Chapter.Ⅰ 〈銃後のお茶会〉

Phase.1 ケモナーと襲撃者



     1



 ボォーっという汽笛が鼓膜を震わせた。意識が覚醒してくると、どこからか港町プール・オブ・ロンドンの喧噪が聞こえてくる。

 カネトリは読んでいた雑誌の下で目を開いた。黒髪に黒い瞳。ひょろりとしたなで肩で、丈夫な革で縫われたアクアスキュータム社の軍用外套を身に着けている。

 今年で二六歳になるはずだが、童顔のために青年にしか見られない。その理由はアジア系の血によるものだ。


「……ふわぁ。クロー、今はどこだ?」

「もうシティに入ったよ。あと少しでドック入りだから早く降りる準備をしないと」

「そうか」


 カネトリは立ち上がってぐっと伸びをした。よく晴れた気持ちのいい日だ。テムズ川から吹き込む風を受けて部屋のカーテンが緩やかにはためいている。紐で括ってまとめると、すぐ対岸にロンドン塔の古めかしい城壁が見えた。


「ふむふむ……ねぇ、これ見てよ。『〈黒い列強〉エチオピア帝国、大勝利! 新生ローマ帝国ニュー・ローマン・エンパイア政府は東アフリカにおけるエリトリア植民地の放棄を宣言』……エチオピアとイタリアの講和条約が成立したってさ」


