届かない命

 風楽は十七歳になった。華奢な風楽は同年代の一般的な男子と比べると小さくてまるで女子のような線の細さだったが、それでも彼の中ではかなり成長した。

 元々運動が自分に向かないとわかっていた風楽は、そのぶん人一倍勉強し、多くの本を読んだ。このころには名の知れた一流大学にも進学できるほどの学力が身についていた。その努力の全ては、彼女の隣に立つためだった。

 次の誕生日が来た時、風楽は成人年齢に達する。法律的にも結婚可能な年齢だ。

 しかし、運命というものは過酷な現実を突きつけてくる。まるで人の願いを妨げることが自分の仕事だと思っているかのように。

 宝石化症候群という病名が世に定着する以前に、風楽の右手の先が宝石化した。ルビーのように鮮やかな赤になった。

 よりによって手が宝石化するなんて。これではもう、彼女の手に触れることは叶わない。風楽がずっと追い求めていた、あの優しい手に。

 風楽は自分が宝石化症候群を発症したことを恋火に伝えることはなかった。しかし噂というものは人知れず広がるものだ。

 ある日、恋火が風楽の自宅を訪れた。母に彼女と会う意思はないことを伝えてもらったが、恋火は折れなかった。風楽に会うまで帰らないと言い張る。母は恋火の鬼気迫る勢いに押し負けて、彼女を家に入れた。恋火が風楽の部屋のドアをノックする。

「風楽、入るよ!」

 風楽が応える前にドアが開いた。黒のセーターに白いパンツ姿がよく似合っている、などとこの状況に似つかわしくない感想を風楽は抱いてしまった。彼女はもう大人だ。

 恋火はベッドの上に座っている風楽を怖い目で睨んだ。

「恋火さん。嬉しいです。もう会えないと思っていました。でも」

 風楽は自分の体、声が、震えていくのがわかった。自分を奮い起こすには勇気が必要だった。

「帰ってください」

 その言葉は残酷な響きをもって部屋の中に反響した。

 人生で初めて恋火の行動を否定した瞬間だった。

 恋火は一歩、二歩と、ベッドのほうに近づいてきた。

「来ないでください!」

 風楽は泣きそうだった。だけど、彼女の前でそんなみっともない顔を見せたくなかった。

 その時点で、風楽の宝石化は体の中心、内臓近くまで達していた。余命いくばくもない状態。

「風楽、約束は?」

 風楽が顔を上げると、恋火は何かを無理やり抑えつけるように強く歯を噛みしめていた。

「待ってるって言ったでしょ」

 風楽は俯き、綺麗な赤い宝石となった自分の両手を見つめた。

「すみません。約束、守れそうにないです」

 風楽はもう、恋火の顔を見ることができなかった。悔しくて。悲しくて。

 無慈悲な静寂が二人の間を流れる。

「許さない」

 彼女の静かな怒りのこもった声が聞こえる。

「死んだら、許さないから」

 そう言い残し、恋火は部屋を出ていった。

 許さない、って。どうしようもないことなのに、怒られるなんて。

 風楽は恋火の言葉が可笑しくて、笑った。

 ダムの決壊した風楽の目からは滝のような涙が流れた。



 風楽の家をあとにした恋火は、近くの森に来ていた。こんな時に自分は何をしているのだろうと思いながら。

 風楽はこれからもっと生きなければいけない人間だった。元々不自由な体の彼の人生は、これからのはずだった。こんなところで死んでいいわけがない。

 恋火は以前風楽と一緒にやってきた森の中を走っていた。一度枯れ葉に足を取られて転び、手と膝を擦りむいたが、そんなことはお構いなしに走り続けた。

 雲に隠れて日が陰り暗さを増した森が、侵入者を歓迎している様子はなかった。

 不甲斐ないことに、恋火は森の中で道に迷った。目的の方角も出口の方角もわからなくなってしまった。

 雨が降り出した。木々の合間から降り注ぐ雨粒が、恋火の体を濡らした。

 急速に灰色に変わりゆく世界の中で、恋火は立ち尽くした。

 無情な運命に立ち向かう術を探した。

 その時、恋火の視界の中に白いものが見えた。

 目を向けると、木の幹の影から幼い少女が顔を出してこちらを見ていた。少女はまるでそれ自体が光を放っているように明るい白いドレスを着ていた。

 少女は恋火に笑いかけている。そして、手招きをした。

 この時の恋火の脳裏に余計な疑問は浮かばず、直感が少女についていくべきだと判断した。恋火が歩き出したことを見て取った少女は、楽しそうに微笑んで向こうへ姿を消した。

 あんな小さな少女なのに、視界が開け彼女の姿を確認するたびに、少女はずっと先へ進んでいた。その場所から、笑って恋火のほうを振り返る。

 やがて、恋火は当初の目的地に到着した。

 白い大樹。

 願いを叶える樹。

 白い樹の根元で、少女は笑みを浮かべて待っていた。

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