ギャルと根暗と後輩と配信と。

@banaharo

プロローグ

第1話 知らぬが仏。

 世の中、必要なのはコミュニケーション能力である事を自覚させられるのは、もう何度目かわからない。それがないと人と人は関われないし、関わってもそれ以上の繋がりにはなり得ないから。

 そして、それが出来ない奴は苦労するように世の中なっているのだ。だから、少年は正直、人間として生きるのがしんどかった。


「ね、栗枝。あたしと付き合ってくれない?」


 そう言われたのは、校舎裏なんてベタな場所に呼び出された少年、栗枝鈴之助。

 背が高い割に少し童顔気味のイケメンで、クラスの女子には人気があった。本人もそれなりにおしゃれに気を使うタイプでもあり、髪も茶色に染めていた。その上、運動神経抜群、成績優秀と何でも出来る少年だ。

 告白されたにも関わらず、鈴之助はポリポリと頬を掻いてから答えた。


「月に一回」

「え?」

「銀行強盗が押し入るような刺激的な事件を起こせるなら、採用してやっても良いよ」

「……」


 ビキッ、と。少女の額に青筋が浮かぶ。まぁそうなるだろう。でも、恋人になって自分の時間を奪おうと言うのだから、それくらいしてくれないと割に合わない。


「採用って何よ! アンタとの交際はアルバイト⁉︎ あとなんで上から⁉︎」

「え、いや『付き合ってくれない?』ってことはお願いしたんでしょ? 別に上からでも良くね?」

「良くない! 最低! ていうか、そんな事件を起こせって犯罪者になれっての⁉︎」

「あ、それ最高。可能ならどんな作戦でどんな経緯を持ってどんなことをテーマにどんな犯罪を犯したのか詳しくどうぞ」

「起こさないわよ! あんた彼女に何を求めてるわけ⁉︎」

「刺激」

「その一言で片付けられるかぁ! もういい、なんでもない!」


 怒鳴るだけ怒鳴って、教室に戻っていく。なんなんだろう……いや、正直、無茶振りをしたのは分かったいる。

 だから、せめて向こうが譲歩する気があるなら許可する予定ではあった。しかし、それもしないで癇癪起こして立ち去られるとは……やはり、人間は面倒臭い。


「人の昼休みを取っといて、あの言い方だもんなぁ……」


 ため息をつきながら、鈴之助も昼を食べに行く。

 ここ最近は自分と関わろうとする人間も減って来た。まぁ別に構わないが。大人になったらそうもいかないのだろうが、今すぐに必要なスキルではない。何より、人と関わり過ぎると自分の仕事に支障が出るかもしれないので、やはり付き合うわけにはいかないかもしれない。

 そんな風に思いながら、とりあえずメモ帳を取り出す。今の女のあの癇癪……面白かった。特に、ツッコミのペース。おかげで次にやる放送内容が決まった。


「……次のゲームは、ツッコミゲームにしよう」


 少年は、ゲーム配信者だった。それも、既存ゲーム実況や釣り、喧嘩や動物などではなく、自分で作ったミニゲームを自分で実況配信し、そしてその評価次第でそのゲームを、インターネットのフリーゲームストアに載せる趣味を持っている。

 そのゲームの為に、色んな刺激を求めていた。何せ、新しいゲームを作るには、その基盤が欲しいから。

 さて、ツッコミゲームはどうするか……ゲームと言っても、少し前の永遠に遺跡を走り続けてスコアを伸ばしたり、綺麗な土下座をして高得点を得る少し前のスマホゲームみたいな、素材を集めると進化させるとか、長く続けるためのゲームではなく何度も繰り返し暇つぶし程度にやれるゲームを作っているため、ツッコミも自由に文字を入力出来ては重過ぎる気がする。

 つまり、選択肢からの加算……ギャグ要素高いゲームにするしかないか……ボキャブラリーが大切だな……。

 なんて思いながら、その際には学校だけで流行っているワードにも注意しないといけない。

 何せ、身バレするから。自分の学校だと、教員に怒られる事を「ハマる」と表現したりするから、それを使うと高校がバレる。

 まだまだニッチな方である自覚はあるが、それでもチャンネル登録者数は一万人弱。

 自分の親はエリート中のエリートであることもあり、それだけ逆恨みされている数も多い。故に、自分の身バレは家族の破滅に繋がるかもしれない。

 だから、信用出来る相手以外への身バレは絶対嫌なのだ。


「うしっ、考えるか」


 そんな呟きをして、とりあえず教室に戻った。


 ×××


「もう、なんなのアイツ! 良いの顔だけじゃん!」


 そう吠えるのは、先程フラれた……というより自分からフった金髪の少女だ。

 友達に愚痴っていて、聞いている長い黒髪の少女は、スカート丈は太ももがほぼ露出しているほど短く、靴下は逆に長くダボダボ。胸元のボタンも第二ボタンまで外し、如何にも「クール系ギャル」という見た目だ。


