いつか零れ落ちるもののすべて

@_naranuhoka_

第1話

学校の図書室は、雑木林に似ている。森と言うほど本棚がたくさんならんでいるわけではないけれど、いろんな本がぎっちりと棚のなかに収められて、古びた紙の匂いが鼻をつんとくすぐる。その匂いは、濡れた落ち葉を踏みしめたときに広がる匂いとどこか似ている。

 小学校で一番好きな場所はどこですか? という今月の学級新聞のアンケートで一位を取ったのは校庭脇の、遊具がたくさんある「プレイランド」で、二位が体育館、三位がプールだった。図書室は音楽室や三年二組と一緒に「その他」でまとめられていた。みんなはあまり、三階にある校舎のすみの図書室を利用していない。わたしはそのことを気に入っていた。自分が好きな場所をほかのみんなにも踏み込まれるのは、ちょっとくやしい。

「もう読んだんですか。夏目さんは、読むのが早いですねえ」

 おととい借りた「長くつしたのピッピ」を返却しに行くと、司書の浅倉先生が驚いたように受け取ってくれた。三年生に上がってから、絵本やすべてのページに挿絵があるような本を借りるのは止めた。「ミッケ!」や「かいけつゾロリ」に騒いでいる同級生を見ると子どもだなあと思うし、なんだか勝ち誇ってやりたい気持ちになる。

「どうでしたか? この本」

「うーん。星ふたつ」

 正直に言うと、「夏目さんには退屈だったかな」と困ったように本のバーコードをぴ、と読み取った。おもしろさを星の数で表すのは、先生から教わったことから始めた。インターネットなんかでは本の面白さは星の数であらわすんですよ、と。元々はレストランのレベルを表すために使われていたらしい。先生と自分にしか通じ合わないひみつの暗号のやりとりみたいで、気に入っている。

「最後まで読んだけど、うーん、好きじゃないかも。ピッピって、かわいくないし」

「日本人の作家のほうが合ってるのかもしれませんね、また探しておきます」

先生はメガネを少し押さえて、わたしの目をじっと見た。本の読みすぎで悪くなったらしい一重の目はほんのわずかにくぼんでいる。幼稚園も、小学校の担任の先生もみんな女の先生だったから、男の先生にはいまだに慣れない。そういえば、お母さんが「男の司書さんはめずらしい」と言っていた気がする。

入学したとき、初めて図書室に来てここにも先生がいることにびっくりした。町の図書館ともまた違う雰囲気に戸惑っていると、「一年生ですか?」と浅倉先生が首をかしげた。色白でほっそりしている。なんだかきりんみたいな見た目のおにいさんだなあ、とこっそり思っていたら、「ぼくも一年生なんですよ」と微笑んだ。思いがけない言葉にぎょっとした。

おとなが一年生なわけがない、と思って「うそだ」と即座に言った。おとななのに自分のことを一年生と言うなんて、なんだか怖いし、気味が悪いとすら思った。先生は困ったように首をまたわずかにかたげ、「この小学校に来たのは今年からなんです。だから、一年生」と頭を下げた。

あの日のやりとりのことはいまだにふたりの間で笑い話として残っている。「初めて来た子が一年生で、新入生同士で緊張しました」と先生は肩をすくめる。

晴れている日の長休みはとくに図書室は人が少ない。みんな、外で遊んでいるんだろう。図書室に行くときも、「鉄棒やろう」と佐川さんが女子をひきつれてわたしを抜き去っていった。

「先生」

「うん?」

「一学期のアンケートに、友だちはいますか? って質問の答えに『浅倉先生』って書いたら市井先生に怒られたんだよ」

ははは、と先生が笑う。めずらしく大きく口を開けたからか、少しだけコーヒーの香ばしい匂いがした。

「友だちでいいですよ。夏目さんと僕は、本仲間ですから」

「ほんと?」

 あまりの誇らしさで、身体の端っこがひかりだしそうなくらい、心の内側がじんと熱を持つ。面接のとき、「司書さんは友だちではないのよ」とやんわり叱られたのを思いだして、担任の市井先生にやーい、と言いたくなった。クラスのなかまと仲良くしましょうね、と言われて、うなずいたふりをして口をぎゅっと結んだときのくやしさが、みるみる溶けて消えていくようだ。

 チャイムが鳴る。「じゃあまた昼休み」と言ってわたしは急いで二階の自分の教室に向かった。


 三年生に上がると、理科と社会と総合が加わって、生活科がなくなった。外へまわって生き物を探したり植物を調べたりするのは苦手だったので、みんなはがっかりしていたけれど、わたしは勉強する科目が増えてほっとした。

 二学期になっても相変わらず自分の教室に愛着はない。二年生のときより、クラスでいばりたがる女子がはっきりして、それが面倒くさい。あまりかかわらないようにしていると、しぜんと友だちをつくれなかった。ひとりで本を読んだり、自由帳に絵を描いたりして過ごしている。

