海の子ども
@_naranuhoka_
海の子ども
2017年12月執筆
目があった瞬間、見つけられた、と心臓がびくりと跳ねた。林先生のちいさく窪んだ目は、けっしてにらんでいるわけでもないのに、眼光がするどかった。
「姿勢が悪い」
そう言ってぐ、と自分の胸をそらして背すじを正して見せた。「ほら、しゃきっとせんか。おまえの背骨は、前にまるう突きでとる。ほれ、ぐっと伸ばしてすわらんか」
初対面のおとなに「おまえ」呼ばわりされたことも、皆の前で声もひそめずに注意されたこともむっとしたし、戸惑ったけれど、何よりぎょっとしたのは強烈な訛りだった。海沿いの正真正銘田舎生まれの私に言われたくはないだろうけど。初めて生で聞く関西弁。強いまなざしに気おされて目をそらした。ん? と先生が首を傾げる。
「なんや、ちゃんと目ぇ見いや」
しぶしぶ目を合わせる。怖いのでもない、つめたいのでもない、純粋にただただまっすぐで、だからこそうんざりするほど近しい。いままで関わろうとしてこなかった、一番苦手なタイプだった。
「名前、言うてみ」
しん、と教室の空気が冷凍庫を通過したかのようにこわばった。静かに視線がからみあっている、その空気感がうっとうしい。先生、小峰さんは、とクラス委員の女の子がおずおずと手を挙げて発言した。小峰さんは、のあとは説明がつづかなかった。口がきけないんです、心の病気なんです、とでもつづくんだろうか。視線が遠慮がちに自分の方に向いているのを、伸ばした背すじで撥ねのける。
うん? と先生はもういちど首をかしげ、教壇にはってある座席表に目を落とした。
「小峰、いうんか」
いま言ったじゃん、と思いながらうなずく。「返事をせんか」と林先生は顎をしゃくった。今度こそ、教室の空気が大きく揺れた。失笑すら漏れた。クラス委員が「あのですねー」とあきれた声で遠慮がちに言おうとするより先に、私は手提げからノートを取りだした。
【私は気仙沼から転校してきました。PTSDの症状で教室のなかでは声が出ません。風邪ではありませんが、しゃべれません】
大きくマジックで書いた、殴り書き。先生の小さな目がまるく見ひらかれる。さっと、隣の子がうつむくのが視界で見えた。みんな、ちらっとこっちを見ては、いたたまれない、というふうにおおげさに目をそらす。
ざまあみろ、という気持ちすらあった。慌てふためいて、笑ってしまうくらい丁寧に謝って、気まずそうに私から話題をそらす。ほとんどの先生はそうだった。おとなに私が北から逃れてきたことを振りかざすと、こっちがおののくほど丁寧に、自分が傷つけられたように私に接する。しおらしい顔をしながら、心のなかではいつも、ざまあ、と思っていた。
林先生は、きょとんとした。
「自分、東北から来よったんか」
そういや教頭先生から言いつかっとったわ、ほうか、それが小峰か、と呟き、改めて私を見つめた。それは申し訳なさや憐れみ、気まずさ、そのどれでもなかった。ただ、まっすぐ、さきほどとまるで変わらない、邪気のない目で私を見る。そして、にこっと笑った。
「口、きかんとな。卒業するまでは」
信じられない。
その発言はクラスメイトによってほかの先生の耳にも届き、職員会議になったらしい。教頭や校長、学年主任に「非常識だ」とこっぴどく詰られ、先生たちも全員冷たい目で林先生を見て誰もかばわなかったらしい。
「なんでいかんのですか? 小峰がこの先高校生になって、おとなになって社会に出る時に、だんまりのまんまやったら困るんは小峰ですやん」
林先生は例のきょとんとした顔でまじめに言い返し、あきれた先生たちは怒りもしなかったようだ。「だんまりなんて絶対に本人には言うな」と念押しされたらしいけれど、それも結局全部私にまで届いてしまっているのだから笑ってしまう。
