冬凪

@_naranuhoka_

冬凪

冬凪



 バスを降りて歩きだした途端、「景一ぃい」とけたたましい声がした。初音がコンビニから飛びだしてくる。

「おかえり。レジ並んでたら景一歩いてくるんだもん、鬼ダッシュかましてきちゃった」きひ、と大胆に飛び出た八重歯を覗かせて笑う。なぜか彼女の髪は濡れていた。水泳部でもないのに。

 しかもいまは真冬だ。初音の家はこのコンビニの真上のマンションとはいえ、男物のようにぶかっとしたサイズのニットにひらひらした素材のロングスカートとつっかけだった。

「手ぶらじゃん。レジ並んでる途中で出てきた?」

「うん。ちゃんと棚に戻してから来たよ。えらい?」

「はぁ」

 初音は「百三十円」と言った。「あとさーアイスも買ってくんない? 熱くてさあ」

「おまえ、俺に払わせるためにわざわざ出てきたのかよ」

「そう!」

 臆面もなく笑う。小学生のときからの腐れ縁で、高校も同じ初音は遠慮と言うものを知らない。ドラクエのレベル上げといて、教科書貸して、おつりあげるから購買でやきそばパンとリプトンのレモンティー買ってきて、使い走りを断るのもかったるかったので「へいへい」とのんでいたが、いちど、夏に「景一、体操服貸して」と教室まで来たときはさすがにあきれてものを言えなかった。

「女子に借りりゃいいだろ」

「えー? だってこの天気でリレーだよ? 超汗臭くなるし。気ぃ遣うじゃん。短パンはあるからさ、半袖だけ貸して」

 クラスメイトの連中がにやにやしながらやりとりに耳をそばだてているのを存分に感じながら、結局貸してしまった。却ってきた半袖を午後ひっかぶった際、嗅ぐつもりはもちろん毛頭なかったが、シーブリーズの原液みたいな濃い匂いがぶわっと鼻の粘膜を襲った。むせすぎて子供以来の喘息の発作を起こすかと思った。それを非難すると、初音は手を叩いてキャッキャとはしゃいだ。

「えーまじか。ウケる、ごめん。汗の匂い、ごまかそうと思ってさあ」

「だからって直接ぶっかけるやつがいるか。ファブリーズじゃねえんだぞ」

 俺が文句を言っても初音はへらっと笑うだけだ。そのくせ、自分は友だちが風邪を引いたらノートのコピーや課題を届けたり(そのコピーは俺がコンビニで自分のを印刷してやったもの)部活でトラブルを起こした後輩をなだめすかして顧問のところに謝りに行くのについて行ってやったり(なんでそんなことを知っているのかと言えば「矢崎先生呼んできてよ、いま鬼怒ってるから怖くて行けない」と職員室で数学を聞きに行った帰りに俺が初音に捕まったから)、そこそこまめで世話好きなので体面はわりかし良かったりする。勉強は大してできないくせに学級委員に選ばれてそこそこまじめに行事を仕切れるタイプなので内申点だけで俺と同じ高校に進み、予想はついていたものの「ねーこの問題解いて、明日板書当たってる」「やばい英語の予習忘れてた、写さして」とバスで後ろから突かれたり、何かと便利屋使いされている。

「暑いって、今日雪降ってんだぞ」

「うるさいなあ。いいからガリガリ君買って、ソーダ味」

 よりにもよってこのクソ寒いなか、歯を立てた途端身体じゅうがそそけ立ちそうなアイスをねだる初音に、「買ってもらうやつの態度か。もっと媚びろよ」と言った。

「お願いします景一様、みじめな初音どんに買ってやってくだせぇ」

「プライドねえな。さみぃから早く入るぞ」

「よっしゃあ」

 女子高生とは思えないがに股歩きでさかさかコンビニに吸い込まれていく。C.Cレモンとガリガリ君、あと自分のぶんのからあげ棒をレジに持っていくと、キリシトールガムまで直前にねじ込んできた。「572円です」と外人の店員が棒読みで読み上げる。