 二学期からの理科では、昆虫について習っている。昆虫の足はすべてはらから生えている、というのは知らなかったからおもしろいと思ったけれど、理科の教科書にカラーで載っているモンシロチョウの変態の過程を見るのがいやでずっと閉じている。ほんとうはドリルやプリントの写真も見たくないし、筆箱で隠しながら解いている。「チャレンジ」で予習済みだったので、板書も適当に写すだけにして、ピッピの絵を描いた。返した本に載っていた古めかしい絵じゃなく、可愛いバージョンのピッピだ。赤毛じゃなくて金髪の巻髪にして、そばかすもなくして、上向きの鼻ではなくちょこんと控えめなものにして、目はぱっちりと大きくして――教科書も開かずに一心に鉛筆を動かすわたしに、市井先生がちらりととがめるようにこちらを見たような気がした。先生からはピッピの絵が見えているんだろうか。あわてて教科書をひらく。昆虫の写真が載っていない、説明だけのページにして、絵を隠した。うまく描けているから残しておきたいけれと、一週間に一度ノートの提出がある。ピッピにふきだしを書いて、「チョウはさなぎから成虫になるよ」としゃべらせた。これなら、単なる落書きじゃなくて一応「ノートまとめの工夫」になるだろう。

 次の時間は体育だった。理科のあと、みんなが急いで体育館に向かう。給食前なので走る余裕もない。上に着ていたカーディガンを脱いで半袖短パンになり、したくをした。べつに誰かが「いっしょに行こう」と誘ってくることもないので、急がないまま教室を出る。

「ねえ、知ってる? みゆって堀田のこと好きらしいよ」

 ハチマキをしばりながら廊下を歩いていると、とつぜん特徴のある声がしゃべりかけてきた。振り向くと、同じクラスの岬ちゃんがそばかすだらけの浅黒い顔でにこにこ笑っている。

普段、あまり話したことがない子にいきなり噂話を持ちかけられ、ちょっとうろたえる。岬ちゃんのハチマキは、ちょうちょ結びにならず片結びになっていた。

「ほりた、って三組の?」と訊き返す。よく知らないけど、たぶん坊主頭の前歯が大きい男子だ。口をきいたこともない。わたしが興味を持ったと思ったのか「そーそー」と少し声を跳ねさせながら岬ちゃんが顔をくしゃりとさせた。永久歯がまだ生えていないのか、下の歯が一本欠けて穴ぼこが空いている。

「二年のときから好きなんだって。意外じゃない? 堀田なんてぜんっぜんかっこよくないのにさぁ」

 岬ちゃんの声は特別高いわけでもないのに、きんきんとよく響いた。長休みでもないのに廊下にはたくさん人がいる。その中に堀田くんがいるかもしれない、と思い内心びくびくしていた。もっと声小さくしたほうがいいよ、と言っても、理由がわかっていないのか岬ちゃんはにへらと笑いつづけている。

「マナちゃんっていつもひとりで体育行くの?」

「そうだけど」

 とたん、岬ちゃんは目を三日月みたいに細くして、「よかったあ」と言った。「じゃあ今度からわたしと行こう。体育だけじゃなくて理科とかトイレとか」

 うげー、と思ったのに、流されてついうなずいてしまった。めんどうなことになったな、と心のなかでだけため息をつく。わたしがいつもひとりで行動しているから、岬ちゃんに目をつけられてしまったのだろう。

 岬ちゃんは今年初めて同じクラスになった。四月の頃からよくしゃべりかけてくるので、気さくな子なんだな、くらいに思ってそれなりにしたしく話すこともあったけれど、岬ちゃんは女子のあいだできらわれている。それがわかったのは五月の運動会の準備が始まったころだった。岬ちゃんと借りもの競争で同じ班になった佐川さんが「岬がいるとほんとやる気なくす、この班サイアクー」とぼやいているのを聞いてしまったからだった。すばっしこそうに見えるけど実はものすごく運動音痴なのかな、と思っていたけれどそんなことはなく、岬ちゃんが班の足を引っ張っているようには見えなかった。でも、佐川さんは明らかに四人班のうちの岬ちゃんだけを無視して作戦を話し合ったりおしゃべりしていた。岬ちゃんは去年から同じクラスの佐川さんの態度には慣れきっているのか、無理に割り込むわけでもなく、でもおとなしい班員の子に話しかけたりしてますますヒンシュクを買っていた。

 そのあと、岬ちゃんとたまたま体操のペアになったとき、いつものようにあれこれ話しかけてくるので、おしゃべりに付き合った。すると、あとから「ねえねえ」と佐川さんに声をかけられた。「マナちゃんって岬のこと好き?」

 クラスを仕切っている佐川さんに突然ふっかけられ、質問の中身以前のことに動揺して黙っていると、「ねえ、好きなの?」となおも詰められた。後ろには佐川さんとよく一緒にいる加藤さんもいた。

 こういうとき、「好き」と言えば自分も佐川さんから反感を買うことはわたしでもわかっていた。だからと言って「きらい」とうそをつくのも気が引けた。「べつにふつう」とこたえると、佐川さんは拍子抜けしたように、そっか、と薄く笑った。なぜか、つまらなさそうに見えた。

「なんで?」

「岬って一年のときからみんなに嫌われてるから。男子にも。あいつ、うっとうしいしうるさいしほんっとうざいでしょ? マナちゃんもあんまり仲よくしないほういいと思うよ」

 ごみを焼却炉に放りこむみたいに悪口を並び立て、じゃ、と加藤さんを引き連れてどこかへ行ってしまった。結局一番言いたかったのってなんだったんだろうな、と思った。

つまさき立ちして岬ちゃんのことを探す。ひとりで歩いているのが見えた。あたまから取ったばかりのわっかのままのはちまきをぶらさげて、ひょこひょこと昇降口に向かっていく。悪い子じゃないけど、佐川さんたちにああいうふうに嫌われているのなら、あんまり仲よくしないほうがいいのかも、とひそかに思った。