林先生は非常勤講師だ。五十代くらいの、教頭先生とさして変わらないような年齢。白髪まじりで固太りというのだろうか、身長は高いわけではないががっしりとした体つきで貫録があった。年配で厳しそうな雰囲気だったから、教室に表れた時、みんなが先生を見て空気が少し緊張するのがわかった。担任の小野先生が産休に入ったので新しく三年F組の国語の担当としてきたのだ。あんなにずけずけと無遠慮なことを面と向かっていってきたのに専門科目は国語なのだから、笑うしかない。ベテラン講師と言うふれこみだったけれど、それだって今となっては怪しい。授業自体は確かに元の先生より丁寧でわかりやすかったけれど、そういう問題ではない。
初回の授業が終わった後、「気にしない方がいいよ」「先生のくせに信じられないよね」と、クラス委員や他の女の子がすぐさま私の席に寄ってきて声を掛けてきた。うん、とさも傷心したように弱々しくうなずくと、ほっとしたように外に行き、もつれあうようにしてトイレに行った。それはそれでうんざりした。先生の発言に私の立場であるかのように憤るより、なんだよあの関西弁、すげえよなあ、どっから来てんだよ、と大きな声で笑う男子の方が、ずっといさぎよいと思う。
この中学校に来て一年以上経った。誰ともつるんでいない。教室移動や体育の前のグラウンドランニングも、一人でやっている。それは私が口をきけないからだけではないだろう。あまり、誰とも仲よくなりたいとも思っていなかった。クラスの中心に居る優等生ふうの女の子が、口をきけない私にわざわざ自分の新しいノートを持ってきて「筆談で話そうよ」と話しかけてきた転校二日目、【そこまでしなくていいよ】と正直な気持ちを書いた時、自分でもひどいなと思ったし、空気を読んでありがたがるのが正解だとだとわかっていた。でも、それで私が糾弾されることはなかった。「仕方ないよ、小峰さん、被災地から来てるから」「彩ちゃんは悪くないよ、立ち直るまでそっとしてあげよう」と女子同士でひそかに慰め、私のことも悪く叩くわけでもなく、かばわれた。時々報じられるニュースのように、新しい街でいじめられるかもしれない、と覚悟していたけれど、この街の子たちはみんなやさしい。私たちを通過したむごたらしい地獄など、単なる他人ごとだろうに、「大変だったよね」「つらいよね」と慈悲深い目で態度の悪い私を見つめる。まあ、それはそれで、そりゃそうだろうな、とありがたく思うでもなく、ごく普通の反応として受け流した。あの街が「かわいそう」と憐れまれるにふさわしい不幸に襲われたことはどうしようもなく事実なのだから。
母の故郷である埼玉は、生まれ育った街とは何もかも違っていた。
高いビル、狭い空、たくさんの人、人、人。どこにも信号があり、広い道路をタクシーやバスがびゅんびゅん通る。街を歩いている人はほとんど若者だ。中学校の子たちは「東京に比べたらこんなの全然都会じゃない」と顔をしかめているけれど、十四年間東北のちいさな海辺で暮らしていた私にとっては衝撃の連続だった。中学校でさえ、初めて教室に入った時、私がかつて通っていた教室と変わらないスペースにぎゅうぎゅうに生徒が四十人も詰め込まれていることに仰天した。クラスが六つもあることにはもっと驚いた。こんなにたくさんの同い年の人間が自分の周りにいるということが信じられなかった。去年自転車で一時間近く漕いで通っていた中学校には、同級生は十二人しかいなかった。
あまりに違う環境に移り、大丈夫だろうか、と不安になったけれど、段違いの都会の中で暮らすのは思っていた以上に刺激的だった。いままで車を出さなければ行けなかったコンビニは借りたマンションの下にあるし、五分歩けばまた次のコンビニに出会う。母につれられていちど行ったパルコは何階上がっても若い女の子向けの洋服屋があり、きれいなおねえさんたちでにぎわっていた。外国人がついそこらへんを歩いていることにすら驚いた。
