SIGN6 ムース(ツノが立つ方じゃなく生えてる方)との遭遇

 森見もりみ蒼仁あおとの朝は早い。


「お母さん、弁当できた?」


「あんたほんとに塾に行く気なの?」


 母はあきれ顔だ。

「あんなこと」があった翌日、しかも今日は午後までガッツリ模試を受ける予定なのだ。


「今日は休んで後日受験にしたら?」


「そしたら順位下がっちゃうじゃん」


 蒼仁はこれでも、全国規模の中学受験塾でいわゆる成績上位陣に属している。

 模試の順位が下がれば塾の席順も後ろに下がり、成績表の表紙に名前が乗らなくなる。モチベーション低下がはなはだしいのだ。


「でも、もしまた昨日みたいなことが起きたら……」


と不安そうな母に代わり、シェディスが


「私が行く! 帰りも迎えに行く!」と名乗り出た。

 見えないしっぽがピチピチと振られているような気がする。


 この場合、送ってもらうというより「散歩に連れて行く」感がなくもないが。


 ちなみにシェディスの服は、パジャマに引き続き母親からの借り物だ。淡いベージュのパーカーに黒のスキニージーンズ。

 背丈が高めですらりとした体型なので、たぶん何を着ても似合う。


「そうね……、シェディスさんが一緒なら安心ね」という、母親からの鉄壁てっぺきの信頼を得て、ボディーガードという名の番犬ポジションを確立したシェディスだった。


「そう言えば、昨日はうちに泊まったけど、シェディスってどこに寝泊まりしてんの?」


 道すがら尋ねると、

「僕のトゥルーフレンドのおうちにごやっかいになりますので、ご心配なく〜」と、ハムハムしたお返事。

 シェディスの頭の上に、グレーとゴールドの混じった毛玉がピョイッと飛び乗った。


「いたのか、本体」


「実はずーっときみのそばにいました。PCの影に隠れてました。きみや妹さんに見つかると、おもちゃにされそうな危険な予感がしたもので。てへっ☆」


 確かにおもちゃにしたくなる外見である。勉強しながら片手でにぎにぎもぎゅもぎゅすれば、いやしとマッサージ効果を得られる気がする。


 それにしても、いつから部屋に潜伏せんぷくしていたのか。

 ずっと蒼仁の寝顔を眺め回しながら、勝手にPCをあれこれいじり倒していたわけか。

 この場合、警察に不法侵入で通報するのと、動物愛護センターへ野良ハムとして突き出すの、どっちがいいのだろう。


 などと、模試とはまったく関係ない思考に脳が遊んでしまった蒼仁は、塾に到着し、二人(二匹)と別れてひとり校舎内に入ったところで気持ちを切り替え、引き締めた。


 少子化が進もうと、世界が大不況に見舞われようと、極北から白夜が消えようと、「難関中学合格」が厳しい現実は変わらない。


「何かを身につけないと生き残れない」厳しい社会は加速していくだろう。

 自分は目の前の「受験勉強」、「中学受験模試」に全力投入するだけだ。

 入試本番まで九ヶ月を切った。この先何が起ころうと、それを理由に立ち止まってるヒマなんてあるはずがない。


 今年度の社会・理科はカナダでの太陽光消失サンライト・ロストを受けて、気候変動や極北に関わる問題が増えるのは間違いない。

 昨年度、さっそくオーロラ発生の原理に触れてきた学校もある。

 今年度は世界の海流か、北国の気候や資源か、環境への取り組みか。


 何が来ても、確実に撃破するのみ。自分なら、できる。

 あの激流で、あの雪嵐で生き残る確率に比べたら、難関中合格の方がずっと簡単に決まってる。


 と、ブレない決意を胸に、模試の会場となる教室のドアを開けると。


 そこはすでに、「白」以外何も見えなかった。

 嵐が吹き荒れる、豪雪ごうせつ地帯だった。



 ◇ ◇ ◇


 

 ――塾の扉を抜けると雪国であった――


 一秒後にドアを閉めると、後ろから塾のスタッフが声をかけてきた。


「蒼仁くん、どうしたの? 試験の教室そこであってるよ。入りなよ」


 いや、豪雪サバイバル試験だなんて聞いてないよ。

 このドアを「ど〇でも〇ア」にリフォームしたなんて話も聞いてないよ。


 ドアの前で固まってると、スタッフがご親切にもにこやかな笑顔でドアを全開にしてくれた。


 当然、校舎内まで嵐が吹き荒れる。

 蒼仁も受付を飾る観葉植物も、これから配られる試験問題も、先生方が頑張って採点したはずの生徒のノート類も、その他色んなものがすべて吹き飛んでしまう。


 飛んでくる椅子を避けながら、まだかろうじて無事なキャビネットにしがみつく。

 キャビネットの扉が開いて、中の過去問冊子までバサバサと飛んで行ってしまった。まだ見たい過去問たくさんあるのに!


「シェ……シェディスーッ!!」


 何とかしてくれそうなただひとつの存在を思い出し、嵐に叩かれる顔で懸命けんめいに叫ぶ。


 轟音ごうおんの中に、聞き慣れない別の音が混じり始めた。

 シェディスが来た?