 だから、岬ちゃんがとうとう自分に狙いをさだめてつるみたがるようになり、ほとほと困ってしまった。とうぜん、その日の体育は一緒にペアを組んでストレッチをして、ずっとわたしのそばを離れようとしなかった。種目はポートボールで、ただでさえ苦手なのに試合の最中にも隙をついてこっちに寄ってきて話しかけてくるので、気が散ってしょうがなかった。

 いままでは岬ちゃんが気まぐれに話しかけてくるときに相手をしているだけだったから、よくしゃべる子だなあ、としか思っていなかった。むしろ、ほかの女の子たちのように間合いを取るように話しているときの気詰まりを感じないぶん、話しやすい子だと好感を持っていた。

 でも、一日じゅうべったりとつきまとわれ、その日が終わるころにはぐったりしてしまった。そして、岬ちゃんのことが苦手になってしまった。本を読む隙さえなかった。

 とにかくしゃべる。どうでもいいことばかりだ。弟がピア二カを踏んづけて壊しただとか今日の給食の献立のチリコンカンがどうしても嫌いだとかイヌが飼いたいだとか、おちもないし、とりたてておもしろいとも思えない。最初のうちは相槌を真面目に打ったり「あはは」と無理に笑ったりして付き合っていたけれど、帰りの会が終わったあともすぐさま「ねえねえ」と席にやってこられたときはあからさまにうんざりしてしまった。この子、悪気はないんだろうけど、佐川さんたちにきらわれてもしょうがないかもな、と思ってしまった。おとなっぽい子たちがしきりに悪口で使う、空気が読めない、という言葉の意味がやっとわかるような気がした。岬ちゃんは空気が読めない。わたしがいらいらしているのをぜんぜんわかってくれていない。自分がどう思われているのか、ちっとも気にしていないようなのだ。

 ほんとうにめんどくさい。この子に明日からもずっとかまわれつづけるのかと思うと、うんざりする。

 岬ちゃんは自分がみんなからきらわれているという意識がないのか、ときどき佐川さんたちにも平気で話しかける。たいがい、いやそうな顔をして邪険に扱われている。見ているこっちがはらはらするのに、岬ちゃんは肩をすくめて小さく笑ってごまかすだけで、落ち込んでいるふうには見えなかった。

「マナちゃん、今度から『愛海』って呼び捨てにしてもいい? わたしのことも岬って呼んでいいから」

 笑顔で言われ、固まった。どうしてかわからなかったけれど、犬歯が覗いた大きな口を見ているだけでいらいらして、「え、むり」と言ってランドセルを背負い、帽子をかぶって教室を飛び出した。追いかけてくると思って一階まで走って降りたけれど、岬ちゃんは追いかけてこなかった。

 雨が降っていた。カッパ通学をやめて新しく買ってもらった水色に白の水玉模様の傘を、ぱんとひらく。「入れてよう」といまにも岬ちゃんが割り込んできそうで、水たまりを靴で踏みつけながら大股で帰った。


〝9月3日 ☂ みさきちゃんが一日中話しかけてきてちょっとめんどくさい。ピッピを返して化けねこレストランを借りた。モモちゃんとアカネちゃんも借りる。こっちは三回目″


 日記に悪口を書いたことに少し罪悪感を感じたものの、消すのもだるくてそのまま閉じた。日記を書くようになったのは、今年に入ってからだ。

三年生の間で、交換ノートが流行りだしたのは五月のころだっただろうか。もともとは高学年の女子の間で流行っていたのが、誰かが真似をし始めて学年に広まった。仲良しの数人で、毎日ノートを回す。それだけの遊びに、女子はみんな夢中になった。可愛いノートを文具店で買ってきて、毎朝次の番の友達に渡す。高学年の女子では、無地の表紙を色んなペンでデコレーションするのが流行っているらしい。ともかく、みんながみんな、なぜだかいっせいに交換ノートをやり始めた。いくつものグループに属している子もいた。

とうぜん、特定のグループにも属さず、仲のいい友だちがほとんどいないわたしには声はかからなかった。なんかよくわからない遊びが流行っているんだなぁ、とぼけっとした目で眺めていた。べつに、交換ノートを回したいほど好きな友だちなんていない。去年まで仲がよかったみっこちゃんや里花はべつのクラスでべつの友達と交換ノートをやっているだろうし、わざわざほかのクラスまで行ってノートを渡しに行くのもなんとなくおっくうだったし、そこまでして誰かと交換ノートをやりたいわけでもなかった。代わりに、自分だけの日記をつけることにした。

「マナちゃんって誰かと交換ノートやってる?」

あれはいつだっただろう、ぼんやり窓辺でたたずんでいたら、佐川さんにたずねられた。ううん、と正直にかぶりを振ると、笑いたいのをこらえているような表情で、ふぅん、と言われた。やっぱりね、と言いたげだった。もちろん、「じゃあわたしたちとやろうよ」とはつづかず、「マナちゃんって変わってるよね」と去り際に友達につぶやきながら去っていった。佐川さんはクラスで一番交換ノートを掛け持ちしていて、そのことをよく自慢していた。

