殺人鬼は南の方へ向かう
与野半
本編
深夜の東名高速、その下り車線を古ぼけたセダンで駆け抜ける。
ヘッドライトが闇を切り裂いて前方を照らすが激しい雨が車体に打ちかけて、いくらワイパーが雨水を掃き捨ててもフロントガラスは雨粒が弾けた
「……はぁ」
ため息が出てしまった。
急いでいるというのにこの有様ではろくにスピードが出せない。せっかく交通量の少ない時間帯だと言うのにそのメリットを活かせないでいる。
『——関東地方から東海地ほうへかけて雨雲が急速に発達し記録的な大雨となっています。視界が悪く追突事故やスリップによる単独事故も発生していますので、ドライバーの皆さんは安全な場所に停車するなど無理な運転は避けましょう』
ラジオから流れるニュースはもっぱらこの突然の嵐についてばかりだ。
実際に車を走らせている身からすればそんなわかりきっていることw何度も聞かされてかえって気が滅入ってくる。
規則正しく行ったり来たりするワイパー、大きな雨粒は間断なくルーフを叩いて車内に響く。
急いでいるというのに調子が狂う。
『昨日の夕方、女性の遺体が発見されました。警察の発表では、女性は鋭利な刃物で喉を切り裂かれており出血多量によるショック死で、類似する犯行の手口から連続殺人の可能性が高いと——』
ラジオを止めた。
数年前から発生している殺人事件の犯人がまたひとを殺したのだと続けるに決まっている。
どうせまたろくに証拠は見つかっておらずその上目撃者もない、犯人の目星すらついていないはずだ。
被害者は女性ばかりで、凶器は必ず鋭いナイフ。争った様子がなく顔見知りの犯行かと考えられていたが、被害者に共通点はなく一切の目的も不明。
発行の手口から『現代の切り裂きジャック』などとネット上で持て囃され、メディアもこぞって不安を煽っている。
下らない、と思う。なにも知りはしないくせに。
ワイドショーでは的はずれな人物像を描いて視聴率が稼げればいいのだろう。
「…………」
ラジオの音が消えて、車の走る音と車体に打ち付ける水音だけが聞こえてくる。
視界も効かず、まるで深海を進む潜水艦だ。
と、左前方から後方へ向かって緑色の標識が通り過ぎていった。
「パーキングエリアか……」
標識にはPの文字が書いてあったように見えた。
目的地に早く着きたいのはやまやまだが、この嵐の中で焦って事故でも起こした日には目も当てられない。
すでに二時間ほど運転しているということもあり、パーキングエリアを意識し始めるとドッと疲労感が襲ってきた。
ウインドウには雨水の作った筋が何本も後方に向かって伸びている。
「ふぅ、すこし休憩するか」
少しするとパーキングエリアの入り口が見えてきた。
私は左のウインカーを出して減速しながらパーキングエリアへ入っていった。
パーキングエリア内は広い駐車場に対して車はまばらだ。建物と近いところから海外メーカーのシルバーのセダンと国産のクリーム色したコンパクトカー、そして黒塗りのバンの三台が並んでいる。さらに離れたところには一台のSUVが停まっている。
どうやら私と同じような境遇の人間が四組、このパーキングエリアですでに休んでいるようだ。
私も先客にならって建物の近くへ車を停める。キュッとタイヤがアスファルトを噛む音が鳴った。
——ドドドドドドドドド……
エンジンを停めるとエンジンの振動音は消えて、ボンネットやルーフを叩く雨粒の音が改めて嵐の強さを物語っている。
あいにくと傘は持ち合わせていないので、建物まで走って極力濡れないようにするしかない。窓から外の様子を念の為確認するが、雨が弱まる素振りは欠片もない。
「よし、いくか……」
覚悟を決めた。
運転席のドアを開けて素早く外へ出てドアを勢いよく閉める。一瞬の出来事だったはずだが、シートの半分ほどが雨で濡れてしまった。
急いで施錠して建物に向かって走り出す。排水口が詰まっているのかそれとも単純に雨の降る勢いが強すぎるのかアスファルトには水が溜まっていて、足を下ろす度に水が跳ねてズボンの裾を濡らした。靴の中まで水が染みてきて気持ち悪い。
