初恋

@_naranuhoka_

初恋


初恋


はたして、一方的に惚れている男に自分のヌードを撮影してもらうのと、好きでもない男と寝るのは一体どちらが倫理的におかしいのだろうか。

たった今、わたしは好きな男の目の前で一糸纏わぬ姿を晒している。潮風になぶられて乳頭が硬く小さくこわばっているのが感覚でわかる。とてもじゃ無いけれど、見下ろして確かめることはできない。

海がどうどうと唸りながらわたしのすぐ後ろで満ち引きを繰り返し、裸足の足を容赦なく濡らす。十月の海は、思っているよりもずっとずっと冷たく、感覚が遠ざかっていく。白いあぶくが砂で叩きつけられて、波が引いていくと置いてきぼりを食らった吐瀉物のようにも見えて、綺麗とはとても思えない。海に来たのは十年ぶりだけど、こんなに生々しいものだということを忘れていた。

海の満ち引き、波飛沫、シャッターを切る音、風。それらを全身で感じ取りながら、立ち尽くす。腕が乳房のあたりを隠そうと内側に引き寄せられるのを意識して食い止めて、胴と離す。そういうそぶりを見せる方がよほど恥ずかしい。

上倉炎はどんな表情をしてわたしを撮っているのか、レンズから顔をほとんど離さないのでまるでわからなかった。閨房において男の人に初めて裸を見せる瞬間は、たくさんあったわりにはそのほとんどを覚えていない。恥じらうそぶりは演出として添えたけれど、どこか見せてやったというような、卑しい自信のようなものを感じていたような気がする。

ベッドの上ではなく野外だからなのか、上倉炎とは性を交わしていないからなのか、金の陽射しにどこもかしこも照らし出されているからなのか。自分の軀を晒す、ということがこんなにも無防備であることに耐えながら裸で突っ立っているだけでも精一杯だった。

無理をして伸びをする。上倉炎は「もっと腕伸ばせる?」とだけ言った。

 早く、終わらせたい、一方で、もっと上倉炎に自分を見せたい。これ以上見せるものなどないけれど、どうにか、動揺する一瞬を生みたい。

 風見鶏のように忙しく胸の内が翻る。腰をひねり、挑みかかるようにしてレンズをにらみつける。空は白っぽく、どこかいっぱいに張り詰めたような晴れ方だった。


 顛末はあまりにもシンプルだ。したたか酔っぱらった晩、勢い余って上倉炎に〈もう卒業してお互い会わなくなるんだし、一度くらいお願い聞いてもらえないかな〉とメッセージを送った。

〈週末空いてたらカフェ行かない?〉〈明日の夜ひまー?〉――いつもなら内容にかかわらずありとあらゆるメッセージを送っても大概既読無視か、どれだけよくても〈却下〉というつれない返信が関の山だったのに、なぜだろうか。上倉炎からめずらしく返事が来た。

〈内容による。何ですか〉

 酔いが醒める勢いで携帯に飛びついた。またとないチャンスをふいにするわけにはいかない。

せっくす、と打ちかけて消去した。上倉炎の食指を動かすような誘い文句。面白い、と思わせなければ来てはくれない。

〈あと半年で学生生活が終わるから、それを刻むようなことがしたい。わたしの裸を撮影してくれない? 学生時代の遺影にするから〉

奇を衒いすぎて意味不明なことを送ってしまったことに気づいたのは、〈一日だけなら付き合ってもいい。ただし野外なら〉と翌朝返信を読んでからだった。

驚きのあまり、悲鳴を上げて携帯をベッドに投げ捨ててしまった。沸騰したやかんに触れてしまったときみたいに。


 翌日、学食で落ち合った。名目は「ヌード撮影」の打ち合わせ――考えるだけで貧血を起こしそうだった。

あらゆる技術を総動員して丁寧にフルメイクをほどこしたわたしの顔など二秒も見もせず、天丼の上の海老天を箸でつまみながら「どうして人は、卒業するときに日付を壁だの机だのに彫るんだろうな」と上倉炎は呟いた。

「何?」

「いや、そっちからラインが来て、ちょっと考えてた。そういえば卒業するときって、中学とか高校とかで年月日を教室の机に落書きしたり彫ったりする奴いたなって」

 唐突に言われ、目の前の麻婆定食が弱々しく湯気を立てるのにも箸をつけられずに見つめ返した。片方だけ一重のアンバランスな目が、わたしを真正面からとらえる。

「たったいま自分が生きて、十五歳とか十八歳で、でもすぐにその年月日は過去の年表の一行として埋れていく。それを惜しんで確かめるために書き残してある感じがした。その走り書きの年月日のなかで同い年だった誰かがいたんだな、って」

 そういえば中学の教室で見たことがないこともないかもしれない。けれどよく覚えていない。大学卒業を前に、ようやく上倉炎と学食をともにしているという事実を噛みしめるのでいっぱいだった。

「ところで、なんでヌードを撮ろうと思ったの」

「え」酔った勢いの思いつきに理由なんかあるはずがない、と思ったけれど、口にできるはずもない。

「まあいいや」上倉炎はあっさりと言った。「承諾したのは僕だしね。撮影には付き合うよ。単純に面白そうだし」

 ほっとする反面、上倉炎の台詞からひとかけらも下賤な好奇心や欲情を読み取れないことにいらだち、絶望する。わかっていたことだ。そもそもそんなものがひとつだってあれば、わたしだってこんなくだらない提案を酔った勢いで送ったりなどしなくて済んだのだ。

 大学四年間のうち、七度ほど告白して交際を申し込んできた。けれど一貫して「興味がないです」という乾いた返事だった。いくらわたしがなだめすかそうが泣きわめこうが逆上しようが、上倉炎は動揺することもなく、不思議そうな顔で眺めやるだけだった。

 いまになってこんなくだらないことに協力するなんて、いったいどういう風の吹き回しだろう。卒業するから、と憐れんでくれたのか。手切れ金代わりだろうか。小説のネタにでもする気か。ただわかるのは、わたしに興味を持ってくれたから、などというあまい理由などではないことだけ。