「だから言ったじゃん。やめとけって」

「だって〜、顔は超タイプだったんだもん。顔は!」

「人間顔だけじゃないって事でしょ」

「ううう〜……そんな当たり前のことをこの歳になって学ぶとは……」

「むしろ学ぶならこの歳だと思うけど」


 恋愛が盛んなのが高校二年生だ。この時期に、色んなやつと関わって恋愛して傷ついて傷つけてを繰り返し大人になるの……と、小学生の時に読んでいた少女漫画に書いてあった。


「なんて言われたの?」

「あいつに?」

「そう」

「『月に一回、銀行強盗が押し入るような刺激的な事件を起こせるなら、採用してやっても良いよ』だって! マジ殺してやろうかあいつ!」


 なぜか内容だけでなく口調までモノマネまでして表現してくれたが、確かにそんな言い方をされたら腹立つかもしれない。


「まぁ、流石にそれはないかもね……」

「でしょ⁉︎」

「うん。でも……もしかしたらほら、彼にも何か事情があるのかもしれないしさ。前に付き合ってた彼女に遊ばれてただけだったーとか」

「だからって犯罪に手を染めさせようとする⁉︎」

「何も、犯罪的な事じゃなくてさ……何か刺激があればなんでも良かったんじゃない?」

「何にしても無理だから! 月一とか!」

「まぁ……そうね。普通は無理だよね」


 残念ながら、この世界は少年漫画の世界ではない。月一で身の回りでそんな事件など起きていたら、それはもう祟りだ。

 そんな話をしていると、チャイムが鳴り始めた。


「わっ、やばっ。教室戻らないと。行こ、由香」

「ん」


 すぐに教室に戻り、席に着いた。

 のんびりと教科書を開きながら由香と呼ばれた黒髪の少女……黒崎由香は、スマホを眺めた。

 さっきまで一緒だったフラれた親友、斉藤優奈には本当に申し訳ないが、情報をさりげなくもらってしまった。

 ……何故なら、由香は知っているのだ。あの少年の正体がなんか実況者「クリエイター木村」である事を。

 自分が作ったゲームを自分で実況し、自分勝手なトークとコメントの意見とかを聞き入れて、改良してからフリーゲームをアップしたりしている配信者。

 つい数ヶ月前、廊下で肩と肩がぶつかり、彼のメモ帳を拾い、中を見てしまったのがそれを知るきっかけだった。一番最後に配信したゲームのメモがびっしりと詰まっているページを見て、思わず聞いてしまった。


『えっ、もしかして……クリエイター木村さん……?』

『い、いやいやいや! 誰だその愉快な名前の実況者! 俺はそんな人、ぜんずぇん知らねえしホント! 知らないけど……知ってんの?』


 愛おしさを感じるほど分かりやすくて、ほっこりと知らないふりをして差しあげた。

 だって、身バレが原因でやめてしまったら、もう放送もゲームも見れなくなってしまうから。

 そのゲームがまた絶妙に面白いのだ。ミニゲームだからパッとやれるし、そもそもあまり重くないのでいくらでもインストールしてしまう。無料だし。

 何より好きな点が、どのゲームもまずプレイする側への配慮が見えることだ。故に、操作性とゲーム性が噛み合わない事故が起きているところを見たことがない。ゲームについてあまり詳しくない由香でさえそう思うゲームが多い。