 それにしては、なんというか、こう……


 あえて表記するなら、「ブブオォッ! ボグッ!」とでもなりそうな音。

 違う、シェディス登場の効果音と違う。


 ヌボオォォ……とでも聞こえてきそうな動きとともに、巨大な黒い影が現れた。

 蒼仁の目線よりかなり上で、生暖かい、湿った息が噴き出している。


 横幅約二メートルもある巨大な武器を、頭上にかかげた黒い巨体。

 こんなにも巨大な生物が自分の目の前にいることが、とても信じられない。


 ムースだった。デザートではなく、ヘラジカの方の。


「狼の次はムースかよッ! 日本はどーなってんだー!」


 という蒼仁の心の声は、もちろん誰にも聞こえない。


 しかもこのムース、かなり気が立っている。

 血走った眼で、巨大な鼻先を突き出し、鼻息荒く威嚇いかくしてくる。明らかに蒼仁に向けてガンつけている。蒼仁が何をしたというのか。


 草食動物は人間を襲わないはず。

 いや、それを言ったら狼たちも本来は人間を襲わない。


 ゾウやカバなど、巨大かつ危険な草食動物はたくさんいる。ヘラジカもその一種だ。

 先端が三十にも分かれているという、巨大な角。あれに突かれたら致命傷になりかねない。


 野生の狼の群れも、オスのヘラジカを相手取ることはせず、メスや弱い個体を狙うのが普通だ。

 それだけ敵に回すと危険な草食獣が、今、蒼仁の目の前にいる。教室の床に、ガッガッと音を立ててヒヅメを鳴らしている。


 そのヒヅメが床を蹴り、前方へ飛び出した!


 ぶつかる!

 やられる!


 そう思った時にはもう、蒼仁の体は宙に浮いていた。

 少し離れた場所までひらりと飛び、足から綺麗に着地。


 下ろしてくれたのは、シェディスだった。


「また空が真っ黒になったんだ。『煌界リュース』から迷い込んじゃったのか、それとも」


に、他の種族まで操る力があるのかもしれませんねぇ」


 蒼仁の前に颯爽さっそうと立ちふさがるシェディスと、蒼仁のシャツの胸ポケットに颯爽と転がり込むハム。


 今になって気づいたが、シェディスの言う通り、外の空一面が真っ黒になっていた。

 ハムの話が本当なら、精霊たちの世界「煌界リュース」から、動物霊が「闇のオーロラ」を通じて地上へ襲来しゅうらいしたということになる。


 空高くうごめく闇の光。

 世界を封じ込めようとする猛烈な吹雪。

 激しく動いてもどこにもぶつかる様子のない、横幅約二メートルのヘラジカの両角。


 もう、ここが塾の校舎だとは思わない方がよさそうだ。


「アオト、武器を!」


「えっ! あっ、わっわかった!」


 って、昨日はどうやったっけ!?

 頭では慌てつつも、蒼仁の両腕は、自然に一日前と同じ動きを追っていた。


 空を覆う、不気味な黒い躍動やくどうに手を伸ばす。

 もやの一部が切り裂かれ、一筋の白い光が一直線に伸びてくる。


 蒼仁が手を動かすと、周囲に氷と光が集まってひとつの新しい形を生成する。


「――『天空』!」


 今日は中二病セリフはナシだ。

 その一言で、シェディスの武器、氷結棒アイスロッドが出現した。


 その、一秒にも満たない瞬間に。蒼仁の脳はまた、新たな情報を受信した。


 ――黒い、大きな獣。

 牙をむき、とんでもない速さで接近してくる!


「シェディス!」


 見たイメージを伝えようとする前に、シェディスが蒼仁の手元からロッドをつかみ取り、前へ出た。


 巨大な角を武器として、まっすぐに突き出しながら走り出すヘラジカ。

 激突の時が迫る!


 ガツッ! と激しい音が響く。火花を散らすがごとく、武器と武器とがぶつかった。

 シェディスは両腕で横一文字にロッドをかざし、八百キロの体重を乗せて繰り出された衝突しょうとつを受け止めた。


 細い棒と巨大な角。パワーとパワーの対決。

 シェディスの細い手足が震え出した。相手の熱い息を浴びながら、今にも押し負けてしまいそうだ。


「ウグッ!」


 ついにシェディスがバランスを崩し、後方へと倒れ込んだ。

 さらに突こうと繰り出された角を、瞬時に身をひねって避ける。剣先のような角が、ガッガッと何度も休みなくシェディスに襲いかかる。その度に、素速い身のこなしで何度もかわす。


「シェディスッ!」


 助けるすべも持たずに、思わず蒼仁が手を伸ばそうとしたとき。


 彼よりも速く、一陣の黒い突風が対決の場へと接近した。


 風は迷うことなくヘラジカの前足のけんへ飛びかかった。

 鋭い牙を突き立て、そのままみ砕く勢いで容赦なき一撃を刻み込む。


 新たな敵を吹き飛ばそうと、ヘラジカが大きく暴れる。

 シェディスはロッドを片手に持ち替え、再び蒼仁を抱えて軽く跳躍ちょうやくし、距離をとった。


 ヘラジカの前足に埋め込まれた牙は離れない。

 暴れるたびに細長い体が振り回されても、決して外さない。


 狼が持つ、驚異きょうい咬合力こうごうりょくむ力)。

 現れた個体は狼だった。

 黒銀の毛並みを持つ、全身の筋肉が引き締まった力強い狼だった。


「あれは、人間たちに『ウィンズレイ』と呼ばれている狼です」


 蒼仁の胸ポケットから顔だけを出したハムが、神妙そうな顔で眼鏡をくいっと上げた。


「シェディスと同じ父親の血を引く、いわば異母いぼ兄妹きょうだいです。なぜ、こんなところに」


 狼の牙が、ついに腱を砕いた。

 ヘラジカはなすすべもなく、その場にドウッと横倒しに倒れ込んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る