スプリッツァー・ルージュ

@Milky_delusion

スプリッツァー・ルージュ

 弱音を吐きたいな、と思うことはある。私は恐らく精神面が強い方ではないのだろう、むしろ頻繁に泣き出したくなるのだ。何も考えずにただ泣き喚いて、そのまま消えてしまえたら。

「あの莫迦と同じようなこと云ってんじゃねえぞ」

 いつだったか冗談めかして本音をこぼしてみたとき、中原中也は呆れたようにそう云った。言葉こそ私をあしらうようなそれだったけれど、視線だけは珍しく動揺の色に染まっていたことをよく憶えている。

 私が変わったとするならば屹度あのときで、「強くなろう」と思った。それはポートマフィア構成員としての在り方はもちろん、自覚していた自身の精神の脆弱さにおいても。

 中原中也には私を変えるだけの何かがあった。価値があった。


「手前の強さは、手前自身を傷付けてんだろ」

 任務を終えてからのなんでもない時間。お互いにワイングラスを傾けていただけの空間で、なんの前触れもなく彼は云った。

「突然どうしたの?」

 誤魔化す気もなければ、誤魔化せるとすら思っちゃいない。ただ、今さら『強い私』の仮面を取り去るほどの勇気はなかった。

「突然、か? 俺はずっと忠告してやってただろ。今夜が最後の機会だ」

 確かに、もう長いこと忠告とやらはされてきたなと思い返す。その都度言葉は違えど、いつだってそれは『強い私』の仮面に手を伸ばしてきていた。そうして毎回その手を振り払っておきながら、私は莫迦みたいにその手に焦がれるのだ。

 明日、彼は長期の任務に発つ。私は別件でヨコハマに残ることになっていて、しばらくは個別で仕事をすることになる。彼なりに私を残していくことを心配しているのだろう。

 優しいこの人は、もしも私が連れて行ってと懇願したらどうするのだろうか。そんな悪戯心に従うほど愚かではないけれど、いつかはそんな冗談で困らせてみるのも面白いかもしれない。

「なんだかんだで任務を共にすることがほとんどだったから、明日から一人だなんて変な感じ」

「だから今のうちだって云ってんだよ」

 私を変えたのは貴方でしょう、と口にできたら楽なのに。彼自身がそれに気付いていると、私は知っているから。自分が私を変えてしまったことに責を感じ、だから気にかけてくれているのだと知っているから。

 何も云えないまま、ワイングラスに反射して歪んだ景色だけを見つめ続ける。ゆっくりとグラスを滴る赤が私の涙の代わりに思えて、それで充分だった。

「云っておくがな、弱さを見せないことが強さと同義な訳じゃねえ」

 諭すようなそんな言葉が、この世の何よりも愛しくて何よりも憎い。昔からずっと、ほんの僅かな言葉だけで私を変えてしまうこの人が恐ろしかった。

「······そういうところ、嫌い」

「そうかよ」

 まるで信じていない顔をして、彼は鼻で笑った。こんな頑固なだけの台詞を真に受けられても困るけれど、私の仕方のなさばかりが浮き彫りになっている気がして。

「俺は手前のことが嫌いじゃねえよ」

「何それ、口説いてる?」

「手前が強く在ろうとするのは、ポートマフィアの構成員として間違っちゃいねえ。実際、俺たちが強くなけりゃあ守らなきゃならねえモンも守れねえからな」

 茶化す私の言葉など聞こえていないかのように、彼は真面目な顔をしてそう云った。どんな反応をするのが正解か判らなくて、残ったままのワインを飲み干す。味なんてしなかったけれど。

「······優しいんだよ手前は」

「は?」

 想像もしていなかった言葉に、思わず彼に視線を向ける。お酒好きだが強くはない彼のことだ、既に酔っているのかもしれない。

 だがこちらに返ってきたのは平常時と変わらぬ瞳の色で、私の方が酩酊しているような熱を感じる羽目になった。彼とは長い付き合いになるが、こんな声音で優しいだなんて評されたことは今まで一度だってない。

「自覚はしてねえんだろうが、手前が持ってる強さは他人を守れるそれだ。誰にも頼らずに自分自身のことまで守りきろうとする頑固さは莫迦としか云えねえが、そういう優しさ故のモンを持ってる手前のことは嫌いじゃねえ」

「······やっぱり口説いてる?」

 敵わないな、と思う。これまでずっと身に付けたままだった仮面が重さを失くした気がした。姿形のないものにまで重力操作をかけるなんて狡いじゃないか。

 横で今度は中也がワインを飲み干して、もしかして彼も少しは照れたりしているのかもしれないなんて。

「私もね、中也のそういうところは嫌いじゃない」

「あ?」

「人に優しくするのって思っているほど簡単じゃないから。自覚はないのかもしれないけど、中也の持つ優しさは他人を守れる強さそのものだと思うよ。まあ、そもそも自分が優しいってことにも驚くほど無自覚なんだろうけど? そういう自然に誰かを救える、強さ故の生き方をする中也のことは嫌いじゃない」

 既に空となったグラスに意味もなく触れてみる。少しワインを残しておくべきだった。

「······口説いてんのは手前だろ」

「それなら返事は次の機会に貰うことにする、遠距離恋愛は御免被るから」

「それで? 口説かれてやる対価は?」

「対価は……」

 少しだけ考えて、空のグラスを持ち上げる。自分の涙の代わりに思っていた赤を自身で飲み干しただなんて、よく考えたら滑稽な話だ。

「『強い私』でどう?」

「手前にしては上等なモン寄越すじゃねえか」

 妙に落ち着かない気持ちをやり過ごすためにワインリストを開こうとした私の中で、危険信号が鳴る。手を止めた私を見て、中也が怪訝な顔をした。

「どうした? 酔ったか?」

「······酔ってはいないけど次はカクテルにする」

 スプリッツァー・ルージュなんて洒落た名前が、私の口では馴染まない気がして。いつもよりかなり小さな声で中也にだけ伝えれば、自分で頼めよなんて笑われてしまう。次にワインを口にしたら本格的に取り返しのつかない甘ったるい言葉を口走りかねない、なんて度数低めのカクテルを頼んだ私はもっと笑われるんだろう。


 次の任務を終えたその日、私が彼と口にしたワインの味はまたいつか語ることにする。




<了>

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