「あんがとぉ」

 コンビニを出たとたん、初音はアイスの袋を剥き、霜のついたアイスを勢いよく齧った。見ているだけで寒気がして、からあげ棒にかじりつく。無難にうまい。

「っていうか、なんで真冬にアイスとジュースなんだよ。空気読んで肉まんとおしるこでも飲んどけよ」

 初音は「えー」となぜかにやにやしている。溶けた水色の露が顎をぬうと伝ったので、子供かよ、と思わず眉を顰めた。「ティッシュで拭け。乾いたあとネタネタになるぞ」

「何そのキモい擬音。ネチャネチャでしょ普通」

「どっちにしろキモいし高二になってアイスの汁垂らしてる初音が悪いだろ」

「アイスの汁とか、ますます景一、キモい」

 あーうま、と信じられないスピードでガリガリ君を咀嚼して、棒を俺が持っていたレジ袋に突っ込む。「歯、沁みないの?」と問うと「超沁みるけど、それがいいんじゃない?」となぜか低い素の声で肩をすくめ、C.Cレモンの蓋を勢いよく回した。

「そういやなんで風呂上がりなんだよ」

 ぷしゅ、と炭酸が間抜けな音を立てて抜ける。

「え? それ聞いちゃう?」

「なんだよ」

 初音がにやにやしながら上目遣いをする。一重まぶたの初音がする上目遣いは三白眼になるので、可愛いとかどきっとするとか以前に、爬虫類みたいで大層まぬけだ。教えてやろうか悩んでかれこれ二年半、面白いので結局教えていない。

同い年の女子におまえ風呂上がり?って訊くのってそんなにタブーか? セクハラくさいか? 確かに隣の席になってから一回も口を利いていない篠原佐代子さんに「あれ篠原さん朝シャンしてきた?」って訊くのはなんかだいぶやばい、でもこいつ初音だし、「生理まじだるい、景一頭痛薬持ってない? 痛み止め忘れてきてさあ」と朝からデカい声でバス停で話しかけてくるような女子だし。

「さっき戸嶋くん家に呼んでエッチしちゃった」

 きゃはは、と甲高い声がコンビニの駐車場に響き渡る。俺は茫然と、見つめた。俺と、初音の間にある空気のもやつき、みたいなものを。

 こいつ、何言ってるんだ。

「あれ、景一、戸嶋くんと同じクラスなったことなかったけ? バスケ部で副部長で、坊主の人」

 俺の沈黙を勘違いした初音はしゃあしゃあと説明している。沈黙ではなく明らかに絶句なのに、恥ずかしがったり焦ることもなくあくまで。初音の口調は平常運転だ。

「知ってる、でもおまえ付き合ってるやついまいないってこないだ言ってたばっかだろ、つか昨日だし、その会話したの」

 かろうじて声をしぼりだす。ふるえそうになるのを押さえつけようとすると、オタクの早口みたいな不自然なしゃべりかたになった。

「え? うん。べつに付き合ってないよ。あれ? もしかして景一知らない?」

 何が、と訊く前に初音は「あれー、まじかぁ」「もしかして三組の人に認知されてないのかな、わたし」などとぶつくさ呟く。そして、ふいに顔を上げ、言う。

「わたしさ、結構誰とでもしちゃうんだよね。戸嶋くんのことも、べつに好きってわけじゃないんだけどさ」

 あっはっは、と豪快に笑う初音の口から、ぶはっと白い息が空気砲のように飛びだし、灰青い空気中に消える。俺は「はぁ」と情けない感想しか出てこなかった。俺は、普通に童貞だった。

「だから、暑くて。アイス買おうと思ったら景一いて、ラッキー」

 天を向いて、C.Cレモンをぐびぐびと飲む。アイスが顎に垂れているときは何も思わなかったのに、白い喉が剥きだしになって小さく波打つのを目にしてなぜか血液がかっと一か所に向かって集まるのを感じた。

