25歳男性 特技は料理を作ること

黒バス

第1話 夢の途中(前編)

「トントントントン‥」

 玉ねぎを切る音がキッチンに響き渡る。まな板に置いてあった4球の玉ねぎがあっという間に細く均一に切られた。これだけ早く切れば、目から涙を出させる成分である「硫化アリル」が玉ねぎから目に入ることはない。


 俺は、少しだけ口角を上げた。そして、切った玉ねぎを大きめのバターを引いた鍋に入れて炒め始めた。


「ジュワー」と玉ねぎとバターの甘い匂いがキッチンを通り越して家中に広がる。炒めながらキッチンの上に付いている換気扇の『強』のボタンを押した。

 

 外にこの甘くて香ばしい匂いが漏れ出ることは、鰻屋さんやカレー屋さんのように誰かの食欲のスイッチを爆発させる無差別テロのような行為だろう。

 ご近所さんには、申し訳ないが俺はもう止まれないのだ。

 そんなことを考えながら玉ねぎを炒め続けた。


 玉ねぎがしんなりと半透明になった所でぶつ切りにした親鳥のもも肉と乱切りにしたじゃがいもと人参を鍋の中に入れてまた炒め始めた。


 親鳥のもも肉に火が通った所で鍋に水を入れて、コンソメと塩胡椒とめんつゆを少しずつ加えてしばらく煮込みの時間に入った。煮込み始めてすぐに親鳥から出た金色の鶏油が鍋の上に浮いている。それを見ているとクリームシチューの完成が楽しみになってきた。


 休日に本気で一品だけ作り。学生の時は、よく友達を呼んでこんなことをやっていたが社会人になってブラック労働していた時は、そんなことをする暇はなかった。

 

 平日も休日も朝から晩まで勝手に決められた、ノルマ達成のために残業して働いていた。同期は、一人また一人と会社からいなくなって、ついに自分も会社から辞める事にした。

 

 辞めることを覚悟した時には、自分が何のために生きているのかわからなくなっていた。会社のため?ノルマのため?上司の機嫌を取るため?それができなければ生きてる価値がないのではないかと思うほどに何も考えられなくなってきた。俺は、そこに居残る勇気も根性もなく逃げるように辞表を提出して会社を去った。それが、丁度一年ほど前の話だ。


 今思えば会社を辞めたことは、正解だったのかもしれないと思える。あのまま、会社に残っていたら、電車のホームに飛び込んでいたか、ビルの屋上から飛んで天国に飛んでいただろうな。


 社会人を一旦ドロップアウトしてからは、会社員時代の貯金を節約するために大学生時代に飲食店でアルバイトしたのがきっかけで好きになった自炊ばっかりしていた。そしたら、料理を作ることが楽しくなり、料理することがいつの間にか自分の生きがいになっていた。


「ぐつぐつぐつ‥」

 昔のことを考えていたら鍋が煮立っていた。すぐに火を小さくして鍋の蓋を開けて中身を確認した。開けた瞬間に大量に湯気が「ボワッ」と立ち上り、換気扇に吸い込まれていった。中の様子は、具材から出汁が出てもうこのまま食べたいぐらい美味しそうな深い甘い匂いが鼻を刺激する。

 

 小さい取り皿に少しだけ濁ったスープを入れて口に運んだ。口の中に入れた瞬間、優しいけど力強い風味が鼻腔の中に広がる。舌の上で味は薄いはずなのに強い旨味を感じた。この旨味は、親鳥から出た出汁とコンソメとめんつゆの旨味が混ざり合ったものだろうな。これが最高に美味いのだ。


 「あ。そうだ、これをこうしたら‥」と頭の中で一つアイデアが浮かんだ。とりあえず今日の献立から、クリームシチューの出番がなくなった。

 俺は、冷蔵庫に行きとを開けて、バターと市販の様々なハーブがブレンドされた香辛料(クレイジーソルトみたいな奴)を取った。


 「やべぇ‥絶対美味いだろこれ‥」

 想像しただけで思わず声が出てしまった。バターを入れる瞬間を見たら反射的に声が出てしまった。恐縮だが毎回、美味そうな料理を作る度に自分の才能が恐ろしくなってくる。


 0.5cmほどに切ったバターを入れて、クレイジーソルトみたいな奴を鍋の中に振り入れた。ハーブの爽快で芳醇な香りが鼻に入り、自分の食欲を司る神経を刺激してお腹を急速に空っぽにしていくのがわかる。お腹から「グルルル‥」と野生動物の威嚇する声みたいなのが聞こえてきた。

 

もう限界だ、今すぐ食べたい。このシチューの途中の料理を今すぐ食べたい。この料理には「親鳥のトチュー」とでも名付けようか。

 

 試行錯誤で完成していない料理のトチューでも十分美味しい。料理を作っているとたまにこんな料理に巡り合う。途中でも十分に美味しく、人を満足させて笑顔にすることができる。それだけで十分だ。俺は、トチューをお椀に注いでリビングの机に持っていった。


 机にお椀を置いた所で「トゥルルン!」と炊飯器でお米が炊ける音がした。やったー!これで、役者は揃った。すぐに炊飯器の前に行き、炊き立てのご飯をお椀によそった。机に持っていく前に、冷蔵庫を開けてキンキンに冷えた赤ワイン(コンビニで売っているぐらいの)を一つ取って一緒に持っていった。


 今晩の献立が揃った。「トチュー、白米、キンキンに冷えた赤ワイン」これが最高の組み合わせなのだ。

 席に座り、箸を手に取り「いただきます」と言う。目の前には、熱々のトチューが俺を待っている。俺は、一切迷わずに箸をトチューのお椀に箸を伸ばして、掴んだ親鳥肉を口の中に運んだ。噛んだ瞬間「うま!!!!!!」と目が飛び出そうになった。

 弾力のある親鳥は、噛めば噛むほど旨味が溢れ出てくる。旨味を下で堪能しながら次にスープを啜った。これもまた最高だ。親鳥と野菜からも出汁が出ていてそれにめんつゆの鰹節の旨味も加わって一言でいうなら、旨味のバーゲンセールをしているみたいだ。

「ゴクリ」とスープを飲んだ後、赤ワインをグイっと飲んだ。赤ワインの芳醇で上品な香りと少しの苦味が気分をぶち上げていく。うーん!「我が生涯に一片の悔いなし!」と天に拳を突き上げて叫びたくなるほど最高な気分だ。


 今夜も美味い飯を食えた。それだけで今まで生きていて良かったと思える。そんな感じの小さな喜びの積み重ねが自分が生きている理由になるのかもしれない。美味しいご飯は、その小さな喜びの一つだ。


 俺は、赤ワインで気分が良くなる中、パソコンを開き「求人 飲食店 洋食」と打ち込み検索した。この一年じっくり考えて出した次の職業の答えは、料理人にしようと決めた。











 













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