 テーブルの上では相棒の白カラスが届いたばかりのデイリー・テレグラフ紙を読んでいる。


「へぇ、意外と早く終わったな。三月のアドワの戦いでイタリア軍が壊滅してから、てっきりズルズルと泥沼の戦いになると思っていたけど」

「確かに。でもこんな有様じゃあ、ローマ帝国の名が泣くね」

「まあ、戦争が早く終わるのはいいことだ。武器商人からすれば損だが、アメリカでも戦争が起こりそうな気配だし、市場ならいくらでもある。国内のニュースは?」

「うん。ちょっと待ってね……」


 クローは嘴で器用にページをめくって表紙にでかでかと載っている報道写真を指した。

 黒煙につつまれた工場の前に住民が群がっており、やたら大きなゴシック体で『ポーツマス造船所 爆弾騒ぎ IRBか』と簡潔な見出しがあった。


「あー、これだ。またIRBのテロがあったみたい」

「……アイルランド共和主義者同盟RBか。厄介な連中だ」

「最近多いよね、こういう感じのテロ。トマス・クラークだっけ? 早く捕まればいいのに」

「スコットランド・ヤードも大変だな」


 カネトリは言ってテーブルに置いていた石鹸や剃刀を旅行鞄に詰めた。ついでに重要書類や旅券パスポートをまとめて封筒に入れ、部屋を出る準備を完了させる。

 その時、カチャリと錠が上がる微かな音がしたのを、二人は聞き逃さなかった。


「カネトリ」

「……ああ。物取りかな?」


 直後、ノックもなしに扉が開いた。頭にフードを被って足首までをすっぽりと外套で覆った小柄な何者かが、影のようにするりと侵入してくる。


「鍵は閉めていたはずなんだがな……。誰だ?」

殺し屋ブラック・ドッグ。……あなたがカネトリ?」

「そうだ」

「そう……」


 声の感じはまだ年端もいかない少女のものだった。〈黒犬ブラック・ドッグ〉と名乗る殺し屋は懐から細長い筒のような消音器付きのリボルバーを抜く。


「サプレッサーか。珍しい銃だ。ベルギー産のナガン・リボルバー……ロシア皇帝ツアー秘密警察オフラーナのエージェントに与えているやつだ」

「知らない。これは貰い物だから」


 少女は淀みのない動きでターゲットの胸にポイントすると、リボルバーの撃鉄を起こした。


「そうか。で、どこから入った?」

「橋の上から」


 少女の答えに、カネトリは少し驚いて聞き返す。


「それって……タワー・ブリッジのことか?」

「多分、そう」

「はははっ、すごいな。ぴょんと飛び移ったのか」


 驚きもせず、どこか余裕のある男に少女は訝しげに眉をひそめた。普段なら命乞いしたり、どうしてだとか必死に訊いたりする場面だが、そんな素振りは微塵もない。


「……どうしてだとか、気にならないの?」

「んー、まあな。……いや、正直言うとお前だけじゃないんだよ。今回の行商では同じようなのがやたらと襲ってきてな」


 カネトリは言って、やれやれと肩をすくめて封筒を軽く振った。


「どうせ狙いもこの中の契約書だろ? 販売契約はすでに電信ネットワーク上で済んでるし、本当は俺を殺しても意味はないんだけど」

「…………」


 たとえ意味がなかろうと、〈黒犬ブラック・ドッグ〉は依頼を遂行するだけだ。

 少女が狙いを定めて引き金を引こうとした、その瞬間だった。

 新聞の上でじっと侵入者を見ていた白カラスが飛び上がり、サプレッサーの止まり木に飛び移ったのだ。



「ねー、それよりさ、お嬢さんはどこから来たの?」



「――えっ!?」



 突然、部屋の中から別の声が聞こえ、少女は思わず辺りを見回した。動揺する殺し屋の隙を武器商人は見逃さない。

 一気に距離を詰め、近接戦に持ち込んだ。


「くっ!」

「危なっ!」


 ピシュと空気が抜ける音がしてベッドの羽毛が舞う。銃身を掴まれて得物を封じられるのと同時、少女は飛び退いていた。腰からナイフを抜こうとするが、カネトリはその手を腕ごと押さえつける形で、みぞおちにタックルを食らわせる。


「がはっ!」


 肩の一撃をもろに食らい、少女が唾液を吐いた。身体が突き上げられ、フードがめくれて顔が露わになる。整った顔だちに赤と銀の両異眼オッドアイ

 深い水底のような藍色をした少女の長髪が広がり、そこにあるが現れる。


「!」


 まるで犬のような毛に覆われ、三角に折れた耳。

 ホモ・サピエンスならざる、獣人の証。

 男はそれを見逃さなかった。両腕で少女をホールドしたまま身体を持ち上げ、咄嗟に方向を転換。そのまま重力に従い、柔らかいベッドの上に叩きつける。ギシっとスプリングが軋み、衝撃が吸収された。


「お前……その目……」

「……う、ううっ!」


 少女は脱出しようと足をバタバタさせてもがくが、カネトリは脚を巻きつけるように力づくで両足を封じる。ランカシャー・スタイルの寝技だ。腕力の差は明白で、もはや逃れることは不可能だった。

 両手を抑えつけ、その瞳をまじまじと覗き込んだ。


「珍しいな。獣人との混血児ハーフか。そうだとしても、うーん……」

「じゅ、獣人だったら……何?」

「別に。ただ……そうだな。こう見えても俺はフェビアン協会でも急進派の平等主義者・・・・・でな。社会的にどうかは知らんが、獣人を差別するどころか、むしろ大好物なんだ」


 武器商人は目を怪しく輝かせ、少女の耳もとで囁いた。生暖かい息を吹きかけられ、ゾワリと全身に鳥肌が立つ。


「そ、それってどういう……」

「お前はとてもいい目をしている。ケモノの目だ。殺し屋には珍しいタイプの、生きる意志に溢れた力強い目だ。……本当ならそのまま絞め落とすところだが、久しぶりに気に入ったから見逃してやるよ。だけど、その前にちょっと反省してもらおうか」

「え」


 そう言って舌なめずりをする男に、少女の顔がさっと青くなった。


「安心しろ。娼館にいく前のウォーミング・アップ程度だ。俺の舌技は気持ちいいと評判だが、しばらくご無沙汰だったからな。腕が落ちているとロンドン娘たちに嫌われてしまう」

「ちょ、ちょっと……」

「いただきまーす」



 ペロペロ、ペロペロ、ペペペペロペロペロペロペロペロペロペロペロペロペロペロペロペロペロペロペロペロペロペロペロペロペロペロペロペロペロペロペロペロペロペロペロペロペロペロペロペロペロペロペロペロペロペロ――



「ひゃ、ひゃあ!」


 くちゃくちゃと官能的な響きに包まれる。耳裏だけでなく耳の奥までを徹底的に舐め回され、少女は耐えきれずに悲鳴を漏らした。


「あっちゃー、やっちゃった……」


 クローは翼で顔を押さえて、名も知らぬ殺し屋に心の底から同情した。





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