 陽が落ちて、藍色のガラスのコップにオレンジジュースを一センチだけ残したみたいな空が建物の隙間から覗いていた。


 ――結構誰とでもしちゃうんだよね。はぁ。じゃねえだろはぁじゃ。「バカかおまえは」とか「何普通にそんなことしゃべってんの、意味不明だよ怖えよ」くらい言えよ。

 夕食を食べ終わったあと、風呂場でシャンプーを流していると初音のことがよぎり、顔があつくなった。うそだ。本当は、「じゃあねえ。ごちそうさまっ」と初音がマンションの自動ドアに吸い込まれいくちっこい後ろ姿を見送って帰路について、部屋着に着替え、トンカツを家族で食べ、弟に付き合ってバラエティを見い見い英語の文法の予習をしているあいだじゅう、頭のなかでどでかいかなづちで銅鑼を鳴らされつづけているがごとく、初音の声が頭から離れなかった。

 誰とでも、やる。そういう種類の女がこの世に存在することは、まあ深夜の十時以降に自分ひとりだけでひそかに視聴している芸人のトーク番組やAVのたぐいで知っている。だとしても、少なくとも遠いおとなたちの間の都市伝説みたいなものだと思っていた。まさか自分の幼馴染が、下卑た男が語る、いわゆる――ヤリマンだのビッチだのと呼ばれ、ありがたがられたり揶揄されたりする女と同じ種類の女、だなんて想像できるはずがない。

 まったく知らなかった。あいつビッチなのか? いつから? みんな知ってんのか? 知ってて止めないのか? っていうかなんで俺は知らなかったんだ?

初音がちょいちょい誰かと付き合っていたことは、いちいち聞かされるので知っている。若干離れ気味のたれ目、子供みたいにちいさな鼻と笑うと八重歯が豪快に覗く大きな口。顔の造形はともかく前髪をだいたいいつも眉上に切っているため「お調子者」感が漂うちびな女子、ってところだが、中学のときから彼氏は何人かいたはずだ。性格が明るいので、一定の層からは支持されている。

 初音がうちの教室にくるたびに、いつもつるんでいる連中からは「来たぞいいなずけ」などとひやかされるが、太一か誰かが「子だぬきっぽいよな」と言っていた。「下手にアイドル扱いされる女子よりああいうタイプがすぐ彼氏できるんだよね」と一番ちゃらい野田が冷静に呟いていたのを、ふーん、と聞き流したのも覚えている。

 誰とでもしちゃうんだよねってなんだよそれ。意味わかんねえ、それなんかメリットあんのかよ、おまえそんなキャラじゃねえだろ、ヤンキーの森田とか入学して即ヤリチンの三年と付き合ってた爆乳の松坂とか、もし初音がああいうのだったら俺だって「避妊はしとけよ」とか茶化せたかもしんないけど、いやそういうの失礼か、あー、まじか。あー。いつも初音といっしょにいる吹部の女子とか、知っててつるんでるのか? 「やめなよ」とか言ってやんないのか?

 性器がわずかに持ち上がっているのに気づかないふりをして、湯舟に浸かった。欲情しているのではなく、そういう生理だった。

 猥談くらいなら普通な程度にするし、中学のときはバカだったのでの「今週のヤンマガのグラビアで何回抜けるか」という超絶くだらない大会に参加して実際より一回自己申告する、みたいなアホな遊びに興じていた。つまりとても純粋で健康でまっとうな男子なわけだ。

 ――俺がそういうくだらないことをして遊んでる間に、あいつ、処女捨ててたんだな。

 初音の濡れた髪がぺたっと額に張りついて不揃いな鍵盤みたいになっていたのを思いだす。冬の陽がわずかな余力で彼女の頬のうぶげを照らすのを、話の衝撃に脳をぶんなぐられながらも俺は綺麗だと思ったのだった。


