落ちた世界

シヨゥ

第1話

「今は今にしかなく、思い続けなければ今を捉えることはできない」

 じいさんは言う。

「今起きていることを認識した途端に今は過去になっていく。だから今を思い、今を掴んでは放しを繰り返し、今を渡り歩いていかなければならない。それが今を生きる者の宿命だ」

「生きるってなんだか大変だなぁ」

 他人事のように、馬鹿みたいな感想が口から漏れてしまった。

「広場にあった雲梯を思い出したよ」

「うんてい?」

「じいさんは知らないか。高台と高台の間にはしごを渡したような遊具だよ。ぶら下がって腕力だけで渡り切るあれだよ」

「見たことがあるような、ないような」

「そっか、じゃあこの例えは不正解だな」

「想像はできる。当たらずも遠からずといったところだな」

「そうかそうか。っでじいさんは雲梯から手を放したと」

「そうだな」

「そこから見える景色はどうよ?」

 その問いかけにじいさんはあごひげを撫でると、

「絶景だな」

「絶景?」

「他の奴らがバカのひとつ覚えみたいに今にしがみついているのが滑稽で笑えてくるな」

 そう言って歯を見せて笑った。

「落伍するのもまたいいもんよ」

 そう言い切るじいさんは格好良く見えた。

「だがお前はまだ早い。もっと俺を笑わせてから落ちてこい」

「落ちるの前提かよ」

「そら俺の血が入っているからな」

 そう言って頭を力強く撫でてくる。それがなんだか心地よい。この心地よさはきっと、落ちた世界の心地よさなのだと本能的に理解した。それでもこの心地よさの半分も味わえていない気がする。落ちるなら酸いも甘いも噛み分けてから。そのほうが心地よい。そう思うのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

落ちた世界 シヨゥ @Shiyoxu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る