先輩後輩ロマンシス その8

 家を出て周りに人が居ないことを確認。寂れた未開発の旧住宅街。更にその中でも僻地。ご近所さんは居ないが、通りがかる人間が居ないわけでも無い。あっちこっちを冒険している小学生なんかはたまに見かけたりする。


「よっし、行こ」


 脚に力を込める。太もも、すね、そして足先。特別製の筋繊維がバネのように力を解放。それが足先、足首、膝、股関節、それから腰と反作用となって地面から弾かれる。それを二本の脚で繰り返していく。

 菜沙にとっては軽く走っているだけでも、その速度はまるで疾風の如き。人の少ない住宅街も、それほど広いわけでもなくすぐに拓けた一般道に出てしまうのなんて、すぐのこと。

 人の活気、車やバイクが空気を染め掻き乱す気配を味覚以外の五感が反応した直後、進路を変更。

 雑居ビルの裏、日も当たらないような狭い場所に身体を滑り込ませ、助走もつけずにビルを駆け上る。

 それを為しているのは、純粋な身体能力。窓枠だとか配管だとか、何かと取っ掛かりのあるビルなんて、菜沙にとっては普通の道と然程変わらない。

 屋上を減速もなしに駆け上がった菜沙は、更にそのままビルの屋上を駆ける。進行方向にあるのは先ほど飛び出しかけた片側二車線、計四車線の一般道路、ゆったりとした歩行者用道路付き。

 ビルの屋上、その縁に足を掛け……空へと身体を放り投げた。飛び出した、と言ってもいい。もっと正確に言うなら射出された、と表現するのが適切、だろうか。

 菜沙は斜め上方向、走り幅跳びのように放射線状には跳んでいない。ふわり、と宙へ躍り出る……そんな優しい移動ではない。

 ビルの縁にかけた足。膝を曲げ真っ直ぐ伸ばす、その反作用で弾丸のように真っ直ぐと対岸のビルへと飛び出した。身体を包むのは、浮遊感ではなく加速による莫大なG。

 最短距離で飛び移ったビルの上を走り、次へ次へと、ビルや建物、電柱を跳ね回って進んでいく。

 見られる可能性はゼロではない。だが、これに関して菜沙は至高の切り札を持っていた。記憶処置をすることもなく、自然に納得させることのできる言い訳。

『パルクールが趣味なんです』

 これさえ言っておけばなんとでもなる。魔法の言葉である。おそらく。


「これくらいで間に合うわよね」


 ある程度の距離を一息に移動してから、時間を確認。菜沙の通う高校にもほどほどに近づき、多少の余裕が生まれた。ビルの上を飛び回ったりする必要もなくなったので、人の気配が薄いビルへと飛び移ってから、ビルの縁に立ち、覗き込む。

 下は路地裏になっていて誰も居ないことを確認すると、そのまま、ビルから飛び降りた。窓枠だとかに手を引っかけたりして多少の減速を行いながら、コンクリートへ着地。この動きを命名するなら、逆ボルダリング、とかになるだろう。

 そして、乱れた服装を整えてから何事もないように路地裏から通りへと歩み出て、学校へと向かっていく。過去の失敗から学習しているので、街中をダッシュはしない。勿論、つい先ほどの移動くらいでは息切れ一つ起こさないし、汗もかいていない。あたかも『ずっと歩いていましたよ?』みたいな顔を浮かべておくことを忘れない。

 余裕も出来たことだし携帯端末で、連絡のあった装備の隠し場所を確認しようか、と考えたけれど、頭を小さく横に振るう。普通の人間よりも五感が優れているから誰かにぶつかることなんてない。目を瞑って逆立ちしながらだって完璧に学校にまで辿り着ける自信はある……が、それはそれ。

 見映えがよろしくない。公序良俗に違反する姿は、菜沙的にはノーセンキュー。

 それなりに人が居る通りの歩道。長いツインテールの菜沙をチラリと見る人は居るけれど、それだけ。何かとんでもないモノを目にしたような、驚きみたいなのは浮かんでいない。無事、溶け込めているみたい。


