Ⅲ 「双焔」の霊狼

SIGN19 野生狼の洗礼

 カナダ、五月。


 日本人の感覚で言えば、想像を絶するほどの広大な世界だ。


 カナダ北西部、アラスカと国境を接するユーコン準州。この州だけで、面積が日本の約一・四倍にも及ぶ。


 州都ホワイトホースから、さらに北のドーソンシティまで。地図上ではわずか数センチメートルの距離だ。土地の名称の記載が極端に少ない――つまり街や観光名所が僅少きんしょうな、人のいない山地ばかりのルートだが、その距離、実に530km。日本で言えば、およそ東京から神戸までの距離と言えばわかるだろうか。


 その距離を、彼らは三万年以上前から存在していたと言われる、太古の移動手段――犬ぞりで走り抜けるのだ。



  ◇ ◇ ◇



 世界のほとんどが闇だ。

 何も見えないかと思われた漆黒の悪路を、時速35kmを越えて駆け抜ける集団があった。


 そりが猛スピードですべる音。人のかけ声。雪の上を飛ぶように駆ける獣たちの、短く荒々しく吐き出される熱い息。


 二台のそりが通り過ぎると、ややあってさらにもう一群。猛々たけだけしい気配が黒い影を走らせる。

 普段は闇にひそみ静かに獲物を狙い定める集団は、この局面ではもう気配を隠そうともしない。

 全群が一丸となって、雪の固まりや倒木などの障害物をものともせず、針葉樹林タイガの中の一本道を力の限りに疾駆しっくする。


 追われる二台のそり、それぞれに八頭のそり犬と二人の人間。

 追うのは、十五頭はいると思われる野生の狼の群れ。

 それは現代の世界ではもはや考えられない、百年以上の時をさかのぼったかのような光景だった。


 明かりといえば、そりにつけられた小さなライトと人間たちのヘッドライトのみ。

 ごくわずかな視界を頼りに、そりに乗る男のひとりが姿の見えない追跡者たちをにらみつけた。


「じきに追いつかれる。そのまま前見てろ」


 犬ぞり操者マッシャーのひとり・折賀おりがが、振動するそりの上で積み荷から細長い何かを持ち出した。それを見た同乗者の達月たつきが、ぎょっと目をむいた。猟銃だ。


 短い音が一発。一瞬響いた音は、生き物たちの走行音にすぐにかき消された。


「当たったんか!?」


威嚇いかくだ。ないよりはましだ」


 音とにおいに一瞬ひるんだように見えた群れは、あっという間に追走を再開。二発目にはもう、怯むこともなかった。

 当てれば狼たちは銃への警戒を強める上、当たった仲間の共喰いを始めるだろう。

 時間を稼ぎたければ撃つしかない。わかってはいるが、やはりギリギリまで撃つのは避けたかった。


 相手は霊狼ヴァルズではなく、生きた本物の群れ狼だ。

 長く続いた過酷な飢えが、人間たちへの警戒心に勝った。彼らの獲物は、人間ではない。十六頭もいる犬たちだ。


「こんなんあるかい! 前世で人間に追われる狼だったワイが、今度は狼に追われる人間やとッ?」


 達月の愚痴も、目まぐるしく過ぎ去る雪煙に飛ばされて消えていく。


 折賀と達月が乗るそりの前方に、シェディスと蒼仁あおとのそりが走る。ハムは蒼仁のそりのどこかに隠れているのだろう。

 スノーモービルと違い、人間が操縦せずとも犬たちが最善のコースをとってくれる。闇に対する不利もない。夜間視力と嗅覚、危険察知能力をフルに働かせ、驚くべき速さで森林の中をカーブしながら走り抜ける。


 この二台のそりは、特にそれぞれの先頭犬が並外れて優秀だった。


 ゲイルとブレイズ。折賀が自ら再訓練した二頭が、無謀としか思えない暗闇の山間での激走を可能にした。


 その二頭が、吠えた。示し合わせたかのように、二頭揃って徐々にスピードを落とし、やがて完全にそりを止めてしまった。


「な、なして……」


 うろたえる達月の肩に、折賀がなだめるように手を置く。

 二頭が何かを話すように数回吠えると、恐怖に騒ぐ他の犬たちも静まった。

 やがて、二頭の吠え声が長く伸び始めた。遠吠えだ。


 オーッ、アオーッ、ウオォー……


 針葉樹林タイガの闇に、唄うような遠吠えが響き渡る。

 獣たちの唄が、凍てついた空気に溶け合い混ざり合って、神秘的な野生のメロディを作り上げる。


 森の奥から、応えがあった。

 ついさきほどまで、今にも飛びかからんと追ってきたはずの狼の群れからだ。

 

