SIGN2 現れた白き守護者
悪夢の再来だった。
今まで何度フラッシュバックしたかわからないあのシーンが、目の前で再現されている。
空を覆い尽くす闇色のカーテンが、風に反応したかのように大きく揺らめく。
次に来るのが「ブレイクアップ」。一点を中心に黒い光が爆発し、天を裂きながら無数の矢をまき散らす。天空一帯に黒のプラズマが走り抜ける。
次に来るのは――
「逃げろ! 校内へ!」
あのユーコン川を逆流させるほどの突風。叩きつけるような
ここでは川に流されることこそないものの、それ以外の災害が外へ出ようとしていた二人に容赦なく襲いかかってきた。
「アオトッ!」
もう十分に「信じられない光景」を見てきたのに。背後から、さらなる脅威が追いかけてくる。
しなやかな細い四肢で力強く地を駆け、熱い息を吐きながら
狼だ!
ざっと見ただけでも十頭はいそうな狼の群れが、牙をむき出して飛びかかってくる。
なんとか逃げようとするも、恐怖のあまり視界が
その機を狼は逃さない。
さらにスピードを乗せ、全体重を武器に変えて勢いよく蒼仁を突き飛ばして押し倒す。鍛えられた強い前足が、獲物を地に押さえつける。
血走った獣の眼前に、あらわにされた蒼仁の喉首。鋭い牙が、その弱々しい肌へ突き立てられ――
――その、一瞬前。
新たな風が吹き、獣の灰色の巨体とともに「白い何か」が蒼仁の上を通り過ぎ、激しく転がった。
蒼仁を押さえつけていた体重が消えた。
何が起きたのか知るよりも先に、
「こいつは獲物じゃない! 近寄るな! お前らみんな、『
蒼仁を守るように立ちふさがる、ひとつの個体。
それは強風になぶられながらも輝きを失わない、豊かで美しい白の毛並み――
◇ ◇ ◇
「こいつらは私が相手する! きみたちは、何とかして風と雪から自分を守って!」
振り向きざまにそう叫んだのは、白いコートの
少女にも少年にも見えるすらりとした立ち姿は、髪も肌も服も、全身が白かった。まるで雪のように。
瞳だけは、夜の深さを思わせる
白いまつげに
低く
どれか一頭に視線を集中すれば、同時に周囲から背や足へ攻撃を受けて立てなくなるだろう。
人が素手で狼の一群を相手取るなんて、無茶だ!
蒼仁にもそれくらいはわかるが、若者の言うとおり、絶えず激しい雪嵐に体をなぶられている今は自分の身を自分で守ることすら難しい。パーシャと一緒に下駄箱の影で身を伏せているのが精いっぱいだ。
風に飛ばされそうになるパーシャの細い体をなんとか押さえ込みながら、蒼仁はパーシャの「予言」を思い出した。
蒼仁の中に、熱い何かが込み上げる。
「本当は、俺が死ぬはずだったんだろ! 俺が助かって代わりにあの人が死ぬなんてダメだッ!」
学校の校庭が、恐ろしい戦場と化した。
昇降口を守るように立ちふさがる若者へ、狼たちが襲いかかる。若者が素速い動きで牙をかわし、肘打ちを叩き込む。背後から飛びかかる狼を中段蹴りで吹き飛ばす。さらに突進してくる個体に体当たりでカウンターを決める。
どれだけ反撃しても、群れの攻撃は止まらない。
やがて動きが
――こんな場面、見たくなかった……!
冷えきった血液が心臓が凍らせていくような感覚に、蒼仁はまったく身動きができなくなっていた。
その腕が押さえ込んでいたはずのパーシャは、腕の中で身じろぎすると、風に頬をいたぶられるのもかまわずに蒼仁の顔を
「アオト、聞いて! たった今、わたしはあなたの力を『探知』した。あなたには、『召喚能力』がある! 召喚するのは、あの人を救う力……!」
――救う力? なんのこと?
俺に、あの人を、救える、のか?
絶望に凍っていた蒼仁の瞳が、
「パーシャ! 俺、何すればいいの!」
「この雪と氷の中から、あの人に
「どうやって!」
「そこまでわからないってば!」
「できる」とパーシャに保証されたところで、具体的なことが何もわからない。
助けに行くこともできず、助けを呼ぶこともできず。結局、何もできないままだ。
『空を、見て』
不意に、声を聞いた。パーシャの声じゃない。
『答えは
男性とも女性ともつかぬ声。
白い人の声? それとも空の向こうの、誰かの……?
言われたとおり、蒼仁は空を見た。
昇降口扉のガラス越しに見える空では、まだ黒いオーロラが
パーシャからそっと身を離し、立ち上がった。
全身に大小の氷塊が叩きつけられるが、なぜか痛みは気にならない。不思議と、少しも怖くない。
空へ手を伸ばすと、オーロラの中から一筋の
蒼仁の方へ。細いけれど、弱々しく見えるけれど、途中で消えることなく伸びてくる、
前へ進み、さらに手を伸ばす。
よく見るとそれは、きらきらと光り輝く無数の粒子だ。
蒼仁の手が粒子に触れた瞬間、
彼の眼前に、驚くべき『物語』が広がった。
◇ ◇ ◇
暗い。何も見えない世界。
そばに誰かいる。大きくてあたたかな、優しい息。甘い香り。自分を安心させてくれる存在。
時が早送りのように過ぎていく。
視界の明度が徐々に上がり、ぼやけていた像がピントを合わせ始める。
見えるのはまぶしい世界。空と木と草の世界。みずみずしい香り。
そばに大きいものと小さいもの、色んなものがいる。自分が動くと、それらもどんどん動く。知らなかった五感が、驚くべきスピードで新しい情報を吸い込んでいく。
目の前に川がある。広すぎて海みたいだ。
自分をいつも守ってくれるものが、軽く吠えて、ふさふさとしっぽを振った。
――あのときだ!
そばにいる「大きなもの」は、白犬のヴィティだ。
じゃあ、この世界を
世界が突然荒れた。
真っ黒な空に支配された川が、何もかもあっという間に飲み込んでしまう。
苦しい!
誰かが、見たこともないものが自分を強く抱え込んでいる。
まだ苦しい。
でも、なんだか、
守られてる、ような気がする。
時が、さらに早送りされる。
気がつくと、自分は厳しい寒さの中に放り出されていた。
みんな、あまりの寒さにどこかへ行ってしまった。
また、違う誰かがそばにいた。
自分よりひとまわり大きい。黒い毛並み。
自分より、ずっと強い。
でも、自分を守ってくれる。食べ物を、分けてくれる。
更に、世界が荒れた。
光と闇のページェント。空と地上を真っ黒なオーロラが塗り潰してゆく。
空に向かって吠えた。黒い毛並みが姿を消した。
空から白い光が差し込んだ。自分の白い毛並みが、少しずつ、見たこともない姿へと変わっていった――
ほんの一秒にも満たない間に、蒼仁の中に
「誰か」の意識と自分の自我がごちゃまぜになって、かき混ぜられるような感覚に、蒼仁は揺れた。
不思議と、不快感はない。
この「誰か」が誰なのか、わかったから。
「俺を助けてくれた、あの『人』だ」
蒼仁の手に、光の粒子がまとわりついている。
手を引くと、光の粒が動き、手元に固まって、あるひとつの「形」を作り上げた。
その「形」に、今まで容赦なく襲いかかっていた氷塊が集まって、さらに強固な、ひとつの集合体を作り上げた。
光と氷でできた、二メートル弱の物体。
一本の、「棒」だった。
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