楽しくはあったけれど、でも、それだけだった。初めはあまりに今まで見てきたものとの違いに衝撃を受けるばかりで、何を見ても新鮮だった。けれど、きらびやかなもののかがやきに慣れれば、もう心は弾まなかった。正確には、楽しく思わなきゃ、はしゃいでよろこばなきゃ、という義務感がある気がして、自分がほんとうに楽しいと思っているのか、思いこもうとしているだけなのかわからなかった。あまりに自分のいた場所とかけ離れた街にいて、薄れるかと言ったらそんなはずはなく、むしろ、あまりの陽射しの強さに影が濃くはっきりと、大きく映し出された。自分が何から目をそむけているか、はっきりと突きつけられる気がした。
結局、わかっていたのだ。転校して初日、数か月ぶりに教室という空間に足を踏みいれて自己紹介を促されて口を開いた時、自分の口から発されたのは、緊張でこもった熱っぽい吐息だけだった。咳払いしても、唾を飲んでも、深呼吸しても、声が出ることはなかった。医者にかかったところ、教室を限定とした場面緘黙症で、PTSDの一つだろうとのことだった。十四時四十六分、まぎれもない、学校にいる時間帯だった。木ではなくフローリングの床だろうが、四十人がぎっしりと詰まっていようが、誰一人私のことを知らない同級生に囲まれていようが、どうしようもなく突きつけられた。私がどこから逃げてきたか。あの時、何があったか。私の目は何を見たのか。何を見なかったか。
会議で徹底的に絞られたはずなのに、日直の日誌を届けに行った帰り、職員室の前で林先生は「おう、小峰」と声をかけてきた。体育教師でもないのに薄汚れたジャージを身に着けて、意味もなくにこにこしている。真顔だと目つきが鋭く、強面なのに、笑っているとなんだかおなかいっぱいのタヌキみたいだ。
「質問か? 国語やったら、わしが今聞いちゃるで、言うてみい」
この人、本当に他の先生たちに私の話を聞いたのだろうか。黙っていると、「あっ、うっかりしとった。おまえ、しゃべれんのやったなあ」と豪快に笑った。
職員室前で、よくもまあ声もひそめずしゃあしゃあと。もはやあきれを通り越してぽかんとしてしまう。無神経というよりも鈍感な人なんだろう。悪気がない、というやつだ。悪い人ではない、というのはわかるけれど、正直これ以上関わりたくなかった。他の先生が聞きとがめて、また私のことで会議にかけられても困る。ただでさえこの学校では「被災地から来た緘黙症の小峰」として悪い意味で有名なのに、これ以上目立ちたくない。
「気仙沼言うたらえらい岩手と近いんやな。 えらい北から来たんやのぉ。わしも西から来とるから、遠い者同士っちゅうことやな」
勝手に決めないでほしい。
「埼玉は慣れたか。こんなピカピカの学校で教えるのは初めてでよ、よう廊下も走れんわ。すてーんと滑って頭打ったら、大事やからな」
私がしゃべれないことも問題だけど、先生の訛りも強烈すぎ。しゃべってることの意味がワンテンポ置かないと頭に入ってこないし、どんどん話を進めるからついていけない。
「わし、関西弁がきつうてよう聞き返されるんよ。なじまんけん直せ直せ言うて他の先生らにせっつかれるけど、直さん。都会の学校に一人くらい、くにの言葉で話す人間がおったってええんや。わしより訛りがきつい中学生なんかおらんやろうけど、わしがおったら訛りも目立たんし、田舎から来よった転校生がおってもいじめられんで済むやろ」
ほんとはめんどくさいだけなんじゃないですか? というか直せって言われて意地になってわざと関西弁しゃべってるだけな気がするんですけど。それに、暗に私のことを示しているならご心配なく。田舎出身でも、若者はそこまで訛っていない。ほとんど標準語だねって東京のいとこに言われたし。
ふと先生はべらべらしゃべるのをやめ、まじまじと私を見た。女子の顔をそんなに見るのは、セクハラだと思う。
「緘黙症、言うて……ほんまにしゃべれんのやな。つらいやろ、学校いうたらこれからも続くんやし、はよう治さんとな」
今度こそあきれた。にらみつけて舌打ちしたって許されるだろう。なんでこんなデリカシーの欠けた人間が先生をしているのだろう。
こういう時、話すことができないということは本当に不便だ。いつも胸ポケットに入れているメモ帳に、挿していたボールペンで【用事あるんで、もう行きます】と書いてみせ、返事を聞く前にきびすを返した。
