緩やかな考察

岸亜里沙

緩やかな考察

大川猶哉おおかわなおやは満員電車に揺られていた。

大川にとっては毎日いつもの事だ。

出社の度に毎度こんな苦痛を味わうのは御免だが、都会では車を所有するのは利口とは言えない。

自動車税にガソリン代といった維持費、そして何より駐車代がバカ高い。

──まあ、早いとこ金を貯めて田舎で隠居でも始めよう。そうしたら車も買って余生を楽しもうじゃないか──

今の生活とは180゜違う生活を、大川は夢見ていた。


だがそんな折、満員電車の中の喧騒を突き破る怒声に近い叫び声が響き渡った。

「きゃあああああああああ!」

電車の乗車口付近に居た女性のようだ。

誰もがそちらに注目したかと思うと、女性は近くにいたスーツ姿の男性の手を掴み上げながら叫んだ。

「この人、痴漢です!」

「何言ってる!俺はそんな事していないぞ!お前の勘違いだ!」

男性は驚いた表情で言った。

しかし女性の方も譲らない。

「嘘よ!絶対触ったわ!」

「触ってなんかいない!」

周囲の人間は唖然としていたが、言い争う二人に大川は近づいた。

「まあまあ、ここで争っても埒が明かないでしょう。もうすぐ駅に着きます。駅員さん交えて話されてはどうですか?」

大川が提案すると、女性は急に大きな声で泣き出した。

「私、怖くて怖くて。こちらの扉がずっと開かないのを良いことに、この人、ずっと私のお尻を触っていて。終いにはスカートの中にまで手を入れてきたんです」

男性の方はただ呆然としていた。

この状況を理解するのに必死なようだ。

ただ周囲まわりの雰囲気は男性を糾弾するような空気になりつつある。

大川は男性にも声をかけた。

「あなたも駅員さん交えて話し合った方がいい。会社には遅れるかもしれないが、後々面倒になるより、そこで意見を言った方が絶対いい」

「分かったよ」

男性は渋々答えた。

大川は次の駅で被害女性と加害男性を駅員に引き渡し、仕事へと急いだ。


そして昼休み、大川は同僚の清水結実しみずゆうみに今朝の出来事を話していた。

事の顛末を聞き終わると清水は、なにやら考え込んで聞いてきた。

「ねえ、その女性が被害を訴えたのはS駅の間近よね?」

「ああ」

「それで最初に被害を受け始めたと言うのがA駅?」

「確かそう。俺も少ししか話しは聞けなかったけど」

「そっか。なら区間にして4駅。時間は約22分ってとこね」

清水はまた考え込んだ。

大川は清水が一体何を考えているのかさっぱり分からなかった。

「なあ、何を考えているんだ?」

「冤罪よ」

「えっ?」

「男性は無実よ。順を追って話すわね。被害にあったという女性は、A駅を出発した時点で男性の痴漢行為が始まったと証言した」

「ああ」

「でもその後、女性はS駅近くまで被害を訴える事はなかった。何故?」

「きっと怖かったからだろ?自分より大柄な、しかも見ず知らずの男性にそんな事をされれば、なかなか声も出ないんじゃないか?」

「そうね。その可能性も一理あるわ。でもよく考えてみて。その女性は満員電車の車内で、その車輌の全員が気づくぐらいの叫び声を上げたのよ。そこまでの度胸があるなら、痴漢行為が始まった時点で声を上げるはずだわ。20分近くも苦痛を我慢するはずがないわ」

「なるほど。確かにそうだ」

「でも私の推理は状況判断だけのものだし、立証は難しいかもしれないわね。痴漢の場合、大体女性の訴えが聞き入れられる事がほとんどだから」

「そうだよな。所詮はやった、やってないの水掛け論だしな」

大川と清水はコーヒーを飲みながら暫く無言だった。


「でも確かめる方法はひとつあるわ」

清水が呟いた。

「その女性の過去を調べるのよ」

「どうして?」

「何故女性が事件をでっち上げたかは私には分からないけど、でもそういった女性は過去にも同じような痴漢被害を何回か訴えている可能性があるわ。示談金が目的か、ただのストレス発散の為か。いずれにせよ、そうした情報を調べるのも手だわ」

「痴漢被害の前科・・を調べるわけか」

「ええ。絶対ではないけど、調べる価値はあると私は思うわ」


大川はその後、S駅の駅員や警察にも問い合わせたが詳細は教えてもらえず、事件がどういう結末を迎えたのか、ついに知ることはなかった。

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