気持ちが明るくなって、私たちがデートする約束をすると、澤田君がもたれていた見えない壁がいきなり消滅していた。

「えっ、壁が消えた?」

 後ろに倒れこむのをかろうじて手で踏ん張って耐えていた澤田君は、体勢を整え立ち上がる。手を伸ばしてもう壁がないか恐る恐る探っていた。

 私も立ち上がって同じように確かめる。少しずつ歩いて進めるところまでおぼつかなく足を動かした。でもふとその動きを止めた。

「壁がなくなっても、まだ周りには誰もいない」

 周りの人が見えなければ、まだ違う空間に居るということだ。空間が広がったところでここから抜け出せないことに私はがっかりする。

 少し先まで行っていた澤田君が振り返って報告する。

「ここで行き止まりだ。ちょうどこのお肉屋さんの店の端あたりを境目に壁があるよ」

「それって、空間が少し拡張されたってこと?」

「多分、店舗の区切りごとに、壁が動いたってことなんだろう。ほら、向かいの店はお肉屋さんよりも小さい。だから店の端どうしを線で結ぶと、ちょっと斜めに壁が出来ることになるんだ」

 澤田君が見つけた法則は、向かい合った店を基準にして、その端をつないだ区切りが壁になっているらしい。精肉店の向かいは瀬戸物や食器を売っている店だ。店頭にセール品と手書きでかかれたポップが貼られたワゴンに、お茶碗やお皿が入れられて売られている。店に近づくとやっぱり壁があって、中には入れず外に出されたワゴンにもがっちりと被せた見えない何かがあって、商品に触れなかった。この商店街で売っているものは一切触れられないってことなんだろう。なんなのよ、もう。

 その間に澤田君は反対方向へとひょこひょこ走り、路地を越えた向こう側をチェックする。

「ああっ」

「どうしたの」

「今の拡張はこっちにも影響している。壁が店ごとを区切りにして左右同時に移動しているみたいだ」

「じゃあ、さっきよりも、かなり広くなったってこと?」

「そうだよ。空間は広がってる」

 澤田君は嬉しそうに私に叫んでいる。

「でも、まだ人が現れてない。どんなに広がったって違う空間に閉じ込められたままじゃないの」

「だけどさ、これっていい兆候じゃないかな。だってさ、僕たちが希望を持った時、急に壁が動いたんだよ。僕たちのここから脱出したい気持ちが高まったからそうなったと考えられないかな?」

 澤田君の言いたい事はわかる。でも私は半信半疑だった。

「ここから出たい気持ちは閉じ込められていると分かってからずっと変わらないし、苛立つほどそれは大きく持ってるじゃない。でも見えない壁はそんなすぐに変化しなかった」

「ううん、さっきの気持ちはそれ以上のものがあったよ。何かポジティブになったじゃないか。その、僕たちが同じ思いに明るく希望をもったというのか、僕たちその時、ぐっと体に熱いものが流れたような感情があったよね」

 ぐっとくる熱いもの。確かに顔を熱くして自分らしからぬ言葉を澤田君には伝えたけど、それはすなわち私が澤田君に好意をもった感情だ。それが本当ならもう一度試してみようじゃないの。

「デート……」

「何?」

「だから、私はここを出て澤田君とデートしたい!」

「えっ? 一体どうしたの、急に叫んで」

 澤田君は戸惑っていた。

「ほら、どう、またそっちの空間が広がった?」

「はい?」

 澤田君は私の意図がまだわかってない。説明するのが面倒くさくて、私は食器屋から向こう側を確かめる。澤田君の仮説どおりなら、広がってるはず。でもそれはあえなく撃沈した。見えない壁は全く動いてなかった。

「効果ないじゃない。やっぱり偶然だったんだ」

「いや、偶然じゃない。きっと何か僕たちのしたことが影響したんだよ。あの時、僕はわくわくしてすごく嬉しかったんだ。それで壁がまだあると思って後ろにもたれたら、触れたと同時に急に消えたんだよ」

「でも、私だって今、気持ちをぶつけたけど、上手く行かなかった。口から出た言葉は本当にそう思っての本心なんだよ」

「そ、そっか。それは嬉しいな」

 向こう側にいる澤田君はまた照れた。手持ちぶたさに壁に手をついたときだった。またがくっと体がバランスを崩していた。体勢を整えようとおっとっとっと、今にもこけそうだ。それをやっとの思いで持ちこたえて私に振り返った。

「壁がまた消えた」

「うそっ」

 私も目の前の壁にふれようと手を伸ばす。さっきまであった壁がもうそこにはなかった。

「こっちも消えた」

 確認のため、先へと足を運ぶ。食器屋の隣は無機質な白い壁が続いている。ガラス張りのドアが中央にあって接骨院とかかれていた。反対側の精肉店の隣はシャッターが閉まっていた。進めるところまで進んだら、接骨院の建物の終わりに見えない壁を確認した。そこから辿って向かい側に行けば、シャッターが閉まっている店の端に続いた。それは店舗ごとにこの空間は確実に広がっている。私は澤田君を振り返る。これって、やっぱり澤田君の感情が影響しているんじゃないの?