「おう、気ぃつけえや」
腹立たしいほどのんきな声が背中にかかる。振り向かず、廊下を早足で歩いて逃げるように階段を駆け上がった。
私に父はいない。震災で喪ったのではなく、元々いない。物心ついた時から、母子家庭で育った。母の故郷ではない気仙沼で暮らしていたのは、父と母が出会った場所だからだ。父は気仙沼で船を売る仕事をしていた。祖父が漁師だったから、手伝いで漁にも出ていたそうだ。大学で海洋生物学を専攻していた母が研究で訪れた時、お世話になった漁師たちの中に、父がいた。母が一目ぼれして、電話番号を渡したそうだ。
「お父さんは生粋の田舎の人だったから、都会の女子大生に番号渡されてもぽかんとして、これからも研究頑張れって見当違いなこと言われて、ショックだった」と母は笑う。写真でしか会ったことのない父は、日に焼けて薄いTシャツの胸はぱんと張り、確かに男らしくてかっこよかった。
父は海難事故で亡くなった。私が二歳の時だ。ゆかりのない田舎の僻地に残された若い母と幼い私を、町のみんなが助けて、育ててくれた。マナちゃんはみんなの娘だもの、と、特にかわいがってくれた父の上司がよくそう言っては私の髪をぐしゃぐしゃ撫でた。
裕福ではなかったけれど、新鮮な魚とおいしい野菜、気丈な母、やさしいおとな、きょうだい同然の同級生、しょっぱい潮風とあたりまえのようにそこにある海があればそれで充分だった。それしか幸福を知らないのだから、それはそれでみたされていたのだった。
私たちの街の生活そのものだった海が豹変したあの日から、私は後日譚のように、うすべったく心を引き伸ばして生きながらえている。いつひきちぎれてもおかしくない、と他人事のように思いながら。
なんと林先生はうちのクラスの臨時担任になった。今までは学年主任やクラスを受け持たない先生が日毎にホームルームをしてくれていたけれど、産休から先生が復帰するまで――もしかすると卒業するまでF組の担任は林先生が受け持つことになるらしい。
一体他の先生たちは何を考えているんだろう。意味わからない、と思っていたら、噂が流れてきた。林先生がぜひにと懇願したらしい。私の一件で先生たちもなかなか首を縦に振らなかったが、「わしがやります」という決めつけるようなあまりに強い決意に、渋々折れた形で決まったらしい。
「失言しちゃって、マナちゃんへのお詫びにってことなんじゃない?」と誰かが言っていたけれど、勘弁してほしい。国語だって別の先生に代わってほしいくらいだ。音読の時間、他の先生なら私を飛ばして次の子にあてるが、先生は違った。同じように立たせ、一段落音読させる。もちろん声は出ない。「口を動かすだけでも、違うわい」と言って口パクさせ、自分がアテレコのように読み上げる。声が出ないのに口を動かす、という経験のない恥ずかしさで顔が燃え上がるかと思った。みんなも、笑うに笑えない、と言うふうで顔が引きつっていた。
私一人をひいきしたくない、というのなら、まだわかる。でも、林先生の場合、そうではない気がする。
単におせっかいなのだ。それも、無神経な方向に。「こういう教室あるで」と緘黙症者の集いというちらしを持ってきたり、「姿勢をまるうしとるから、声の通りも悪いんと違うか?」と背中にものさしをあてたり、「この飴効くんよ。風邪にやけどな」と教師なのにこっそりのど飴を渡してきたり……私が騒ぎ立てれば大問題になって先生はくびになってもおかしくないんじゃないか、と思うこともあった。本気で傷ついたり腹を立てたことはいちどもなかったけれど、先生がいつ辞めさせられても仕方ない気がしてこっちがはらはらした。
ハラスメントだと思います、と書いたら、「卒業するまでの辛抱じゃ」とひらきなおったように笑った。母が先生のやり方に抗議をせず、「生徒思いだし、おもしろい人じゃない」となぜか好意的なのが、先生にとっては命拾いだったと思う。
ある日、放課後に廊下で呼び止められた。まじめな顔つきで、いつものような雑談という雰囲気ではなさそうだった。