つるむ友だちがいないのは、クラスでわたしだけなのかもしれない。男子はよくわからないけれど、女子ではいない気がする。長休みは自由帳に絵を描くか、図書室で過ごす。誘われたらたまに花いちもんめやタカ鬼をして遊ぶけれど、一人で好きなことをしている方がよっぽど気が楽で、楽しかった。だから、岬ちゃんに目をつけられてつるまされるのは、正直、迷惑でしかなかった。


 次の日も雨だった。九月の雨は、傘を挿していても肌をひんやりと冷やす。気が重いまま教室に入った。岬ちゃんがきっとなにか怒ってくるにちがいない、とびくびくしながら席に着いた。

「おはよー」

 教科書を机にしまいこんでいると帽子をむしりとられ、あっけにとられる。岬ちゃんがわたしの濡れた安全帽を大きく振りかざして、うれしそうに笑っていた。怒っていない。昨日、むり、とはねつけて帰ってしまったことをきっとののしられると思っていたから、拍子抜けした。「おはよう」と言うと、押さえつけるように頭に帽子が載せられる。黙ってはずし、ランドセルの中にしまった。

「マナちゃんほっぺたになんかついてる。海苔?」

 指がのびてきて、なじるように頬を強く撫ぜられる。ほら、と差し出された指には確かに海苔のかけらがくっついていた。

「ほんとだ」

「女子なのにぃ、だめだよ顔に海苔つけてちゃ」

 くくく、とさもおかしそうに笑う。わたしが恥ずかしがらないので、つまらなさそうに「明日の総合一緒に班なろうよ」と話題を変えた。

「総合?」

 後ろの黒板を振り返る。「お知らせ」のところに「明日の総合は家庭科室でおか子作りをします」という文字があった。そういえば、先生が言っていたかもしれない。エプロンの用意をしてきなさい、とかなんとか。

「班、好きな人同士で組んでいいって。だからわたしと同じグループね、マナちゃん」

 決めつけるような言い方にむっとした。「ふたり組だけで班にはなれないよ」と言い返したら、「そんなのあたりまえだよ。ほかに誰か組めばいいんじゃん? うちらみたいにふたり組の子たちととか」と勝ち誇るように言われた。納得はしたけれど、なんとなく、そうだねとは言いたくなかった。

「まあ、まだ時間あるから」

 返事になっていないことを言って、本をひらいた。もう相手をする気はないのだとさすがに気づいたのか、「じゃああとでね」と去っていった。


休み時間、岬ちゃんに捕まるまえに図書室に向かった。挨拶をした後、すぐに廊下を飛び出した。「あれ、マナちゃんは?」ときょとんとした顔で岬ちゃんが自分のことを探しているのを想像したら、なんだか愉快だった。

雨の日は図書室の利用者は増える。それをつまらなく思いながら、カウンターに向かう。六年生の図書委員が貸出手続きをしていた。先生は奥のほうでパソコン作業をしている。ますますがっかりしていたら、「おお、夏目さん」と先生がわたしを見て声を上げ、こちらにやってきた。

「来ると思って待っていました。今日、夏目さんに用意していたものがあります」

 とくべつ扱いされているみたいで、うれしくてみんなにこのやりとりを言いまわりたくなる。つんとすまし顔をつくって、「なに?」とたずねた。まさかプレゼント? そんなわけはないとわかっていても、つい胸がはずむ。

 先生が後ろの棚から一冊本を出してこちらに差し出した。わかってはいたけれど、素敵な包装紙に包まれた箱なんかをもらったりしたらどうしよう、とまで想像をしていたので、がっかりする。「なーんだ、新しいおすすめの本かあ」とつぶやくと、先生は苦笑した。

「もったいぶった言い方してすみません。この本なら、夏目さんも気に入ると思いますよ。三年生だとちょっと難しいかもしれないけど、読書家の夏目さんならきっと読めます」

 先生が自分のことを高く見積もった言い方をしてくれたので、すぐに機嫌が直った。誇らしい気持ちで胸がいっぱいになる。青いワンピースを着た女の子がバス停のベンチに腰かけている表紙で、中身をめくると挿絵はひとつもなかった。確かに、いつも読んでいる本より分厚いし、字も小さい。先生はわたしなら読めると言ってくれたけど、ほんとうに読めるんだろうか、と内心ひるんだ。でも、せっかくわたしなら読める、と言われたのに断るのはくやしい気もして、顔に出さないようにした。ふうん、なるほどねという顔でうなずいておく。

「文字ばっかりですけど、読んでみるとそう難しくないですよ。お話が面白いので、退屈はしないと思います」

「じゃあ、今日はこの一冊だけ借ります」

 先生のおすすめを胸に抱いて、教室に戻った。岬ちゃんが待ち構えていたようにすぐにこっちに向かってきた。

「どこにいたの?」

「本借りてた」

 岬ちゃんが本をぱらぱらとめくる。つまらなさそうに机に戻し、「こんな難しそうなの読めるの?」と疑わしそうに言った。

「読むよ。これ、浅倉先生にわたしなら読めるからってすすめてくれたもん」

 いばって言ったのに、岬ちゃんは「すごーい」「いいなあ」とも言わなかった。さしてうらやましそうな顔もせず、「浅倉先生って、司書の先生だっけ」と自信なさげに言った。反応の悪さにがっかりする。

「そうだよ。わたし、三年で一番あの先生で仲いい自信ある」だってわたしと先生は本仲間って言ってもらったんだよ、とも言おうとしたけれど、それよりも岬ちゃんが口を挟むほうが早かった。「あの先生ひょろひょろしててよわそー。もやしみたい」とくちびるを曲げて笑ったのだ。

