夕立

@_naranuhoka_

夕立



 やってしまったと思ったときには凪の顔は痛々しいほど真っ赤で、あからさまに全神経が口元に集中しているのがわかる。

 どう取り繕うもんかな、といると「印刷機」と凪が呟いた。脈絡のない単語に「へ」と間の抜けた声が出る。

「三階の印刷機、インクの出が悪くなってるみたいなんで、あとで見といてくれたら、助かります」

「あ……あとで見ておくね」

 突然プリンターの話をされて面食らっているうちに、凪はふらりと陽炎のように立ち上がって職員室を出て行った。ぼうっと見送って、パソコン画面に目をやった。エクセルの表が暗くなっている。まだ、先週ぶんの模試の成績を打ち込んでいる途中だった。

 生徒にキスしてしまった。

 やばいかな。正社員じゃないから、まあ、いいか。凪が、ほかの生徒に言いさえしなければ。

 凪のことは前から可愛いなと思っていたし、凪もわたしを悪からず思っているのは薄々気づいていた。そうじゃなかったら、わたしだって、あんなことしない。

あんなこと。あー、さっき凪としてしまったんだよな、キス。と思うとくちびるがへんなふうにゆるむ。

 にしても、と作業を再開しながら含み笑いしてしまう。あの逃げ方は、あんまりじゃない? 凪は二浪生の二十一歳だから、わたしとは三歳違いだ。まさか初めてなわけでもあるまいし、もうちょっとスマートにふるまってくれてもよかったものを。キスした直後、つまらない話でそらすなんて失礼だし、かっこ悪いし、めちゃくちゃ、ダサい。拝島なら、まっすぐ目を見つめて、わたしが目をそらすまでは視線をそらさないくらいの芸当はしてのけるだろう。凪と同年齢のときであっても。

 結局、終業まで凪は事務室に来なかった。いまひとつ身が入らないまま、もくもくと作業を進めた。

 五時半きっかりにタイムカードを押す。タイミング悪く廊下で凪とすれ違ったりしたらやだな、案外待ちぶせてたりして、と思ったけれど、そんなこともなく、ふつうに予備校を出た。バスに揺られて駅まで向かう。

 ぼーっとしていると、どうしても凪とのキスを思いだしてしまう。

 いつもと何も変わらなかった。退勤まであと二時間だな、とあくびを噛み殺しながらパソコン作業をしていたら、生徒がふらりと入ってきた。顔を上げなくても、華奢な細身のシルエットで凪だとわかった。

「化学の青本貸してください」

つまらなさそうに言いながら、わたしの机の背後に回った。貸し出しの参考書が詰まった本棚は、受付カウンターの中にある。取りに来るには受付のわたしに声をかけて「それください」と頼むか、中に入って自分で取るかするしかない。

凪は大抵、わざわざわたしの背後に回って本棚から参考書だの辞書だのを持っていく。正直、仕事をしているところのすぐうしろを回られるのは気が散るしうっとうしいのだけれど、凪の目論見はあまりにも明白で、露骨で、いじらしかった。要は、わたしと近くで話したいのだった。

今日もいつものように、「何してるんですかー」とパソコン画面を覗き込んできた。邪魔くさいな、と、可愛いな、という気持ちが半分ずつないまぜになって、「みんなの成績打ち込んでるから見ちゃだめだよー」と軽くいなした。凪は面白がってますます覗こうとした。やだもー、と可愛い声を出すと凪はよろこぶ。アホか、と毎度思いながら、この茶番をさしていやとも思っていない。

「俺のも見ました? 今回の結構できてたでしょ?」

「凪君個人のページもあるよ。見る?」

見たい見たい、と凪がうれしげにはしゃぐ。かまうと凪は犬みたいによろこぶ。綺麗な顔をしているのに、いささか無防備すぎる。

痩せているから余計に目立つ、異物めいた喉仏、白い肌に青っぽく浮かんだそばかす、硝子のように綺麗な目とお人形のように生え揃った長いながいまつげ、細い手首にぽこりと痛々しく浮かんだ、ビー玉のようにまるく尖った骨。

だから、しゃがんでわたしの顔のすぐそばで自分の成績の推移を見つめる凪にいつのデータか見方を説明しながら、てんでべつのことを考えていた。いまキスできそうだな、と。

凪くん、と声量をしぼってささやくと、凪はぽけっとわたしを振り向いた。ちょっと首を傾げて、くちびるを押し当てた。できそうだと思ったから、した。

それだけだ。


母がつくった夕食を食べた部屋で後ごろごろしていたら、スマホが光った。

【今帰宅する】

拝島からだった。つまりは「いまから来い」という意味だった。身体がばねのように俊敏に動き、手際よくメイクを済ませ、自転車にまたがった。スーパーで缶ビールとてきとうなつまみを買ってアパートへ向かう。

チャイムを鳴らす。ジャージ姿の拝島がのそりとドアを開け、「お疲れ」「入って」も言わずにさっさとわたしを置いて中へ入っていく。香ばしい匂いがした。

「もう食べた? カレーつくったんだ?」

「食った。食いたきゃご勝手に」

流しには皿とスプーンが置かれていた。スポンジを手に取り、洗う。

「別に、それ洗わなくても以外の皿あるだろ」

「ううん。わたし食べてきちゃった。牛丼」

「あっそ」

だからこの皿洗いは単なるボランティアなのだけれど、拝島はめったにわたしの家事に礼を言わなくなった。そのくせちょっとでもずさんだと「汚れ残ってる」「シャツ、皺伸ばしてから干して」などと難癖はつける。

