SIGN30 オーロラの向こう、狼王の森へ

 イヌイットの人々は、オーロラを見上げながら様々な絵を思い描いてきた。


 ――祖先の霊がボールを蹴っている。

 ――浮かばれない魂が、仲間を求めて彷徨さまよっている。

 ――大勢の人が手をつないでいる。

 ――死んだ人の魂に、大昔の祖先が明かりを持って道を照らしてくれている――


 自然の恵みのすべてに精霊が宿ると伝え、自然現象の中に神聖な霊の力を感じるからこそ、自然をあがめ、何よりも大切に扱う生き方が染みついてきたのだろう。


 現実には地表から100kmをへだてているはずの、オーロラへと続く道を、氷でできた階段を昇っていく。

 まるで自分自身が、オーロラに宿る精霊に近づき、精霊に同化していくような感覚さえ覚える。


 ――みんなと手をつないで。

 ――ボール蹴りアクサニーをしながら。

 ――誰かが差し伸べてくれる、導きの明かりを頼りに――


 階段を昇っていると、蒼仁あおとたちの前途を、グリーンの大きなひとすじが照らし始めた。


 それはまるで、広大な空を踊るように飛翔する昇龍。

 旅の途中、みんなで初めて見上げたオーロラと同じ。あの、本物の夜の奇跡と同じ色、同じ形状。

 まるで自分たちを導いてくれているかのように、上へ上へと飛翔していく光の躍動を追いかけて。蒼仁の足は、自然と早まっていった。


 あのグリーン・オーロラも、自分たちと同じところまで昇っていくのだろうか。


 ――だとしたら、行き着く先できっと、また会える。



  ◇ ◇ ◇



「リュース」とは、デンマーク語で「光」を意味する。


 天空の光のカーテンの向こうに存在すると信じられてきた、あらゆる精霊たちが地上での役目を終えてたどり着く場所。「煌界リュース」は本来、精霊たちの楽園であるはずだった。


 動物霊たちが暴走を始めたのは、生まれながら人智を超越した力を持つけもの――極北の、広範囲の狼生息圏をべる、「狼王」が原因らしい。


 獣である狼王が、人間の感情に触れてしまった。

 憎悪の感情を持たない獣の中に、人間の感情が入り込んだ。

 

 人間の感情は、時として人間自身を滅ぼす大いなる災厄と化す。

 獣がそれを知れば――おそらく悲劇しか生まれないだろう。


「闇のオーロラ」の中心部の向こう側に位置するはずの「煌界リュース」は、今はその名の通り、オーロラの青白いきらめきの中にある。

 一段一段、水晶のような光沢を放つ氷の階段を昇っていく。終わりが近づくにつれて、達月たつきが神妙な顔でつぶやいた。


「ワイ、ここ、来たことあるわ」


 蒼仁は、達月の横顔を見上げた。

 前世のどこかで、という意味だろうか。

 前世の記憶を複数持つ達月なら、ひとつの命を終えた後で「煌界リュース」に来た記憶があったとしても、不思議はないのかもしれない。


 ハムは蒼仁の頭上で「い、いよいよですね……!」とツバを飲み、シェディスは警戒心をにじませた鋭いまなざしで、ロッドたずさえながらすきのない歩行を続けている。ゲイルとブレイズは、一行の後から静かに付き従っている。