 かっとなって本で肩をぶった。さしてたいした威力もなく、本気じゃないと思ったんだろう、「学校の本でそんなんしちゃいけないんだよ」となおもおちょくった。頬をひっぱたいたり、髪を思いっきり引っ張ってやりたかったけど、そんなことを実際にできるはずもなく、にらみすえるだけにとどめた。「なに、目つき悪い」と岬ちゃんも笑みを消して、くちびるをとがらせた。

 もうこんな子とは一秒でも長く一緒にいたくない。そう思っていたら、岬ちゃんの方から去っていった。少し胸がすかっとしたけれど、その直後にチャイムが鳴ったので、単に長休みが終わったから行っただけかと思うとなんだか腹立たしかった。


 そんなふうに、わたしは岬ちゃんを無下にすることが多かったけれど、それでも岬ちゃんはめげることなくわたしのところへ来つづけた。強い言い方をしてむっとさせてしまい、さすがにこれはもう怒らせただろうな、とひやひやしていても、時間がたてばけろっとしている。ある意味付き合いやすい、単純な子ではあるけれど、毎日一緒にいたいと思うようなタイプじゃなかった。相手をしているとだんだんうんざりしてきて、疲れ果ててしまう。

「まあ、悪い子じゃないっていうのはわかってるんだけど、毎日毎日しゃべってると、疲れちゃうんですよ、ほんと」

 先生は苦笑いして、「女の子同士は難しそうですねえ」とコメントした。最近では、岬ちゃんは長休みも昼休みもわたしといたがるのでこうしてゆっくり先生と話すこともままならない。そうぼやくと、「うーん、どうしましょうね」と首を傾げた。「その、岬ちゃんという子も図書室に連れてくる、っていうのはだめなんですかね」

 大急ぎで首をぶんぶん横に振った。「岬ちゃん、本読むの大嫌いだからぜったい無理」と言うと、先生は心なしかしょんぼりした顔で「そうですか」と言った。司書なのだから、本嫌いな子がいることが悲しいのはとうぜんだろう。ほんとうは、岬ちゃんはたまにだけれど本を読んでいる。うそをついたのは心苦しかったけれど、岬ちゃんをここに連れてきたくなかった。自分が三年間築き上げてきた、先生とのきずなにまで踏み込まれそうな気がした。自分がいちから育ててきたたいせつな庭園を守る庭師みたいな気持ちだ。

「どうしましょう。いまどき文通なんてしても、おかしいですしね」

「文通?」

思わず先生が言った言葉を大きな声でなぞる。なにげない発言を拾われて驚いたのか、「いや、その、思いつきなんですけどね」と口ごもる。文通――外国の、むかしの物語のなかで少女が遠くの友人や恋人とかわしているのを、なんどか読んだことがある。その古めかしいけれど奥ゆかしいやりとりが、メールや電話なんかよりもずっとロマンティックに思えて、ほうと憧れのため息をついたものだ。

「文通かあ……」

 すっかりやる気になってしまい、先生の方をうかがう。まいったなあ、と困惑顔だったら、打ち消そうと思っていた。もし先生が冗談で言ったのに自分が真に受けてやろうやろうと意気込んでしまっていたら、とてもみっともないし、恥ずかしい。けれど、先生は思いがけずにこにこしていた。

「文通、したいです」

 そろそろと言ってみる。先生は、「文通って、毎日顔合わせるのに変ですね」と笑った。確かに、と思い、ならば、とたったいまひらめいた考えを口にした。

「じゃあ、交換ノートしませんか」

「交換ノート?」

「クラスで流行ってるんですよ。順番こんばんに毎日書いて、わたすやつ」

先生はああ、とつぶやいて、「僕が小学生のときも女の子たちがやってたような気がするなぁ、その時は交換日記って呼ばれていたけど」と言った。「やったことある?」と訊いたら「いいえ」と傘を閉じるように小さく首を振る。うれしくなって、カウンターに身を乗り出すようにして言った。

「じゃあ、わたしと交換ノート、してください。明日から持ってきます」


 思いがけないことになった――。

 岬ちゃんにまとわりつかれるようになって、初めて起こったいいことかもしれない。その日はめずらしく浮かれて早足で家まで帰った。わくわくと胸が弾んで、自分のなかでさいさな誰かが走っているみたいだった。風も道も、うねるように足を家まで運ばせた。

帰るなり自分の部屋に上がって使っていないノートを探した。マス目のノートしかない。植物や動物の写真が表紙のノートで交換ノートをしたくはないな、と思って、ひまわり文具店にノートを買いに行った。交換ノート用のノートも売られていたけれど、水色のチェック模様が表紙のけい線のノートにした。

【浅倉先生アンド愛海】

表紙の下の方にネームペンで書いた。ふうっと息を吹きかける。

最初のページには、家で飼っているきんぎょのあんずのこと、給食当番でおつゆをよそうときのこつ、いま習っているピアノの曲について書いた。ページの半分を文章でうめて、下にきんぎょの絵を描いた。

