ミミコの願い

雪音あお

Ep


 ミミコは、人を好きになったことがない。



 もちろん子供の頃は、あの子は足が速くてかっこいいなとか、あの子は勉強ができてかっこいいなとか、思うことはあった。ラブストーリーや少女漫画も好きで、ときめく心も恋愛に憧れる気持ちも知っていた。


 それでも物語の登場人物達のようには、人を好きになれなかった。ミミコにとって、誰かを好きになれないのは当たり前のことで、自然なことにも思えた。子供の頃から、自分には普通の幸せは来ないのだろうと思って生きてきた。


 ミミコには愛された記憶があまりない。子供の頃、両親の愛情は、全て兄に注がれていた。一緒に遊んで欲しくて掴んだ父親の手は、「鬱陶しい」と言って振りほどかれた。構って欲しくて母親に抱きついた手は、「やめて」と冷たく振り払われた。


 父親と兄が楽しそうに手を繋いで歩く姿を、ずっと見ていた。泣いている兄を抱きしめ、優しく撫でる母親の姿を、黙って見つめていた。


 愛されたかったミミコは、子供なりに努力をした。一生懸命勉強をして、百点をとった。嫌われないように、自分の感情は隠して、良い子でいるよう努めた。だけど両親の目には、兄しか映っていなかった。


 三人が楽しそうに話すリビングの扉を開けるのが、いつも怖かった。震える手を握りしめ、大丈夫まだ頑張れると、自分に言い聞かせた。どんなに冷たくされても頑張れたのは、良い子にしていればいつかきっと、ミミコにも愛情を向けてくれると信じていたからだった。



 中学生になったある日、ミミコは母親に言われた。


「あんたのことなんて、どうでも良い」


 この時やっと、理解した。今までの努力は全部無駄で、自分は愛される人間ではなかったのだと。後に残ったのは、誰にも嫌われない代わりに、誰にも愛されない虚しい自分だけだった。



 ミミコの願いはたった一つだった。暖かい帰る場所が欲しかった。ただそれだけが欲しかった。




 そんなミミコにも、その頃特別な友達ができた。


 よく笑ってよく食べる、明るい女の子。ミミコとは正反対だったが、その子と過ごす時間がとても好きだった。

「ずっと一緒だよ」

 手を繋いで歩きながら、笑い合った。

「親友の証」

 そう言って、色違いのストラップをプレゼントし合った。


 またある時には、こんな約束をした。

「年を取っても、お互い結婚していなかったら、一緒に暮らそうね」

 どんな家に住みたいか、ペットは何を飼うか、家事分担はどうするか真剣に話し合った。ミミコは漠然と一人で生きていくと思っていたので、その子にとってはそれが冗談でも、とても嬉しかった。本当にそうなれば良いのになと思った。



 初めて人に愛情を向けてもらったように感じた。だからミミコも、精一杯の愛情を返した。この子がいれば、他に何もいらないと、心から思った。



 二人で遊んでいたある日、その子が振り回した手が、ミミコの目に当たった。軽い痛みがあり、目から涙が流れた。痛みというよりも、生理的に流れた涙だったが、それを見て驚いたその子が、泣き出した。

「痛かったよね。ごめんね」

 必死にミミコに謝った。


 泣きながら縋り付くその姿に、ミミコはなぜか嬉しくなった。自分のために流れた涙に、どうしようもなく喜びを感じた。痛みはほとんどなかったが、しばらく痛いふりをした。泣いている間、この子は自分だけのものだと、感じられた。

「大丈夫だよ」

 最後にはそう言って抱きしめて、優しく背中を撫でてあげた。




 大学生になった頃、恋人ができる人が周りに増え、ミミコの親友にも、彼氏ができた。彼女はセフレまで作って遊んでいた。ミミコにとって、親友が絶対の存在だったので、倫理観は無視して彼女の全てを肯定した。最後には、ミミコの元に戻ってきてくれると信じていたから、全部どうでも良かった。


 寧ろ、人を好きになれることが羨ましかった。どうしてそんなに簡単に、人を好きになれるのか分からなかった。今まで一度も恋をしたことがなかったミミコは、人を好きになれない自分に違和感を覚え始めた。