「今日何してたの。バイト?」

「うん。予備校」

「さっさと職見つけろよ、親も心配してるだろ」

水を流して聞き流す。転職中でいまは契約社員で予備校の事務、ということにしている。本当は職なんて大して真剣に探していない。こんな田舎で探そうにも、介護職か事務かレジ打ちくらいしかない。

前の会社は印刷会社の事務だった。制服が可愛くて仕事内容は退屈で、youtubeとか見ていてもばれなかったのでそこそこ気に入っていたけれど、同性の先輩社員にとことん嫌われて面倒になって辞めた。八か月で退職した時親には嘆かれたけれど、「いじめられてつらかった」とかわいこぶって泣いてみせたら黙って家においてくれた。

ほんとうの原因は、女の先輩がひそかに付き合っている同じ職場の男性社員にちょっかいをかけられて、わたしもかけかえしたことがばれたからだった。

わたしが辞めるとわかったとき、先輩は「あんたは本当に顔だけだから、そういう職でもついたら」と吐き捨てた。「何それ、え、風俗のことですか」とわざと声高に返したら顔を真っ赤にして、「そこまで言ってないでしょ、キャバクラとかよくわかんないクラブとか」ともごもごと言った。この人いまだに人前で「セックス」とか言ったことないんだろうな、となんとなくそういうことを思った。

 拝島に就職活動状況を聞かれる前に、とっさに話題を変えた。

「そうだ、浪人生クラスでひとり顔が可愛い子がいてね」

「ふうん」

「男の子なんだけど、仔犬系っていうの? あんまり笑わないで無愛想なんだけど、この田舎にはめずらしい正統派の美形でさ、三浪してるんだけど、顔だけで生きていけそうなんだからわざわざ勉強頑張らなくてもいいのにって思う」

拝島はへぇ、と低い温度で言ったっきり台所の換気扇の下で煙草を吸い始めた。わたしが勤める予備校のことなど心からどうでもいいのだろう。隠そうともしない態度にいまさら傷ついたりはしない。ただ、拝島がすこしでも妬いてくれないかな、と思ってつまらないことをわざわざ話題に出してしまったことを恥ずかしく思っただけだった。もはや拝島はほとんどわたしに興味を持っていない。わかっているのに、高校生のような気の惹き方をしてしまう。

身をかがめ、煙草をくちびるに咥えてガスコンロの青い炎で火を点けている。ただ横着をしているだけだとわかっていても、両手をスーツのポケットにつっこんで身体を折り曲げている姿はあやうくていろっぽい。

「あぶないからやめろっていつも言ってるだろ」

後ろから腰に手を回して抱きつくと、素で煙たそうに拝島が呟く。煙草くさ、と言いながら、鼻を背中に押し当てた。

「ここで吸ってるとこ見ると、したくなるから」

「そうじゃなくてもおまえはいつもそうだろ」

色気も情緒もなく拝島は鼻で笑ったけれど、わたしを本気で振り払おうとはしなかった。吸殻を缶にねじ入れ、わたしに頭を押すように撫で、ベッドへ連れて行く。

電気を点けたままいちどして、拝島は「そろそろ帰れば」とにべもなく言った。いつものことなので、言われたときにはわたしは下着を履き直していた。上は着たままだったから、上下が不揃いだったことに拝島は気づいていない。上半身を脱がされない女と、揃っていない下着でのうのうと家に上がられる男のどちらがみじめなんだろう。そんなことを思いながらデニムに足を通す。もう長いことペディキュアを塗っていない爪は、かたちががたがたでみっともなかった。

わたしは可愛いのに、ちっとも可愛がられていない。男にも、わたし自身からも。

「じゃあね」

拝島はベッドの上に寝ころんだままわたしを見送った。

わたし今日生徒とキスしたよ。

よっぽど言ってやりたかったけれど、拝島の舌のざらつきを思いだすとうっとりして、覚えたての男子高生みたいににやつきながら家に帰った。


拝島と初めて会ったとき、わたしはまだ学生だった。

アルバイトをしていたカフェの常連だった。拝島はいつも、木曜日か日曜日の夕刻に来て、パソコンを叩いているかビジネス書を読んでいた。洒落た黒縁の眼鏡をかけ、深いネイビーのスーツを着こなした拝島は、いつも不機嫌そうで、神経質そうに長く白い指でコーヒーカップを傾け、店で流しているジャズの一切を拒否するようにイヤフォンを耳に挿していた。誤ってコーヒーでもこぼそうものなら冷酷な目つきで鋭くにらまれそうだと思って、いつもコーヒーを運ぶときはびくびくしていた。正直、拝島がいると店の空気が硬くなる気がして、あまり好きな客ではなかった。

あるとき、拝島がいつものように入ってきて、「ブラック」と注文した。かしこまりました、と伝票に書きつけていると、拝島が着ている袖がひどく濡れていることに気づいた。白いシャツが灰色に見えるほどだった。

「昼間、ナポリタンを食べてなぜかここだけケチャップがついてるのにさっき気づいたんだよ。時間が経ってたから全部は落ちなかった」

わたしの視線の先に気づいた拝島が早口に言った。ぶっきらぼうな口調だったけれど、いたずらを咎められた少年のようにどこかきまり悪そうだった。

この人、ナポリタンなんて食べるんだ。笑みがこぼれるのをとめられないまま、「乾いたおしぼりをお持ちしましょうか」と言うと、「ありがとう」と呟いて、濡れていない方の左手で袖口を恥じるように覆った。この人はどんなふうに女を口説いて、セックスに誘うんだろう、となぜかそんなことを思った。