「カメラはオリンパスを親が持ってるから実家に帰って借りてくる。場所はどこで考えてる? まさか東京では無理だろうし」

 具体的に訊かれ、考えながらこたえる。

「正直、まだ全然場所のことは考えてなかった。人がいないところ、かな」

「イメージはある? こういう絵が撮りたい、みたいな」

「野外で撮るなら森とか、海とかかな……せっかく思い切りのいることをするんだったら、景色が綺麗なところとか、絵として映えるようなところがいい」

 結局は思い出づくりか、とでも鼻で笑われるかと思ったけれど、上倉炎は笑わなかった。真摯とも言えるまなざしで、わたしの話に静かに頷く。

「簡単にヌードを撮るって言っても、普通に犯罪だしね。まあいまさらそれを言い出してもしょうがないから、できるだけさびれたところにしよう」

場所はこっちでも考えておく、と言って空の食器が載ったおぼんを持って立ち上がった。慌てて「もういくの?」とすがるように口を挟む。

「研究室行かないと。また連絡します」

そう言ってさっさと食堂を出て行ってしまう。ひょろりと植物のように長い足に目がいく。猫背だから、本当は背が高いのに少しもそうは見えない。

相変わらず飄々としている、だからこそどうしようもなく色気が爛れている。舐めるように眺めた。誰一人、彼にわたしほど熱視線を送ってなどいないことにいらだちを覚えながらも、同時に激しく安堵する。

視界から上倉炎がいなくなり、腹を押さえられた手をどけられたかのように長いため息が出た。頼んだ麻婆定食はほとんど手付かずで、冷めたまま膜を張っていた。

行儀が悪いといさめつつも、スプーンを持ったままずるずるとテーブルに肘をつき、頭を抱えた。

どうしよう。

惚れた男の気を惹くためにバカみたいな挑発をしたら本気にされてしまった。こんな絵空事みたいなこと、決行できるんだろうか。小説家でもなければクリエイターでもない、一般人のわたしが。ため息をつきながら、麻婆豆腐を口に運んだ。それが二週間前のできごとだ。


大学の人間のほとんどは、上倉炎の名前は本名ではなく筆名だと思っている。けれど、れっきとした本名だ。

高校生のときに小説家としてデビューした学生がうちの学部にいるらしい、という噂は入学してすぐに流れた。その学生の正体はすぐにまた噂となって駆け巡った。

理学部植物学科専攻の一年。上倉炎。

普段小説など読まないわたしでもうっすら知っていた。大きな小説誌から男子高校生がデビューして、それが別の賞も取り、大きな話題を読んでいた。映画化もされたはずだ。

初めて見たときは「思ったより、普通の人間の形をしているんだな」と失礼な感想を持った。けれど、いつからなのか。気がつけばわたしは彼に激しい恋愛感情を抱くようになった。

大学一年の冬に告白したらとてもあっさりと玉砕した。壁に花瓶をぶんと投げつけたら割れた、それくらいの簡単さだった。打ちひしがれたけれど諦めがつかず、それでも講堂で挨拶し、話しかけ、まめに連絡した。結果はさらに花瓶の割れた破片がこまかく割れ散っただけだった。

唯一の救いは、学部が同じだから頻繁に彼の姿を見ることができたことくらいだろうか。男女かかわらず、あまり親密な関係の人間はいないようだった。そのことにどうしようもなく安堵しながらも、いっそ徹底的に絶望させてくれればいいのに、という怒りで胸がちぎれそうだった。

執着している年月があまりに長過ぎて、もはや上倉炎と付き合いたかったのか異性として好きだったのか、自分でもよくわからなかった。万一付き合えたところで、絶対に気が合わない。趣味も合わないだろうし、連絡することを急かせばため息どころか舌打ちが飛んできそうだ。どんな場合で想像しても、すぐに破綻してしまう。そもそも、大して容姿が好みだったわけでもない。作品のファンなのかと言われれば、すべて読みはしたものの難しくてよくわからないというのが正直な感想だった。

わたしがこれほど心の中身をみっともなく打ちさらし、這いつくばりながらぶざまにぶちまけているというのに、上倉炎は困惑するばかりで少しもわたしに興味がないことを隠そうともしなかった。傷つけたかった。わたしがぶつかった痕を残したかった。けれど、上倉炎は少しも動じることなく、立ち去った。所詮、度を越したファンとしかみなされていないのだろうか、と思うとくやしくてならなかった。

どうにかして掴んで、ふれて、視界に割り込みたかった。その手段がセックスならもちろんよろこんでひらくけれど、心の中身に、指一本でも触れて、熱を感じたかった。

院進学ではなく総合職の営業に就職することを選んだのは「早く社会に出て自立したいから」と親や友達には話していたけれど、本当はそれだけではない。

もう、上倉炎を視界に入れて心を擦り減らしたくなかった。そのためには敗者である自分が立ち去る以外、もはや方法は残されていなかった。

「学生時代、あなたが挫折したことはなんですか」――就活で訊かれるたび、心の中でこたえた。

「小説家の上倉炎をすきになってふられつづけ、大学四年間を棒に振ったことです」


 風の強さで、頬を切ってしまいそうだ。

曇っているので、ときどき肌寒さを覚える。気温はさして引くわけではないのが救いだった。

伊豆諸島に属する利島を撮影場所に決めたのは上倉炎だった。思いがけないくらい観光客が船にいてどきっとした。こんなに人がいて撮影などできるのだろうか、と思っていると「島自体広いから、死角は探せばいくらでもある」と上倉炎が囁いた。

メッセージを送って敢行日までわずか二週間。文化祭の準備をする高校生のようなふわふわとした気持ちだった。ヌードを撮るために、いままさに上倉炎とふたりで島に渡り、歩いている。いったい誰がそんなばかげた状況を信じてくれるというのだろう。

波止場に何艘かの船が停まり、おじいさんが二人作業をしていた。降りてくる観光客のわたしたちに目を向けるでも挨拶するでもなく、黙々と仕事をしている。本土から一時間一本往来しているらしいので、彼らからしたらこれが電車代わりなのだろう。

スマートフォンで地図を見るでもなく、上倉炎はさっさと歩き出した。

「ねえ、もしかしてこの島来たことあるの?」

「まさか」

「でも、地図見ないで歩くから」

「自分が撮影されるっていうのに随分他人事なんだな」

ぎくりとした。

「そんなつもりはないよ。ただ、現実味が湧かないだけで」

「現実味も何も、たった今島にいるだろ」

鼻で嗤われ、むっとする。相手が上倉炎でさえなければ、「居丈高な物言いしないで」とくらいぴしゃりと言い返していたかもしれない。

上倉炎にはどうしても、ほかの同い年の男子に取るような不遜な態度を取れない。結局これが惚れた弱みなのか、よくわからない。

「水川さん、見て。もう水平線が見えてきた」

顔を上げる。確かに、水平線が坂道の向こうできらきらと瞬いていた。

「この島は細長いから、この方向に進んだらすぐ向こう側の海岸に着くんだよ」

「そうだね」

水川さん、という響きを頭のなかで再生して甘く愉しみながら、レンズを覗き込む横顔を盗み見た。上倉炎は嬉しそうにカメラを向けてシャッターを切る。

海が見え始めるのは早かったけれど、下っていくとさらに道があり、海岸は程遠かった。

 十月の第三週の日曜日に島に渡ろう。上倉炎が指定したのは、わたしがメールしてから二週間しか猶予がなかった。「だって寒くなると決行できなくなる」と言われ、何の反論もできなかった。

こんなにとんとん拍子で進むと思わず、言い出しっぺのくせに、「本当に敢行する気?」「ほかのことにしない?」と計画を食い止めたり期日を引き延ばしたい衝動に駆られた。だって、わたしは。

 上倉炎に惚れている。大学一年のときから、ずっと。見てきた。

 その相手に裸を見せる。寝るわけでもないのに。

あんまりにも倒錯している。わたしは本当にそんなことがしたかったのだろうか?

