だから、離婚しようと思います

狭山ひびき@バカふり、120万部突破

プロローグ

「だからね、離婚しようと思うわけよ。だっておかしいじゃない? 結婚して五年がたつけど、わたし、いまだに旦那様の顔を知らないんだもの」


 ティーゼ・ノーウィンはノーウィン公爵家で唯一心を許せる侍女のフィルマを捕まえて、単刀直入に言った。


 フィルマは驚きのあまりにクッキーの入った皿をぶちまけて、あちゃーと目の上を押さえる。


 絨毯の上に散らばった丸いクッキーの一つがころころと転がって、ソファに座るティーゼの足にあたって止まった。


「公爵家に嫁いで早五年。わたしはもう二十歳になったわ。このままいつまでもここにいたら、旦那様の顔もわからないまま一人ぼっちでおばあちゃんよ。じょーだんじゃないわ! 花の盛りは短いのだもの。ここはサクッと離婚して、新しい旦那様を探すべきよ」


「…………奥様」


 フィルマは転がったクッキーを集めながら、はーっと大きな息を吐きだした。


 フィルマはティーゼが伯爵令嬢だったころから使えてくれている侍女だ。嫁ぎ先のノーウィン公爵家は厳格で、ゆるーい実家の伯爵家と違ってフィルマも働きにくいだろうからと、無理について来なくてもいいと言ったのだが、「お嬢様を一人にすると何をしでかすかわかりませんから」と言ってついてきてくれたのだ。


「肝心なことをお忘れのようですが、奥様と旦那様は政略結婚でございます。愛だの恋だのは存在しないと、嫁ぐときに奥様もおっしゃったではございませんか」


「確かに言ったわ。でも、一度も会えないなんて思わないじゃないの。結婚式もしなかったのよ」


 そう。ティーゼと夫であるイアン・ノーティック公爵は、結婚式をしなかった。婚姻届けにサインをしただけだ。そのサインも、両人が揃って一緒にサインをするのではなく、イアンがサインをした書類が伯爵家に届けられた。そのあとティーゼがサインして、ノーティック公爵家の執事が回収、そして馬車に押し込まれて公爵家へ連行されたのである。


 そして迎えた初夜にも公爵は現れず、現在進行形でこの家に帰ってこない。


 これは果たして結婚していると言えるのだろうか。ティーゼはつくづく思うのである。


 フィルマは大きく頭を振って、回収したクッキーを捨てると、紅茶を入れながら言った。


「そうだとしても、奥様はここからお出になることはできません。だって奥様は。借金のかたに嫁いで来られたのですから」


「ぐ……」


 そんなにはっきり言われなくても、ティーゼだって一応は理解している。ティーゼの生家アリスト伯爵家は領地経営に失敗して巨額の借金をこさえてしまった。その借金を肩代わりしてくれたのが、ティーゼの夫、イアン・ノーティック公爵なのである。


 イアン公爵はティーゼより八歳も年上の二十八歳。借金のかたとはいえ、当時二十三歳だった公爵は社交界でも人気の美丈夫だった。社交デビューしたての十五歳を喜んで嫁に迎えたとは思えない。ティーゼの父がいつまでたっても借金を返せそうにないので、人質として回収しただけなのだ。人質の回収方法が結婚というのもいかがなものかと思うけれど、モテすぎるイアンは女性が食傷気味だったと風の噂で聞いたから、体のいい虫よけ扱いなのかもしれない。


 とにもかくにも、そういう理由で強制的に嫁がされたティーゼであるが、最初のころはこれでも諦めていたのだ。


 父は不器用だが根は真面目で、借金だって、領地が干ばつに襲われて、自領の領民を助けるために作ったものだった。賭博に明け暮れて作った借金ではないのだから、ティーゼだって借金のかたに嫁ぐことを嫌だとは言わなかったのだ。


 だが、である。


 いくら何でも五年は長すぎる。


 それほどまでにティーゼを遠ざけたいのであれば、ティーゼを別宅に押し込めるなりなんなりすればいいのに、だだっ広くて扱いにくい使用人の多い公爵家に軟禁状態というのはあんまりだろう。


 ティーゼはフィルマの入れた紅茶で一息つくと、両方の拳を握った。


「だからね、フィルマ。わたし、考えたわけよ」


「奥様の『考え』がまともだったことはございませんので、考えるだけにとどめておいた方がよろしいかと思いますよ」


「フィルマ、あんたどっちの味方よ!」


「もちろん奥様の味方でございます。ですから、奥様が突拍子もないことをはじめて路頭に迷うようなことにならないように忠告しているのです。ものは考えようじゃないですか。夫の世話もせずにお金持ちの公爵家で悠々自適な生活。老後の心配もなし。借金も帳消し。ほら、とても素晴らしい環境に思えませんか?」


「思えません!」


 ティーゼは二十歳である。まだ恋に夢見るお年頃だ。どうしてそんな枯れた生活を喜ばなくてはならない。


 フィルマは諦めたようにため息をついた。


「わかりました。聞くだけ聞きましょう。ただし、聞くだけですからね。いいですか?」


「ふふん、フィルマだって、この話を聞けば名案だって思うわよ」


「……名案だった試しがないから、聞くだけにとどめたいのですけどね」


 フィルマの嘆きはまったく伝わらないようで、ティーゼは居住まいを正すと、もったいぶるようにコホンとひとつ咳払い。


「いいこと。もとはと言えば、わたしは借金のかたに嫁いできたわけよ。だったら、その借金がなくなれば、わたしは晴れて自由の身ってわけよね?」


「籍を入れた以上、借金がなくなっても奥様がノーティック公爵夫人であることに変わりはございませんよ」


「だからあ、借金を返して自由になろうと思うわけよ」


「聞いてませんね」


 フィルマが額を押さえるが、上機嫌のティーゼはルンルンと鼻歌だ。


「そういうことだから、わたし、これから借金を返すために、働こうと思うのよ!」


「……もう、何から突っ込んでいいか、わたくしにはわかりません」


 どうせうまくいくはずもないのだから、やりたけりゃ勝手にしろよとばかりにフィルマは匙を投げる。


 まさか奥様の無謀で穴だらけの計画があっさり認められることになろうとは、この時の侍女はこれっぽっちも思わなかった。

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