「ちょっと澤田君」

 澤田君から遠ざかってしまったので、私は澤田君に駆け寄る。澤田君に近づけば、彼は眉間に皺を寄せて混乱していた。

「栗原さん、これってどういうことだろう」

「だから、やっぱり原因は澤田君なのよ。澤田君の感情がこの空間を左右してるのよ」

「僕の何の感情?」

 さっきまでポジティブになるや、希望をもつといっていたのに、澤田君は自分のことになると訳がわかってない。

「その純粋な、ピュアな心!」

 重複した語彙が続いた。そんな事を気にしてられない。これは澤田君が喜んだり恥ずかしがったりしたら、壁が消えるのじゃないだろうか。私にはそう思えてならなかった。

 澤田君はまだこの事態を飲み込めていなかった。

「ちょっと待って、僕のそのピュアな心って、何?」

「澤田君ってすごく純情で心が澄んでいるってことよ」

「ええっ、僕はそんなんじゃないよ」

「そんなことで謙遜しないの。とにかくそっちの壁がどこまで動いたか確認して」

 私は接骨院のところまで再び走り、澤田君の行動を離れて見守った。私もこっち側で壁が移動する事を期待して、今手のひらをくっつけてスタンバイしている。

「どうそっちは?」

 距離が遠ざかった分、力んで声を出した。静かな空間では声がよく通った。

 澤田君は少し進んだ先で手に壁を感じたのか、ペタペタと辺りを触っている。

「ここまで壁が移動している」

「じゃあ、もう一回、さっきのように繰り返すよ」

 私は一度息を吸い込んだ。そして思いっきり叫ぶ。

「澤田君とデートしたい!」

 私の方は壁がまだ動いてない。暫く様子を窺い、壁が消える事を願った。でも澤田君からは何の報告もされなかった。

「澤田君、ちゃんと壁を触った?」

「触ったけど、さっきみたいに消えないんだ」

「どうして?」

「わかんない」

 その後、私はもう一度デートしたいと叫んだが、壁はそれ以上動かなかった。

「なんでよ。二回もそれで成功しているのに、どうして急に法則が発動されないのよ」

 大声を出し続けるのも疲れ、私たちは商店街の真ん中に戻る。虚しくなっている私の表情に澤田君は反応する。

「栗原さん、ほら、がっかりしないの。ネガティブは禁物だよ」

「わかってるけどさ、折角ヒントを掴みかけたのに、それが役に立たなくなったからちょっと悔しくて」

 澤田君を見れば落ち着いている。

「やはり偶然だったのかもしれないよ。ここは気まぐれで不安定な空間なのかも」

「偶然にしても、二度も同じ事が続いたんだよ。気まぐれだったとしても、店舗を基準にして壁が動くのは順序良くすぎない? やっぱり法則があるんだよ。私が澤田君とデートしたいっていったら、澤田君が照れて壁を触ると動いて、この空間が拡張したのはまぎれもない事実だよ」

「そうなのかな……」

「もしかして澤田君、もうドキドキしなくなった?」

 何度も同じ事を繰り返せば、澤田君自身の感情が慣れてきたのかもしれない。それにデートしたいって思っていても、今はその言葉を発すればこの空間が広がるって思いこんでいる自分もいる。感情が二の次になってしまった。

 でも澤田君は私を見てにこっと笑う。

「そんなことない。僕は栗原さんを見てからずっとドキドキしてるけど」

「やっぱりそれって、初恋の人と私が被っちゃってるから?」

 澤田君はこの質問に少し考え込んだ。

 言葉を選んでいるようで、困っているようで、私がじっと見つめて答えるのを待っているから答えないといけない焦りもでて、ようやく出てきた声は「うーん」だった。

「やっぱり被ってるんだ。初恋の人の事を考えてるんだ」

 勝手に判断して私が代わりに答えた。

「あのね、どう答えていいのかわからないんだけど、栗原さんのいうことは一理ある。それだけじゃないんだ」

「どういう意味?」

「うーん」

 また唸っていた。

 澤田君は答えるのを渋っているのか、本当にどう答えていいのかわからないのか、多分後者だろう。そしてやっと口を開いた。

「僕が勝手に初恋の人に似てるなんて言ってごめん。やっぱり初対面でそんなこと言われたらびっくりするよね」

「それはそうだけど」

 ある程度澤田君の人柄を理解すると、今となってはそんなに悪い気がしない。それってすでに好かれている近道というのか、私を意識する要因になっている。私だって、それがあるから急に告白されたみたいな錯角に陥った。