 男の人に声をかけられても、何の感情も湧かなかった。他人は他人でしかなかった。もしかしたら、女の人が好きなのではないかと、考えたこともあった。誰のことも好きになったことがないミミコには、それすらも本当かどうか分からなかった。



 親友の遊びは、どんどんひどくなった。だけどミミコは止めなかった。「妊娠してたらどうしよう」と泣いていた時も、「セフレに殴られた」と泣いていた時も、彼女を優しく抱きしめて、慰めてあげた。


 彼女のことを、可哀想だとは思わなかった。もっともっと傷ついて、泣きついて来れば良いのにと思った。一番彼女に優しくできるのも、大切にできるのも、ミミコだけだと分かって欲しかった。




 ミミコは社会人になって、家を出た。一人で歩く知らない街では、羽が生えたように体が軽かった。初めて自由を感じた。



「どうしても会って欲しい人がいるの」 


 ある時、親友に恋人を紹介された。彼に向ける、甘えたような眼差しを見て、ミミコは不安を覚えた。だけど彼女がまだ遊びを続けていることも、知っていた。だからきっとダメになる。そうすればまた、私を頼ってくれるから大丈夫と、自分に言い聞かせた。


 毎日は忙しく、あっという間に時間は過ぎて、彼女に会える時間も減っていった。それでも、連絡を取り合い、二人で色んな所に出かけて、色んな話をした。ただ彼女と過ごせることが、ミミコは嬉しかった。だけど彼女が、ミミコに泣きついてくることはなくなっていた。




 社会人生活にも慣れてきた頃、ミミコはある男の人に出会う。初めて彼と会った時から、彼と話すのが、どうしようもなく楽しかった。話ながら、もっと一緒にいたいと思った。お互い何となく同じことを考えているのが分かって、二人で何時間も話をした。


 話しているだけでミミコの真ん中が、じわじわ暖かくなるのを感じた。濡れているんじゃないかと思った。こんな風に思ったのは初めてで、自分にもこんな感情があったんだと驚いた。


 それから彼と、何回も会う約束をした。ミミコは、彼に会うのが楽しみで仕方がなかった。最初は辿々しくて、浮ついていた彼の話し方は、どんどん優しいものに変わっていった。それはまるで小さな子供に話すかのような、甘いものだった。


 初めて人を好きになれた気がした。自分がまともな人間になったように感じた。



 ある日、彼に抱きしめられた。初めて人に抱きしめられたミミコは、どうして良いのか分からず固まった。彼の体温と、耳元で囁かれた優しい言葉に、胸が詰まった。


 その夜、ミミコは一人ベットの中で考えた。


「私を抱きしめてくれる優しい人が、この世にいたんだな」


 肌に残る、彼の感触を思い出す。手に入らないと思っていたものが、突然与えられたことに戸惑った。ミミコは泣いた。初めて感じる幸福に、涙が止まらなかった。泣いて泣いて、怖くなった。自分は、同じ気持ちを返してあげられないんじゃないか。彼に、普通の幸せをあげることが、できないんじゃないか。だからミミコは、彼から逃げた。




「私結婚することにした」


 親友に、そう告げられた。


 彼女の結婚式は、まるでドラマでも観ているかのようだった。涙を流しながら、娘を抱きしめる母親に、優しく頭を撫でる父親。手をぎゅっと握って、微笑みかける妹。涙ぐんで拍手を送る友人達。彼女は愛される人だった。


 ミミコにはないものを、全部持っている。そうか私は、必要のない人間だったんだな、ミミコは一人でそう思った。

 

 


 ある日、ミミコは彼女と買い出しに行った。

「お昼ご飯何食べたい?」

 そう言って野菜を選びながら、楽しそうに前を歩く彼女の姿を、ミミコは見つめた。いくつかメニューを答えながら、旦那にもこうしてご飯を作っているのかなと、彼女の結婚生活を想像した。


「おかえり」

 そう言って、笑顔で出迎えてくれる彼女を思い浮かべた。ミミコがずっと欲しかった、暖かい帰る場所がそこにはあった。



 だけど、ミミコが欲しかったものは、もう全部なくなってしまった。




 

 

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