思ったその日のうちに自分とそうなるとはまさか思わなかったけれど。

「ずっと、綺麗な子だと思ってた」と裸体でわたしに覆いかぶさりながら拝島は言った。「新潟に来て初めて、来るのが楽しみな場所ができた。水鈴ちゃんがいなかったら、こんな田舎で楽しみなんて見つけられなかったと思う」

面と向かってそんなふうにきざなことを言われ、正直面食らった。ここまでストレートに口説かれたことなんてなかった。拝島が東京の会社から出向した、都会生まれの大手銀行員だと知って、納得がいった。拝島にこの野暮ったい街は似合っていなかった。

社宅だというメンションは、シンプルながら洒落た家具で部屋が仕切られていた。ルームフレグランスを部屋に置いている男の人を初めて見た。

すっかりわたしは拝島を気に入って家に入り浸るようになった。四年生の時期は大学の授業がなかったから、昼になっても一人でそこで過ごした。勝手にyoutubeを観て、洗濯物を回し、米を炊いて夕飯の支度をした。拝島の帰りはいつも十時を回っていたけれど、慌ただしく夕食を食べ、シャワーを浴び、わたしを抱いてから眠った。疲れがひどいときは、文字通り、人形のようにわたしを抱きしめながら寝入ったけれど、平日でもほとんど毎度、拝島はセックスをした。

いつも同級生とばかり付き合っていたから、六歳上の拝島のやり方はわたしにとって新鮮だった。わたしの身体を捏ねくりまわしたり、感じさせようと躍起になるようなことがないところが良かった。せがめば苦笑いしながら朝でもわたしに押し入った。

この人はわたしを沈めるみたいに抱くのだな、と思った。溺れまいとしがみつく身体は、痩せているのに流木のようにしっかりと硬く締まっていた。「また遅刻だ」と言いながら朝食も食べずにスーツを素早く着込んで部屋をばたばた出て行くのをぼうっと見送ったあと、たいがい二度寝をした。拝島の薄い体臭と香水、さっきまでしていた余韻の、こもるような汗の匂いが入り混じった濃紺のシーツは、わたしをこんこんと眠らせた。拝島のアパートでの学生時代の記憶は、ほとんどが朝寝だ。

ただしわたしたちがきちんと「恋人」だったのは去年の秋までだ。未定だった拝島の出向に区切りができた。来年の一月に東京に戻れることになったらしい。

以来、拝島の態度は豹変した。

「こんなくそ田舎、早く出たい」と悪しざまに罵るようになり、頻繁に東京へ帰るようになった。セックスはするけれど、キスはせがまなければしてくれなくなった。この頃は泊まるとあからさまに厭な顔をするし、「俺の後釜、早く見つけろよ」などと言う。

そのくせ、「新幹線も止まらないようなこんな街で、まともな職やってる男なんてせいぜい市役所ぐらいだろ」とくちびるを歪めて嗤う。実際、その通りなのだった。良い大学に行った子たちはわざわざ東京や大阪から、拝島が言うところの「裏日本」にけなげに戻ってきたりしない。いるのはわたしのような、中の上以下の高校を出て、中以下の大学だの専門学校だのを出て、のらりくらりと地元に戻ってくるような中途半端な若者と、高卒で働いてすでに子供がいるヤンキー上がりの所帯持ちくらい。

拝島は顔の造形こそ、公平に見れば並みをすこし上回るくらいだけれど、大学のときからつづけているというジム通いで均整のとれたしまった身体をしているし、上背を生かしてシンプルで上質な服をセンス良く着こなしていたから、随分色男に見えた。香水をまとう男の人と会ったのは拝島が初めてだった。手首を鼻に押し当てると、発酵したウィスキーのような、こっくりとした香りがした。

 おそろしく多忙で、ちっとも地方での暮らしに順応していないくせに、いつも余裕があった。マンションはいつも名の知らない洋楽が流れていた。わたしの垢抜けない訛りを、「かわいい」といじくってからかった。

わたしにとって拝島は東京そのもので、おとなで、特別な男だった。そんな人に見染められたことを誇らしくも思った。

けれど、事務員として勤めに出て、ゆっくりと幻想が剥がれ始めた。拝島のことをエリートだと思い込んでいたけれど、この田舎の町の支店にいるということは、要は左遷なのだ。「なんで新潟に希望出したの?」とわたしが尋ねたとき、拝島は苦笑いしてこたえなかった。「いつまでここにいられるの?」と訊いたときも。

拝島の持つ余裕は諦めから来るものだったのかもしれない、と思ったのは、そのときだった気がする。

わたしが思っているよりこの人はすごい大人でもないのかもな、と思った。けれど、それはどこかうれしさを含む発見で、拝島のことを、なおさら可愛いと思った。


 面倒な事態になっているのかもしれない、と気づいたのは翌日の退勤時だった。

「先生、お茶しませんか」

 にこにこしながら、事務室に凪が入ってきた。タイムカードを押すところだったわたしは、ばっちり固まってしまった。

 もちろんわたしは先生ではなく、受付嬢でしかないのだけれど、ここは予備校であるからして事務員のわたしも先生と呼ばれる。県内のつまらない公立大学しか出ていないので、ここに通っている誰よりも偏差値は低い。