「おう、ここやとアレやし、準備室に行こか」と手招かれ、嫌な予感しかしなかった。【今日は早めに帰らないといけない】と書いて見せたら、ばればれの嘘なのに「ほんまか、困ったのう」と眉毛を下げて顔を曇らせた。「まあ……五分で済ませるから聞いてくれや」
仕方なく準備室に入ってソファに腰かけた。無視して帰ってもよかったのに、なぜかそれができない。
林先生は本当におせっかいだけれど、震災のことをあれこれ聞いたり、少しでも私の地元のことにふれてくることだけはなかった。ただ、私が話せないことにこだわっているようだった。
別にいいじゃん、と思う。教室という場面は一生続くわけではないし、そもそも話せないことに私自身があせっていたりくやんでいるわけでもないんだから。
先生は部屋に入って私の正面に腰を下ろしたあとも、なかなか切りださなかった。張り詰めた表情を見るのは初めてで、気詰まりになって「何ですか」とうながした。
「進路調査票……見たで」
はっとして、それを見咎められたのが気恥ずかしくてうつむいた。集められたのは今日の帰りの会だ。もう確認したのか、と驚く。
「親御さんは賛成しとるんか」
うなずいた。でも、沈めた顎をそれきりあげられなかった。「自分で勝手に決めるのはいかんやろうが」と先生がきっぱりと言った。
1公立高校進学 2私立高校進学 3その他――私は3に○をつけた。重いため息を吐いた先生に、ゆっくりと口を開いた。
「担任になって一カ月経ったから私の成績、知ってますよね? 今の内申点と成績で高校行ったって、ろくなところ受からないですよ」
先生はぽかんとして私を見ていた。そして、はは、と破顔した。いつものような、無神経なくらいあけっぴろげな豪快な笑顔ではなく、どこか寂しさすらにじむ、静かな笑みだった。
「ええ声や。準備室にしたんは正解やったわ」
きまり悪くてくちびるをつぐむ。準備室でも口をきけないふりをしてもよかったけれど、筆談だともどかしくて、というよりも、今なら声が出そうだったから、しゃべった。
「成績のことはええ。まだ時間がある。なあ、小峰よ。通信制の学校でも、あかんのんか」
じっと目を見つめられる。先生の飲み込みの早さに内心驚いていた。先生の勘通り、成績の話は、建前だ。
教室にいたくないだけだ。
「いまは義務教育で通ってるだけで、高校には行きたくない。行く意味もないと思います」
「なしてや」
「ほんとうだったら、私は去年津波でしんでいました」
先生の口元がひくりと動き、固く結ばれる。
震災のことを先生の前で口にしたのは自己紹介の時以来初めてだった。これを言えば誰も、あの惨状をあの土地で生きながら目の当たりにした人以外何も言えなくなるから、言った。
「今だって無理して学校に来ているのは、私の声が出ないことが証明していると思います。あと三年もこんなふうにむりやり生きるのはあまりにしんどいからできません」
「小峰」
「母も、仕方ないねって言ってます。というか、二人とも生きているだけで必至で、高校受験とかそんな、そこまで気が回らないです」
おとなの怒号。級友の泣き声。お年寄りのすすり泣き。耳にこびりついて離れないサイレン。こなごなにぶっ潰された、かつての故郷。もう二度と、この町で以前と同じように笑ったり、安心して眠りにつくことなどないだろうと、確信というよりももっと強い実感がやきごてのように胸に押しつけられ、うまく息が吸えなかった。
「小峰は、二年の七月にこの学校に、来とるんやてな」
先生が静かに切りだした。
「でも、埼玉に引っ越ししてきたんは、二〇一一年の四月や。先生から聞いた。えらいすぐに越して来たんやな。ごたごたして大変やったやろ」
先生の声は淡々としていた。知られている、と思った。目をつぶって言う。
「あの時、私は気仙沼にいなかったんです。東京にいました」
母の仕事上、休みを取れるのは平日だけだった。