 好きな男に裸を撮影してもらうこと。それは、本当に彼と交わしたかったコミュニケーションなんだろうか。意味がわからない。その場で誘惑でもすればいいのだろうか? でも、どうやって。

 気を惹くためのその場しのぎの口実だったと悟った時点で、上倉炎はすべてのモチベーションをなくして手を引きかねない。だとしたら、わたしができることはただひとつ。

 純粋な気持ちで、自分のヌードを記録したいと思っているふりをして、敢行すること。常識や羞恥やリスクに敗れることなく、上倉炎の前で裸を見せること。それしかない。


わたしの葛藤など露知らず、上倉炎はゆるやかな坂道を黙々と歩く。

 時折端末を取り出しては打っている。ラインでも見ているのかと思ったけれど違った。メモを打っていた。景色の様子でも描写しているのだろうか。そういうところが、と思う。

そういうところが、ますますわたしを惹きつけてやまない。浅いミーハー根性だと自分でも呆れるけれど、中学生の女の子みたいにときめいてしまう気持ちはどうしようもない。 

雑誌の切り抜きでもちまちまあつめるみたいにして恋焦がれていた大学四年間などいとも吹き飛ばしてしまうくらい、圧倒的な情報量が熱を伴ってどっと流れ込んでくる。感動と混乱で、どうしようもないくやしさにむせて苦しいほどに。

「上倉君って写真撮るの上手い?」

「普通かそれ以下だと思う。ど素人には変わりない。操作とか撮り方のコツくらいは簡単にさらってきたけど、写真の出来自体は保証できない」

「ふうん」

「思うようなものができなかったらごめん。でも、カメラの性能も画質もかなりいいのは確かだよ」

 謙虚なのか高慢なのか、よくわからなくなる。本人には何の意識もないのだろう。わたしにどう思うわれようが、どうでもいいと思っている。だからスタンスに統一感がない。

 好きだからこそ、そこまで透けて見えてしまっていやになる。

砂浜が見えてきた。「海だ」と言うと、「さっきも海は見た」と上倉炎がすげなく言う。

「話戻すけど、ここで裸になるとどこからも人から見えるから、現実的に考えて難しいかもしれない」

「……あそこ、入りくんでるから脱げそうだよ」

「え?」

 歩きながら指す。大きく入江がカーブして、湾曲している。奥の方を見れば、崖がちょうどよくすぐそばにあり、よほど海の近くまで来なければ人の視線からは逃れられそうだ。

「ああ……まあ死角と言えば死角だね」

上倉炎が目をすがめた。

「早速だけど撮ろうか。島の散策に来たわけじゃないし」

わざわざ念を押されなくてもわかってる。心のなかで吐き捨てるように言い返した。

カシミアのセーターの襟ぐりから、たえず風が吹き付けている。


決行日前日、近所の銭湯へ向かった。脱ぐ覚悟はできていた。ひらきなおってしまえば、上倉炎と二人で島に渡ることはどうしようもなく魅力的で、楽しみだった。

濡れているのにくしゃくしゃの紙のようなお年寄りの身体を盗み見る。このなかでもっとも若く美しい人類は掛値無しにわたしなのだ、と思うとうっすら興奮した。

顔にはたくさんの文句や欠点がすぐに乱射銃のように思いつくけれど、わたしは自分の裸にはそれなりに愛着がある。いちど舐めたソフトクリームの表面のような白い腿、丸く丘のようにふくれた乳房、蒼ざめた血管が透ける皮膚の薄い腕。

上倉炎の前で真昼間に脱ぐのだ、と思うと、食事が通らなかった。まるで手術を迎える重篤患者のように、味の薄いお粥ばかり食べていた。

お湯がゆらゆらと揺らめく。水陽炎が肌に薄鼠色の淡い影を落としていた。意識まで湯気が入り込んだみたいに、ぼうっとする。

せめて、一晩だけでもわたしと過ごして。

告白して振られるたび、よほど口走ってしまいたかった。あのときどうして言えなかったのだろう。

上倉炎ではない男になら、そういうたぐいの擦り寄り方をして関係を持ったことはなんどかある。「今日はひとりでいたくない」と意味ありげに呟けば、大概意図を汲んで部屋に連れて行かれた。腰から下だけを貸しあうような、即物的なセックスだとしてもひとりでいるよりはましだった。そういう晩が、わたしにはなんどもなんども訪れた。

どうしてこんなことになったのだろう。わたしはただ、上倉炎とデートするか寝るかしたいだけだったのに。

逆上せている感覚があり、ふらふらと湯舟から上がった。水を飲み、少し休んでからボディークリームを塗りたくった。首、鎖骨、乳房、腹、背中、面積の大きいところを中心に丹念に朝晩と保湿した。それこそ本命の相手との閨房を控えているように粛々と。

けれどわたしは明日、これを、セックスできない相手に披露するのだ。

一方で、どこかで、上倉炎に自分の裸をさらすことをどこかでうれしく思っている自分がいた。露出趣味、という意味ではない。欲情を煽りたい、というのも、間違っているわけではないけれど何かが違う。恥ずかしいのに嬉しい、怖いのに見てほしい、羞恥や恐怖や躊躇でふるえているところ含めて、すっぱだかの自分を受け入れてほしい。この気持ちは単なる性欲なんだろうか?