 ――昨日のこと、なかったことにはなってないんだな。

 億劫だと思ったし、後回しにしたいとも思ったものの、まあ避けては通れないだろう。

「まあいいけど」

そう言うとこの地方にしかないチェーンの珈琲屋に連れて行かれた。冗談でしょうと思って凪に笑いかけたけれど、いたって真剣な顔をしていたので慌てて笑顔を引っ込める。ガチか、この男。

「先生転職活動してるってまじですか」

 のっけから思わぬところを突っ込まれ、水を吹き出しそうになった。

「そうだけど。なんで知ってるの」

「数学の伊藤先生が話してました」

「そう」

「予備校辞めるんですか」

なんだか一本調子の会話だな、と思いながらも「内定が出れば」と答える。すると、凪の抜けるように白い頬に、わずかに血の色が透けてみえた。

「転職活動どうですか? 進んでますか?」

「まあ、ぼちぼちね」

初っぱなから都合の悪いことを聞かれて気が重くなる。一応、拝島の手前、していないこともない。先週社長秘書の面接に行ったところで、「結婚したらやめるの?」「彼氏はいるの?」と根掘り葉掘り聞かれてうんざりして、ハローワーク通いをやめていた。秘書ってなんかかっこいくてエロくね? と言う浅はかな理由で応募した自分がばかなのだ、と心から思った。

予備校の事務のバイトをしているのも、単なる受付嬢でもよかったのだけれど、少しでも賢そうなイメージになるのであれば、と思ったからだ。実際に拝島に報告したら、「もう二十五なんだからいつまでもフリーターでいるなよ」と冷たく釘を刺されただけだった。二十五。ああ、なんて可愛くない響きなんだろう。二十四で止まってほしかった。

「前の会社はなんだったんですか?」

「パンフレットとか作る印刷会社の事務」

「なんでやめちゃったんですか」

「パワハラがひどかったし、給料も安かったから」

拝島という男が現れて、「でもわたし、結婚するしな」と思っていたから、意地悪なお局も上司からの露骨なセクハラもそこまで辛くなかった。けれど、恋人に手を振り払われた途端、耐えきれなくなった。勢いのまま、あてつけのように辞めてしまった。

「退職した」と突然報告したら、さすがに拝島はぎょっとして、「そんなに早く辞めて大丈夫なの?」と案じていた。だからと言って「やっぱり籍入れようか」とはならないのだった。

いつ出られるかもわからないなんの娯楽もないこの町に飛ばされたなかで、拝島が付き合った女はわたしだけだ。

「遠距離恋愛してたんだけど二年目で保たなくなって、正直もう結婚は諦めてたんだよ。でも、水鈴がいたから」

きざだな、と思いながらも、わたしはにやつきを抑えきれずに胸板に頬擦りした。そんな甘い記憶も、いまとなっては他人が描いた絵のように遠い。

「いま、実家暮らしですか?」

「そうだよ」

「やっぱり。訛ってるから、こっちの人だと思ってた」

少しもうれしくなくて、曖昧に笑う。

「凪君て、ほかの浪人生と仲良いの? 誰かと話してるの、見たことない気ぃするんだけど」

「あ、初めて俺のこと訊いてくれた」笑うと、なぜかかえって暗そうに見える子だった。「話しますよ。岩村とか西君とか。まあでも俺、結構歳食ってるんで、とっつきづらいんじゃないんですかね。LINEもしてないし」

「ふうん。不便じゃない?」

「別に。俺、高校の友達もそんないないし、みんな大学生になって忙しいし、親くらいしか連絡取る人間、いないす」

「そう」

こうして予備校の外で会って真正面から向き合ってみると、凪は作りもののような精巧な顔立ちをしていた。すんなりと縦に伸びた植物のような細身の体躯に、こぢんまりとした頭がちょんと乗っている。すっと横に切ったような涼しい奥二重だけれど、顔が小さいせいかどこか小動物のような愛嬌のある顔立ちだ。

女にすごくもてるかいっそ敵と見なされていじめ抜かれるかのどっちかって感じの見てくれだな、と思った。綺麗すぎるのは、異端と同じだ。自分の美しさに自覚を持てずうまく使えなければ毒にしかならない。

「でも嬉しい」

 凪は無邪気に笑った。無邪気に見せかけてすごく卑屈で、わたしに媚びていた。

「俺、ずっと先生と話してみたかった、ちゃんと、二人で」

「話くらいしたことあるじゃない」

「そうだけど、こうやって外で」

そういって凪は言い淀んだ。デート、という単語を使うかどうかためらっているのかな、と思った。デートも何も、チェーンの喫茶だけど。

「またお茶誘っていいですか」

「いいけど」

ほかに答えようがなくてうなずくと、よっしゃ、と歯を見せて笑う。可愛いし、ストレートな好意の示し方にもっとときめいてもいいはずなのに、不思議なくらい心の中は静かで、醒めきっていた。

会計は割り勘だった。それもどうなのかな、と思ったけど、黙って千円札を渡した。社会人になってから男の子と遊んで割り勘だったのは正真正銘初めてだった。

――あー、なんで浪人生なんかにキスしちゃったかな、わたし。

わたしのぶんのお釣りを細かく探しわける凪を見ながら、うんざりしてしまう。勝手にやっといて随分勝手な言い分だとわかっていたけれど、それが素だった。

凪の横顔が、石膏像みたいにきれいなラインを描いていたら、なんだかむらっとして、魔が差しただけだった。性別が逆だったら完全に犯罪だった。こういうとき女って楽だなと思う。やつあたりに自分の性欲をぶんまわしても、ある程度なら許されるのだから。

