第十話 楔


 尖がいなくなってから一ヶ月経ち、硝子は家賃九万三千円のマンションに引っ越しをした。

 吉祥寺駅から徒歩十分にある五階建てマンション三階の1DKだ。バストイレ別でオートロック。室内には洗濯機置き場があってエアコンも付いている。インターネット回線だって引いてあるからリモート勤務だってできる。


 「どうせリモートなんだし、違う仕事もやってみようかなあ」


 罪悪のアレキサンドライトが無くなり硝子の気持ちは随分と前向きになっていた。尖のことを忘れたわけでは無いけれどそれ以外のことを考える余裕ができていた。

 そう思えるようになったのは楔のおかげだった。


 それは、あの日から数日経った日の出来事だった。


 「硝子ちゃん!イケメンの彼氏さん来てるわよ!」

 「彼氏?そんな肩書の人はいないんですけど」

 「何言ってるのよ。先月あたりから一緒に暮らしてたでしょ」

 「先月って――」


 一緒に暮らしていた男性は一人しかいない。

 まさかまた尖が戻ってきてくれたのかと、硝子は全力で走った。


 「尖!?」

 「いや、違う」

 「あ、え、っと……?」


 端正な顔とはまさにこれだ。

 金緑は彫刻や神様のような神々しい美しさだったがそれとはまた系統が違う。爽やかでいかにも誠実そうで、申し訳なさそうな顔をして控えめにほほ笑む姿は上品という言葉がよく似合う。


 (それはともかく誰これ)


 こんな整った顔は忘れようとしても忘れられないが全く見覚えは無い。

 しかしよく見るとその瞳には何となく見覚えがあった。尖と同じようなライムグリーンをしているけれど、それよりは少し重めの色で楔石スフェーンによく似ている。


 「故人が生きていると問題になるだろう。だから人前では俺の姿でいたんだが、恋人に間違われる事には考えが及んでいなかった。すまん」


 先月一緒に暮らしていたのは尖だったけれど、あれは硝子の弟の身体ではない。金緑の弟の身体だった。


 「もしかして楔さんですか?」

 「もしかしなくても俺だが」

 「ええ!?こ、こんなイケメンだったんですね楔さん……」

 「ああ、そうか。あんたは俺の顔を見るのは初めてか」


 硝子はついまじまじと楔の顔を見た。

 整った顔立ちだが金緑とはあまり似ていない。二十五歳くらいにみえるが、あまりにも整いすぎてて年齢の想像がつかない。

 十代と言われればそれも信じるし三十代と言われればそれも信じてしまう気がする。それは金緑も同じだ。二十代後半に見えていたけれど、あの雰囲気が年齢を無視させる。


 「顔出しでお店のSNSやった方が良いですよ」

 「む。やはりそう思うか。兄上は品物以外で客を呼ぶのは好まんのだが、収入が無いと店はやっていけないのでな」

 「ならまず服装どうにかした方が良いですよ。あの珍妙な服と仮面はちょっと……」

 「あれは人の視界から姿を隠すための物だ。あんたの原石と同じで、そこにあるけれど見えない。存在する次元がわずかに違うのだ」

 「え、な、なんか急にファンタジーな話が……」


 実を言えば、結局何が起こっていたのか硝子はよく分かっていない。

 自分の中から後ろ向きな気持ちが無くなったというのは解るが、硝子にとっては尖と楽しい時間を過ごしただけだ。

 金緑と楔はそれが《罪悪のアレキサンドライト》という石で表現されていたようだったが、あの石を手に入れる事に何の得があるのかは分からないでいる。


 だから次元がどうこう言われても硝子にはよく分からない。

 だがきっと彼らには彼らの事情が何かあり、だがそれを知る必要があるかというとその必要は無いと硝子は思っていた。

 彼らの事情がどうあれ、硝子の日常は変わらないからだ。


 「今日はあんたにネックレスの事を伝えたくて来たんだが、兄上が渡したネックレスはどうした」

 「あれは……その、あんまり着けたくないっていうか……」

 「いや、着けてくれ。あれは兄上からではない。尖からだ」

 「え!?」

 「そうじゃなければ兄上があんたの誕生日なんか知ってるわけがないだろう」

 「そ、そういえば」

 「アレキサンドライトとクリソベリルは同種。いわば姉弟のようなものだ。だから尖はそれを選んだんだ」

 「尖……」

 「クリソベリルには愛の充実という意味がある。あいつはあんたに誰かを愛する幸せを手に入れてほしかったんだ――と俺は思っている」


 硝子は慌てて家の中に入り、捨てようにも捨てられないでいたクリソベリルのネックレスを引っ張り出した。

 それはあの時の尖と同じ輝きをしている。これを尖が選んでくれたのかと思うと急に愛おしく感じた。

 楔さんはすまないな、とまた小さく謝ってくれた。


 「楔さんが謝る事なんて何も無いですよ」

 「……だが、すまない」

 「あの時楔さんが私を迎えに来たのは尖の頼みで?」

 「いや、兄上の指示だ。尖の依頼を受けたのは兄上だからな。アレキサンドライトは珍しい石だ」

 「稀少石でしたっけ」

 「ああ。兄上はアレキサンドライトとは二面性の象徴だという。二面性とはすなわち相対する二つの顔。つまりあんたの罪悪は感謝と表裏一体ということだ。元々誰かを大切にする力があんたにはあって、尖はそれを知っていた。だからあんたの感謝の面を引き出すきっかけ作りを兄上に頼んだ。兄上と触れ合った事は嬉しかっただろう。あんたは人を愛する事ができるんだ。大丈夫だ。きっとあんたは幸せになる」


 話が長すぎて硝子は途中から分からなくなった。

 見た目からくるイメージよりも饒舌な人だ。いや、饒舌というより会話が下手なのかもしれない。口を挟む隙を与えてくれないから一方的に聞くしかできない。

 しかし一生懸命話してくれるその様子はどこか幼く見える。


 「楔さん、可愛いっていわれるでしょう」

 「な、なんだと。俺はあんたより年上だぞ」

 「そういうことじゃなくて。金緑さんが可愛がるのちょっと分かる」

 「何だそれは……」


 このひと月の間、尖はとても大人びていた。

 原価がどうこうなんて病院生活だった尖に分かるはずがない。硝子の記憶にある無邪気で可愛い弟とは別人のようだった。


 (尖の言葉は楔さんの作った台本なのかもしれない)


 金緑が欲しかったのは硝子の心ではなくアレキサンドライトだ。

 楔だって収益の事を考える経理の人間だ。


 (それでも確かにこの人達のおかげで尖の想いを知ることができた。尖と私を助けてくれたって思っていいよね)


 硝子は恥ずかしそうに笑う楔に尖の姿を重ねてみたけれど、やはり似ても似つかない。

 けれど兄上は、兄上が、と懐いている様子は硝子の記憶にある尖によく似ていた。


 「またお店に遊びに行ってもいいですか?」

 「止めておけ。兄上に関わるとろくな事が無い」

 「それは分からないでもないですけど……」

 「あんたに俺達が必要となるその時はまた迎えに行こう。だからあんたはまず幸せになれ」


 楔が身体を貸していた尖の言葉は作り物かもしれない。

 だったとしても、それはきっとこの誠実な楔の優しさだったんだ――と硝子はそう思った。

 楔は少しだけ寂しそうに笑うと、ぽんっと私の頭を撫でて帰っていった。

 そして硝子が二人に会うことは二度となかった。

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