第4話 レオとクルミ
五寸釘レオは、3メートルもの板塀を一切触れることなく飛び越えた。
豪邸とはいえ一般人の民家である。要塞のような罠が仕掛けられていると考えたわけではない。足に意識を集中し、地面を思い切り蹴った結果である。
屋敷の敷地内に足が付いた瞬間から、猛獣のけたたましい吠え声が聞こえてきた。番犬だ。
氏家の番犬には2種類あり、吠えて人間たちに警戒を促すのが役目の犬と、ただ目標に接近し、一切吠えたてることなく相手の喉笛を狙う殺人犬がいる。
吠える役目の犬は普段はかわいらしいテリア犬などだが、攻撃の役割を担うのは闘犬で知られるドーベルマンである。
板塀を飛び越えたレオは、怪しい人間だと認識されたということであり、その点で否定するつもりはなかった。素早く周囲をうかがうと、遠巻きにほえたてる犬たちをだけだった。このまま、レオを殺しても構わないとまでは判断しないでくれるとありがたい。
犬たちの足音と荒い呼吸に耳を澄ませ、距離を測りながら足に意識を集中させる。筋肉を酷使する以上、一度の使用で筋繊維はかなり損傷する。回復させながらでないと、そのうち身動きすらできなくなる。
屋敷の建物はすぐ目の前だったが、すんなり入れてくれるとは思えない。
古風な設えの日本屋敷の2階を見上げる。レイカの部屋は、幼いころから変わっていないとすれば2階だ。今レオが居る場所から窓が見えるはずだった。
全力で跳躍すれば、屋敷の上まで飛び上がることも可能だ。筋肉の修復ができないほど追いつめられるとは思えない。レオは目標をレイカの部屋の窓から屋根の上に変えた。突然窓を破ってはいるほど、レイカの身に緊急事態が起きているという確信があったわけではないのだ。
もう一度電話をかけてみようかと、携帯電話を取り出し少し考えた。
耳に、近づいてくる軽快な足音が響いた。威嚇のために吠えたてる犬たちとは別種の、侵入者を殺すために訓練された犬たちである。
話が通じない相手に、レオの精神誘導は効果を持たない。
レオのような中級魔法使いの中にも、動物の精神支配を得意とする者もいる。人間の相手をするより、より確実に服従させることができるらしいが、レオは動物への命令を不得手としていた。
事情もわからないまま、レイカの家の者を傷つけたくなかった。たとえ犬であっても、訓練にはレオの学費以上の資金がかかっているはずだ。
犬と争わないため、レオは地面を蹴りつけた。体が浮き上がり、太ももの悲鳴と引き換えに、レオは氏家の本家を見降ろす屋根の上に至った。
同時に、レオが片手に握りしめたままの携帯電話が鳴った。
レイカの携帯からの着信だった。
氏家家の屋根から庭先を視界に入れるよう意識しながら、五寸釘レオは携帯電話を耳に当てた。レイカ本人からだとは、もはや期待していなかった。想像通り、聞きなれない女性の声だった。
「誰ですか?」
『レイカお嬢様の身の回りの世話をしている、蛇目スズよ。あまり時間がないから手短に言うわ。黙って聞いて』
レオは、下から発見されないように屋根の上に寝そべりながら聞き続けた。返事も返さない方が賢明だろう。声は続いた。
『お屋敷のすぐ近くで、レイカお嬢様は車に跳ねられて亡くなられたわ。今、お嬢様の死体のすぐ近くにいるの。旦那様は、事故があったこともお嬢様が死んだことも、外には漏れないようにして、あなたのお母様を呼んだの。あなたのお母様は、不思議な力があるって言われているわ。レイカお嬢様は、昨日までずっと……レオさんの話しかしなかった。家の中に、楽しいことなんかなかったのよ。その上、死んでまで自由にはさせてもらえない。レオさん、あなたのお母様を止めて』
「そのつもりです」
黙って聞いていたが、スズの話が終わったことを確信し、返事をした。スズが聞いているかどうかはわからなかった。言う前に、電話は切られていたかもしれない。
スズのことはどうでもいい。レオは自分に言い聞かせるために、口に出したのだ。
