38

 貸金庫から取り出したお金をイアンの前に並べると、彼は泣きそうな顔で微笑んだ。泣きそうなのに顔はやっぱり赤くて、ティーゼは少しだけおかしくなったけれど、ここで笑うわけにはいかないと表情を引き締める。


 ノーティック公爵家にあるイアンの書斎には、ティーゼとイアンの二人きりだ。


「これで、建て替えて頂いた借金は全額だと思います」


「……立て替えた借金は返済不要だよ?」


 弱々しい声でイアンが言う。


 ティーゼは首を横に振った。


「お返しします。……こうしないと、わたしは前に進めそうにないから」


 受け取ろうとしないイアンの前に金を押しやって、ティーゼは大きく深呼吸をした。


 うるさいくらいに鼓動が震えている。これから言おうとすることはティーゼにとってとても勇気がいることで、ともすれば声が震えそうだ。でも、言わなくてはいけなくてーー、ティーゼはそっと自分の心臓の上を押さえて、母の顔を思い出す。


 ――すべて、話していらっしゃい。


 苦手だった相談をすると、母はそう言って背中を押してくれた。


 ティーゼはわずかに震えている手をぎゅっと握って、うなだれるようにうつむいたイアンを見つめて口を開く。


「わたし、ずっと自分のことを借金の質くらいに思っていたんです」


 うつむいていたイアンがはじかれたように顔を上げた。


「そんなこと……!」


「わかっています。……この前話を聞いて、ちゃんとわかったの。でもやっぱり、この五年間感じ続けたことはすぐには消えないから、一度、借金をすべて返済したいと思ったんです。そうでないとわたしは、何にも向き合えない気がしたから」


 本当はティーゼ自身が働いて返したかったけれど、自分にはそれができなかった。それだけがちょっと悔しいけれど、母が背中を押してくれたから、ありがたく実家のお金を使わせてもらおうと思う。


「わたしはずっと自分のことを借金の質くらいに思っていたから、公爵家に嫁いだくせに、公爵家に向き合おうとしてこなかったんです。嫁いでノーティック公爵家の人間になったのに、他人のように感じていたの。他人のように接していたの。でもそれは、間違っていたと思うから……、ゼロから考えられるように、自分の頭の中を整理するためにも、この借金はお返ししたいんです」


 だから受け取ってほしいと言うと、イアンはまだ何か言いたそうだったけれど、あきらめたように頷いた。


 ティーゼはほっとして続ける。


「わたし、自分だってずっと向き合ってこなかったくせに……、公爵家のことにも、旦那様のことにも、ずっと不満ばかり思ってきた気がします。向き合っていれば何かが違ったかもしれないのに、ただただ、どうしてわたしがって……。お飾りな妻が嫌で、なじめない公爵家にいるのが嫌で……、そのくせ、どうすれば状況が改善するのかを考えようとも、誰かに相談しようともしなかった。すごく自分勝手で子供だったって、今ならわかるんです」


 イアンにはイアンの事情があって、もちろんその事情すべてに納得できたわけではないけれど、それを知ろうとしていれば何かが変わっていただろう。


 お互いに心の内を語らず、距離を取ってきた五年間は、夫婦だったとは言えない。だからーー


「わたし、旦那様が赤面症だって知っても嫌じゃなかったですよ?」


 ティーゼが小さく笑うと、イアンが目を見開いた。


「わたし、我は強いけど、そんなに小さな人間じゃないです。だから知りたかった。話せばよかった……手紙くらい書けばよかったって今なら思います。それをしなかったのはわたしも一緒だから、えっと……だから……、おあいこ、ですよね?」


「ティーゼ……?」


「正直言って、旦那様のことが好きか嫌いかはわかりません。わたしのことだから、もしかしたら、また離婚って言い出すかもしれないし……。でも、向き合う前に結論を出したくないと思ったんです。いくら考えても答えは出てないから……だから、考えるために、今度はきちんと一緒に生活しませんか? きちんと向き合って、時間がかかってもいいから、自分がどうしたいのか、旦那様が何を考えているのかが知りたい。……だめでしょうか?」


 この答えは、ずるいかもしれない。でも、考えて考えたあげくに、ティーゼが用意できる答えがこれだった。ティーゼとイアンはまだスタートラインにも立っていない夫婦だから、せめてスタートさせてから考えたい。貴族社会において、この考えは異質かもしれなくて……あきれられるかもしれないけど、ティーゼの本心がこれだった。


 イアンはしばらく茫然としたように黙り込んでいたけれど、ややして、探るように口を開いた。


「それはつまり……、私と一緒に生活してくれるということでいいのかな?」


「はい」


 ティーゼが頷くと、イアンが思わずと言ったように立ち上がった。


「離婚はしない?」


「い、今のところは……」


 将来のことまではわからないので、まったくないとは言えなくて、ティーゼは言葉を濁したけれど、イアンは感極まったようにこちら側に回ってきて、ティーゼの手をぎゅうっと握り締めた。


 イアンは本当に泣きそうで、でもやっぱり顔は赤いから、ティーゼはとうとう吹き出してしまう。


 もしかしたら、何年か先には、今日のことが笑い話に変わる日が来るかもしれない。


 真っ赤なイアンの顔を見ていると、そんな風に思えてきて、ティーゼはくすくすと声を出して笑った。

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