 イヌイットの集落で待つ折賀おりがに、また会えるだろうか。

 それに、日本のみんなとも。


 ドーソンで闇空をはらった時、折賀とハムは短時間で日本と連絡を取っていた。

 蒼仁は、重要と思われる情報伝達を彼らに任せ、自分は家族やパーシャと顔を合わせることはしなかった。

 まだ、目的を成し遂げたわけじゃない。自分の後ろにここまで積み上げてきた道標を、自分の中にここまで研ぎ澄ましてきた一本芯を、軟化させない自信がなかっただけだ。


「闇のオーロラ」と、「狼王」の謎を解く。

 すべての解法がそろった時、会いたいみんなに堂々と会えるはず。


 やがて、「チーム・蒼仁」は、氷の階段を昇りきった。


 そこにあったのは、まるで地上に戻って来たのかと錯覚させるような風景。

 一面の、緑豊かな草が茂る、森の中だった。



  ◇ ◇ ◇



 そよ風が草の香りを運んでくる。

 空は高く、白い雲が薄くたなびいている。その上に輝く太陽の光は、ほどよく明るく暖かい。

 鳥のさえずり、獣が鳴いている声がどこからか聞こえてくる。


「たくさん、いる……」


 シェディスが鼻をひくひくさせている。その表情から、少しずつ固い緊張が抜けていく。

 生物が「たくさんいる」森。シェディスにとって、心穏やかでいられる環境に近い場所だ。


 きょろきょろと見回す蒼仁と達月を置いて、シェディスと二頭の狼犬は、ある一方向に注意を向けた。

 彼らの視線の先、草の中に、何かがいる。


 蒼仁は息をつめて、シェディスの後ろからそうっとのぞき込む。

 そこにいたのは、もぞもぞと不器用に動き回る、三頭の小さな仔狼犬たちだった。


「このにおい、知ってる……」


 懐かしさか、安心感か。シェディスの力が抜けていく。

 ハムが眼鏡をくいっと上げながら解説してくれた。


二頭ゲイルとブレイズが言うには、シェディスちゃんと一緒に生まれた兄弟犬たちじゃないかと。みんな、ヴィティのにおいがするそうですよ」


「兄弟……」


 昨年の、夏。蒼仁がユーコン川でヴィティ・シェディス親子と出逢った時、他に子供はいなかった。

 みな、既に死んでしまっていたのか。それとも巣穴で待っていたのか。

 確かなのは、今ここにいるということ。つまり、まだ幼いうちに命を落としたということ。

 野生の小さな命が生き抜くには、カナダはあまりに厳しい状況だったのだ。


 シェディスの足が、思わず前に出る。それ以上歩を進めるのを、二頭が短くうなって止めた。


 ころころと遊び回っていた仔狼犬たちは、ぴたりと動きを止めた。

 小さいながらも全身の毛を逆立て、鼻にしわを寄せてこちらを睨んでくる。


 その全身から、ざわざわと黒いもやが立ち上り始めた。

 

 こんな小さな、しかもシェディスの兄弟たちにまで、敵対されなきゃいけないのか。蒼仁は悲しくなった。


 小さな命に呼応するかのように、森の中、そこらじゅうから煙のように大量の靄が立ち上る。姿の見えない小さな鳥や獣がたくさんいるはずだ。ここまで来て、また相手をしなきゃいけないのか。


 そこへ、一陣の強い風が吹いた。

 飛ばされそうになった蒼仁の服を、シェディスが両手でしっかりとつかんで支える。

 風は草を掃い、靄を飛ばし、森に存在するありとあらゆるものを広範囲に渡ってぎ払ってしまった。そこにいたはずの小さな仔狼犬たちも、霧のように消え失せてしまった。


 彼らの背後に、ウィンズレイが立っていた。


 シェディスは表情を変えず、ウィンズレイの後について歩き出した。


「い、今のって……」


 兄弟たちを飛ばされてしまったけど、いいのだろうか。蒼仁の困惑顔に、シェディスはためらいのない真っすぐな瞳を向けた。


「あいつに間違いはないよ。行こう、アオト」



  ◇ ◇ ◇



「この先に、『狼王』がいるそうですよ」


 ハムがウィンズレイの言葉を翻訳してくれる。


ウィンズレイいわく、今の『煌界リュース』は『狼王』が作りだした『記憶の森』に同化してしまったそうです。ここに動物たちがたくさんいるのは、王がかつて知っていた森の姿を再現しているから。そこへ、王が受信してしまった人間の悪しき感情と記憶が入り込み、平和だった森が真っ黒に染まる悪夢が何度も繰り返し起こっているそうです」


 黒い靄は、もはや動物霊ではなく、王が生み出した悪夢の産物なのだという。


ウィンズレイは、そのたびに『刃風はかぜ』の力で靄を払ってくれていたのですが、数が多すぎて間に合わないことが多く、それが何度も蒼仁くんたちに向けて放たれる結果になった、と」


「やっぱり、長い間たった一頭で戦ってくれていたんだね。一瞬でも敵側だと誤解して悪かったよ」


 話してる間にも、たびたび新たな靄が襲いかかってくるが、ウィンズレイとシェディスが一瞬で吹き飛ばしてしまう。


「俺たちを狙ってくるのって、やっぱり大精霊の力を授かっているから?」


 誰かがその質問に答えるよりも先に――彼らの視線は、一様にある一点に釘付けになった。


 彼らのいる場所よりも三メートルほど高い位置にある、崖の上。

 多くの草に囲まれ、多くの木々に守られるように、枝葉に包まれた氷結晶のようなひとつの物体。

 その突起はプリズムとなって虹色の光を放ち、透き通った表面の奥には、眠るように横たわる一体の獣の姿があった。


 ウィンズレイよりも、ゲイルとブレイズよりもずっと大きな個体。

 間違いなく、蒼仁が今まで見てきたどんな狼よりも圧倒的な存在感を放つ、森の王と呼ぶにふさわしい風格を備えた狼だった。


 その瞳は固く閉じられ、体が動く気配はない。ただ、体を包む氷のような結晶が、時たま虹色に輝きながら揺れているように見えた。


『――なぜ、蒼仁が狙われたのか――』


 突然、その結晶体の上から声がした。


『すまない。たぶん、原因は私なんだ――』


 ひとすじのグリーンの光が、結晶体を包み込むように空から舞い降りてきた。

 光は揺らめき、複雑な色の変化を見せながら収束し、やがて、人の姿へと形を変える。

 

 光が消えた時、そこに現れたのは、蒼仁が誰よりもよく知っている人物の姿だった。


「お父さん……!」

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