 やがて遠吠えを終えた狼たちが、静かにその場を去っていく。生死を賭けたレースは終わったのだ。


「なんや……何があったんや」


 まだ落ち着かない達月のもとへ、シェディスと蒼仁がそりから降りて走ってきた。ようやく、こわばった達月の顔に笑みが戻る。


「ゲイルとブレイズは、折賀くんに出逢う前、あの群れの王に勝ったんだそうですよ」


 蒼仁の防寒着の襟元から、ハムがむぎゅっと顔を出した。


「群れの勢いが凄まじくて、すぐにはわからなかったそうですが。互いに、やっと相手に気づいたんですね。狼は、少なくともあの群れは、二頭に敬意を表して立ち去ったんです。もう襲ってくることはないでしょう」


「助かった……。二頭とも凄いんやな。相手が精霊でないと、戦えるのはシェディスさんと折賀さんだけや。そんなことにならずに済んでよかったわ」


 この場の全員も二頭に敬意を表し、わしゃわしゃもふもふと体を撫でてやった。


 しかし、旅はまだ続く。この先も、動物霊だけでなく、野生動物たちの脅威におびえ続けなければならないのだろうか。


 見渡す限りの空を覆う巨大な闇が、大自然の中ではあまりに小さなそりと小さな生き物たちを、嘲笑あざわらうかのように不気味にうごめいていた。



  ◇ ◇ ◇



 約一週間前。


 日本がちょうどゴールデン・ウィークに差しかかった頃。蒼仁と達月とシェディス、ぬいぐるみのふりして荷物に紛れ込んだハムが、バンクーバーへと飛ぶことになった。


 離陸二時間前、日本の空港にて。


「今更だけど。ハム、カナダなんて行って大丈夫なの? 普通のハムスターなら死ぬよね?」


 蒼仁が、心配してと言うより素朴な疑問として問いかけると、「あれ、言ってませんでしたっけ」と、ハムが見送りに来ていたパーシャの頭上でえっへんと胸を張った。


「僕はあらゆるダメージを受けないスーパーハムハムなんです!」


「要するに、重力と反重力が作用して、ダメージを弾いたり吸収したりしてくれるんだよ」


「ほんとご都合主義よね」


 甲斐かいとパーシャが口々に声をかける。ハムのおかげで湿っぽい見送りにはならずに済みそうだ。


「その特異すぎる特異体質で、色々苦労もしたみたいなんやけどな。おかげで一緒にカナダに行けるんや。ハムにはまだまだ教えてもらわなあかんことがぎょうさんあるさかい、助かるわ」


「達月くぅん! 頼りにしてくれて嬉しいです! 帰ってきたらハムダンス教えますから一緒に踊りましょうね~!」


「それは教えんでええ」


 空港には、蒼仁の母も見送りに来た。

 蒼仁自身と甲斐とで、必死に頭を下げてカナダ行きを許可してもらったのだ。


「なんで、蒼仁なのかしら……」


 力なくつぶやく母に、蒼仁は力強く告げた。精いっぱいの想いを込めて。


「お母さん。今じゃなきゃダメなんだ。俺が勝負しなきゃいけない瞬間を、今、カナダへ行かないときっと逃してしまう。そのせいであの国も、日本も、ひょっとしたら地球全体がもっとひどいことになるかもしれない。そうなってから後悔したくないんだ。だから、心配かけて、ごめんなさい。それから、心配してくれて、ありがとうございます!」


「親が子供を心配するの、当たり前でしょう」


 頭を下げた蒼仁を、母の細い腕が抱きしめた。


「いつかは親離れするんだものね。男が勝負すると決めたことを邪魔するわけにはいかないわね。でも、必ず元気な姿で帰ってくること。絶対に」


「私がアオトを守り、ます!」


 シェディスが高らかに、慣れない敬語で宣言した。


「森見先生、蒼仁くんのそばには世界最強のハムと、向こうで合流する予定の美仁よしひともいます。理事長も全力でサポートしてくれてます。だから、みんなを信頼して任せましょう」


 甲斐が穏やかに告げた。


 数多あまたの想いを乗せて、彼らの飛行機が日本を発つ。

 バンクーバー国際空港へは、理事長が手配した現地スタッフが迎えに来ることになっている。


 バンクーバーから北を目指し、途中で折賀と合流する手はずだ。


 ユーコン準州、州都ホワイトホース。

 この町で、彼らの最初の試練が待ち構えていた。

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