 ……別に、付き合いたいとかではない。ただ、ちょっと友達になりたい。それだけだ。


「……よしっ」


 とはいえ、突破口は見えた。刺激だ。彼にとって刺激的な人物になれば、友達になれる。

 そう強く決心し、とりあえずその授業の間は作戦を考える事にした。


 ×××


 放課後、図書室にて。鈴之助は図書室に訪れた。ここは、刺激の宝庫だ。本を読み、そこから新たな着想を得てゲームにする……が、今日は刺激ではなく、読書に来た。

 ツッコミゲームを考えたのだから、また語彙力を豊富にしに来た。ここにある本はほとんど読んでしまったが、また新しいものがあるかもしれない。


「図書委員」

「っ、は、はい……! あ……栗枝くん……!」


 顔を上げたのは、黒い髪を伸ばし、前髪も伸びてて両目の上半分くらいを隠し、口元にほくろがある大人しそうな雰囲気の少女。

 真面目そうに見えるが、実は三度の飯より読書とゲームが大好きな少女で、今も仕事をしないでスマホゲームをやっていた。……というかそのゲーム、自分が作ったものだ。

 一応、先輩なのだが、鈴之助は何一つ敬語を使う様子も見せずに、真顔で声を掛ける。


「新しい本入った?」

「あ……は、はい……! こちら、ミステリーですが……」

「借りるわ」

「わ、分かりました。え、えっと……ど、どうするんでしたっけ……」

「あーいい、いい。俺がやるよ。その方が早い」

「うっ……す、すみません……」


 図書委員になって三年経過するのに、未だにレジの使い方を覚えていない、中々な先輩である。これでバッキバキの理系で、数学の成績は学年一位なのだから、本当に訳がわからない。

 まぁでも、鈴之助には関係ない。テキパキとバーコードを打ち、裏表紙の内側に貼られている表に日付を書き、そして図書委員側が管理している用紙の表にも名前と日付を書いた。


「はい。あとここに名前書いて」

「あ……ありがとう、ございます……」

「じゃ」

「は、はい……!」

「あ、その前に」

「っ、は、はい!」

「なんでそんなビクビクしてんの?」


 何かしただろうか? 図書室でしか会った覚えないのに。ま、そんなことよりも、だ。さっき一瞬だけ見えたスマホゲームのことだ。


「そのスマホゲーあれ? クリエイター木村の『マシンガン蜜蜂ダッシュ?』」

「は、はい……!」


 二ヶ月くらい前に作ったゲームだ。自分が作った奴。他人の体を保って聞いたが、自分のゲームである。


「そ、それ……やった事ないんだけど、面白いん?」


 聞いてみる。やはり生の声で実際にやっている人の感想を聞きたいものだ。なるべく自然に聞けた自覚がある。役者の才能もあるかもしれない。

 すると、先輩は笑顔を浮かべて頷いて答えた。


「え、ええ……とっても、面白いですよ?」

「っ、あ、あそう。じゃ」


 適当な挨拶だけして、鈴之助は出ていった。これを家で読んでから、その後で授業中に纏めておいたゲームの案を実際に作ってみよう。

 満足げにそんなことを思いながら、帰宅した。


 ×××


「ふ、ふぅ……疲れました……」


 思わず独り言を漏らしてしまった図書委員の三年生、半田碧は一息ついた。

 しかし、と碧は思う。ほんと、可愛い人だな、と。そして、それ以上に尊敬と敬意を向けていた。

 何せ……自分がチャンネル登録をしている動画配信者の配信主だ。自分で作っているゲームを人前に載せる勇気と行動力がとてもすごいと感動している。

 知ったのは半年くらい前。いつ思い出してもほっこりしてしまう。


『これ、借りる』

『あ……は、はい……え、えーっと……どうやるんだっけ……』

『いや、それでバーコード読み取んだよ』

『あ、そ、そうですね……!』

『いやいや、その前に図書委員のプレートのとこを……』

『ぷ……ぷれーと?』

『なんでお婆ちゃんみたいな発音になんだよ。もういい、俺がやる』


 そう言って、鈴之助はバーコードリーダーを奪い……そして、自分の首から下がり、胸の辺りで止まっている図書委員のプレートに当てた。


『っ、い、いやあああああ!』

『ぶべらっ!』


 思わずビンタが炸裂し、吹っ飛ばしてしまった。それも、運動音痴なのに生まれつきパワーだけは何故かある腕力で。

 慌てて駆け寄り、膝をついて声をかける。


『あ、ご……ごめんなさい……!』

『……あ、閃いた。次の配信こっちにしよう』

『……へっ?』

『ありがとう。良い張り手だった』

『……?』


 殴られてありがとうって……? あと張り手じゃなくてビンタ……なんて思う間も無く、男の人は立ち上がり、本を借りることなく出て行ってしまった。

 まぁでも、怒ってないなら良かったのかな……なんて思いながら立ち上がろうとした時だ。ふと目の前に、手帳が落ちている。今の男の子のかな、と中を開けてみると、そこには「ヒューマンカワセミ」「犬五郎vsゴリ座右衛門」「以心伝心」などとなんかよくわからない言葉が並んでいる。