十メートルほどの短い距離だった。時間にすればせいぜい五秒だったが、雨で濡れそぼちた髪の毛からポツポツと水滴が垂れて地面へ落ちた。
このパーキングエリアには公衆トイレとちょっとした休憩スペースがあるだけでレストランのような食事を提供してくれる施設があるわけではないらしい。ただし、飲み物の自動販売機に並んで食品の自動販売機も設置されているのでいざとなったら簡単な食事はできそうだ。
私はひとまず一息入れようと缶コーヒーを自動販売機でひとつ買うことにした。自動販売機たちは公衆トイレと休憩スペースをつなぐ通路に設置されていてひとり先客がいた。上下揃いのスウェット姿でやんちゃそうな若い男だ。
スウェットの男は缶コーヒーを二つ買って休憩スペースへ戻っていく。
こういった場所にはその場でコーヒーをドリップしてくれる
ガシャンと音を立てて落ちてきた缶コーヒーを拾うと長テーブルと椅子が何組か設置されている休憩スペースへ改めて足を運んだ。先客は二組。
「アニキ」
さきほどのスウェット男が強面の男に缶コーヒーを手渡している。
「おう、わるいな」
強面の男はそれを受け取ってスウェット男に礼を言う。
「オヤジが危篤だっていうのにたまらないぜ、まったく」
ふたりの見た目を比べると年齢は離れていて、顔も似ておらず血縁者には見えない。風貌と発言から察するに
男たちは自動販売機から近い島の一番奥の席に向かい合って座っている。
もう一組は男たちとは反対の島の真ん中あたりに横並びで座っている中年の男女だ。親密さを感じさせるが、必要以上にベタベタしない熟年の夫婦といった雰囲気を感じさせる。
私は自動販売機から一番近い席に座ることにした。ここからであれば、二組の人間の様子も見られるし入り口も視界に入る。公衆トイレ側の入り口は生憎と背後のため見ることはできないが、誰かが入ってくれば気配でわかるはずだ。
休憩室の奥、どの席からも見える位置にディスプレイが設置されている。ディスプレイには延々とニュースが流れていて、手持ち無沙汰な人間が見るともなく見ている。
『関東地方から東海地方にかけて発生している記録的な大雨は各地で土砂崩れや川の氾濫などの被害をもたらしています。危険ですので決して近寄らないよう——』
どうやらけが人も出ていて、私が考えていたよりもこの嵐はひどいものらしい。焦らずに休憩して正解だったかも知れない。
『——昨日発見された女性の遺体は検死の結果、前日のお昼頃に刺殺されたことが判明しました。女性の死因は頸動脈を切断されたことによる出血性ショックで、鋭利な刃物が凶器と見られています。死亡推定時刻と同じ時間帯には女性の住むマンションから不審な人物が出てきたところを目撃されており、事件との関わりがあるとみて警察が身元の確認を進めています。心当たりのある方は警察の情報提供窓口までご連絡ください』
新しい情報が警察からマスコミへ共有されたらしい。どうやらマンションから出る姿を見られたようだ。
「やだぁ、こわいわねぇ」
中年の女は隣の男へ話しかけるわけでもなく顔はモニターへ向けたまま言葉を発した。
「いい加減捕まらないもんかね」
隣の男もまるで独り言を言うように不機嫌そうな表情を浮かべてしゃべる。
「女性ばっかり被害にあって、どうせ変にこじらせた男が犯人なのよ。弱い相手にしか強く出れない情けない奴が犯人に決まってるわ」
「それなら子供だって狙うんじゃないか?」
「子供なんていまどき周りの大人がずっと監視してるんだから手が出せないに決まってるじゃない! だから普段ひましてる主婦とか狙うのよ!」
「……そんなもんかねぇ」
「そうに決まってるわ! まったく、警察はなにやってるのかしら! 不安で食事も喉を通らないっていうのに」