「学校、行かなきゃダメ、かなぁ……」


 アスファルトの上、淀みなく進んでいく。俯いた視線の先に、無料の求人情報誌がボロボロになってくたびれていた。誰かが働けるように手を差し伸べていた情報誌が、今は働き者に踏まれてもみくちゃ。なんだかやるせないが、世間とは案外そんなものなのかもしれない。

 別に学校に行きたくないワケではない。ただ、もっと有意義な時間の使い方があるのではないか……と、いうのが本音。

『自分の行く道が見えない。学生という時間はただの十代の浪費なのではないか』みたいなボンヤリとした思春期的な葛藤ではなく、もっと現実的なところ。

 例えば訓練に精を出すとか。例えば新しい武器に慣れておく、だとか。訓練と言っても、一人きりの小隊なので訓練をすることもなければ、新しい武器の使い方は学習装置による促成習熟でどうにでもなる。そこにリソースを注ぎ込む意味はあまりないことを理屈では分かっている。分かってはいても、何もしていないようでもどかしい。

 どんなワガママも文句を言いながらなんとかしてくれる戸羽司令だけれど、学校だけは譲ってくれない。だから、『PARという異世界からの干渉に対抗する組織から戦闘業務が無くなった途端、鳥居はお役御免だな。その時に履歴書が白紙だと、メモと間違われて捨てられても責任は取らないからな』なんて、怖くも無い脅しに従っている。

 ポヤポヤ。いつも通り益体も無いことを考えながら歩いて行く。それくらいしか、することが無かったから。

 ただ今日だけは、珍しく学校で用事というか、約束がある。


「せんぱいっ!!」

「うひっ……!?」


 後ろの方から大声で呼ばれて肩が跳ねる。聞き覚えのある声……丁度、考えごとをしていたことと、声を掛けられることなんてないから少し驚いてしまった。

 振り向くと、通勤通学で行き交う人波から、一人の少女が柔らかな髪を揺らしながら、歩み寄ってくる。よく、こんな人混みから小柄な菜沙を見つけられたものだ、と関心。

 通行人から向けられる視線がむず痒い。注目されるのには慣れていない。


「おはよう。葛代さん」

「なず先輩、おはよーございまっす」


 葛代芹は、柔らかな髪質と同じ笑顔。元気が伝播して菜沙の足取りが数グラム、ふわふわ、軽くなる。


「朝から会えるなんて、なず先輩と私、やっぱりこう運命的なアレがあるかもですね」

「そんな大袈裟な……この辺なんて、通学路なんだから普通に顔だって合わすでしょ」


 クラスメイトとは最低限の会話、後輩となんて片手で数えられるくらいしか声を交わしたことがない。そんな所謂、学校ではぼっちの菜沙周辺には、葛代さんのようにグイグイと距離を詰めてくるタイプは居ない。決して、嫌では無い。むしr、嬉しいくらいだけれど少し戸惑ってはいた。学校という空間において、菜沙は絶妙に孤立しているから。

 学生……というか人間は社会的動物であるため、多かれ少なかれ小集団を作る傾向にある。そんな中、所属柄、休むことや、早退することが非常に多い菜沙。気が付けば誰とも交友を深めることも無く一年と半分以上が経とうとしていた。休みまくっているのに、出席日数を咎められたりしないのも多分、孤立に拍車を掛けているのかもしれない。


「大袈裟なんかじゃないですよぉ。なず先輩はあたしのヒーローだっていうのは昨日も言いましたけど……レアキャラでもありますから」

「レアキャラってどういうこと……?」


『掴めない』『よく分からない』『変な仕事してるんじゃない』なんて噂話を耳にすることはある。別に気にもしていないし、実際の所、とびっきりの変な仕事をしているのは事実。なので、聞こえないフリをしているけれど……レアキャラは初耳。


「なず先輩、謎が多過ぎですもん。なぞ先輩って感じですね」


 うんうん、と頷いている葛代さん。お世辞にも上手いとは言えないもじり方に、苦笑い。


「私なんて地味でクラスでも浮いてるし、目立たない生徒だと思ってたんだけど……」


 昨日、喫茶店で葛代さんと会話した感覚的に、周りからの印象と自身のイメージに乖離がある、みたいで。地味、という自己評価は半分願望混じりなのは自覚している。クラスどころか学校でも、浮いているのはどうしようもない事実。