読み返すとノートにわざわざ書くまでもないような、つまらない日記かな、と思ったけれど、ランドセルにしまった。明日の長休みに渡しに行こう。


「ねーねーそれなに?」

 長休みのうちに渡しに行こう、と席を立つのとほとんど同時に、岬ちゃんにめざとくノートを見つけられ、胸に抱えているものを指さされた。しまった、見られないように気をつけなくちゃと昨日の名前を見られまい、と慌ててお腹に表紙を押しつけるようにして隠す。

「なんでもない」

「えー、あっやっしー。見せてよ」

 面白がって手を伸ばしてくる。取られまいと背を向けてかばった。

「やめてよ」

「ねえ、それ交換ノートでしょ? さっき、見いちゃった」

 図星をさされて顔が真っ赤になるのがわかった。黙ってノートをかばいながら手をよける。

ちょっとぉ、と肩に手をかけられ、思わず強く払った。

「やめてよ」

 にらみつける。岬ちゃんはぽかんとした顔をしてわたしを見ていた。その隙をついて、教室を飛び出した。岬ちゃんが追いかけてきたらどうしよう、と思ったけど、誰も追ってこなかった。胸がどきどきといやなふうに高ぶって、思わず手のひらで胸を抑えた。

 先生のところには運悪く下級生の女の子がふたりいてしゃべりかけていた。これだと渡しづらいな、と思っていたら、先生はわたしに気づき、なにげなくひょいとこちらに手を差し出した。ノートをそっと渡すと、さりげないしぐさでカウンターの奥にある棚の引き出しにしまう。一瞬のできごとに「いまなのなに?」と女の子たちに不思議そうにとっつかれていたけれど、先生は苦笑いするだけでごまかしていた。これはわたしと先生だけの秘密なのだ。そう思うだけでうれしかった。アイコンタクトだけして、教室に向かった。

「あー」

 岬ちゃんがわたしの席に座って待ち構えていたのでぎょっとした。さっきの態度はさすがにやりすぎたかな、と思っていたのに、岬ちゃんはそのことを蒸し返すわけでもなく、にやにやとわたしを指差した。

「渡してきたんだ」

「うん」

 否定するほうが騒がれそうで肯定した。予想通り、岬ちゃんは「あ、そ」と薄い反応だった。

「ねえ、わたしともやろうよ。交換ノート」

 嬉々としてこちらに身を乗り出す。思わず顔をしかめてしまった。

「ね、いいでしょ。わたしも交換ノートやってみたかったんだよね、いま流行ってるもんね」

 ほんとうに心からうれしそうだ。友だちがいないことをちっとも気にしていない、それどころか気づいてすらいないように見えて、実は誰とも深い付き合いをしていないことがさびしいのかもしれない。でもわたしはとうていそれに付き合ってあげようとは思えないのだった。

 だって、わたしは先生としか交換ノートをする気はない。岬ちゃんとも始めたら、先生との交換ノートが特別なものではなくなってしまう。

「……ごめん、できない」

 岬ちゃんは「えーっ」と非難の声を上げた。悲痛そうな表情に胸が少しだけ痛むのを知らんふりする。「え、いいじゃん。なんで? 掛け持ちしてる子いっぱいいるよ? 楓ちゃんとかフーミンとか……」

「ごめん、それはできない」

「ほかの子とはするのになんでわたしとはできないの? おかしくない? だって、さっきのほかにもやってるわけじゃないんでしょ?」

「……ごめん」

 ひたすらうつむいてかわしつづけた。岬ちゃんはなおも取りすがってきたけれど、わたしが「いいよ」と言う気がないのがわかると、腕をぶらりと下げた。持ち上がっていた頬が、すっと下がるのがわかった。

「いいよ。マナちゃん、そんなにわたしのこときらいだったんだね」

 立ち上がる。そんなに岬ちゃんの怒りにふれるようなことだとは思えず、「そこまでは言ってないじゃん」と反論したけれど、冷たいいちべつをくれてこう言った。

「だって、愛海って呼び捨てにしていい? って言ったらむりって即答したじゃん。好きくなかったんでしょ、わたしのことなんて」

 思いがけないことを言われて、なにも反論できなかった。岬ちゃんがちゃんとそのことを覚えていて、きちんとわたしが自分をどう見ているかわかっていたことに驚いたからだった。

 もういいよ、と乱暴な足取りで自分の席へ戻っていく。何人かがわたしたちのやりとりをおもしろそうにうかがっているのが気配で伝わったけれど、のろのろと自分の席に座った。これでもうまとわりつかれることもなくなる。それはうれしいはずなのに、胸の底がずぶずぶとどこまでも沈んでいきそうだった。算数セットをロッカーに取りに行かなきゃ、と思いつつも立ち上がる気力が湧かなかった。


 三人だけで席に着くと、大きな作業机がいつもよりずっと広々として見えた。

「わー、すかすかじゃん。いっぱい道具置けてよかったね!」

 佐川さんがいやみったらしく声をかけてくる。さすがに岬ちゃんもわたしも返事をしなかった。「ボウルは各班三つずつだからねー」と先生が一番前で声を張り上げている。

 ――なんでこんなことになったんだろ。

 恥ずかしいのと腹立たしいので喉の奥がかっかと火照る。いらいらしながら道具を取りに行った。岬ちゃんはふてくされて肘をついていたし、金崎はぼんやりとエプロンを身に着けてぼけっと突っ立っているだけだった。いつもは率先して動くようなヒトじゃないんだけど、と思いつつ先生からボウルと材料を受け取り、菜箸や木べらを一つずつ持ち帰る。

