35

 その背表紙を眺めていたティーゼは、五年前にはなかった小難しい本が何冊も並んでいることに気がついた。


 跡を継ぐのは弟のハーノルドなため、領地経営を一切学ばずに育ったティーゼにはタイトルからして理解できそうになかったが、何となくそのうちの一冊を手に取って、ソファに腰を下ろした。


 フィルマに紅茶を頼んで、本を開く。もちろん中に書かれていることはよくわからなかったが、本に直接書き込まれていた字は父でも弟の手のものでもなく、一度だけイアンから届いた手紙の字によく似ていた。


 国王の側近という立場で、非常に忙しいはずなのに、暇を見てはアリスト伯爵家へ足を運んでくれていたのだろうか。


 五年間も放置されたことについては、まだもやもやしている。理由は聞いたけれど、だからと言って、それですべてが納得できるわけでもない。けれどもこうしてティーゼの実家に心を砕いてくれていたことについては、素直に感謝できるまでに心の整理はついている。


 家のことを考えれば、結婚相手としてはこれ以上にない相手だろう。


 貴族令嬢であるティーゼは、家のためによりよい相手と結婚するべきだ。


 それはわかっているけれど……、まだ心がついて行かない。


 それこそ、イアンのことをどうしようもないほどに憎んでいるのならばすぐに答えは出ただろう。


 家のための条件などすべて無視をして、感情論だけですぐに離婚を切り出した。


 でも、イアンのことを憎んでいるのかと訊かれれば、ティーゼは答えがわからない。だって、言ってしまえばイアンはずっと他人だったのだ。籍は入れたけれど、顔すら知らない存在だった。肖像画なりなんなり、望めば手に入っていたかもしれないのに、ティーゼはそれすら望まなかった。ずっと夫婦という名の顔も知らない他人だった相手に対して、何の感情も持てないのは当然のことだ。


 だからティーゼが知っているのは、サーヴァン男爵のふりをしていた時のイアンだけだ。サーヴァン男爵のふりをしていた時の彼は、多分嫌いではなかった。けれども異性として好きなわけでもない。雇い主として見ていたので、特別な感情は抱かなかった。ただ人として嫌いではない、それだけ。


 いっそ、この五年をすべて消して、一から考えることができればいいのに。


 そうすればこんなに悩まないし、もやもやしないし、もっと素直に自分と向き合える気がする。


 結局のところ、ティーゼが戦っているのは自分自身の中の意地なのかもしれなかった。


 五年間放置されたのに、このまま何事もなかったかのように仲良く夫婦生活を続けるのはどうしても癪だという、くだらないかもしれないけれど、ティーゼの心の平穏を守るためには必要な意地。


 相手がイアンでも父でもなく自分の意地だから、いつまでたっても答えが出ない。


 ティーゼはぱたんと本を閉じると、ソファの背もたれに背中を預けて天井を仰いだ。


(離婚を選んでも選ばなくても……後悔する気がするのはどうしてなのかしら)


 イアンを知らないままだったらよかった。会ってみて、悪い人ではないとわかってしまったから、ティーゼは意地を貫き通すだけの勇気が持てない。もしかしたらこれからうまくやれるかもしれないと一瞬でも思ってしまったから、答えが出ない。優柔不断な自分が嫌になる。


「奥様、『奥様』がお帰りになりました」


「は?」


 紅茶を持ってきたフィルマが謎かけのようなことを言うから、ティーゼは目を丸くした。


 フィルマはティーゼのことを「奥様」と呼ぶ。奥様はティーゼだ。奥様が帰って来たとはどういうことだろうか。


 頭の中が「?」でいっぱいになったティーゼは、書斎の扉を開けたフィルマの背後から姿を現した人物を見て、さらに目を丸くした。


「お母様……!?」


 そこには、領地にいるはずの母、アリスト伯爵夫人テレサが立っていた。

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