インプレッション・オブ・ウォーター
蒼乃モネ
第1話 イン・ザ・シティ
―イン・ザ・シティ
蒼乃にとって、高いところに上る行為は、昔から好きなことだった。山頂へ向かうゴンドラや、雪の斜面を下に見るリフト、そして地球の丸みを眺めることのできる飛行機。
地下鉄からビルの地下街へと移動し、迷わず乗り込んだエレベーターでも一番奥のガラス窓の前に立った。
人々を乗せた箱は、途中の階をとばし、目指す16階へと直行した。
エレベーターの浮遊感は、まさに水の底から「浮上する」という感覚がしっくりくると感じる。
地下道にこもった埃っぽい空気から脱するために、蜘蛛の糸に吊られてぐんぐんと天へ向かう。窓から眺むる眼下のビル群は、足の踏み場もないほど盛んに生い茂り、太陽に向かって我先にと背を伸ばしていた。
ながらく足を運んでいない巨大なスパ施設も見ることができた。都会の水は、執拗にパック詰めされ、必要に応じて配分されている。
主水源は、隣の、そのまた隣の県の湖から流れ出づる長い長い川だ。川は、流れる土地によって幾度も名前を変え、そうして最後には湾へと注ぎ出る。
天から吊られていた無機質な箱は、あるところで浮上をやめた。チンと音が鳴り、扉が開くと、人々が一気に放たれた。
蒼乃は空気を求めて、建物内のテラスに出た。「空中庭園」と書かれたそのスペースには、日中のため点灯されていない電飾のツタが、大きな何かの骨組みに絡んでいた。
ずいぶん空虚なバビロンである。古代バビロニアの王ネブカドネザル2世は、母国を恋うる王妃に彼女のふるさとの緑を贈った。
ここの申し訳程度の観葉樹からは、我々の求めるこころの原風景までたどることは不可能であろう。
ふと喉の渇きを覚え、バックを探り、ペットボトルの水を飲んだ。
およそ人間が自分の力ではたどり着けないほどの高みにて、ボトリングされた川、ここからでもまだ見えないらしい湖から運ばれた水を飲む空想に浸る。(ボトルには、しっかりと富士の水と表記してあったのだが)
高いビルのその階は、まるまる美術館として利用されている。
蒼乃は、美術展目当てでここまで足を運んできたのだ。こたびの出品作は、遠くアラビアに位置する世界最古の都市のひとつからはるばる運ばれてきたものたちである。
印象派は、光を描く。蒼乃モネ―というのは、この人物が創作時に用いるペンネームだが、彼女は印象派画家を取り巻く世界に、ただならぬ憧憬の念を抱く。いつ何時も、外へ、外へ、自然のなかへと繰り出したいと願っている。
幼き頃のクロード・モネは、「空の王者」の名を冠するウジェーヌ・ブーダンに自然のなかで絵を描くことの重要性を学び、外光あふれる屋外へと繰り出した。
外での絵画の制作を可能にしたのは、チューブ入りの絵の具であり、それは産業革命の恩恵であるため、必ずしも自然への絶対的回帰とは言い難いのだが。
王立アカデミーによるサロンでの評価が絶対視されていたころ、光の変化にこだわって相次ぐ世間の非難のなか、仲間と描き続けた印象派画家たち。
そういえば、印象派の主水源ともいえる、バルビゾン派についても触れておこうと思う。
フランスのバルビゾン村に画家たちが居住し、近接するフォンテーヌブローの森などで制作に励んだ。銀灰色の色調で風景画を描いたコローや、『落穂拾い』などの農民を好んで描いたミレーが、その中心人物としてよく取り上げられる。
そして、ドービニー。モネの画風に影響を与えたひとりである、彼はアトリエ船「ボタン号」を自作し、船上で絵画の制作をした。彼は「水の画家」と呼ばれた。
自然への郷愁は、都市的なものへの嫌悪、あるいは退屈であろうか。このころの時代は、著しく近代化が進み、大衆文化が花ひらいていた。あらゆるものが、腐敗寸前まで爛熟した、まさに黄金の時代だった。
蒼乃はいつからか、どうしてか、このような19世紀後半から20世紀にかけての「ベル・エポック」の時代を好んだのだった。そうして心のなかで、その時代の人々の郷愁の念に同調した。
ゆっくりと歩いていると、ゴーギャンの鮮烈な絵が目に飛び込んできた。『ウパ ウパ(炎の踊り)』という作品だと知る。赤々と燃えさかる炎を囲み、野性的な踊りに明け暮れるタヒチの原住民たち。
キャプションによると、その踊りは官能的だからという理由で、フランス当局から禁じられていたのだが、ゴーギャンはその植民地的思想が気に食わぬということで絵にしてしまったのだという。
蒼乃のなかで、ゴーギャンは印象派の血気盛んなヤンキーだった。笑ってしまうほどのほとばしるような反骨精神が好ましい。
ゴーギャンは、近代化の波の及ばない野生の世界をもとめて、タヒチを目指したのだ。
原風景というものは、まさしくイデアであろう。アルカディアであり、シャングリラであり、桃源郷であり、パラディーソである。心象風景である。どこか遠くに置き忘れてきた、印象である。
蒼乃はそれを探し出し、拾い集めるために、今まさに都会の高層ビルの、高い高いところまで足を運んでいるのだ。
彼女は、自分の前世はヨーロッパの人間であったという幻想を、大人になってもなお持ち続けている。けして白人コンプレックスというわけではなく、世界主義的思想に傾倒しているわけでもない。
しかし、この熱を帯びた少女の妄想のような願望は、きっといつまでたっても消えることはない。
いつか、ああここであったと、心からしっくりくる場所にたどり着き、その場所におさまることができるのだろうかと彼女は思う。
それとも、やはり生まれ育ってきた場所にて人生は帰結するのだろうか。しかし、その気付きのためにもまだまだ多くのものを見なければならないと、そんな気がしていた。
彼女は、大きな湖のそばで育った。数々の旅の果てに、いつかまたその源流にたどりつくことがあれば。
そのときはじめて、夢見続ける睡蓮の幻想は、水底から浮上し、蓮のごとくポンと音を弾けさせるのではなかろうか。
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