私の瞳に映るあなた

ソラノ ヒナ

第1話

 始まりは、化学室へ忘れ物を取りに行った時から。

 普段から私はどこか抜けてるけど、この時ばかりは自分のぼんやりとした性格を呪った。



 昼休み。誰もいないはずの化学室。

 それなのに扉を少し開けば、水音がした。

 この時、すぐに扉を閉めればよかったのに、私は音の正体を探ってしまった。


 カーテンは雑に閉めれ、少しだけ外の光を受け入れた薄暗い部屋の中に浮かび上がるシルエットは、ぴったりとくっつき過ぎて1人に見えた。

 でも、暗い影を落とすその顔の口元は、別の誰かが隠している。


 小宮こみや、くん?


 それが同じクラスの小宮くんだとすぐにわかった。

 だって彼は目立つから。

 いつも女の子と一緒だから。

 それも、いろんな女の子と。

 

 今、目の前で繰り広げられているのは、親密な男女がする行為。音を立てて、甘い蜜でも貪るように口付けをする女の子。時折漏れる、艶かしい声。

 それが私の耳にまとわりつく。


 唖然と立ちすくんでいた時間が、永遠のように思えた。

 その呪縛を解いたのは、小宮くん。

 彼の目がゆっくりと開いて、私を捉えた気がしたから。


 ごめんなさい!


 心の中で謝って、私は駆け出した。

 だって彼の目が、覗き見をしていた私を、愉快そうに笑った気がしたから。

 

 ***

 

 私はもう、忘れ物を諦めていた。だって、今は放課後。次に化学室で授業のあった誰かが先生に渡してるかもしれないし、捨てられているかもしれない。

 名前なんか書いていない、固形のジェルタイプのマーカー。書き心地がクレヨンみたいで、なんだか可愛くて使ってた。


 もうなくなりそうだったし、いいや。

 それにさっきの、思い出したくない。

 

 だから気晴らしも含めて、友達を誘って買い物に行こうと、立ち上がろうとした。

 でもその前に、後ろから声をかけられた。


前園まえぞのさん、話があるんだけど」


 小宮くんの声は、じんわりと身体に行き渡るような、不思議な声。心地よくて、でも、どきりとする。

 けれど、今日だけは関わりたくなかった。

 だって彼の声を届けるその口は、他の女の子を受け入れたものだから。


「聞こえてる?」

「……聞こえてる。もしかして、昼の事?」


 なかなか振り向かない私に痺れを切らしたのか、小宮くんが覗き込んでくる。

 彼は簡単に、人との距離を詰めてくる。それがすごく嬉しくて、すごく憎らしい。

 そんな小宮くんに、私は囁く。

 だってそれぐらいの声で届くほど、彼は私の近くにいる。


「そっ。昼の事」

「大丈夫。誰にも言わないから」

「別に言ってもいいけど」

「えっ?」

「それよりも、もっと大事な話なんだよね。ついて来てくれる?」


 目の前で微笑む小宮くんの薄茶色の瞳には、勘違いをしそうな間抜けな私が映っていたはず。

 それぐらい私は、手の届かない彼の全てに惹かれていた。



 連れてこられたのは、化学室。

 思わず小宮くんを見上げる。

 すると彼は、きょとんとした顔をした。


「何?」

「何で、ここに来たの?」

「前園さん、何か、勘違いしてない?」

「えっ」

「だって顔、少し赤い」


 くすりと笑う小宮くんの目が、どこか意地悪な色をしているのは気のせいじゃない。


「……あんなの見せられたら、誰だってこうなるよ」

「そっかな? 前園さんだけじゃない?」


 そう言いながら、小宮くんが扉を開ける。

 先程とは違う部屋の明るさに、昼の光景がかき消される。


「この中に、前園さんの欲しいものがあるよ」

「欲しいもの?」

「昼、お気に入りのマーカー取りに来たんじゃないの?」

「え……、知ってたの!?」


 何で小宮くんが私の忘れ物を知っていたのか、全く想像がつかない。彼とはそんなに話す事もないし。

 だから、大きな声を出してしまった。


「前園さんが座ってた席に置いてあったから、そうかなって思っただけ」

「それなら、持ってきてくれたらよかったのに」

「違ったらまずいでしょ」


 確かにそうだと軽く笑い、私は化学室に入る。


「あ、ここに置いておいたら誰かに持っていかれると思って、先生に渡しておいた。俺が心当たりある人に声かけるから、それまで預かってて下さいって伝えたら、準備室に置いとくから放課後、勝手に取りに来いってさ」


 続いて中に入る小宮くんが扉を閉めながら、そう教えてくれた。


「そこまでしてくれたんだ」

「あれを見せた罪滅ぼし、です」


 冗談っぽく笑う小宮くんの言葉に、私の心が冷える。


「別にいいよ。今の彼女なんでしょ?」


 もう痛みを感じないはずの心臓が、自分の言葉で苦しくなる。

 それぐらい、彼の隣にいる女の子が多すぎて、胸を痛めるのが途中から馬鹿らしくなっていたはずだったのに。

 だから私はそれを悟られないよう、化学準備室に続く扉だけを見つめ、歩く。


「彼女じゃないよ」


 小宮くんの言葉に、私の足が止まってしまう。


「聞こえてる?」

「聞こえてる」


 確認なんてしなくても、こんなに静かな場所で聞こえないはずがない。

 それなのに、そんな事を言う小宮くんにいらいらして、振り返る。

 すると、目に仄暗い何かを宿したように見える、無垢な笑顔を浮かべた奇妙な小宮くんが、私の瞳に映った。

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