二日間有休をとり、関東旅行をしようか、と提案された。半月もすれば春休みだったけれど、多忙な母が連続した休みを取るのは奇跡的なことに近かった。「法事です」と学校を休んで、スカイツリーに行き、横浜の中華街に行き、埼玉の母の実家ではなく山間の旅館に泊まった。めったに一緒にゆっくりすごすことができない母と旅行ではしゃぎ、白濁したとろみのあるお湯につかっておいしいものをたらふく食べて、浮かれていた。次の日の夕方に新幹線で帰る予定だった。
出先だったから、自分の町で起こったことを知ったのはとうに三時を過ぎていた。もちろん私たちがいたところも揺れた。けれど、地下鉄にいたせいか、たいした揺れだとは思わなかった。まわりの人たちも、さして慌てず、「また地震か」という顔をしていた。
地上に出て街の大型スクリーンが映し出したのは、名前はよく知っているのに知らない風景だった。黒く濁った何かががれきや船や車をすごい勢いで押し流していた。
【速報】の文字が脳を駆け巡った。混乱しているのだろう、隣に立ち尽くす母はうっすら微笑んですらいた。気がついたら母と手を握り、暗くなるころには埼玉の母の実家にいた。黙りこくって祖父母とテレビを見て、ラジオをつけっぱなしにして母と寄り添うようにして眠って、何日も過ごしていた。
断片的な記憶はあるけれど、思いだしたくないのだろう、記憶を手繰り寄せようとすると、古くほそいゴム糸のようにぷつりとどこかで切れてしまう。
七月。教室にひさしぶりに入った時、たぶん、私は思いだしたのだ。あの日、私は何も見なかったことを。あの地獄の何も私を通過しなかったことを。
本当であれば、気仙沼から来たことは皆にふせようと母と先生が話し合って決めていた。何にしろ、まだ震災が起こって日が浅かった。私を守るために、嘘をつこうとした。
でも、私の声が許さなかった。こもって出てこないことでつきつけてきた。私が何から目をそらそうとしているかを。
「私は本当だったらみんなと同じように死ぬはずでした」
「死ぬはずやったとか、絶対に言うな」
強い言い方だった。「先生は被災者でも地元を失ったわけでもないじゃないですか」と負けじとにらみつけるように言い放った。
「あんなに自分の町がめちゃくちゃに打ちのめされて、みんなしんじゃって、生き延びてラッキー、だなんて、思えるわけがない。高校生になんか、なりたいなんて思わない」
勢いよく立ち上がり、準備室を飛びだした。
小峰、と呼ばれたのはわかったけれど、先生が追いかけてくる前に荷物を取って帰った。
先生はあの日以来、私に不必要にかまうことがなくなった。音読も、私をあてないように列を選んだり、次の子に飛ばすようになった。
秋になり、私は初めて自分から先生を呼び止めた。「おう、小峰か。どうした」と準備室のことを忘れてしまったのような笑顔を浮かべる。メモを見せた。
【母が仕事を変わるので、今年いっぱいで転校するかもしれません】
先生はまるく目をひらいた。
「……ほんまか。それ。そんなに急なんか」
想像していたはずなのに、それ以上におろおろする先生を見ていたら、後ろめたくなった。母の仕事が変わるのは本当だ、場所も今の住所からだと遠い。ただ、三年の秋だから卒業までは待つよ、と言われていた。
だから、半分は嘘だ。でも、その話を聞いた時、林先生にどうしても言いたくなった。子供のような気の引き方だし、我ながら恥ずかしい。でも、どうしても。
「実はな……先生も、辞めるんや。来週からまた小野先生が復帰されるから、また新しい学校に行かんとならん」
あっけに取られた。おどかすつもりだったのに、こっちが驚かされた。
「しつこうして、悪かった。引き継ぎの時に前の先生から小峰の話を聞いて、ほいたら仲ようせんとな、と思っとった」
仲良くしなきゃって、子どもじゃないんだから。わざわざメモに書きはしなかったけれど、表情で伝わったのだろう、先生は照れくさそうな笑みを浮かべた。
「わしも、小峰と同じなんよ」
意味は教えてくれなかった。代わりに、日曜日の十時に駅に来るよう言われた。