 店を出る。じゃあまた勉強戻ります、と駆け足で予備校へ帰っていく凪の背中を二秒も見送らず、携帯に目を落とした。

拝島からの連絡は、ない。


いじめられたから、というひと言で両親は印刷会社の突然の離職を許した。社寮を引き払ったので、実家に戻るほかなかった。

予備校でもらう給料のいくらかを食費として渡したら、「そんなのいまはいいから、ゆっくりしたら」と母に押しとめられた。傷心の娘を気遣う両親、という役割を演じるくらいには、親はわたしに甘かった。「かわいいかわいい」「お人形みたいね」とちやほやされて育てられたことがあたりまえのことではないと知ったのは、随分後になってからだ。

そういうわけで、いい歳をして実家に「フリーター」としてのらりくらりと居座っていてもそこまで居心地は悪くなかった。むしろ、拝島の家に長居すると「いつまでそうやってしているのか」とこんこんと説教されるので、そういう流れにならないうちに自分から帰っている。いじめで会社をいづらくなったという理由で退職した娘が外泊を繰り返すのも両親の心臓に悪いので、皮肉だけれど、拝島が泊まることにいい顔をしなくなったのは、わたしの都合と合致するのだった。

わずかにいる地元の友だちや会社の同僚にいまの状況を言うと、大概、「あちゃー」という顔をされる。仕事をやめたことはともかく、拝島とずるずる付き合っていることがまずいらしい。

「要するに元彼に振られたあとセフレ扱いされてるってことっしょ。一番最悪じゃん、とっとと切りなよそんなクズ」

先週会った高校の同級生、真弓にも言われた。真弓は二十歳の時に高校から付き合っていた地元のヤンキーの先輩の子供を妊娠して結婚した。「子供とかマジ早くつくってもしょうがないわ」と煙草をぷかぷか吸ってぼやいている。フリーターになって久しぶりにお茶をした時、「早く結婚して子供産みなよ」「本当可愛くてしかたない」とか言われたら結構傷つくだろうな、と身構えていたので、高校時代と変わらないスタンスの真弓に救われた。そうじゃなかったら、拝島のことなんか話せなかった。

「いやでも本当かっこいいんだってマジで。マッチョだし」

「セックスうまいやつなんて絶対すぐほかの女とするんじゃん。新潟いるうちだけでしょ。絶対東京に本命つくってるよ、男探しなよ。県庁勤めのやつとかさぁ。あんた顔可愛いんだから、いくらでもいるよ?」

「そうなんだけど、元彼もまだわたしのこと切れないみたいなんだよね。情があるっていうか。だから、ひどい扱いされてるのはわかってるんだけど、こっちから切る勇気がない」

はん、と真弓が鼻を鳴らした。

「外部からしたら、そんな背景とか事情とか、どうでもいいから。どれだけロマンチックな事情があろうが、ちゃんと付き合ってないならセフレはセフレだよ」

正論過ぎて何も言えなかった。黙りこんだわたしを憐れんだのか、真弓は口調をやさしくした。幼子をあやすみたいに。

「水鈴はさ、贔屓目抜きで可愛いんだからそいつに執着する意味ないじゃん、東京の男って響きに惑わされてるって」

「それは……ある」

「でしょ。やめとけやめとけ、所詮うちらは田舎もんだから」

むっとしたけれど、真弓はわたしを心配してくれて言っている。昔だったら二股しようが浮気しようがされようが、「いいじゃんいいじゃん、もっと派手に遊んで面白くしてよ」と手を叩いて笑っていた。母親になって、保守的になったんだろうか。それとも、二十五歳という年齢がそうさせたのか。

わたしは、この歳になっても、初めてセックスをした十五歳のときからなかみが何も変わっていない。男の人がいなければ何もできないし、自分の価値を見いだせない。

ふいに携帯が鳴った。拝島からの着信だった。「でなきゃだ」と呟くと、男からだとは言ってないのに「結局行くのかよ」とうんざりした顔をされた。拝島からの連絡に舞いあがって、何も気にならない。

 いつも男に告白されたり口説かれたりして付き合っては、飽きたら自分から振っていた。どうして拝島にだけはこんなにみっともなく取りすがってしまうのか、自分でも不思議で仕方がない。


 わたしが住む町は二十年前に合併して市に吸収されたものの、元々は五千人足らずのとても小規模な町だ。海に面しているわけでもなく、なだらかな谷の底にあるだだっ広い平野に位置している。

将来のことを考えて心に重黒い緞帳が降りてくると、小学生の頃、社会見学で見た「町の縮図」の模型が頭の中に浮かんでくる。

 ウミガメでも買えそうな大きな透明な四角の中に、自分たちが暮らす町がミニチュアの模型で並べられていた。なだらかな起伏も表され、小学校はここ、家はここらへん、とあちこち目を走らせた。

 ばかでかい箱の中には、基本森と田んぼと畑しかなかった。この箱の外に行くには、それなりに頭のいい大学に進学しないとどうにもならないということに気づいたのは、いつだっただろう。そして、自分にはそのための頭がたりないということに。

「可愛い子はそれだけで人生イージーモードだから、努力がみんなより足りてないんだよ」

関係が危うくなり始めた頃、拝島に言われたことがある。

「何それ。わたしが頑張ってないって言いたいの」と気色ばむと、謝ったりごまかしたりすることもなく「東京だったらまた違ったかもしれないけど、ここ、田舎だからな」と呟いた。

