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 ティーゼがノーティック公爵家を飛び出したあと、談話室には何とも気まずい沈黙が落ちていた。


 アリスト伯爵の顔は蒼白を通り越して白くなってしまっているし、イアンはこの世の終わりを見てきたかのような魂の抜けた様子である。


 執事のマイアンは頭を抱えながらも、公爵家の従僕にティーゼを探すようにと命じて、うなだれるイアンとアリスト伯爵へ、話の続きはティーゼが見つかってからにしたほうがいいだろうと告げた。


 伯爵がよろよろと立ち上がり、何度も謝罪しながら公爵家をあとにすると、イアンはしばらく一人になりたいからと言って、五年も使っていなかった自室へ上がる。


 五年帰っていなかった邸でも、掃除はきちんとされていたようで、部屋の中はとてもきれいだった。


 イアンはベッドに仰向けに寝転がって、去り際に見たティーゼの顔を思い出す。


 怒りのために赤く染まったティーゼの顔と、潤んだ瞳。


 ――わたしをからかって遊んでいたんですか⁉


 はじめてぶつけられた妻の怒りを前に、イアンは何の弁解もできなかった。


 情けないことに、この五年の重みを、ティーゼの怒りを目の当たりにするまで正しく理解できていなかったのだ。


 結婚した時、ティーゼは十五歳だった。


 貴族女性が十五歳で嫁ぐのは珍しいことではないが、天真爛漫に育ったティーゼは、八歳も年上のイアンからすればずいぶん幼く見えたし、その彼女をティーゼの顔を見るたびに真っ赤になるような気持ちの悪い男の妻の座に縛り付けるのはあまりにも可哀そうだと思った。


 けれども、アリスト伯爵の言う通り、堂々と伯爵家の援助をするのであれば婚約者の立場より夫婦の関係であった方が都合がよく、また、ティーゼを誰にもとられたくないという焦燥から、籍を入れることを選んでしまったのはイアンである。


 どうしていいのかわからないまま、ならばせめて夫が妻の顔を見るたびに顔を赤くするような気持ちの悪い男だと気づかれないため、会わないという選択をすることにした。


 あの時のイアンはその選択を間違っていると思わなかったし、むしろ、十五歳のティーゼには年の離れた夫の存在は邪魔だろうと、時期を見て、ティーゼが大人になり、自分の赤面症が治ったころに改めて会いに行こうと思っていた。


 五年間放置されたティーゼが、どういう感情を抱くかなんて、イアンは想像だにしなかったのだ。


「……離婚、したがっていたなんて……」


 アリスト伯爵からの面会希望が届いた時、嫌な予感はしたのだ。伯爵家の領地経営は今のところ落ち着いていて、イアンが口を出すことも少なくなっている。その状態で、できるだけ早くに会いたいと言われれば、何かがあったと勘繰るのは当然だ。


 だが、まさかティーゼが離婚したがっていると教えられるとは思いもよらなかった。


 アリスト伯爵の言い分では、ティーゼが離婚を言い出した原因は、イアンと結婚してから一度も会っていないことが原因らしい。働きたがったのだって、借金を返済して、すっきりと離婚するためだと言うのだから驚愕しかない。


 なぜなら五年前に建て替えた借金は、返さなくていいと伯爵に告げていた。実際、伯爵家には大きな借金でも、ノーティック公爵家にとっては大した額ではなかったし、何より、ダメもとで申し込んだティーゼとの婚約――一足飛びで結婚することになったが――を受け入れてもらえたので、それで十分にお釣りがくると思っていたからだ。


「どうしたらいいんだ」


 当然のことながらイアンは離婚なんてしたくない。


 なんとかこの赤面症を治して、ティーゼと一緒に生活する日を夢見ていた。


 異国の薬も試したし、たくさんの医師にも相談した。誰もが口をそろえて「特効薬なんてない」というが、諦めなかった。


 ノーゼン医師だけは「慣れるしかないんじゃから暇さえあればそばに引っ付いていればいいじゃろう」と投げやりな診断を下したが、意外にもあれが一番正しかったのだと、サーヴァン男爵を名乗りティーゼと生活するようになってわかってきたところだった。


 もう少し。もう少しだけ一緒にいれば、赤面症が改善するかもしれない。そんな風に希望すら見えてきたというのに、この騒ぎである。


 妻が離婚したがっていると聞いて、あまつさえ正体がばれてしまった。騙されたと思ったティーゼは、ひどく怒って家を飛び出して――きっとイアンを軽蔑しているに違いない。


 この状態を、どうすればいいだろう。


 どうすればティーゼは許してくれるだろう。


 どうすれば離婚しなくてすむだろう。


 ベッドに寝転がったまま、イアンはひたすらに考える。


 けれどもどれだけ考えてもいい考えは思い浮かばず、途方に暮れたときだった。


「旦那様」


 コンコンと扉がノックされて、マイアンが姿を現した。


 上体を起こせば、マイアンから一通の手紙が手渡される。玄関に落ちていたらしい。


 イアンは見覚えのある封筒にハッとして裏返し、そこにティーゼの名前を見つけて瞠目した。


 マイアンが一礼して部屋から出ていくと、すぐに手紙の封を切って、一枚だけ入っていた便箋を取り出す。


 そして、手紙を読み終わったイアンは、目をきつく閉ざした。


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