよみ』はつっかえるんだな、と気づいた。

それでもいいのに、と思った。

「来る。一日くらい、あけるから、来年もブラームス弾いてよ。絶対来るから」

「わかった」

「あと……下の名前、知ってる?」

言えた。笑いながら言えた。皮肉だと思ったのか、少しだけ気まずそうに頬を緩め、「知ってるよ」と映一君は言った。小さく息を吸い込む。

つっかえながら呼んだわたしの名前は、不器用なリズムを刻んで、それでもなんとか、言い切ることができた。「ありがと」と言うと、「来年はきっ……きっ、吃音も少しはましにするから」と顔を赤らめて照れくさそうに笑った。

そのあと、映一君とは会うことはなかった。秋に教室に遊びに行った時、先生が教えてくれた。両親が離婚して、母親の実家に引っ越したのだという。「家にピアノがあるかどうかわからないけど、本人はすごくつづけたがってたよ。でも、おじいさんの家だと遠慮してピアノを置かせてくれとは言いづらいからお母さんには言ってないみたいだった」それを聞いて、映一君らしいな、と思った。

ときどきーー一ヶ月にいちどくらいのときどき、ピアノの重い蓋をあけて弾くことがある。指が覚えているのが発表会で弾いた二曲くらいしかなくて、一人で連弾の曲をさらう。左半分の鍵盤が持ち下がることは、たぶんーーもう二度とないのだろう。吃らないのは「ありがとう」だけじゃなく、「さよなら」もなんだな、と、なんとなく、そんなことがよぎった。

高校生になり、いろんな人と出会った。たくさんの人に名前を呼ばれた。けれど、映一君ほど長い時間をかけて、一所懸命に名前を呼んでくれた人はいない。

会うことがあれば、ただ一言、「元気でね」と伝えたい。

きっと、つっかえながらぎこちなく手を振ってくれるだろう。

げっ、げげげんきで。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ハンガリー舞曲第5番 @_naranuhoka_

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

同じコレクションの次の小説

★0 ホラー 完結済 1話