 そして、最後に文字が綴られたページには「0点のテストを隠せ!」というタイトルと【次の配信】という文字が赤ペンで記されていた。


『???』


 配信……って、なんだろう、と思った直後だ。図書室の扉が蹴り壊され、反射的に手帳を閉じる。入ってきたのは、さっきの少年だった。


『ーっ⁉︎』


 自分を見るなり目を丸くし、ツカツカと歩いて来て手帳を奪う。

 その直後、顔を近付けてジロリと至近距離から睨まれてしまった。


『中、見た?』

『ひぇっ……あ、いえ、あのっ……み、みみ見てません……』


 怖い、と年下にビビらされてしまう。というか、今のは自分でもわかりやすい過ぎたかも……と、涙目になってしまった直後だった。


『あ、見てないなら良いや。拾ってくれてありがとう』

『……ほえ?』


 驚くほど真顔になり、それどころかお礼を言って立ち去っていった。

 その数日後、彼が何をしているのか気になり、配信というワードから動画サイトを開き、張り手というワードで探したら、自分のビンタをモチーフにしたゲームを動画で出していた。

 それが面白くて、それと同時にすごいと思って……そして、彼の活動を追いかけるようになった。

 しかし……本当に何も変わっていない。突飛なことをして、そしてとても隠し事が下手くそ。あれで正体がバレていないと思っているのだから。

 でも、自分は彼のアラを探したいわけではない。だから、何も言わない。

 むしろ、応援している。だから、たまに彼にゲームになるような刺激を与えたりもする。ちょっとビンタがゲームになった時は嬉しかったし。

 そろそろ……また何か彼に刺激を与えないと……そう思って、とりあえず仕事を進めた。


 ×××


 さて、本を持って帰宅する鈴之助は、体育館の横を通りがかかった。その直後、扉から飛び出してきたのはバスケットボール。こめかみに直撃する前にキャッチし、回転しながら投げ返した。

 こう見えて、鈴之助は運動も得意だ。中学の時は、バスケで全国に出たし、小学生の時は野球とサッカーのクラブチームにも所属して関東に出た。


「あ、すんませんっす、先輩」


 そう詫びたのはキャッチした、背が高い半袖短パンの女子生徒。短い髪をポニーテールにまとめた少女だ。背もそれなりに高く、すらっとした手足は引き締まっていて、とても力強そうだし、実際力強い。何せ、一年生にして女子バスケのエースを張る女だ。

 何せ、中学から彼女との付き合いは続いているので、この学校で数少ない顔見知りである。


「おう、熊谷」

「相変わらず良い反応っすね。もうバスケやらないんすか?」

「やんない」

「はぁ……勿体無いなぁ。先輩なら高校でも良いとこまでいけるでしょうに」

「お前が構ってほしい時に相手くらいはしてやるよ」

「そりゃありがたいっすけど……」


 何せ、バスケからも刺激を得られる。少女にも自分がゲーム配信をしていることは内緒にしているが、彼女から刺激を得てネタにしているゲームも数多くあるため、中々悪くない。