 次の日、たまたま日直担当だったので、放課後残って日誌を書いた。手元がかげったかと思ったら、真だった。

「あー、窪田日直か。明日の予習してんなら見せてもらおうかと思って」

「おまえまで初音みたいなこと言うなよ」

 昨日からずっと初音のことばかり考えていたので、思わずそんな返事が飛び出て赤面した。やいのやいの言われるので、からかわれることはあっても自分からわざわざ言ったことはいちどもない。異性の幼なじみのことをアピールして、ろくなことになるはずがない。

「え、何。ああ野原さんの? なんでいきなり」

 さいわい、真はこういうときここぞとばかり突っ込んでいじり倒してくるタイプではなかったので、ほがらかに笑っているだけだった。内心ほっとして、「ごめん、あいつ予習よくたかってくるから」とごまかした。

「そういや真って初音と同じクラスだったよな、去年」

「え? ああ、二組だったから」

 どこから話をしたら初音が男としまくっていることにつながるのだろうか。逆算しながら話題の進路を探る。

「一年のとき、野球部の誰かと付き合ってなかったけ。あの、ごつい感じの」

「あー。あったあった、まだ高校入ったばっかで、まだあんまりクラスにカップルいなかった頃だったから覚えてるわ。でもあの人、いろんな人と噂あるからなぁ」

 真から思いがけず反応があり、心臓がぐっと跳ねる。

「それってちゃんと付き合ってた?」

「いや~。それはおまえの方がくわしいんじゃん?」

 真が歯をこぼして下卑たふうに笑う。知ってるんだな、と思った。すう、と息を吐いてひと息で言う。

「俺さ。マジでしらなかったんだけどいつからそうなった?」

「は? そうなった、って何」っていうか窪田目が怖えよ、と真が身を引いた。

 言葉をどう選んで表現すればいいかわからず、迷っていると「あの人が500円で誰とでもやってる、って話のこと指してる?」と真が声を低めて言った。血が逆流するかと思った。

「500円のくだりはいま初めて聞いたけど、誰とでもみたいなのを、昨日本人から聞いた」

「えーマジ? 有名すぎてもはや誰も噂してねえよ。一年の時にバーッて拡散して、止まったって感じだと思う」

 力が抜けた。第三者に認められたことによって、初音の悪い冗談、という説は粉々にぶっ壊れた。本当は、信じられなかったのだ。

「俺八組だったけど、みんな知ってたんかな」

【今週模試があるので数学に力を入れて対策しようと思います】と書いて尻切れとんぼになっている間抜けな日誌に目を落とす。「お前、野原さんと仲良いからかえって言いづらかったんじゃないの」と真が慰めるように言った。

「俺もそんなくわしいとかじゃないけど、いまは後輩からも声かかってくるらしい。ワンコインセックス、つってやっぱ下の学年でも話題になってたらしいな、一時期」

「ふざけんなよ、なんだよワンコインって。ばっかじゃねえの」

 大声を上げた俺に、真はびくっと肩を揺らした。何人かがこっちを見ている。ごめん、と謝った。真に当たってもしょうがないのはわかっていても、憤りを感じずにはいられなかった。真は、感情を露わにする俺を見て憐れむような目をして肩をすくめた。

「なんなんだろうな、べつに病んでるとかそういうんでもなさそうな人がやってるから、俺も聞いたとき信じられなかったよ。でもまあ仲いくても男子と女子だったら、言えないよな。あんまり」

 もっと知りたいという気持ちと、これ以上聞いても絶望するだけだという気持ちがないまぜになり、曖昧に笑った。

 でもどうして初音は俺のところに来つづけるのだろう。

 初音は、俺が知らないということを知らなかった。あれは演技だったのだろうか。


 小中高と友だちが多いイメージのある初音が、いちどだけいじめに遭っていた時期がある。中学三年の春だ。大した理由ではなかったと思う。推薦をもらうために内申点稼ぎをしているのが見え見えだとか、先生の前での返事がいいこぶっているとか、女子中学生にありふれた、でも陰湿ないじめだった。初音の真似、と言いながら「はぁいっ」と身をくねらせながら女子集団が手を叩いて爆笑しているのを見かけたこともある。初音は身をこわばらせて、足早に教室を出て行った。授業を休んで保健室にいたこともあったらしい。小学校が同じだったので口を利きはしたが、中学生だったというのもあって、俺は同じ教室の中で彼女に話しかけたりましてやいじめをする女子をいなすなんて勇気もなかった。くだらないことに時間費やしてんなぁ、と思いながら遠巻きに見ていた。