「なず先輩が地味だったら、全校生徒が究極地味生徒になっちゃいますよ? なぞ先輩をあえて良い感じで言うなら……ミステリアス?」

「ミス、テリアス……?」


 あまりにも自分に似合わない単語。小柄でちんちくりんな菜沙にミステリアスとは、アンマッチ。ただ、謎、という一点では、当たっているとも言える。存在自体が秘密結社の隠し事満漢全席と言っても過言ではない。


「はいっ。まぁ、話してみると噂よりも普通というか、大人しい? って感じでしたけど。こう、もっと怖い、ナイフみたいな人を想像してました」

「あ、はは……怖い、ねぇ」


 似たようなことを喫茶店でも言われたのを思い出す。噂話、が耳に入らないのは、それを共有してくれるような友人が居ないから……なんて、言ったら失望されるだろうか。この調子だと、友人がいないのも『孤高』だなんてプラスに受け取られているかもしれない。

 自然と、菜沙の横を歩いていた葛代さん。誰かと登校するのなんて、いつ振りだろうか。もしかしたら、初めてかも知れない。

 なんて、思った直後。


「あっ」


 携帯端末が震えた。短く二回、長めで一回。地獄の淵で開かれるダンスパーティーのお誘い。液晶に映った、座標。

 カチリ。頭の中、ブレーカーが入る。繋がった回路が熱を持ち、全ての優先度が入れ替わる。


「ごめん。ちょっと用事を思い出した」


 言い訳を見繕うことも無く、ただ、その場から去るための方便を葛代さんには告げる。


「えっ、だって、もう学校ですよ!?」


 あと、数分歩けば学校だろうけれど、関係ない。葛代さんには悪いけれど、ここからは一人で行って貰うことになる。

 踏み出そうとした瞬間、頭の片隅に引っかかった約束が、歩き出そうとした足を止めた。


「お昼までには、ちゃんと行くから」


 勿論、死ななければ、と但し書きは付く。勿論、負けるつもりなんて更々ない。

 約束はきちんと守る。自分でした約束を破るなんて先輩らしくないのだから……と、後輩からの印象を気にする自分が居ることに、気付く。

 学校近く、人が校門に向かって、川のように流れていく。その川を上ろうとする菜沙。


「う、まぁ、それなら……いやでも……」

「私、約束は守るよ」

「分かりました。止めてもダメだと思うので、一個だけ、質問なんですけど……」


 人混みの中、何度も揉まれた雑多な空気。人、アスファルト、太陽、排気ガス……その中に、混じる、すぐ近く葛代さんの髪から香るトリートメントの甘い匂い。


「どこ、行くんですか……?」


 眉を八の字にした葛代さん。浮かんでいるのは疑問。それから不安や心配という菜沙を勘案しているから産まれる群青色。

 嘘は吐きたくない。けれど、本当のことも言えない。

 バッグをしっかりと肩にかけ直す。手に持つアタッシュケースから感じる重さが無力じゃ無いと教えてくれる。


「……ヒーロー、とか?」


 唯一、渡せるのは、自分勝手な心持ち。実際は全然違ったって、少しカッコつけたかった。


「なら、仕方ないですね」


 納得したようには見えない。けれど、止めても無駄ということだけは察してくれているようで。


「また、後でね」

「また、後で。必ず、ですからね」


 差し出された手……握られた葛代さんの手は、小指だけがアンテナのように立てられている。

 意図が掴めず小首を傾げていると痺れを切らした葛代さんが菜沙の空いている手を取った。そして、小指同士を引っかける。

 人と触れ合うことなんて普段無いはずなのに、自然と受け入れているのが不思議で、心地よかった。


「ゆーびきーりげーんまーん……」


 もっと小さな子供がやるようなおまじない。周りからの視線は、葛代さんにとってはどうだっていいみたいで。針千本は量が多すぎるから飲みたくないなぁ、なんてボンヤリ考えながら、一生懸命歌っている葛代さんを眺めていた。


「指切ったっ」


 繋がった小指が再び、途切れる。


「約束、ですっ」


 朝の太陽よりも、眩しい笑顔。


「うん。約束」


 後輩に、嘘吐きだなんて思われたくない。

 先輩心の芽吹きとともに、駆け出した。

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