 昨日のうちに班決めをしていたら。わたしがエプロンを家に忘れてこなかったら。金崎が休みじゃなかったら。岬ちゃんがわたしと仲良くなりたがらなければ。いろんなもしもがぐるぐると頭をかけめぐる。わたしが道具を机に並べてもふたりとも動こうともしないので、自分で道具を洗った。もうこのふたりのことはどうでもいいから、わたしが全部やってしまおう。そのほうがずっといい。なんにも作れないで0点を取るよりはましだ。

 班決めは授業の最初の十分で慌ただしく決められた。ほんとうは昨日の帰りの会で決めるはずだったのを先生が忘れていたのだ。「時間ないから好きな人同士でいいですよね」「女子だけのグループでもいいですよね」と佐川さんや気の強い女の子たちが言い立てると、先生は「まあしょうがないわよね」とうなずいたのだった。くじびきや出席番号順ならともかく、どの派閥に入れてもらえるのかわからず、まずいなあ、と少し思いはしたけれど、たぶんどこかには入れるだろう、と思っていた。

 でも、入れなかったのだ。女子はわたしと岬ちゃん以外できっちり四人班と五人班に区分けされ、人手が足りなさそうなところはどこもなかった。男子はといえばあまりものの金崎だけが、いつものようにぼんやりと立ちすくんでいた。

 残っているメンツを見て、血の気が引いた。昨日けんかしたっきり口をきいていない岬ちゃんとクラスのはじきものの金崎、そのふたりとわたしは同列のものとしてこのクラスに浮かび上がっている。そのことに足がふるえ、あまりの恥ずかしさにいますぐ仮病を使って保健室に行ってしまいたくなった。

「えーっと、残ってるのは三人? うーん……」

 先生は考えるように家庭科室を見回した。わたしはとっさに一番近くにいた野村さんに声をかけた。四人班。ここならいれてもらえるかもしれない。

「ねえ、ここわたしも入っていい?」

 野村さんは「え」と戸惑ったようにメンバーと顔を見合わせた。「まあマナちゃんなら……」と去年も同じクラスだったやさしい美穂子ちゃんが言ってくれたけれど、野村さんはにこりともせず「でもさあ」と言った。「マナちゃん、エプロン忘れてきたんでしょ」

 ぐっと言葉に詰まった。エプロンを忘れてきたせいで、わたしは体操着だった。男子は同じのが三人ほどいたけれど、女子のなかではわたしただ一人だった。

「連帯責任でうちらまで点数引かれたら損じゃん。ね」

 市井先生はなんでも「連帯責任」を取らせるのが好きだ。班ごとでマイナス点が多いと百マスや漢字の書き取りなんかのペナルティが出される。班だけじゃなく体育の組み分けや掃除班でも「連帯責任」は発動する。今日だって、例外じゃない。

「悪いけど、ごめん」

 きっぱりと野村さんが言いきると、美穂子ちゃんもほかの子もわたしをかばってはくれなかった。仲がいいわけでもないのに連帯責任になるなんてまっぴら、と言う顔でわたしから目をそらしている。やりとりに耳を澄ませていたほかの女子の班もどこかわたしから心をとざしているように見えた。

「三人班でいいんじゃないですか?」

 佐川さんがぴんと手を伸ばして言った。「だってもう時間なくなっちゃうしぃ」

 明らかにいやがらせの発言だった。思わず佐川さんを見据えたけれど、ほかの班もわたしたちを引き取りたくはないのだろう、「いいじゃん」「早くやろー」とクラスの仕切り屋の意見に乗っかった。「じゃあそうしてください。夏目さんはエプロンを忘れてきたので五点マイナスにします」と先生が言い、わたしは家庭科室のどんじりのテーブルに追いやられたのだった。「ほらね、言ったとおりじゃん」と野村さんが低く漏らすのが聞こえて、耳のふちまで顔が真っ赤になるのがわかった。

「……ともかくやるしかないから」

 やる気のないふたりにぶっきらぼうに声をかけ、板書通りにクッキーづくりを始めた。お母さんと休みの日にたまに作るからそんなに難しくはないと知っている。

 お湯を沸かしてバターを溶かす。そのあいだに小麦粉をふるう。わたしが慌ただしく動いているのに、金崎も岬ちゃんもぼんやり手つきを見ているだけで何も言わない。自分だけが働いている理不尽さにいらだちが募る。クッキー作りなんかどうでもいいから、さっさと授業が終わればいいのに。

「違うよ」

 お湯が沸いたのでバターを入れようとしたら、岬ちゃんが突然大きな声を上げた。びっくりして固まっていたら、岬ちゃんがすぐさま鍋の中にボウルを押し込んだ。「なにしてんの濡れるじゃん」と取りだそうとすると、「あってるよ」とぴしゃりと言い返された。

「『湯せん』ってお湯の中で溶かすことじゃないよ。間接的に溶かすんだよ」

 バターをむしり取り、ボウルの中に落とした。すると、バターはふちから水で溶いたみたいににじみ始め、みるみる形を崩していく。

「そういえばお母さんがやってたかも」

 くやしまぎれにそうつぶやくと、「っていうか先生が言ってたし、常識だし」と岬ちゃんが淡々と言った。いつもの、自慢するようなにくたらしい言い方じゃないぶん、差を見せつけられたようでいたたまれなかった。