 いじめは数週間で終わり、初音は元のグループには戻らず、同じ高校を目指す真面目な女子のグループとつるむようになった。それ以降授業を休むこともなくなり、教室のなかではがらかに笑うようになった。別に何か働きかけたりしていたわけではなかったにしろ、俺も内心ほっとした。

「景一、理科教えてよ。電気回路のとこ、いまだによくわかってないんだよね」

 がり勉グループ、と揶揄されることもあったぶん、三年の秋ごろには同じ高校を目指す十五、六人は男女関係なく結束が強くなっていた。「初音は推薦だろ。小論文とかやった方がいいんじゃねえの」とやっかみ混じりに言うと、「受かるかは限らないから」と真面目な顔で言うので、断る理由もなく、自習室で並んで教えてやった。

 俺は当時、付き合っていた同級生にふられたばかりだった。「高校別れるから」というシンプルな理由で同じ志望校を目指すサッカー部の寺岡に乗り換えられ、しっかり落ち込み、傷ついていた。それなので、教室だの廊下だのでいちゃついている元カノを見たくないがために、初音の「特訓」で気を紛らわせようとした。

「明高の制服ってかわいいよね、わたし絶対あそこのセーラー服着たいんだぁ」

 帰り道、家の方向が同じなので結局あの頃はいつもふたりで帰ることが多かった。小学校が同じせいもあって、あまり照れくささや気恥ずかしさ、異性と帰る時の胸の弾み、浮遊感はなかった。こう並べると初音に失礼な感じがするのだけれど、しっくりきすぎて、誰かに見られたらどうしよう、とか彼女でもないのに二人きりで帰るのはちょっと、とか思いもしなかった。初音がどうだったかは、知らない。

 受験勉強のあと、不安をごまかすためか初音はよく未来の話をした。電車通学は七時何分のに乗ると乗り換えがちょうどいいとか、テニス部が明高では一番いけてるとか、そういう他愛もない、けれどどこか陽射しを感じる話だった。

とはいえ女子の制服なんかどうでもよかった。俺が「ふーん」という生返事しか寄越さなかったことが不服だったのか、「えーだってブレザーより断然セーラーじゃない? 清楚だし、あとスタイルよく見える気ぃする」とくちびるをとがらせた。

「彼女にするなら絶対セーラーじゃない?」

 と、口にしてから初音は「あ」と声を漏らした。迂闊だなあ、と思いながら、俺は「サッカー部のアホなヤンキーと付き合わないようなね」と相槌を打った。言ってしまえばらくだった。

 初音はあは、と短く笑って「景一は高校生になったほうがもてる気ぃする。うちの中学ってちゃらちゃらしてるのがもてはやされるけど謎だよね」と言った。あ、いま気遣われてるな、と思うことで照れくささをごまかした。ありがとな、と言えるほどおとなじゃなかったので「おまえはいまがピークかもな」と混ぜっ返した。

「えーなんで⁉ ピークも何もいま彼氏いないしっ」

「前髪がそんな激短いやつ高校にいねえよ」

 初音が手提げを振り回して俺の膝のうらっかわあたりを殴った。薄く伸びた、自分たちよりずっと大きな面積の影が後ろにどこまでも伸びていた。受験が目前で不安や悩みは尽きなかったけれど、あの頃が一番単純にまぶしい未来を信じられていた気がする。