「見せたいちゅうか、先生が見たいだけなんや。でも、小峰も連れて行きたいんよ」
じゃあの、と職員室に向かって歩きだす。廊下から漏れる秋の陽射しが、先生の後ろ姿を金色にふちどっていた。
渡された切符で乗ったのは、なんと新幹線だった。母は先生から電話をもらい、「いってらっしゃい」とお弁当を持たせてくれたけれど行き先については何も言わなかった。でも、知っていたからお弁当を作ったのだろう。
「眠かったら、寝とってええ」
そう言われても、男の先生の横で目をつぶりづらく、先生が持ってきていた文庫本を借りて読んだ。はなから私に貸すつもりだったのだろう、すらすらと読みやすい短編だった。この人が国語教諭だということを、思いだす。
気づいたら寝入っていた。はっとして慌てて目を開けたら、先生は通路を挟んだ向こうの窓を眺めていた。私が寝たのを知って視線をそらしていたのかもしれない。いつからか、もう先生のことを無神経だとは思わなくなっていた。
乗り換えて、駅を降りたのは神戸だった。初めてくる関西に、現実感がなくふわふわと足取りが揺れてしまう。
「なんで兵庫に来たんですか。もしかして、ここ先生の地元?」
「あともうひと息で、目的地につきよる」
そう言って今度はバスに乗った。先生の顔はこわばっていて、気軽に話しかけられるような雰囲気ではなく、黙って流れていく知らない街並みを見ていた。
【震災メモリアルパーク前】
降りたバス停に記された、「震災」の二文字で心臓が鷲掴みにされた。違う、私が生まれる前の阪神淡路大震災だ、とすぐに気づく。
「先生も、二十二年前は神戸におった」
「……地震に遭ったんですか?」
「まあな。自分以外は、みんなここにおる」
息をのむ。先生が歩きだすので、ついて行った。ひさしく嗅いでいなかった海の匂いがして、反射的に立ち止まる。
「無理はするな」
「……べつに、大丈夫です。地元じゃないし」
「小峰のお母さんに頼まれたんよ、実は」
え? と訊き返すと、ぽつりぽつりと話し始める。
林先生が私の進路のことで母に電話した時に、自分も被災者だったことを母に伝えたこと。次の赴任先は埼玉よりもっと北の地域になるので、その前にもう一度地元の慰霊碑に行くつもりだということ。それを知った母が、私のことも連れて行ってくれないかと新幹線の切符を買って先生に渡していたこと。何も知らなかった。
「小峰がつらいのは、わかる。でも、それをつらく思うひとがおるのも、わかってくれ」
わかっている。でも。
「わしも、どうにか生き延びた。たまたま家の下敷きにならんところに挟まったんが、よかった。親も嫁さんも、子供も……みーんな、火事に巻き込まれて死んでもうたけどな……」
それ以上、先生がどんな目に遭って今に至るのか、私が聞いても先生は笑ってこたえなかった。いつも無神経なくらい明るい林先生が、私よりよほど「被災者」であるという事実に、打ちのめされそうだった。
私は確かに被災地のうまれだ。けれど決して被災者とは名乗ることは許されない。
声が出なくなったのは、罰かもしれないけれど、でも、ほっとした。震災のことなど一つも語ってはいけないのだから。訊かれても、声が出なければ話すこともできない。勝手にみんなが私の出身を聞いて想像し、憐れむだけ。私は何の地獄も味わっていないというのに。
震災のあと、祖父母には猛反対されたけれど、六月に一度宮城に帰った。家がどうなっているのか、みんながどうしているのか、きちんとこの目で直接確かめたいから。最後まで泣いて止めたおばあちゃんをそう説得したけれど、自分の言葉じゃない、としゃべりながらも自覚していた。そんなに筋が通った覚悟なんてなかった。ただ、自分は逃げたのではない、と思うためだけに、故郷に戻った。
今までかぎなれていた懐かしい匂いは、百万倍に濃くしたら意識が遠のきそうになるほど異臭でしかないことを知った。皮膚が切れるかと思うほどの寒さ、押し潰されそうになるくらい純度の高い夜空の闇。凍りついた石のように冷えていく人の身体。ころがっている、かつて誰かの生活だったもの。ちりのように軽く吹き飛ぶいくつもの命。どれだけみんながぽつりぽつりと語る震災を聞いても、震災は私を傷つけなかったし、私は震災を知らならなかった。
