斑雪

糸島誠

第1話 斑雪

 なぜ、いつもと違う道を使ったのか?覚えていない。だが、その日から毎朝、この道を使って通勤している。

 春のぼやけた青い空の下、ウィンカーを点け交差点を右に曲がった。


 今日は居た!減速してバス停の少し先で車を停める。パウダーピンクの軽やかなワンピースの彼女が助手席に座る。セミロングの髪が揺れ、ほんの少しフレグランスが薫る


「おはようございます。今日はミニハンバーグです」使い捨ての容器に詰めた手作りの弁当を後部シートに置く。助手席から後ろに手を伸ばす、彼女の顔が運転席の私の顔に近づく。刹那、胸が熱くなる。


 彼女を乗せて、世間話や会社の話をしながら10分ほど走る。会社と最寄りのバス停との間、人目につかない所で今日も彼女を降ろす。


 彼女が入社してきたのが3年前だから今は25歳、総務部勤務。ルックスも愛想もよく、会社では気さくなアイドル的存在だ。

 私は36歳、営業部勤務。結婚していて小学生の子供が2人いる。


 はじまりは、雪の降った翌日。いつもと違う道で会社に向かっていたとき、斑雪となったバス停で彼女を見かけた。思わず車を停め、手で乗らないか?と彼女に合図を送った。

「いいんですか?有難うございます」コート姿の彼女がドアを開け入ってくる。彼女の透明感のある瞳に見入ってしまった。私は取り繕うように話し掛けた。

「家はこの辺りだったの?」

 彼女はキラキラした顔で

「はい、最近、引っ越して一人暮らしを始めたんですよ」

 その日から通勤の道が変わった。


 もう、2ヶ月くらい経つだろうか。

 彼女がバス停に着き、バスが来るまでに私の車が通れば彼女を乗せる。

 彼女がバスに乗ってしまえば会えないし、営業職の私が客先に直行するときも会えない。バス停の近くで車で待つようなことはしない。


 何度か彼女を乗せたとき、妻が子供に時間を取られて、最近は弁当を作ってもらえないとこぼした。外回りのときは車で弁当を食べるのが効率的だ。

 次の朝、彼女は弁当を持ってきてくれた。

「作れるときだけですからね。毎日じゃないですよ」と、いたずらっぽく微笑む。

「朝、会えなかったときははどうするの?」

「もちろん、そのときは自分で食べます」


 朝、バス停で一喜一憂する、そんな日々が続いている。


 今日は終日、社内勤務だった。

 昼休みに同僚たちと談笑している制服の彼女を見かけた。眩かった。会社で二人は話さない。

 残業をしていたら、営業部の電話が鳴った。午後9時を回っていた。課長の奥さんからだった。

 課長には社内不倫の前歴があった。不倫相手の夫が会社に乗り込んできて大変だったと聞いたことがある。

 奥さんに、課長は今夜は間違いなく接待で、うるさい得意先なので携帯を切っている旨を伝えた。

 自身を振り返って思う。だめだな、私には社内不倫はできないと思う。情けないがそんな勇気はない。


 少し前、ハンカチを忘れたとき、彼女にハンカチを貸してもらえないかと言った。

 ダメですよと即答された。

 コンビニで買っても良かったし、貸してもらった女性用のハンカチを家に持って帰れるわけもない。

 でも、彼女の何かが欲しいと思った。いや、彼女が欲しかった。


 ヒリヒリする思い、淡い思い、後ろめたい思い、ないまぜの心。深まる春は、落ち着かない日々。


 すっきりとした青空が初夏の訪れを告げていた。先週一週間、彼女を乗せる機会はなかった。

 今週に入り、課長と彼女が駆け落ちしたことを幾人からか聞いた。


 彼女が一人暮らしを始めたのは課長と付き合うだめだったらしい。


 私は明日の朝も、その次の朝も、あの斑雪のバス停の前を通るだろう。

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