 部活が終わった後バス亭に並んでいたら、「よっす」とつつかれた。初音だった。ミントのような、緑がかった水色のマフラーに顔が半分うずもれている。

「お疲れー。なんか今日あったかかったね。小春日和ってやつ?」

「それを言うなら春一番じゃねえの」

「あーなんか三月に吹くやつ?」

 誤用を指摘されたにもかかわらず、初音は恥じ入るわけでもなくふにゃりと笑った。

「あれだね、もうすぐバレンタインだね」

「あー、うん」

「去年、彼氏にあげたら『俺、ホワイトチョコきらいなんだよね。甘すぎて』って言われたな。ホワイトデー、用意してくれてるのわかってて振っちゃった」

「野球部のやつ?」いつだったか真が言っていた男のことだろうか。初音は困ったように曖昧に首を傾げた。

「よくそんなの知ってるね、恥ずかしい。違うよ、先輩。別れてから知ったんだけど、『彼女』ってわたしだけじゃなかったみたいなんだよねー」

「初音が見境なくなったのはそのトラウマのせい?」

思わず口をついていた。自分が口にした言葉の意味がいまになって頭に反響して、どんと大きく心臓がせり出る。「え」と初音が俺を見上げた。右頬に鉛筆の粉が擦れている。

「……うーん。別にあてつけのつもりはないんだけど、真面目な人だったらこうはなってなかったかもねえ。そりゃーショックで熱出たもん。そんときの模試ぼろぼろだったなあ」

 バスが来る。初音のあとについて乗る。一番後ろのシートに座ったので、俺も隣に座った。

「ねー、景一って高校入ってから彼女いたことないの?」

「ない」

「告白されたことは? あとしたことは?」

「……両方一回ずつ」

「マジで? もてるじゃん」

「そうか?」

 お前の方がよっぽどもてるだろ、とつづけようとしてやめた。皮肉になりかねない。

 でも、本音だった。わざわざ自分の身体をだしにしなくても、初音なら大事にしてくれる彼氏くらいできるはずなのに、どうしてわざわざ自分を貶すのだろう。そういう考え自体が男尊女卑で、初音を貶しているのだろうか。自分の意思で、誰とでもセックスをするらしい、初音を。

 ふ、と空気がゆるむ気配があって、隣を見遣ると初音は目の下をふくりと持ち上げて笑っていた。

「ねー景一って」なぜか、次に初音が言おうとしていることが脳に瞬時に浮かび上がった。言うな、と反射的に拒んだが、非常にもそれを初音の声が読み上げる。「童貞?」

 冗談の一環として、流せばよかったかもしれない。でも、俺はどうしても初音がゆるせなくなかった。

「おまえさ」

 低い声で切り返した。自分でも、高圧的な声だなと思った。持ち上がっていた初音の頬が、中途半端な位置で固まる。

「くだらねえよ。人に優越感持つためにやってんのか、その活動は」

 初音はくちびるをふるわせ、目を伏せた。思いがけないほどまつげが長い。

ごめんね、ととても小さな声で言うのが聞こえて、心臓がつぶれるかと思うくらい、ぎゅっと軋んだ。そのままぶざまにひきちぎれて死ねたらいいのに、と思った。黙って自分の膝のあたりを見ていた。俺は傷ついた子供で、そう発言することしかできない初音もまた傷ついているということなんて、考えられもしなかった。

「わたしたちどこで違っちゃったんだろう」

 はっと顔を上げる。初音はもう前を向いていて、弱々しくひとりごとを言っていた人の顔などしていなかった。俺の視線を撥ねつけるように背すじをこわばらせて宙をにらんでいた。


 バスを降りる。これほど気まずいことなんかない、と思ったけれど、同じ学区なのだから同じバス停で降りるしかないのだった。

 さきに降りた初音は、能面のように表情を動かさないで、俺が降りてくるのを待っていた。頬が真っ白だった。

「景一、」

「いいよ、俺、つっかかっただけだから」

謝られるのが怖くて思わず口を挟んだ。初音はわずかに口元をゆるめ、「ううん」と言った。

「景一、ほんとに知らなかったんだね。わたしのこと、男子で知らない人なんていないと思ってた」

「……知らなかったからほんとに俺、びっくりしたよ」

「ごめん。でも、なんか悪くて」

 初音の頬に浮いたそばかすが、薄青く浮かびあがる。なんだか星みたいだ、と思った。

「わたし、ちゃんとしてないからさ、景一みたいに」

 俺は黙った。そんなことねえよ、と言えたらどれだけ楽だろう。善良で真面目で誠実な人間で、という意味で「ちゃんとして」るわけではなく、ただ黙々と日常を受け入れて高校生をしているという意味で俺は「ちゃんとして」いるし、外れたいとも外れてしまったと感じたこともない。