当事者ではない、ということが、家族のように親しかった町のひとたちと自分をこんなに隔てるとは思わなかった。無事だったこと、埼玉に身を寄せているということをみんな涙を流して喜んでくれたのに、かえってびょうびょうと冷風に吹きつけられたようにやりきれなかった。いっそなじって、ざっくり傷つけてくれれば、少しはおあいこになれるかもしれないのに。
悲しくてやりきれなくて腹が立ってしかたないのに、それを自分の絶望として飲み込むことが許されない。私たちが住んでいた家はがれきを残してあとかたもなくなっていたけれど、ノートや古い玩具、ひび割れた食器なんかが泥の中から見え隠れていた。アルバムもあるのが見えたけれど、拾い上げなかった。
「小峰は……本当に故郷を愛しとるんやな」
自戒になるほどにな、と先生は微笑んだ。
「自分のことを、許してやらんと。苦しむのはおまえだけと違うんやで」
「……だけど、」
私は生きていて、大好きな人たちや、大好きな人たちの大好きな人がしんでしまったのは、どうしてなんだろう。みんながあんなに苦しんで、それでも海に恨みつらみを言わないで歯を食い縛ってどうにか日々を生きているのに、私はそれを一つもわかることができない。
私が忘れようが忘れまいが、過去を飲み込もうが目をつむろうが、許そうが許さなかろうが、変わらないことは確かにある。一つ。
これからも私は生きて、時間は前にしか進まないということ。あれがあった前と同じように、自分の足で立ち上がって、歩いて行く方向はひとつしかないということ。あんなことがあった以上、これから進む先は永遠に、あの日の後日譚でしかないと思っていた。でも、だとしても。
「幸せになることだけが幸福だとは言わん。不幸せなままでいることがはたして不幸なことなのか、わしにはわからん。せやけど、自分は確実にわしより長く生きる。これまで生きた長さより、これから生きる長さの方が、うんと長いんやで。わしもしんだと思って生きとったら、もう二十二年経った。思いださん日も、ちょっとは増えた。でも、それを割とは思わん。思わんでもええんやと、やっと気づいた。随分長くかかったけどな」
頭に手を載せられた。ずしりと重く、熱い手だった。そこから直接先生の気持ちが流れこんでくるみたいで、喉に熱がこみ上げて、ふさぐ。好きだった人、生きている自分。
「……許さなきゃだめですか」
懸命に嗚咽をこらえる。声が熱でふるえた。
「わからん。でも、小峰の故郷は被災地になった、東北や。どこで生きようが、二度と戻ってこまいが、その事実は一生ついてまわる。ちぎろうと思っても離せん。それが故郷や」
これからも、自分が暮らしたあの街で汐の匂いを嗅ぐことはないだろう。潮風でべたついた髪が頬にはりつくこともないだろう。はだしで砂を踏むことも、大きな生物の鼓動のように響く海鳴りを聴くことも、海を見るたび傷つかなければならないことに憤ることもなく、何を見ても、何を聞いても心をしんしんと擦り減らして思いだすあの町とは遠い、何一つふるさとと似ていない土地で平穏に暮らして、やがておとなになるだろう。
ぐ、とこみ上げてきたものを飲み下す。懐かしいしょっぱさが私の真ん中を貫いていく。
「大丈夫や、小峰。小峰、愛海。おまえは、生きてけ。納得せんでも、するまで生きてくんよ」
許さなくてもいい、ということを最大限の方法で教えてくれた人の胸に、そっと頭をあずけた。とぎれない心音は、波音のリズムととても似ていて、私はかつて海がとてもすきだったことを、思いだした。
追記 仙台文学館賞にだしたもの。きつい展開。どうしても震災をテーマにしなきゃいけなかった。重松清っぽい話だな、これ大学四年の秋に書いた。
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