丸々とした体を揺らしながら持論を展開している女性をそしらぬ顔で眺めながら、私は買ったばかりの缶コーヒーのプルタブに指をかけて力を込める。カシュッと缶特有の音が鳴って飲み口が開いた。
口を付けるてコーヒーを飲み込むと少し水ぽい苦味のある液体が喉を潤す。喫茶店で出るような丁寧にドリップしたコーヒーなら鼻に抜けるような芳醇な香りを楽しめたかもしれないが缶コーヒーにそんなものを期待するほうが間違っている。
思わぬ嵐に足止めを食らってしまって予定が大いに狂ってしまった。目的地へ着いたら場合によっては忙しくなるはず、この足止めは忙しくなる前の最後の小休止と考えればちょうどよいタイミングだったのかもしれない。
私はちびちびと缶コーヒーに口をつけながらこれからの予定に考えを巡らせていた。
ザーッと音を立てて降る雨は一向に弱くならず止む気配はない。
再び車に乗って先へ急ぐことは可能だが、一度休んでしまうとその気力はどこかへ行ってしまった。
外には四台の車が停まっていた。そして休憩スペースには私以外に二組、ということは残りの二組は車の中にとどまっているということになる。
見知らぬ他人と空間を共有することはときにトラブルやストレスをもたらすこともある。それなら多少不自由はあっても車内でおとなしく嵐が去るのを待ちたくなる気持ちもわかる。
車は遮音性にも優れ、リクライニングを倒せば横になることだって可能だ。いまの気温であればエアコンを入れなくても問題なく朝まで過ごせるだろう。車とはある意味、移動可能な個室とも言えるのかもしれない。
「わーすごい雨!」
休憩スペースのドアが慌ただしく開けられて、ひとりの女性が入ってきた。
年の頃は二十代前半といったところか。裾の長いウインドブレーカーのような上着を着ていて、撥水性に優れているのか上半身は濡れずに済んでいるが足元はスニーカーとジーンズの色が濃くなっていてぐっしょりと濡れてしまっているのがここからでもわかる。長めの髪は頭の少し高いところでひとつにまとめられてポニーテールというのだろうか、その先端からポツポツとしずくが垂れている。
「はぁ、ずぶ濡れ……」
上着に着いた水滴を手で払ってポケットからタオル取り出すと慣れた手付きで手早く髪の毛が含んだ水分を取り除いていく。
新しい車が入ってきたのであればヘッドライトの明かりで気づいたはずだがその様子はなかった。ということはすでに駐車場に停まっていた車の所有者ということになる。
喉でも渇いてやってきたのだろうか。
若い女性は自動販売機で飲み物を買うとどういうわけか私の向かいの席に腰掛けた。
この女性と私は面識がなく、休憩スペースにはいくつもの空席があるにもかかわらず、だ。
「……他にも空いてますよ」
私は訝しげに女性へそう声をかけた。
「いいじゃないですか、旅は道連れってやつですよ」
そう言って対面へ座った女性は自動販売機で買ったカフェオレの蓋を開けて口をつけた。
「ふぅ、あったかい」
どうやらホットカフェオレを買ったらしい。気温は寒さを感じるほどではないが雨に打たれた状態では暖を取りたくなっても仕方がない。
「私」
と女性はボトル型の缶を煽ってカフェオレの二口目を楽しみつつ私の目を見ながら話し始めた。
「車の中で寝てたんですけど雨音で目が覚めちゃったんですよ。それで話し相手いないかなぁと思って」
聞いてもいないのに休憩スペースへやってきた理由をわざわざ話してくれた。
「それならほかにも話し相手いますよ」
私は視線で休憩スペース内をぐるっと指し示して、中年の男女と強面の男たちがいることを教えてやる。
「いや、そうなんですけどね」
女性はかがむように顔を寄せて他のものたちに聞こえない程度の声。
「ほら、他のひとたちはなんだか話しかけづらいじゃないですか。ご夫婦の間に入るのもなんですし、あちらの方々はなんだか怖そうで……」
「まぁ確かに……」
言わんとすることはわかる。
「お互い独り身同士、仲良くしましょうよ」
あざといというのだろうかウインクをして見せる笑顔に世の男性は鼓動が高鳴るだろう。かく言う私もそのひとりだ。
