第二十一章 ジョージ

Mrグラントのデスクの大きな椅子に腰をおろした。

何か暖かいものに包まれているような気がする。


涙が、こぼれてきた。

何故だろう、とても暖かな気持ちになる。


『又、泣く・・・

本当に泣き虫だな、ユキは・・・?』

 

伸男の声が聞こえる。


(あぁ、伸ちゃん・・いるのね、そこに・・・?

私のそばに・・・。


私もそこに行きたい・・・。

連れていって・・伸ちゃん・・・)

 

伸男は優しく雪子の髪を撫で付けてくれる。 

 

『だめだよ・・・ユキ。

ユキは自分の人生を精一杯生きるんだ。

僕の事はもう考えないで・・・

ユキ、もういいんだよ・・ユキ・・・』 


(伸ちゃん・・・。

いや・・そんなの・・いかないで・・・)

 

「ユキコ。ミス・ユキコ・・・」


気がつくと大きな男がそばに立っていた。

指で雪子の髪を撫でている。


「伸・・ちゃん・・・?」

頬に涙が流れている。


又、会えた。

雪子は嬉しかった。


この部屋で再び伸男の声を聞いたのだ。

そしてもう一人の男にも。


男は微笑むと優しく指先で拭ってあげた。

澄んだブルーの瞳で見つめている。

そして、囁くような英語が聞こえた。


「まだ寝惚けているのかい、子猫ちゃん? 

いくら休日出勤でも会社で居眠りはよくないな」


Mr・グラントであった。

そう言いながらも机の上に腰掛け、尚も優しく雪子の髪を撫で上げている。


(あの時と同じ・・・)

雪子は素直に余韻に浸っていたいと思った。


「ごめんなさい、Mrグラント・・・。

あまりに日差しが暖かくて・・・。

座り心地・・・いいんですね・・・。

この椅子・・・?」


「ジョージと呼んでくれ・・・」

男は笑った。


「ジョージ・・・」

三度目にして、ようやく雪子はその名を呼んだ。


「ユキコ・・・」

二人は互いを見つめ合ったまま、この幸せな時間を共有していた。


五月の光が二人を優しく包んでいく。

雪子は子供になったように男の愛撫に浸っている。


(好き・・・)

自然と心に浮かんだ。


(私・・この人を愛している・・・)

8年間凍りついていた心が、男の指先の動き一つ一つに溶けていくような気がする。


(伸ちゃん・・ごめんなさい・・わたし・・・)


不意に携帯電話が鳴って、雪子は現実に引き戻された。


「失礼します、Mrグラント」

慌ただしく立ち上がり、スイッチを押してドアの方に寄った。


携帯の電源を切っておかなかった事を悔やんだ。


「僕だよ、片山です。

もう一度会いたいんだ。

Mrグラントは今アメリカだろ?」


片山の声であった。


いっとき彼に心を許した時もあったのに、今は何も感じない。

そんな自分に対する腹立たしさも手伝って、キツイ口調で答えた。


「今ちょうど、お帰りになられたところです。

申し訳ありません、勤務中ですので・・・」 


電話を切ると、電源そのものも切って不通状態にしておいた。


「失礼しました・・。

お帰りなさい、Mrグラント」


仕事の口調に戻った雪子はそれでも嬉しそうに言った。


「ただいま、ミス・ユキコ・・・。

オーケー。

じゃあ、さっそく仕事だ。

このリストの資料を揃えてくれ・・・」


渡された資料に目をやり、一読すると元気良く答えた。


「わかりました。

資料室の鍵は借りてありますので、

本日中にご用意します・・Mrグラント」


「ジョージと・・・呼んでくれ」

男は満足そうな顔をして椅子に座った。


「やあ、十日ぶりだ、この椅子も・・・。

ウーン・・・。

確かに座り心地がいいな、ミス・ユキコ?」


二人は見つめ合ったままやがて吹き出し楽しく笑った。


「オーケー、じゃあもう一つ命令だ。

5時までに仕事を終えたら今日は夕食に付き合うこと・・・いいかな?」


雪子は顔を輝かせ、微笑みを浮かべた。


「イエス、ジョージ・・・」

その言葉に、男はウィンクして笑った。


休日のオフィス街は人もまばらで、心なしかそびえ立つビル群も一休みしているように見える。


まだ柔らかい五月の日差しは、包むように二人の長い影を作っていた。

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