 むっすりと黙りこんだけれど、反撃の言葉は紡げなかった。それよりも、ひさしぶりに「可愛い」と言われたことへの、ねじれた嬉しさの方がまさっていた。

拝島に高校の思い出を聞いたら、予備校と学校と家の往復でしかなかったと返された。拝島はとても有名な

私立大を出ている。いい大学に一般入試で入ろうと思ったら高校三年間は勉強漬けにならざるを得なかったらしい。

「水鈴の高校の思い出は?」と訊き返されて、「女子高だったからイオン行って遊んでた」とごまかした。ふうん、とそれ以上は訊かれなかった。田舎は娯楽が少ないな、としか思わなかったのだろう。

男の子とばかり遊んでいた。ファミレスで合コンのまねごともしたし、大学の学祭に行って誰が一番たくさんナンパされるか遊んだ。農家の跡継ぎと付き合ったときは高校まで軽トラで迎えに来させてみんなで荷台に乗って帰った。ヤンキーっぽい男と付き合っていたときは高架下で青姦したこともある。

可愛いわたしは、外見だけで生きてきた。これからもそうだと思っていた。それで百点だったのに、何がだめだったんだろう。


 六月になり、転職活動に精を出すようになった。凪がかまってほしそうにまとわりついてくるのがうっとうしくてたまらないのだった。付き合ってる気? と素で言い返しそうになって、冗談にならないような気がして口をつぐんだこともある。

 ――浪人生となんか付き合うわけないじゃん。まだ大学生でもないくせに。

 田舎は結婚が早い。学がないわたしは当然すぐに結婚すると周りに思われていたし、自分でも思っていた。もっと遊びたいと思わなくもないけれど、そもそも若い男はだいたい自分の同級生か元彼の同級生か先輩かで、そんなに数を撃てるわけでもない。どいつもこいつも対してかわり映えがない。

 いちどだけ、どうしてもと言われて前いちど行ったカフェで凪と落ち合うことになった。

「なんか、雰囲気変わりましたね」と失礼なほどまじまじと見られながら言われて「髪、黒染めしたから」と簡素に答える。

「そっちの方が可愛い」

 鼻で笑ってしまった。元ギャルなので、高校生になってからは基本茶髪か金髪だ。予備校の受付嬢のバイトさえ、アッシュで通した。黒染めしたとき、自分が大事にしているものを殺めているような罪悪感さえうっすら覚えた。目の色素が薄く、カラコンをいれていることが多いので大人しそうな髪色は、あんまり似合わない。

「凪君って童貞でしょ」

直球を投げると、凪は露骨なほど顔を赤らめた。なんだかその様変わりが生々しくて、思わず目をそらす。

「なんですかいきなり」

 あきらかに動揺している。それがもう、思いっきり童貞だった。

「いや、思っただけ」

 だとしたらあれがファーストキスだったんだろうか。そうだとしても、いまさら突っ込まれても困る。

「先生、転職してもこの町出ないですよね? 東京とか、行かないですよね?」

 その通りだけど、「うん」というのが何となく癪だった。

「東京か、いいね」

「え、行かないでくださいよ」

「彼氏づらしないで」

 ぴしゃりと言うと、凪はさっと顔色を失った。言ってやった、という快感と後ろめたさがないまぜになる。

「あ、あんなことしといてそんなこと言うんですか」

 初めてキスのことを言及されて、さすがに心臓が跳ねた。けれど、まっすぐに凪を見つめると、ひるんだように目をそらした。なんて弱いいきものなんだろう。もはや可哀想なほどだ。

わかっている。拝島にされて死ぬほどつらい思いをしていることを、凪に同じことをしてやつあたりした気になっているだけだ。

「僕がどんな思いで、毎日いるか、想像したこともないでしょ」

 蒼白い顔をして凪が呻く。

「僕の気持ち、わかってて、したくせに」

「物欲しそうな目でまとわりつかれたって、迷惑なだけだから。じゃあね」

千円札を投げるように置いて席を立つ。凪の表情を確認する余裕などどこにもなかった。掴みかかられたらどうしようと思ったけれど、店を飛び出しても凪は追ってこなかった。

はらはらしながら早足で歩き、後ろをこわごわ見返して、なんだか膝からくずおれそうになった。

――くっだらない。

何してるんだ自分、と思ったら泣けた。凪なんか、受かったら都会の大学に行くくせに。

みんな置いてくんだ。どうせ。残るのはつまらない男と、可愛いしか取り柄がないのわたし。

一丁前に、凪を傷つけたことで自分が傷ついていた。厭な汗がつうっと首すじを流れて、頭ごと乱暴にかきむしりたい衝動に駆られた。


現実逃避のように転職活動に夢中になっていたら、拝島と会わなくなってひと月立っていた。

「何してるの?」「家行っていい?」となんどもメッセージを飛ばしているのに、「忙しい」「今本社」とそっけなく返ってくるだけだ。そのわりに、酔っぱらうと真夜中でも容赦なく電話をかけてきた。いつかかってくるのかわからなくて、携帯を握りしめたまま寝入った。

酔っ払っているときだけは、付き合っていたとき通り、拝島はやさしい。コーヒーをいれたカップの底で溶けかけている角砂糖のような溶ろけた声で睦言を繰り返す。朝になれば、覚えていないからたちが悪い。

 それでも、不在着信があればすぐさまかけ直して、拝島につながるのを待った。「今人といるから」と冷たく切られて、みじめったらなかった。むかつきすぎて腹のなかが煮えくり返ったけれど、どうしても、連絡先を消すことはできなかった。