四年にもなると、学部の間でもわたしの執心は有名で、ちょっとした名物のようになっていた。わかっていて告白してくれる同級生もいた。けれど曖昧ににごして決まった相手はつくらなかった。

上倉のどこがそんなに好きなの、と聞かれたことはなんどもある。いつも適当にごまかしていたけれど、内心、なぜ皆上倉炎を視界に入れて平静でいられるのか不思議でたまらなかった。

自転車にまたがって家路まで漕ぐ。明日、上倉炎に裸を見せる。意味がわからない。もはやどこにエロティックな要素があるのかもわからない。けれど、うっすらとうれしい。たまらない。心と同じスピードで走りたくて、ペダルを漕ぐ脚に力を込める。

売れっ子の小説家で、将来有望で、変わり者で、それだけといえばそれだけだ。小説家ということを抜きにすればそんな人、探せば世のなかにたくさんいる。そもそもわたしは大して本なんて読まないし、小説家に敬意を払っているわけでもない。

でも。もしその人が、自分と同じ大学にいて、会おうと思えば会える圏内に存在しつづけているのだとしたら、どうしてなかったことにできるだろう。電車の車窓越しに、今降りて行った男の人かっこよかったな、と思うのとはわけが違うのだ。

手に入らないものを視界に入れ続けることは心を鑢がけされるように傷つくことだ。おまえがほしいものはどれだけいやしく見つめていても一生手に入らない、と囁かれているような。

はっと息を吐く。息が荒いのは、自転車に乗っているせいだけではない。

万一、今後わたしたちが関係を持てば、その日の収穫はまたたくまにすべてが腐り落ち、手からどろりと零れ落ちてしまう。芸術は猥褻に、純真が打算に、好奇心は浅薄な口実に、このやり取りすべて男女の生臭い前戯の一貫に成り下がる。

それの何が悪いのだろうとも思う。けれど上倉炎はどうやら、本気でわたしが純粋に自分の生の記録を残すために決行を決めたと思っているようなのだ。

〈いまどき自分の裸を写真で残すこと自体は、正直すごく陳腐で、やりつくされてる。だからといって誰でも思いつくようなことを誰もができるわけではない。そういう意味で、僕は素直に水川さんのことがすごいと思った〉

 集合場所と時間を確認するための電話の最後に、上倉炎はさらりとそう述べた。ありがとう、と思ってもいないことがとっさに口からまろびでて、電話を切ってからくちびるを噛んだ。

 そんなの嘘だ。わたしは結局、上倉炎にどうにか思ってもらうために裸を見せたくて、でもそれをしたところで単なる露出狂か変質者でしかないから、それらしい物語性や背景をかぶせて誘っただけ。なぜかはわからないけれどまんまとひっかかった。   それだけだ。粗末な舞台裏、くだらない猿芝居。

野外で脱ぐことは現実的にできるものなのか、明日に迫っているというのにいまいちぴんとこない。いくら島が寂れていたり住んでいる人が少ないと言っても、成人したおとなが一糸纏わぬすっぱたかでいたら、かなり目立つし、通報されたとしても全然、おかしくはない。野外、そして撮る相手はあの上倉炎。考えれば考えるほど混乱する。言い出しっぺは自分なのに。

それにしても、と思う。上倉炎は、どこまでわたしが本気で「ヌードを撮って」と言っていると思っているのだろう。

気がかりなのはそれだけだった。


 砂浜に平行して、入江に向かって歩きだす。気温は高くないにしろ、晴れてはいる。寒いといえば寒い。けれど、脱げないことはない。それに、だだっ広い海を視界いっぱいに見ていたら、解放的な気持ちになった。このひらけた気持ちでいるいまのうちに、脱いでしまいたかった。

脱いで、裸を見せてしまえば少しは諦めがつくかもしれない。大学生活四年館の間に、上倉炎が、手に入らなかったということが。

海は背景としてあまりにも開けすぎて、出口や入口というより、いっそ行き止まりのようにも思えた。だからこそ、脱ぐしかないのかもしれない、と思った。

それとは何も関係なしに、緩やかに天の紗幕が一枚ずつ剥がれて、陽が蜂蜜色にグラデーションがかってゆく。水を一面にたゆたゆとたたえているような青い空。手を浸せば深々と沈んでいきそうだ。

海が陽射しを受けて瞬きと閃きをぱちぱちと繰り返し、満ち引きを淡々と繰り返す。低く、次第に深く。

ぼうっと見惚れてしまいそうになるのをこらえて、言った。

「脱ぐ」

振り返って視界に上倉炎を入れてしまうと脱げなくなってしまう気がして、海に向かって言った。え、と上倉炎が声をもらした。わからない。空耳だったのかもしれない。

コートを脱いで持ってきていたレジャーシートの上に放る。裸足になって、セーターとロングスカートだけになった。

足の裏に砂の柔らかさを感じて、自分の重みでゆっくりとしずむ。その官能的な感触を味わうだけで、なんだかもう、いっぱいだった。感傷を振り切って、言う。

「なるべくゆっくり脱ぐから、脱いでるところも逐一撮ってくれないかな」

「わかった」

上倉炎が一眼レフを首にかけてレンズを覗き込み、構える。

「それから、失礼かなとか不愉快に思われるかも、って遠慮するのはやめて。じゃなきゃなんのために脱ぐのかわからないから」

 先回りして、早口で言い立てる。上倉炎はまっすぐにうなずいた。

すっと息を吸う。

全校生徒の前で作文を読み上げるために舞台上へ登壇する女生徒のような気持ちで、ダウンコートを脱ぎ、セーター一枚になる。

陽射しをじかに受けて腹がほのかに温い。肋骨に均等な縞模様が浮かんでいるだろうか。

腕を交差させてセーターの裾をたくし上げた。カメラを覗いているから、上倉炎の表情はわからない。けれどきっとそれなりにぎょっとしたはずだ。

わたしはセーターの下に何もつけていなかった。跡が残るものは着けていないほうがいいだろう、と思ったことがヒントになった。跡がつかないように、というのを建前に、少しでも上倉炎を翻弄してみたかった。そう、下着を着けずに家を出てきたのだ。

乳輪が、ひんやりとした空気に触れて硬く、何かを拒むように萎んでいくのがわかる。見栄えが悪くなるな、と思いながらも、セーターをすべて脱いだ。

肩、鎖骨、背中、腹……紫外線を恐れず陽のもとでまっさらな状態でいるのは、物心ついてからの記憶ではこれが初めてだ。

ショーツ一枚になる。それも間を置かずに下ろしてスカートの上に放った。黒の総レース。

ブラジャーをつけていない乳房を晒すよりも、ショーツを下ろすほうがあまり抵抗感がないのが自分でも不思議だった。支えを失って、乳房がハの字にのたりと広がっているのが感覚でわかる。怖くて自分の裸を見下ろせない。

何事にも動じなさそうな上倉炎が、女の生身の裸を見て動揺しているのかどうか、確かめたいと思っていたはずなのに、いざ脱ぐとそんな余裕は吹っ飛んでいた。自分が、野外ですっぱだかでいる。そのことにパニックにならないようにするだけでもう精一杯だった。