「……」
黙ったままでいる私を見てそれを了承の合図と受け取ったのか、この若い女性は満足そうに居ずまいを正して再びカフェオレに口をつけた。
「君は、若く見えるがひとりなのか?」
「そうですよ、なにか変ですか?」
変というほどではないがこんな夜更けにひとりで高速道路を利用している歳若い女性は珍しい。
けれど飾り気のないその服装はキャンプかなにかのアウトドアへ出かけるような格好だ。ひとりでそういったところへ赴く趣味があることは知っている。彼女もそういった類の人間なのだろうか。
「いや、珍しいと思っただけだ。あまりこういうところで女性ひとりを見かけることはないからな」
缶に口をつけるが中身はすでに空だった。
「一人旅ってやつですよ。会いたいひとがいてひとり寂しく高速を飛ばしてたんですけど、この雨で足止め食らっちゃって」
「ひとに会いに行くのか? キャンプにでも行くのかと思ったが」
「あ、この格好ですか?」
両手を開いて服装がよく見えるように少し引いてみせる。どこか得意げな表情を浮かべている。
「本当はそのひとに会う前にちょっと登山でもするつもりだったんですけどこの雨のせいで予定が狂っちゃいました」
あはは、と笑う姿はあまり落ち込んでいるようには見えない。
「……登山中に振り出さなくて逆に良かったかもしれないな」
「そうですね! 後から雨が降ってたらどうなっていたかわからないですし、それに」
女性は私のことをジッと見つめてくる。
「こうしておじさんとも出会えましたしね!」
「……」
どういうつもりの発言なのか意図がつかみきれない。
単にひととの出会いを大切にするタイプというだけなのだろうが、ひとによっては
彼女は変わらずニコニコとカフェオレをちびちびと飲んでいる。
私は彼女の言葉にろくに返事もせず中身が空になった空き缶を捨てようと席を立った。
「あ、ちょっとなにか言ってくださいよぉ〜!」
彼女の言葉を背中に受けながら私は別のことを考えていた。
例の連続殺人事件、
犯人らしき人物の目撃情報もあった。日本の警察は優秀だ、身元が判明するのも時間の問題かもしれない。あまり長時間ここに留まっている余裕はないかもしれない。
ガコンと音を立てて缶コーヒーが落ちてきた。手持ち無沙汰を紛らわせるために再び購入したものだ。
席へ戻ると彼女は机に突っ伏すようにモニターを眺めていた。
特にそれを咎めるわけでもなく私は椅子へ座る。
「あー、タバコ吸いたいが外がこれじゃあなぁ」
強面の男が席を立ってガラス越しに外の様子を眺めている。一向に雨のおさまる様子はなく、喫煙所は外の、しかも屋根のない屋外にあるためこの状況ではろくに紫煙を楽しむことはできないだろう。相方のジャージ姿の男は椅子に座ったまま船を漕いでいる。
中年の女はあれやこれやとりとめのないことを言い男がそれに相槌を打つことを繰り返している。
「おじさんはこんな時間にどこへ行くんですかー?」
私が椅子へ腰掛けると彼女は突っ伏したままこちらを見上げてそんなことを聞いてきた。
「そんなこと聞いてどうするんだ?」
「んー、どうってわけじゃないですけど……ただの世間話ですよ。こんなところで偶然出会ったんだからそれぐらい聞いてもいいじゃないですかぁ」
「……知り合いから連絡があって会いに行くんだ」
「へー! それじゃあ私と同じ!」
なにがそんなに嬉しいのかつまらなそうな表情から一転して輝くような笑顔を浮かべた。
「袖振り合うも多生の縁って言いますし奇遇ですねー!」
わざわざこんな時間に高速を使って移動しようとする理由なんて仕事の都合か身内の不幸、もしくはのっぴきならない事態に陥ったくらいのものだろう。だいたいどれもひとに会わないといけないものばかりだ。
実際に強面の男たち二人組も『オヤジ』が危篤で急いでいるようなことを言っていた。
「こんな時間に会いに行くなんてよっぽど急ぎの用事なんですね、どういった方に会いに行くんですか?」
