第122話 夷川児童公園

 夷川えびすがわ児童公園の中には、西からトイレ、砂場、ブランコ、西側のすべり台、シーソー、東側のすべり台が置かれている。公園内の地面は土だ。


 西側のすべり台の上には明日香がうずくまっている。トイレの中には琴音と3人の蒼汰人形が隠れている。後はろくろ首の女将が現われるのを待つばかりだ。


 蒼汰は2つのすべり台の周りを楕円を描くようにして歩き出した。月明かりの中に、ブランコと2つのすべり台がくっきりとした黒い影を地面に描いていた。それらの黒い影の間を、蒼汰のメイド服の黒い影がゆっくりと移動していく。静寂の中で動くのは蒼汰の影だけだ。

 

 蒼汰は歩き続けた。


 ・・・・・


 蒼汰が歩くと、一足ごとにパンプスが土を踏むスタ、スタという単調な音が公園の中に響いた。時計を見ると、歩き始めてちょうど1時間が経過している。今日は、女将はこないのか? そんな思いが蒼汰の胸をよぎった。


 んっ、何かおかしい。


 蒼汰は耳をすませた。蒼汰のスタ、スタという足音に重なって、もう一つスタ、スタという音がかすかに聞こえるような気がしたのだ。誰かが僕の後ろを歩いている。


 蒼汰は立ち止まって後ろを振り返った。


 誰もいない。何の音もしなかった。夜の静寂が広がっていた。リーリーという虫の声が聞こえているだけだ。


 気のせいだったのか?


 蒼汰はふたたび歩き出した。すると、先ほどと同じように、蒼汰のスタ、スタという足音に重なって、もう一つスタ、スタという音がかすかに聞こえてきた。すべり台の上の明日香を見た。月の光の中で、明日香が黒い影になってしゃがんでいた。明日香はもう一つの音に気づいていないようだ。


 蒼汰は再び立ち止まった。後ろを振り返って叫んだ。


 「誰だ!」


 誰もいなかった。


 音は止まっていた。蒼汰は身体をかがめて、ゆっくりと公園の中を見わたした。誰もいない。公園の中の防犯灯が青白い光を放っていた。蒼汰の声に驚いて、すべり台の上で明日香が立ち上がっているのが見えた。


 「・・・・・」


 また気のせいか? 


 蒼汰は五感をとがらせて、もう一度、周りを見わたした。やはり、誰もいない。月光の中に虫の声だけが聞こえた。静かだった。


 蒼汰は再び歩き出した。・・・ブランコの前に来た。


 ブランコが揺れていた。


 んっ、ブランコが?


 蒼汰はブランコを見た。


 黒い人影がブランコを揺らしていた。


 蒼汰がブランコを見たのと同時に、黒い人影がブランコを下りた。ゆっくりとこちらにやってくる。人影が防犯灯の青白い光の中に入った。光に顔が照らされる。山縣だった。山縣が蒼汰を抱きかかえるように両手をこちらに差し出して、ゆっくりと歩いてくる。眼はずっと蒼汰を見つめていた。口もとには笑みがあった。


 「編集長?」


 蒼汰は声を出した。


 「編集長、倉掛先生に何かあったんですか?」


 山縣は倉掛と二人で明日香のマンションに残っていたはずだ。山縣がここにきたということは、倉掛に何かあったに違いない。しまった。女将はこの公園ではなく、マンションの山縣と倉掛を襲ったのか。


 山縣は何も言わなかった。黙って微笑みながらこちらに歩いてくる。


 「編集長。どうかしたんですか? 倉掛先生は無事なんですか?」


 蒼汰はたまらず聞いた。山縣の口が初めて開いた。


 「神代くん。私とお話をしましょう」


 山縣が近づいてくる。蒼汰はもう一度同じことを聞いた。


 「編集長。倉掛先生は無事なんですか?」


 「倉掛先生は無事よ。神代くん。さあ、私のところにおいでなさい」


 山縣が嫣然えんぜんとほほえむ。そして、蒼汰の目の前までくると立ち止まった。蒼汰を迎え入れるように両手を大きく広げた。


 「さあ、神代くん。ここへおいでなさい」


 「・・・」


 「さあ、神代くん。どうしたの?」


 「・・・」


 蒼汰は魅入られたように山縣を見ている。


 山縣がまた嫣然と微笑んだ。


 「神代くん。何をしているの? こちらよ」


 「・・・」


 「何も心配はいらないわ。さあ、神代くん」


 「・・・」


 山縣が蒼汰を見つめている。蒼汰も山縣を見つめ返した。


 「さあ、ここにおいでなさい。さあ。遠慮しないで。さあ、早く」


 「・・・」


 「神代くん。さあ、私の胸にとびこみなさい」


 「・・・」


 山縣の眼に見つめられて、蒼汰の意識がだんだんと薄く遠くなっていく。その代わりに『言われるままに山縣の胸に飛び込みたい』という感情が意識の中で少しずつ大きくなっていった。


 ああ、山縣の胸に飛び込みたい。


 ああ、山縣の胸に飛び込みたい。


 ああ、山縣の胸に飛び込みたい。・・・・・


 その感情に耐え切れなくなった。蒼汰は山縣に向かって一歩足を踏み出した。

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