上倉炎の存在を無視するように、波打際ぎりぎりまで海に近づく。

目を閉じる。もう脱いでしまったのだから、受け入れろ。

海の唸り。どうどうと吠えつくように押し寄せては引き返す。

裸になってしまえば、なってしまえる。上倉炎を視界にさえ入れなければ。そう思った。脇や首すじ、脚の間、汗を書いて熱がこもっていた場所にすうすう潮風が柔く通って気持ちいい。普段風が通ることがない場所だから、知っている感覚ではあるのに   初めて覚える快適さだった。

目を開ける。目の前には広々とした海が、そして視界の端っこに、カメラを構えて立膝をつく上倉炎が見えた。恥ずかしさはさっきよりなかった。カメラを覗いているので、どんな顔をしているのかまるでわからない。

振り切るように伸びをした。

「気持ちいい」

脱いでやった、という気持ちで振り返る。レンズが真っ正面からわたしを捉えている。

我に返らないように、恥ずかしいと気づいてしまわないように、できるだけポーズとポーズの行間をなくすように努めた。気づくとつい、腕を乳房にのあたりに引き寄せて隠そうとしてしまう。そういう仕草を見せることの方がよほど恥ずかしく、腕と胴体をできるだけ切り離すように努めた。

「水川さん。自分も脱いでいい?」

「そうだね。撮ろう」

打ち合わせを通してヌード写真を資料として集めている際、「いいな。僕もヌードになろうかな」と言っていたので、驚きはしなかった。セーターを裸の上から引っ被り、カメラを受け取る。

上倉炎がジャンパーを脱ぎ、トレーナーを脱ぎ、その下のインナーを脱いだ。そしてジーンズを下ろし、黒いボクサーパンツもすっと脱ぐ。一連の流れがスムーズすぎて、なんだかコマ回しのようだと思いながら、息を飲んだ。

上倉炎の身体は、朝日にふちどられて蜂蜜色に照っている。恥ずかしくて、とりわけ下半身は直視できない。見たくて、触れたくてたまらなかったものが目の前に差し出されているというのに。

こうしてまっさらな状態で目の当たりにすると、威嚇されているような気さえする。身体中の乾いた無数の傷が、目をすがめて自分を見据えている。

逃げるようにレンズを覗き込む。上倉炎は、うっそりとこちらを見据えた。睨んでいるわけでもないのに威圧されているようで、カメラがずしりと持ち重りした。

シャッターを切る。裸体を直視するのは抵抗があり、視界にはあってもまっすぐ見ることがためらわれた、レンズを通してだと、見ても恥ずかしさや罪悪感はわいてこない。美術館に飾ってある裸婦像をまじまじと見ても、羞恥心は湧いてこないのと同じように。

どうやら自分より撮られ慣れていないようだったので、「腕を上にあげて、頭の後ろで組んで」「ギリシアの彫刻になったつもりで、横向いてポーズとってみて」「この枝の葉っぱで局部隠してみて」などあれこれ好きに指示を出しだ。上倉炎をお人形のように好き勝手でできることに後ろ暗い悦びが溢れて、いろんな絵を撮った。

「寒い?」

「意外とそうでもない」

背を向けてふらふらと歩き出すのでついて歩く。

裸の上から羽織ったカシミアセーターが柔らかく肌をなぶってこそばゆい。写真の撮り方も良し悪しも何もわからないから、とにかく数を打つつもりでシャッターを切る。

「下、履けば」

 振り向いた上倉炎に言われて気づく。わたしは裸にセーターを着ているだけで、下は裸のままだった。スカートを履くために荷物を置いた場所まで引き返そうとして、やめる。

「いい。撮る側も晒してるほうが安心しない?」

「まあ、わからなくはない。そしたらさっき僕も脱いだほうがよかったかもしれない」

 海を背景に何枚か撮る。現実のことなのに、どうしようもなく、現実感がない。

「お腹すいたね」

「そうだね。もう良い時間だろうし、一旦昼にしよう」

こそこそと着替え直す。脱ぐときよりも、裸から服に着替えているところの方がどこか恥ずかしい気がした。上倉炎がわたしに背を向けて下着を着け直す。

白く大きなはがきのような背中。見ていいのかわからず、タイツを履くのに手間取っているふりをした。


 上倉炎が買ってくれたおにぎりを二つもらった。

「なんで本名で作家やってるの」

「まあなんとなく。インパクトあるし」

「炎って名前の割に醒めてるよね」

「はは」

 温度の低い笑い声を文字ふたつ並べるようにして吐いて、あとは黙々と食べるだけだった。わたしも黙り込んで、おにぎりを食べる。

「正直、意外だった」

「何?」

 裸について寸評でもされるのかと思って心臓が跳ねた。

「水川さん、島に着いて割とすぐ脱いだね。何となく、午前中のうちには脱がないような気がしていた」

 ふ、と笑う。できるだけ先延ばしにできないか、と思わないこともなかったけれど、ぐずぐずしたところで自分の裸の値打ちがつくわけでもない。だったらさっさと脱いで、脱げる器であるということを上倉炎に示した方がよほど心証がいい。あくまですべてが計算尽くだった。

「もったいぶったところで、上倉君は別にそそられたりしないでしょ。もうわたしもいいかげん、あなたがどういう人なのか想像ついてるから」

「そうだね。よくわかってるね」

 ちゃかさないでよ、どれだけ好きだったと思ってるの。昂りに任せてひっぱたきたくなる。どうして、こんな形でしかわたしは上倉炎の隣に行けなかったのだろう。

「だからさっさと脱いだ。自分が脱げるのか脱げないのかわからない状態で居続ける方が、心臓に悪そうだったし」

「短気だね。でもいいと思う」

 社交辞令や間を埋めるために口にしたのではなく素でそう思って言っているのがわかるからこそ、かっとなった。いいって何がだ。姿勢が、思い切りがか。そんなことを褒められるくらいなら、「胸が大きくて形がいいね」「くびれに興奮した」とでも言われた方が余程嬉しいのに。

 ばかばかしいと思う。上倉炎がそういう、俗っぽくて品のない、ばかですけべな人間だったら四年もかけて執着しなかった。だからと言って、じゃあどうしてこの男からどうしても、目を離すことができなかったのか、うまく説明することができない。