「早く大学生になりたいな」

 ふと、既視感を覚えてまじまじと初音の横顔を見つめる。そうだ、中学生の頃も「早く高校生になりたいな」と呟いていたのだった。

「それ、中三の時もおんなじこと言ってたぞ」

 からかうつもりでというより、ほんとうに深いことを考えずにそう言ったのだけれど、初音ははっと口を開けたままかたまった。まるで悪事がばれて母親に見つかった子供みたいに真っ青な顔をして、俺を見上げた。

「わたしって、いつまでわたしのままなんだろ」

 ぐしゃ、と初音の顔が歪んだ。真っ白だった顔が、あかんぼうみたいに真っ赤になっていく。泣くだろうか、と思ったけれど、涙はこぼれなかった。だからこそ、初音の表情は痛々しく、心の底からつらいのだろうと思った。

しんどいとき、みじめなとき、自分を嫌いになったとき、さびしいとき、わんわん泣けた方が、よっぽど楽だ。

「もうちょっとしたら、大学生になるんだから、それまでの辛抱だよ」

 やっとのことで言った。初音の頭の位置は、抱き寄せれば簡単に俺の胸に収まる位置にあったけれど、俺の手は宙ぶらりんのまま、自分のズボンの横っかわにひっついたりしていた。

「景一は」かすれた声で初音は言った。「わたしと、したい?」

俺は黙った。童貞? とくだらないことを訊いたときは軽薄なかたちにくちびるが笑っていたけれど、初音は少しだって笑ってなんかいなかった。切実な顔をしていた。そして、俺とセックスがしたいとは1ミリも思っていないのに、そう俺に問うているのだとわかった。

「俺とは、そんなことしなくても仲良くできるだろ。だったら、する必要ない」

 冷たく聞こえるかもしれない、と思いながら口にした。初音は、また泣くかもしれない、と思ったけれど、はっと口元を引き締め、固まっていた。

「そうだよね」

 ゆるゆると融ける雪のように、初音が安堵して微笑んだ。それを見て、もったいないと一瞬思った自分を俺は恥じた。

「そういう男の子とだけ、仲良くすればいいって、わかってるんだけど、やっちゃったほうがらくだから、しちゃうんだよね」

 ぽそぽそと歪な小石を並べるように初音が呟く。すこしも理解できなかったが、うん、とうなずいた。俺がクラスの女子とセックスしたところで仲良くはなれない。

「女子には淫乱とかビッチとか陰口叩かれるけど、別に性欲強いわけでもないし。ただもう、こっちのほうがらくだから、断れなくなっただけ」

 わずかに上を向いたちいさな鼻を境に、夕陽が影をつくっている。初音を抱いた男の誰かひとりでも、初音をきれいだと思ったり、「きれいだよ」と言ったやつはいるのだろうか。

「どうしても、また、そういうことしたくなったり、しなきゃいけなくなったら、とりあえず俺に言えよ。携帯で電話かけてスピーカーモードにしろ。俺、ばかでかい声でふっつうに雑談するから。したら気まずくて、やるどころじゃなくなるだろ」

早口で言った。初音がぽかんとして俺を見つめている。

「だから、誰とでもじゃなくて、好きな奴だけにしとけよ」

 それが俺じゃなくても、俺はおまえを応援するし、祝福してやるよ。心のなかでだけつづけた。初音が、顔をくしゃくしゃにして今度こそ泣きだしそうになったので、俺は勇気を振り絞って頭をゆっくり撫でてやった。

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