 男の子なんか、その辺にたくさんいるし、ナンパされればついていく。たまに家までついていく。でも、どいつもこいつもつまらなかった。泊まらないで帰ろうとすると、猫なで声で「一緒に寝ようよ」と言ってくる男も少なくなかったけれど、「彼氏いるから」と嘘をついてでも帰った。まがいものが、と呪いのように思った。

「早く帰ってきて」とメッセージを打ったら、「嫁でもないのに」と真夜中に返ってきた。多分酔っている。これが拝島の素だった。

 いつまでも元カノを現地妻扱いしているのは拝島の方だ。あたりが強いのはわたしがそうまでされたとしても拒んだり去っていかないと踏んで、甘えているからでしかない。もう、彼に対してそういうことでしか優越を感じられない。わたしたちは結局、「こいつよりはまし」とお互いを見下し合っているだけだ。

 そのうち、小さな広告店の事務職の内定が出た。ネイルと私服勤務がOKだから、と言う理由で受諾した。あっけなく、フリーターが終わることが決定し、なんだか脱力した。もう一生、ちゃらんぽらんな感じで生きていくのかと思った。

 ほっとしているのに、欲しいものが手に入った瞬間、また毎日9時6時で働くのか、と思うとげんなりした。

 こうやってなんとなく、日常に戻るのだ。

 

「次の職場見つけたよ」と拝島に報告すると、「よかったな」と微笑まれた。久しぶりに笑いかけられ、それだけで涙が滲みそうになった。

「別れよう」

 拝島は一瞬顔をこわばらせ、「もう別れてるようなもんだろ」と口を歪めた。けれど、わたしを見て、苦笑いした。

「ごめん、俺が悪かった」

「すきだよ」

 抱きつく。拝島はわたしを引き剥がさず、なすがままに突っ立っていた。拝島の匂いが胸いっぱいに広がる。けれど抱きしめ返されることはなかった。

これ以上にもこれ以下にもならない、そのことを全身で感じ取って、何よりも哀しかった。

「じゃあね。げんきで」

「おまえもな」

 引っ越しはしない。これからも実家で暮らし続けるけれど、拝島には言わなかったし、これからどこに行くのかも聞かれなかった。

 この人の助手席に、ずっと座っていたかったな、と思った。けれど、いつまでも万年床でぐだぐだ寝ているわけにはいかないのだった。

 玄関で見送られ、ラインを非表示じゃなくて、削除した。

 ――なんか、思ってたよりずっと綺麗に別れられたな。

 あーあ、と思ったけれど、わたしが拝島をおいていくのだ、と思ったら少しは背すじがしゃんとした。涙をぬぐい、家に帰った。


 予備校に「転職活動が終わったので、来月で辞めます」と報告しに行った。所詮はバイトなので、特に驚かれることも、祝福されることもなく、「そう」とのんびり返された。

 久々に受付にいると、当然凪も現れた。幽霊でも見たように、一瞬顔をこわばらせ、黙ってタイムカードを押して行く。

「凪君、わたし内定出たんだ」

 思い切って背中に声をかけると、のろのろとした仕草でこちらを振り向いた。少し痩せたのか、首すじの線がなんだか尖りすぎて荒んでみえた。

「そうですか」

 それ以上、会話の展開を何も考えていなかった。沈黙になり、凪も部屋を出るわけでもなく、わたしがただ呼び止めただけの格好になり、気まずくて視線を床に滑らす。

「じゃあもうここ辞めるんですか?」

「うん」

 せいせいする、くらい吐き捨てるかと思ったけれど、凪はただ首をわずかに傾げた。

「帰り、待ってていいですか」

「いいよ」

 断る権利もなく、うつむくようなしぐさでうなずいた。凪はふらりと出て行った。

 何も考えずに手元だけを動かしていたら、退勤の時間になった。五時半になっても凪は来なかったので、迷った末にタイムカードを押し、予備校の外に出た。

 自販機の前で凪が缶コーヒーを買っているところだった。わたしに気づいていないはずなどないのに、黙ってプルタブに指をかけ、コーヒーを飲む。何、と思っていると黙って後ろを指差して見せた。自転車小屋があるだけだ。

「何? まさか自転車で行くってこと?」

「はい」凪が缶をゴミ箱に放る。「後ろに乗せますよ」

「ばかじゃないの」

思わず口走ってしまう。夕方と言えど、外はまだ陽が沈まず、ねっとりと暑い。凪はひるまなかった。

「これでまとわりつくのは最後にしますから。俺がしたいことをさせてください。べつに、それくらいいいでしょう」

皮肉めいた言い方に汗をかく。何をされるんだろう、とこわくはあったけれど、黙って凪の後ろに跨る。何をされると言ってもやくざにさらわれるわけでもあるまいし、せいぜいラブホテルに連れ込まれるくらいのことだ。

「荷台、おしり痛いんだけど」

「我慢してください。どうせ高校生の時散々やったでしょう」

「そんなこと言ってもほんとに痛いんだもん」

わめいていたら、凪は自転車からわたしを下ろし、タオルを荷台に載せた。多少やわらいだけれど、そういうことではない気がする。

凪はぎこちない動きで自転車を漕いで行く。

「わたし、そんなに重くないでしょ。もっと早く漕げないの?」

のろのろ走るので、まわりからの目が痛かった。うかうかしていたら予備校の関係者に目撃されかねない。

「もうずっと運動してないんで、いまはこれが限度です」

凪の声はほんとうに余裕がなく、押し黙るほかなかった。腰に手なんか回すもんか、と思っていたけれど、のろすぎてそもそも捕まる必要がなかった。

駅を過ぎ、川沿いに走る。車はまばらになったけれど、逆に歩行者が増えて不躾に視線を投げかけられる。それもそうだ。制服を着ていないいいおとなが汗だくになってちんたら二人乗りしていたら、わたしだって見る。