「わたしがやる」

 岬ちゃんがわたしを押しのけ、小麦粉と砂糖をまぜたボウルにバターを入れ、卵を割り、木べらでさくりさくりと混ぜた。さっきまでなんにもしていなかったくせにいきなり仕切られたことにむっとしたけれど、岬ちゃんは意外なほど手つきがよく、わたしよりよほど手慣れているのがわかった。

「よくお菓子作るの」

 うまいね、と素直に褒めるのは抵抗があってそんなひねくれた言い方になった。「ケーキ屋だから。家」と岬ちゃんがそっけなく答えた。知らなかった。誰かの噂話でも聞いたことがなかった。目をみひらくわたしに、すごくない? とも言わず、岬ちゃんはぼそりとつけ加えた。

「来年取り壊すけどね」

 金崎あんた暇ならふきんもってきて、と顎をしゃくり、岬ちゃんはてきぱきとトレーの上にクッキーの原型となるまるを捏ね始めた。わたしも手を伸ばして丸めた。家がケーキ屋であることに興味は湧いていたけれど、取り壊す、と言うのを聞いた以上その話題を広げるのもためらわれて、わたしたちはもくもくと作業をした。「粉こぼすなよ!」「待って砂糖入れてないよ!」などとクラスメイトがぎゃんぎゃんと火でもつけられたみたいに騒いでいるすみで、クッキーのもとがぽこんぽこんとクレイアニメみたいに増え続けていった。


 ケーキ屋のむすめである岬ちゃんによってつくられたクッキーはクラスで一番上手かった。できあがりを回って見たけれど、形がいびつだったり真っ黒に焦げていたりとへたくそで、「すげー」「店のみたい」とみんなが騒ぎ、佐川さんが少しくやしそうないちべつをくれたのが愉快だった。実際、わたしたちの班のクッキーだけはレベルが違い、まるで文化祭でPTAが売っている手作りクッキーみたいに上手だった。わたしがそう言うと、「あれうちのお母さんが作ってるんだよ」と初めて誇らしそうに胸を張った。「今年も売るの?」と訊いたら「さあ……」と首をかしげた。

「でもどっちにしろバレンタインにクッキーでもケーキでも作ってくるよ。マナちゃんにだけ」

 やった、とよろこびそうになったけれど、それってこれからもこの子とつるまなきゃいけないのか、といううんざりした気持ちにすり替わる。クッキーは欲しいけどずっと友だちでいなきゃいけないのかあ、とせせこましいことをぼんやりと考えた。今日は岬ちゃんと同じ班で助けられたけど、ずっとはちょっときついかも、と思った。


 でも、そんなつまらない考えもすべて無駄なことに終わった。岬ちゃんは年末にこの街を引っ越した。

 転校の話は一週間前に知らされた。岬ちゃん本人が教えてくれた。

「これあげる」

 そう言って差し出したのは紙せっけんだった。透明な小さな箱に入れられたそれはとてもかわいらしかった。「え、いいの」と心奪われつつも確かめると、「うん。引っ越すから。いらない?」と首をかしげたのだった。

「引っ越すの?」

「うん。一月からおじいちゃんたちの家で暮らすから転校する」

 ケーキ屋を取り壊したことと関係あるんだろうか。そう思いつつも、とうてい口にできなかった。さびしくなるね、とか手紙書くよ、なんてことも言えず、もじもじと紙せっけんをふでばこにしまった。わたしたちは友だちじゃない。そういうことを言えばうそになる。

 岬ちゃんもなにも言わなかった。チャイムが鳴り自分の席に戻っていく岬ちゃんは、ユニクロのフリースで着膨れているのに、いつもよりかぼそく見えた。


 一週間後、帰りの会で教壇に立ち、ぽそぽそと挨拶をして岬ちゃんは転校した。クラスメイト全員が一冊ずつノートをもらったけれど、紙せっけんをもらったのはたぶんわたしだけだった。迎えに来ていたお母さんと一緒に教室を去っていく岬ちゃんと一瞬目が合ったような気がしたけれど、きっと思い込みだろう。佐川さんだけは「うるさいのがいなくなったねー」と憎まれ口を叩いたけれど、それだけだった。

 その日の交換ノートに、わたしはこう書いた。


 今日同じクラスのふじ田さんが転校しました。二学期からは一緒にいることが多かったので、さびしくなります。いちどだけ日曜日に森の子公園で遊んだことがあります。ほかには、総合で同じ班になってクッキーをつくりました。


 うまくまとまらなかった。ふたりで文化祭を回って、岬ちゃんのお母さんが作ったクッキーをふたりで食べた思い出で話を閉じた。紙せっけんのことを書けばよかったのだな、とあとから思ったけど、書き直さなかった。うその思い出なのに、文化祭の話のことが一番よく書けていた。でも、眠る前に思いだして慌てて付け加えた。


 これはうそです。こんな思い出があったらいいな、と思って書いたものが混じっています。交換ノートで初めてうそのできごとを書きました。おやすみなさい。


 思いだしたのだ。文化祭の日のことを書いたページがあることを。そこに、岬ちゃんのお母さんはクッキーを売っていなかった、と書いてしまっていた。

 次の日の先生のコメントには、「うそのお話、よく書けています。途中までほんとうだと思って読んでいました。これがものがたりの種となるのです。」とあった。

 岬ちゃんとの思い出が、わたしが書いた初めてのお話になった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

いつか零れ落ちるもののすべて @_naranuhoka_

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る