 これで良かったんだろうか。

 スマートフォンで時間を見る。まだ十三時だった。確かに、せっかちすぎたかもしれない。

「これから一番陽が高くなってあったかくなるよね? 次は森の中で撮りたいな」

「良いよ。場所を探そうか」

 立ち上がる。一瞬よろけて、咄嗟に宙に手を伸ばしてしまい、相手が上倉炎であることを思いだして慌ててひっ込める。

 上倉炎は尻の砂を払いながら、ゆっくりと歩きだした。気づかない振りをされたんだな、と思って目を伏せた。


 ハイキングコースが看板に沿って示されていたけれど、上倉炎はそれを無視して道を選んで分け入ってく。

「どこ行く気なの」

「観光客がいないところ」

「ふうん」

 分け入っていくにつれ、勾配も上がり、木漏れ日がどんどんただの木陰になっていく。けれど暗く感じないのは、見事に木々が紅葉しているからだった。舗装された道にもびっしりと赤や橙や紅や黄の葉が敷き詰められ、燃え盛る絨毯のようだ。

 紅に燃え立つ木々に道を囲まれながらも、海の音が絶えず聴こえる。火が灯ったような葉の重なりの隙間から、海がきらきらと瞬いて鱗のように光を撒き散らしているのが見えた。自分が日本にいるということを忘れそうになって、目に入るものの彩りのあまりの豊かさにくらくらした。天の光を受けて、葉がひとつひとつさんざめきながら黄金色の波を起こす。ぎっしりと葉をたくわえた木々は風で揺れるたびに、大きく伸びあがる炎のようにしなやかに形を変え、光で織った反物のように視界をふさいだ。噎せそうなくらいに、胸いっぱいに差し迫る風景だった。

 圧巻だった。桜はどこか人を突き放すようなそら恐ろしい神々しさをたたえているけれど、紅葉は突き放すというよりも包み込んで取り囲んでしまう。天から、地から、東西南北見渡す限りいっぱいに小さな炎がまたたいて、唐紅の森の中から出られない。抗うことを人に諦めさせる力がある。

「こんな中途半端な季節、ヌード撮影に不向きだと思ってたけど意外とそうでもないのかもしれない」

 坂を上りながら上倉炎が呟く。

「東京で暮らしてると日本には夏と冬しかないような気がしてくるけど、そんなことないな」

「確かに。こんなにちゃんとした紅葉を見たのは初めてかもしれない」

「僕も。紅葉の時期に生まれたからこういう名前なんだけどね」

「そうなの?」

「今まで紅葉にはさして思い入れもなかったけど、こうして森の中にいると、燃えているとしか表しようがないな。ほんのりあったかい気さえしてくる」

「だね。天然のランプだね」

 道が開け、急に何もない場所に出た。すぐそばに神社がある。

「ここ、広いし良さそうだね」

 上倉炎がリュックを下ろした。わたしも、レジャーシートを木の根元に敷いてコートを脱いだ。

「さっきよりは人の目は気にしなくていい気がする。さすがにここまで奥深くくる人はいないと思う」セーターをたくし上げていると、容赦無くシャッターを切られた。「背景として申し分ないな。砂浜より寒いと思うけど、頑張って」

 タイツを脱ぎ、スカートを輪のかたちにすとんと落とす。さっきよりは抵抗が薄れているけれど、怖いものは怖い。壁も屋根もない、風が肌のどこかしこもふれてくる場所で、何にも皮膚が守られていないということに一生慣れそうにない。豊かな土壌を裸足で感じる。うっすらと湿っていて、冷たい。

虫が怖くてあまり座りたくなかった。そっと木にもたれかかる。肌を傷つける尖りはなく、さらさらしていた。思いきってぺたりと抱きついてみる。乳房が柔らかくひしゃげた。

 木の表面がゆるやかに体温を奪い、だんだんと冷えていくのがわかる。

 人が来る気配がないので、思いきっていろんなポーズをしてみた。海外通販のモデルみたいに腕を伸ばし、脚を曲げ、腰や喉を仰け反らせる。この画がかっこいいのか滑稽なのかは、写真のデータを確認しなければわからない。上倉炎も、さっきより積極的にあれこれと指示を出してわたしを撮った。

乳房のさきが、冷えを敏感に感じ取って何かを拒むように小さくこわばっていく。隠すことができないこの場において、上倉炎の目がまったく気にならないわけではないけれど、見映えが悪くなるな、と思うだけだった。裸でいるのを晒すのは二回目なので、さっきよりは変なあせりはない。

とはいえ状況のおかしさに意識をやると頭がどうかしてしまうから、必死に目を背けているだけかもしれないけれど。

「水川さん。そろそろ寒くなってきたんじゃない。代わろうか」

「そうだね。服着る」

 裸の上からセーターを被り、スカートを履いて素足でスニーカーを突っ掛ける。当たり前だけれど、それだけで温かく、ほっとした。上倉炎は、てきぱきを服を脱いで、あっというまに裸になった。

 綺麗に肉の詰まった胸筋がぱんと気持ちよく膨らんでいる。陽が遮られているぶん、陰影が濃くなり、身体の凹凸が陰影ではっきりと浮かび上がっていた。

 上倉炎は容赦がなかった。地べたに這いつくばり、寝転がり、薮の中でも果敢に突っ込み、カメラ役のわたしも同じように泥だらけになって撮る羽目になった。

「上倉君の方がもしかしてヌード撮影楽しみにしてたんじゃないの?」

 もはやカメラの存在など気にもしていないかのように裸であちこち駆け回る上倉炎を汗だくになって追い回し、睨みつける。「水川さんほどではないけど、良い機会だなと思って」と澄まして自分の体に泥を塗りたくる。全く、まるきり小学生みたいだ。

「なんだか、ここだけ光が落ちてる」

 指差す方向を見ると、赤い落ち葉が敷き詰められた原の中で、確かにそこだけ、スポットライトが落ちているみたいに陽が落ちていた。天を見上げると、ぽっかりと木のてっぺん同士が額縁のように小さく青空を切り取っている。日なたを選んでゆっくりと上倉炎が横たわった。

上倉炎だけがこの世界でとうといものとして選ばれているみたいに、照らされる。ざわめきにあわせて、葉の形に光が揺れた。献花をするように、わたしはそばに膝をついた。

「なんだか白雪姫の遺体みたい。なんだか、完璧すぎるろう人形みたいでちょっと怖い」

「僕じゃなくても、裸じゃなくても、この場所に横たわればみんなそうでしょ」

「違う。わたしがあなたに惚れているから」

 口走ってから口をつぐむ。上倉炎は、目を開けなかった。裸になってもこの人はわたしの気持ちを受け入れないのだ、と思ったらあまりにも悲しかった。

琥珀色の透明な陽を浴びて、あまりにも神々しい。斑点のように影が落ちて、裸でいることがとても自然に見えた。

上倉炎の顔や身体のうえで、生きているかのように葉の影がうごめく。まるで自然に犯されているような艶かしさがあった。

 覆いかぶさるようにしてレンズを上から向ける。思い切って、両足で彼の胴体を跨いだ。気配で気づいているはずなのに、上倉炎はずっと目を閉じていた。

 ふと、たまらなくなった。膝をついて上倉炎に跨ったままセーターを脱ぎ、スカートのファスナーを落として脚を引き抜いた。下着を着けていなかったので一瞬で裸になった。

 カメラをそっと地面に置いた。レンズ越しではなく、直接上倉炎の裸を見つめる。隆起した胸の筋肉、うぶげのわずかなふるえ、独立して浮き上がった翡翠色の血管、水を溜められそうな喉から胸にかけて深くえぐられた腱。すべてにくちづけて、舌で甞めとったらどんな味がするだろう。