 初恋の人に似てるや、元カノに似てるって、一度好きになった人に似ているっていう言葉は接着剤のように突然強力にくっ付いてしまう力を持っていると思う。

 人間じゃなくても、以前飼っていた犬に似てる、猫に似てる、そういうペットの写真を目にした時、共通点があれば誰だってそう思う。死んでしまったペットのクローンだってわざわざ作るような時代になってしまったくらいだ。最初に好きになったものからそれに似ているものに執着するのは人間の本能なのだろう。好みは体に刷り込まれて無意識に繰り返される。

「正直、栗原さんを見たとき、僕の初恋の人が現れたんじゃないかって、一瞬思ったのも確かなんだ。でもそれはありえないことだってわかってたんだけど、栗原さんを見るといてもたってもいられなくて、それでつい声を掛けてしまった。まさかこんな状況になるなんて思ってもなかったけど、もしかしたらやっぱり僕のせいなのかもしれないね」

 急に後悔して、澤田君が悩み出した。

「一体、初恋の人と何があったの?」

 何か言えないわけでもあるのだろうか。

「本当に僕たちの間には何もなかった。ただ遠くから見てるだけの存在。だから声を掛けなかったことをとても後悔した。もし声を掛けてたら何かが変わったんじゃないかって、いつもいつも思いながら過ごしてた」

「そんなに好きだったんだね。やっぱり純情なんだ」

「そうじゃないんだ」

 珍しく澤田君は取り乱した。

 その反応に私も息を飲んで黙りこんだ。急に静かになって気まずい空気が目に見えるようだ。初恋の人の話は私から気軽に触れてはならない何かを感じる。

「あのさ」

 頭に何も考えが浮かんでないのに、その場を取り繕うだけの声がでた。

 澤田君も私に視線を向け、迷いがあるようで口に出来ないまま口元を微かに震わせている。

 暫く張り詰めた冷たい空気を感じたけど、そこに何かが割り込んできた気配がする。

「あっ、今、足に何かが触れた」

 澤田君が言うや否や、突然「にゃー」と足元で甲高い声がした。それがきっかけで辺りの空気が一気に柔らかくなった。

「えっ、猫? 猫がいるの?」

 私たちは辺りを見回す。かなり近くで聞こえたように思ったけど、足元を見ても猫の姿が見えない。

「にゃーお、にゃーお」

 私は鳴き真似をするも、手ごたえはなかった。

「あっ、居た」

 澤田君が指を差して声を上げた。

 そこは焼肉屋があるところだ。その店の前の隅っこには、外で待つ客のために、赤い丸椅子が重ねて置かれていた。その上にちょこんと座ってこっちを見ていた。

「何も見えなかったのに突然ぱっと宙に現れて、その椅子に着地したように見えたんだ」

 澤田君が説明する。

「もしかしたら、さっき足元で声が聞こえたのは、私たちの近くを横切ってたってことかな」

「多分そうだろうね。この空間の中では見えなかったんだ」

「それじゃ猫には私たちが見えるのかな」

 私はそっと猫に近づいた。

 不思議なことにその猫の毛並みの色が一つに定まって見えなかった。

「ねぇ、澤田君。この猫の毛並みだけど、何色に見える?」

 澤田君が近くで見ようとすると猫は椅子からジャンプして降りてしまった。そのとたんに姿がぱっと消えた。

「ねぇ、見た? 猫の毛並みの色。何色だった?」

「うんと、こげ茶っぽかったような黒かったような」

「私には模様も含めて次々と変化しているように見えたんだけど」

 澤田君は考えこんでから、また「うーん」と唸っていた。そして口を開く。

「ねぇ、栗原さん。色が変化しても、その猫は一匹だと思う?」

 澤田君の質問の意味がよくわからなかった。

「私には一匹にしか見えなかったけど?」

 澤田君は瞳の奥深くで何かを考えていながら、私を見ていた。

「ねぇ、栗原さん。少し休憩しない?」

「休憩?」

「うん、ずっとここを出ることばかり考えて、一喜一憂してちょっと疲れたでしょ。僕も少し休みたいんだ」

「うん、別にいいけど」

 澤田君は何かに気づいたんじゃないだろうか。慎重になったというのか、初恋の人の話を訊いたら、急に態度が変化した。それに何かあるのは伝わってくるのに、何も話してくれない。

「ああ、この椅子が使えたら、座れるのにな」

 私がヤキモキしているというのに、澤田君はマイペースに事を運んでいる。

 何も触れるはずがないのに、澤田君は丸椅子に向かって手を伸ばす。そして「うわぁ」と声を上げていた。

「どうしたの?」

「椅子、椅子が」

「椅子がどうしたの?」

 澤田君は両手で二つに重なった丸椅子を掴んでいた。

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