「もっと人通り少ない道を選べないの?」

「いいじゃないですか。これが俺がやりたかったことです」

「わたしに恥をかかせること?」

どうしてもいやみっぽい言葉しか口をついてこない。凪は、信号待ちになって振り向いた。

「違います。みんながいるところで、女の子と自転車で二人乗りして帰ること」 

 あきれてしまう。「あんたんちまでついていかなきゃなの?」と力なく言うと、「先生、絶対いやでしょ。僕、そこまでの度胸はないですね」と冷静に返ってきた。

「適当なところで引き返して、駅まで送りますから。あ、実家住まいなんですよね? そこまで送りましょうか」

「本気でやめて」

けれど、中高生のときは男の子にそうやって送らせていた。ときどきそれが車になった。

「先生、男子と自転車二人乗りしたことありますか?」

「しぬほどある」

「やっぱり。僕、はじめてなんです」

だからこんなに下手なのか、と思った。思うだけにとどめる。

「青春っぽいこと、なんもやったことない。勉強ばっかりだった」

休みましょうか、と言って自転車を橋に止めた。「カップルは高架下でだべる、っていうのが僕の高校のステータスだったんで」とわけのわからないことを言いながら土手を簡単に降りていくので、仕方なくついていく。高架下に誰もいないのがせめてもの救いだと思った。

「先生も高校生のときはカレシとここで話してたんじゃないですか?」

「わたしの高校でははやってない」

でも、よく考えたら凪とわたしは大して歳が違わないのだ。

「何して遊んでました?」

「彼氏とプリクラ撮って、家に行って、それくらい」

「すげー。絵に描いたような青春送ってますね。僕、そのときから塾と学校と家の往復だった」

「女の子と遊ばなかった?」

「俺、女子からはぶられてましたから」

あんたは顔がきれいだから、と言おうとして口をつぐむ。きれいなせいで厭な思いをしてきた人間にそんな酷なことは言うべきじゃない、それくらいはわかる。

川面をすべってきた風が、髪を煽り立て、汗だくになった身体をなぶる。ここでとうとう青姦で復讐されるのかと思ったけれど、凪はばたばたと濡れたTシャツを煽っているだけだった。つ、と首すじに汗が玉になってころがるのを見て、たまらなくなる。

黙って肩をすり寄せると、凪はあからさまにこわばり、張り詰めるのがわかった。かまわず、首元に顔をうずめる。

凪の髪は、日なたみたいな匂いがした。

「凪君」

押しだされるように名前を呼んだ。

「もう一回しようよ、キス」

はっ、と凪が大きく息を吐いた。笑ったのだった。

「ふざけてる」

笑っているのに、凪のくちびるはおかしなふうに歪み、声が鋭く響いた。

「あんた、どれだけ僕のこと舐めてるんだよ」

とっさに何も言えなかった。

「したいと思ってないくせに、勝手に人の気持ち踏み躙って玩具にして、楽しいかよ」

はは、はは、とつくりものめいた笑いを短く発して、凪はふいに膝に手をついた。肩がふえるえていた。嗚咽を隠すことを諦めて、凪はうずくまってしまった。

「なんで好きでもないのに、キスしたんですか」

ごめん、とくちびるが動きかけたけれど、卑怯だと思って口をつぐんだ。

「びっくりしたけど、あれ、うれしかったんですよ」

よっぱらった拝島に気まぐれに頭を撫でられるときのことを思いだす。死なない程度に餌を与えるのは卑劣だと心から蔑んだけれど、どうしようもなく気持ち良くて、うれしくて、いいかげんこの人から離れよう、という気持ちがいつだって吹き飛んで行った。

去る者は勝者だ。いつだって。だから、いつも、裏切られる前に裏切ってきたし、逃げられる前に逃げて、傷つけられる前に傷つけてやった。

そうではないやり方を知っていれば、いまごろ拝島はまだわたしのところにいてくれただろうか。まさか。でもきっと、凪にこんな冷たい目を向けられることもなかったはずだ。

立ち上がる。「帰るんすか」とふてくされたように凪がわたしを下から掬い上げるように

にらみつける。

「水鈴さんみたいに、誰とでも、僕はしたりしない」

「それを守り続けられる男はすっごい少ないよ。いまのうちだけだよ」

「いまのうちだけでいいです。……水鈴さんが僕の前にいるには、どうせいましかないんですから」

 目を見る。うっそりと顔をあげて上目遣いになった凪は、卑屈さはなく、わたしの値を定めるように凄みがあった。肩を掴んで、花から零れ落ちる朝露を受け止めるように、くちづけた。

 離すと、肩で息をしながら、凪はわたしをにらみ、「なんで」と言った。

「したかったから。今度は嘘じゃないよ」

「僕は、キスじゃなくて先生と、付き合いたかった。デートしたり、手つないで家帰ったり、したかった」

「ごめんね」

凪は長く、息を吐いた。

「今度はもっと一所懸命、漕いでよ。ブレーキかけないで坂下りたい」

「こわくないんですか」

「こわいけど、きっとこわいことって気持ちいいよ」

「じゃあ手加減しないですからね。スピード出ても騒がないでくださいよ」

 凪につづいて土手を上がる。夕陽が眩しくて、目を瞑りながら歩いていたら手を引かれた。汗ですべらないように、しっかりと握り返す。

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夕立 @_naranuhoka_

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