「……はぁ、先輩が試合でプレイしてるとこ、もっかい見たいんすけどねー」

「それは諦めろ。じゃ、俺帰る」

「あ、あの……先輩」

「何?」

「今日……部活終わった後、バスケ出来ませんか……?」


 その瞳は、何故か少し不安げで潤んでいて……そして、少し寂しげで。……まぁ、そんなこと全く知ったことではないのだが。


「部活終わんの一時間後くらいだろ? 絶対嫌だ」

「うぐっ……そ、そうすか……せっかく、美味いラーメン屋見つけたんで奢っても良かったんすけど……」

「行くわ」

「よーし、じゃあ夕方18時半に、体育館に来て下さいっす!」

「はいよ」


 後輩に奢られることに、なんのためらいもない男だった。ラーメン食べたい、その一心である。

 適当な挨拶だけして、鈴之助はその場を後にした。


 ×××


 部活終わり、熊谷と呼ばれた少女……熊谷琴香は一人でシュート練習をする。居残り練習、という名目で許可を得ていた。

 琴香、という名前をつけられたことから、両親からは音楽を始めて欲しかったらしいが、悲しいかな。ゴリゴリの体育会系に育った。

 身長は高一にして172センチ。筋力も体格も高校生にしてはずば抜けていて、女子バスケット部のレギュラーである。

 そんな琴香だが、あらゆる面で唯一、負かされた相手が鈴之助だった。

 それ故に憧れや尊敬は少なからずあった。性格ではなく、バスケの腕に。だが……高校に上がってから、彼がバスケをやっていないと知って絶望した。

 当然、調べた。バスケ以外に才覚がアホほどある男なのは分かっていたから、他に何をしているのか。

 そんな中、クラスメートに勧められた配信者の配信を聞いて驚いた。声が、鈴之助と同じだったからだ。

 多少、低めに変えていたが、自分には分かる。尊敬していたから。


「……っ、ふぅ……」


 先輩がやりたいことを邪魔はしたくない……なんて穏やかな考えはなかった。だって別に性格は好きじゃないし。むしろ結構ムカつく。

 でも、バスケットプレイヤーとしての彼は好きだ。だから……無理矢理にでもバスケをやらせ、またバスケ部に入れさせる。その為には、彼の手帳を盗み、破棄することも厭わない……! 

 なんて、とてもスポーツマンシップを学んでいるとは思えない発想で、今日のバスケに誘った。

 隙を見て……彼の制服のポケットに眠るネタ帳を奪う……! 

 そう覚悟を決め、とりあえずシュート練習をしている時だった。


「相変わらず熱心だな」

「……先輩」

「1on1一本で良いのか?」

「せめて5本はやりましょうよ……」

「汗かくの好きじゃないんだよね」

「いや、あんた本当元バスケ部?」


 鈴之助は制服の上着を着たまま、軽くストレッチを始める。

 そして、それを終えてから琴香の前に立った。


「先輩、今までのアタシだと思わないで下さいよ」

「お前こそ、今まで俺だと思うなよ」

「……練習とかしてたんすか?」

「少し視力落ちてシュートの精度が落ちた」

「ダメじゃないすか。負けたらラーメン奢りませんよ」

「は? 聞いてないんだけど……」

「じゃスタート!」

「おい!」


 先行は琴香から。正直、勝ち負けはどうでも良い。そして、自分が先行だと上着から手帳は抜きにくい。なので、この勝負は捨てる……と、横を通り抜けようとした時だ。

 スパッとボールをカットされる。まぁそれは構わない。


「はい、チェンジ」

「上着、脱がなくて良いんすか?」

「5本だろ? それくらいなら平気」


 ……侮られるのは割と腹立つのだが。まぁでも、今は自分のために我慢である。

 攻守交代し、次は自分が守りで鈴之助が攻め。守備ならばやりやすい。最悪、ポケットから抜けなくても、落とさせれば盗れる……! 

 そう思い、全力でガードしに行った……のだが。


「……えっ?」


 指先が掠める事さえなかった。彼の身体が一瞬だけ虚空となったのかと思ったほど、気持ちが良いスカッとした空振り。多分、残像に攻撃した人ってこんな感じなんだろうな……と、思うほど華麗に避けられ、そしてシュートを打たれた。

 パサっ、とネットを揺らし、数回バウンドするボール。それを見て、思わず琴香は唖然とした。まさか……未だにここまで実力を維持していたとは。この男、本当に何なのか。


「もう終わりか?」

「……」


 ブチっ、と自分の中で何かがキレた。こいつ……言うことにもかいてこいつ……! と。上等だ。手帳はとりあえず後にして、とにかく負かす……! 

 そう強く思い、部活の後なのに本気で1on1に臨み、結局盗難を忘れてその日は終わった。


 ×××


 栗枝鈴之助は知らない。自分が、三人の女子生徒に、既にバレていることを。それ故に、その日までは一人、穏やかな時間を過ごしていた。

 しかし、それは長くは続かない。人の平穏は、自分が無意識のうちに作り出した原因で他人の介入が発生し、崩れるのだ。

 知らぬが仏、という言葉は、まさに鈴之助のためにあるのかもしれない。


「なるほど……文学的表現を交えて、ツッコミに語学力を含めるのも良いかも……」


 本を読みながらそんな呟きを漏らしつつ、何も知らない樹貴はとりあえず参考に用意した本をめくった……。

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