蛇目スズは、レイカが死んだと言った。
レオは、レイカの家の前まで2人で下校したのだ。
レイカに付きまとわれる形ではあったが、レオがレイカ引き離すと、自動的にレイカに護衛の男達がつきまとう。その男たちをレイカが不快に感じていたのを知っているため、振り払うこともできなかった。
レイカの家の前まで送り届け、ほんの数歩、歩く間に車に跳ねられたことになる。
レオの姿が見えなくなるまで巨大な玄関の前で手を振り続けるレイカの姿を、はっきりと思い出すことができる。ならば、レイカがきちんと玄関をくぐるまで、注意を怠ってはいけなかったのだ。豪邸に住む財閥の令嬢でありながら、レイカは産れつき徹底的に運が悪かったのだ。
携帯電話を握りしめたまま、レオは上空を仰いだ。レイカが死んだ。その事実が、レオの全身から力を奪っていた。
その事実を、五寸釘クルミなら覆せるのだろうか。
とてもそうとは思えなかった。レオは、半人間としての能力の使い方について、母から手ほどきを受けていた。レオは自分の肉体を強化できても、他人の肉体への干渉は不得手としている。
母のクルミも同様のはずだ。しかも、完全に死んだ人間を蘇らせることができるほどの力の持ち主がいるなど、聞いたこともない。
巨大な正面の門から、黒塗りの車が入ってくるのが、氏家の家の屋根から見えた。下から見つからないよう、細心の注意を払って覗き見ていた。
黒塗りの車が玄関前で止まった。白い巫女の正装をした、五寸釘クルミが降りた。
白い衣装のクルミを取り囲むように、黒いスーツ姿の男達が居並ぶ。
息子であるレオに殺人も可能な番犬を差し向けながら、母親のクルミを丁重に招待する異常ささえ、レオは思い至らなかった。
レイカが死んだという事実を受け入れられないまま、レオは古く見えるが最高の技術が使われて葺かれた、屋根の瓦を蹴りつけた。
五寸釘レオは、氏家の屋敷から母である五寸釘クルミの目の前に降りた。通常の民家より屋根が高く、ほぼ3階のベランダから降りたのと同じ高さがあった。
意識を足の筋肉と全身の骨に集中し、衝撃は吸収した。体への負担を最小限にするため、地面にひざまずく姿になった。
「レオ? あなた何をやっているの?」
クルミは体も小さく、声が高い。実年齢は高齢者でありながら、知らない人間はレオの妹と勘違いするほど、外見は幼い。巫女衣装がよく似合った。中身が別物であることは、レオは身を持って知っていた。
レオが地面に降りる前から、レオの存在を把握して氏家の使用人たちは動き出していた。もともと、クルミを出迎えるために居並んでいたスーツ姿の男達だった。鍛えられた人間たちではない。暴れたくはなかった。レオは、地面にうずくまったまま口だけを動かした。
「母さん、何をしようとしているんだ? レイカのこと、聞いたよ。今更、どうしようというんだ?」
氏家の使用人たちは、クルミが手で制した。クルミのことを『母さん』と呼び、クルミが受け入れた事実が、使用人たちの動きを縛っていた。レオの顔を知っている者もいた。レイカとレオが小学生だった頃までは、毎日のように遊びに来ていたのだ。
「レオ、あなたには関係ないことよ。時間が惜しいわ。納得いかないなら、力で示しなさい」
言うと、クルミはレオの存在を無視するかのように歩き始めた。レオがうずくまる場所を避けた。だが、遠く離れたわけではない。手を伸ばせば届く。
レオは手を伸ばした。
巫女特有の赤い袴に包まれたクルミの足を掴む。指に力を込めれば、人間の足なら骨ごと握り潰すことも可能だ。相手がレオと同じ半人間であっても、体の構造や強度は人間と変わらない。破壊するのは難しくない。
だが、すべては相手が対処しないという前提でのことだった。
骨の折れる音がした。レオの腕の骨が折れた。
レオは左腕を抑えて地面に倒れ、わらじの感触を頬で受けた。
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