首元の、熱の高いところに顔をうずめようと身をかがめたら、上倉炎が目を開け、わたしは硬直した。万引きが見つかった子供みたいに。

 上倉炎は、裸でいるわたしを不思議そうに見ていた。自分だって一糸もまとっていないくせに。

「服着たら」

 その声に驚愕はあっても、怯えや恐怖はない。そして、欲情のかけらもなかった。

 上倉炎が目を開けた途端、抱きつくことが急に恐ろしくなって、不自然な姿勢のまま身体が固まって動くことができない。上倉炎とわたしの身体から発される熱が、ふたりの隙間で熱せられて温かい空気となって混ざり合っている。それを押し潰してひとつになりたいという衝動と、拒まれることの恐怖が自分の中で荒れ狂い、せめぎ合っていた。

「上倉君」

 黙ったままでもいられず、どうにか声をしぼりだす。

「わたしとセックスしよう」

誘うための作為ではなく、緊張のせいでかすれた声になった。小さな赤い炎のような複葉に囲まれて風がゆるやかに吹き付けるなか、自分の台詞があまりにもこの場で取ってつけたように響いた。二人とも裸でいるというのに。

上倉炎はまっすぐにわたしを見上げた。直球で女に誘われているにもかかわらず、温度の変化は何もない。

「しない。そんなことのために来たわけじゃない」

「なんで」

なんで断れるんだろう。性欲がないのか、童貞なのか。いっそそうだったらどれだけ救われるだろう。

優越を感じつつああそうと納得できるからだ。

「僕から退いてくれ」

「……いやだ」

「だだこねないで。人が来たらどうするんだよ。どちらか一方ならともかく、二人とも裸だったら言い逃れできなくなる」

「こんなところ誰も来ないって言ったのはそっちでしょ。そうだ、言い逃れなんてしなくていいように、いま本当にすればいい」

「屁理屈言うなよ」

 あきれたようにつぶやき、わたしを上に乗せたまま一瞬起き上がろうとした。けれど一緒に体勢がくずれ、悲鳴を上げて思わずしがみつく。体重をかけてしまったせいで、上倉炎は突き放せず、揉みあいながらも後ろへ倒れた。皮肉にも、恋人同士で事後に裸でじゃれつくような格好で。

抱きつきながら押し倒す格好になって二人してまた地べたに戻された。意図せず裸で上倉炎に密着することに成功して、すべてを味わうように深く呼吸した。心臓が身体からちぎれそうなくらいに走り回って、痛い。

 上倉炎の唇が動いた。くだらない、と時間差で読み取ることができて、カッと喉に熱が集まった。

「わたし、四年間ずっと見てた。上倉君がどんな人か、撮影依頼が通ったあとの顔合わせでやっと知った。なんでこんな人のことずっと諦められないんだろう、とも思ったけど、でもどうしても、ほしかった。こんな人なんだ大したことないな、って幻滅すればいい、と思ったけど、好きなままだった」

 こんなにも近づき、全身で触れて、密着しているというのに、どうして、触れていると思えないのだろう。この人は、どうしてこんなにもこわばり、わたしを拒んでいるんだろう。この期に及んで、わたしを受け入れる気がない。それを身体のいたるところで感じ取り、ぶるぶるとふるえた。

「気持ちはわかった。いいから、落ち着いて。退いてよ」

「どうして」

「僕はそういうことをしたいと思って島まで来たわけじゃない。それはそっちだってわかってるだろ」

「わかってるよ」わたしはのろのろと身体を起こした。ようやく上倉炎が、わたしの下でこわばりを少しほどくのが哀しかった。じっと目を見つめる。

「わかってるけど、脱いでいるのに触れられないのが、さびしくて」

「ヌードになるっていうことを、冒涜してるね」

 言葉は辛辣でも、声も表情もあくまで静かに凪いでいた。

「僕が引き受けたのはあくまで撮影と被写体だけだ。それ以上でも以下でもない」

「裸を見せ合ったのに?」

「性交渉に持ち込むために脱いだわけじゃない。少なくとも僕は」

「わたしだってそうだよ。裸を見せるだけでも十分、許されたり、受け入れられた感じがして嬉しかった。でも、それだけなの、だから」

 上倉炎は急に身を起こした。動きが読めず、中途半端な体勢でいたわたしは振り落とされる格好で崩れて、顔から地べたに倒れこむ。上倉炎は引き起こすでもなく、張り付いているわたしを見下ろしていた。草が頬を引っ掻く。痒くて、どこかが痛い。それなのにもう二度と起き上がれそうにない。

 上倉炎がわたしを放って歩きだす。荷物を置いていた場所で服を着替え始めた。

 もうどうでもいい、と思い目を瞑る。どっちみち歪みきった行為には違いなかったのだ。惚れている男と裸を撮り合って、まるく収まるはずがないのだ。考えられる限りもっとも最悪な形で終わったけれど、会話することさえまともに成立していなかった大学四年間を思えば、どっちもどっちだと思った。

 ばさりと布が降ってきた。下だけデニムを履いた上倉炎が、わたしの脱いだものを持ってきてかぶせたのだった。

「服着たら。もう陽が落ちてきてる」

 ふてくされた気持ちでセーターを被った。振られた相手に見放されず、やさしくされているということに今は救われている、そのことが恥ずかしくてたまらず、いたたまれなかった。さっさと自分の荷物だけ持ち去って置いていかれて、今日のことをなし崩しになかったことにされた方がましだ、となどと思ってもいないことを思う。

 黙々と着替え、アウターのファスナーを閉める。上倉炎が黙ってリュックを背負った。歩き出す。ついていくほかなかった。

 言葉をかわさないまま、来た道を黙々と戻る。どうしてあんなことをしてしまったのだろう。それまで、それなりに上倉炎に近づけて、親密な空気が流れていたのに。

 けれどどこかでわかっていた。裸を撮影することを敢行すると決めたときから、すべてがぶち壊れてでも上倉炎に抱きついてやろうともくろんでいた。正確には、自分にはその我慢がきかないだろうと悟っていた。それを実行して、ゴミのように振りはらわれた、ただそれだけだ。

 口を開く。もはや返事などなくてもよかった。

「わたし、通過したあかしがほしかったんだと思う」

「何?」

 前を向いたまま、返事が返ってくる。

「わたしたちが、ちゃんと。一緒にいたことの」

「証ならカメラの中にぎちぎちに詰まってるだろ」

 そうじゃなくて、と思ったけれど、もう言葉を紡げなかった。重ねれば重ねるほど、言いたいことから遠ざかり、上倉炎にいなされるだけだ。

わたしは別に、上倉炎と本当に寝たいだなんて多分、思っていない。

セックスしたい、という感情は、肉体的欲求というよりも、領土を奪って居座りたい、とか、知らしめ合いたいみたいな、暴力に近い。肯定するふりをした暴力。

だから、「あなたと深い仲になりたい」「あなたのものになって抱かれたい」みたいな感情というよりも、むりやり身体を使って相手の陣地に割り込む感覚に近いのかもしれない。自分が横柄に寝そべるだけの場所を、相手の陣地に押し広げて強引に得るがために。

「だから性交渉を持つ必要はないよ」

「わかるよ。わたしが異常なのかもしれないね。でも、人間関係において寝る方が圧倒的に楽じゃない」

「そう? 全然そうは思わない」

「男女ってそういうもんじゃないの」

「わからない。正直に言って、わかりたいとも思わない。脈絡がなさすぎる」

その口調に、吐き捨てるような軽蔑の色はなかった。ただ、穴の底にいる生き物を、手を伸ばすでも慈悲するでもなくじっと見下ろしているような、圧倒的な遠さだけがあった。その背中を見ながら、途方に暮れてしまう。

少しは降りてきてほしい。曇り一つない石像のようにうつくしすぎるから、こっちがいたたまれなくなって煙草の煙と一緒に唾を吐きかけたくなる。別に喫煙者でもないけれど、上倉炎を凌辱するためだけに吸ってもいいような気がした。

上倉炎が顔を怒りで青黒くさせてわたしの胸ぐらを掴んでのしかかってくるのを想像する。いっそそうしてくれたら、安堵するだろう。そうしてやっと、自分と同じ土俵まで引きずり下ろせるからだ。

「寝るのに脈絡も何もないよ。気がついたらそうなってるものでしょう」

「そうだとしたら矛盾してる。僕にその意欲はない」

「上倉君ってつくづく考えてるのかわからない。裸を見たのに」

 くるりと上倉炎が振り向いた。三白眼でわたしを見据える。

「わからないからしたいってわけ? セックスを」

「そうかもね」

上倉炎はふっと息を吐いた。笑ったようだった。

「わからなくたっていいだろ、自分とは違う人間なんだから」

突き放すような言い方ではなく、子供が知らない単語の意味を母親に尋ねるような清さと無邪気さがあった。だからこそどうしようもなく乖離を感じて、いっそなきたくなる。

すでに目頭はうっすらと熱を持っている。少し無理をすればぐずぐずと泣けるのにそうはしないのは、泣いたところで上倉炎はそれでほだされたりごまかされてくれないことくらいわかっているからだ。

逆に言えば、わたしはいつもセックスで臭いものや曖昧なもの、面倒なものをごまかしてきた。

「わたし、七回もあなたに告白したことがあるんだよ」

「全部ではないにしろ、覚えてるよ。でも、水川さんのあれは、恋愛感情に駆られてって言うふうには見えなかった。もしそう違ったらごめん」

「最初は恋愛感情だった。でもだんだん変わった」

「何に?」

「なんだろうね。支配欲」

「うわ」上倉炎は絶句したのち、初めて破顔した。「狂ってるよ。何それ」

「わかってるよ。思いついたことをあてはめたで、それもちょっと違う」

「ふうん」

栓をされるようにぐっと押し貫かれるとき、すくなからずわたしは、腑に落ちている。インナー、シャツ、ジャケット、ネクタイ、コート、衣服をこれでもかと着て肌を覆い、どれだけ涼しいことを言っていようが大概の男はわたしの裸を見せれば欲情してふくれた性器を突きつけてくるのだ。なんてわかりやすくて簡単なんだろう。

寝たところで、でっぱっているところと穿たれているところをほんの一瞬つなげるだけだ。近しくなってその人に心をゆるされたような気がするのは錯覚でしかない。それでも、「暴きたい」「知りたい」という欲求が湧くと、すぐに寝ることを連想してしまう。寝さえすればこの男を攻略できたも同然だ、と。

「僕はセックスより楽しいことを片付けるのに今は精一杯だから」

「うっさい。人を色情魔扱いしないで」

わかっている。セックスを知らないで「得体が知れなくてこわいもの」として自分から遠ざけていた頃のほうが、圧倒的に豊かだった。いつからこうなったんだろう。上倉炎を視界に入れることがなければ、こうはならなかっただろうか。今ごろ、サークルの同期あたりと付き合って三年くらいで、社会人になったら同棲しようかなんて話していただろうか?

「今日の相手、わたしじゃなくたって、よかったんでしょう」

「何拗ねてるの」

「拗ねてるとかじゃなくて。別にあなたは、きゃあぴい騒がず裸を撮らせてくれる人間だったら、わたしじゃなくてもよかったんでしょう」

いや、と上倉炎は首を傾げかけて、けれど「そうだね」と呟いた。小説家のくせに少しも嘘をついてくれない。一挙一動に傷つけられながらも、わたしはまだこの男から目を逸らすことができない。

「だったらわたしじゃなきゃだめな理由ひっさげて、次は来るよ」

「喧嘩腰だなあ」

ふん、と鼻を鳴らす。けれど、「次なんてないよ」と言われなかったことが嬉しかった。

 たったいまだけの気持ちかもしれない。大学を卒業して、東京を出て、上倉炎がいない世界で暮らしているうちに、熱病のような執着は綺麗さっぱりなくなって、あの時はどうかしてた、と涼しい顔で肩をすくめているのかもしれない。

 でも、たったいまは。見つめずにおれない。触れられないとわかっていてなお、求めてしまう。余熱で自分を温めるためでも、照り返しのおこぼれを預かるためでもなく、もっと原始的な欲求で、惹きつけられてたまらない。

「もう陽が沈むよ。最終便までそんなに時間がないから急ごう」

 前を見やる。火をお椀によそったような橙に染まった海が眼前に広がっていた。夜はまだ、ずっと遠いところにある。ただそれだけのことになきそうになって大きく息を吐いた。

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