「……」
私の事情は見ず知らずの人間に話すようなことではないし、を話しても面倒なことになるだけだ。
「えー? 教えて下さいよー」
黙ったままでいる私の様子が不服だったらしい。
「……袖振り合う、と言っても他人の事情にあまり首を突っ込むものじゃあない。そういう君だってこんな時間にひとに会いに行くんだ、よっぽどのことなんだろう?」
「まぁ、そうですけど……私は憧れのひとに会いに行くんですよ」
「憧れのひと?」
「はい!」
彼女は瞳を輝かせて嬉しそうに語る。
「もう何年も前に会ったきりでずっとずっと会いたいと思ってたのに会えなくて。いろいろ頑張ってたんですけど、やっと会えそうで居ても立ってもいられなくて出てきちゃったんです」
潤んだ瞳に頬は上気したようにうっすらと赤く染まって、私にはその表情が恋する乙女のものに見えた。
彼女の容姿は控えめにいっても美人だ。まるで着飾っていないアウトドア向けの格好でもその美貌は一切損なわれていない。
そんな彼女にここまで慕われるひとはさぞかし幸福だろう。
「何年もと言ったが君はまだ若いんじゃないか?」
けれど私は彼女の発言のささいなところが気になってしまう。
「二十一なんで若いってほどでもないですよー」
「私からすれば十分若いが、その歳で何年も前とだったらまだほんの子供だったんじゃないか?」
自身ではあまり踏み込むななどと言いながら自分では相手の事情を掘り下げる。職業病というか私の悪い癖だと思うのだが少しも治る気配はない。
「そうですよ。そのひとと初めて会ったのは十六歳の頃、私がまだ高校生だった頃です。だから足掛け五年」
十代後半の五年というのは
「早く、会えるといいな」
「はい!」
二本目の缶コーヒーを飲み終えた頃、モニターでは再び連続殺人事件のニュースが流れている。
『昨日発生した殺人事件は過去の連続殺人事件と類似した点があり、警察は一連の犯行と関係があるのか調査中です。また、犯行時刻には現場付近で不審な人物が目撃されており事件とのなにかしらの関係があるとみて行方を捜査中です。警察では連続殺人事件の専用窓口を用意しています。目撃情報や関連情報、どんな些細なことでもかまいません。情報の提供をお待ちしております』
「怖いですね、殺人事件」
「……目撃証言は初めてだな」
「え?」
「言ってただろ、犯行時刻に現場付近に不審な人物って。例の連続殺人事件でいままで目撃者はいなかった」
「そうなんですか? それにニュースだと連続殺人事件と関係あるのかまだ捜査中って」
「……わざわざ言及するってことは九分九厘確定ってことなんだろ」
嵐のせいで足止めされこの休憩スペースに緩く閉じ込められているこの特殊な環境に少し
『警察の発表によりますと目撃されたのは二十代後半から四十代の男性で中肉中背、黒いマスクとベージュ色の上着を身に着けており目深にフードを被っていたようです』
いかにも通報してくれと言わんばかりの怪しい格好だ。殺人事件が起これば十人に十人がこの男を犯人だと思うだろう。
バンッと大きな音を立てて休憩スペースのガラス戸が押し開かれる。寝ていたものすら目が覚める大きな音、その音に休憩スペースにいた人間たちが一斉に入り口のほうへ視線を向けた。
ガラス戸は開いたままで激しい雨が休憩スペースの床を濡らしていく。一歩踏み出した足がベシャリと濡れた床を踏む。
雨に濡れた男が休憩スペースへ入ってきた。濡れそぼちた上着は茶色に染まってポタポタと水滴が垂れて重そうに揺れている。目深に被ったフードは雨を避けるためだろうが、そのお陰でこちらからはその表情はうかがいしれない。
後ろ手で乱暴にガラス戸を閉めると男は休憩スペース内へ入ってきた。
明るい照明に照らされて距離が近くなると黒いマスクをしていることがわかる。右手は上着のポケットに入れたままだ。
「え、あの格好って」
私の向かいに座る彼女が思わず声に出した。
そう、ニュースを観ていたものはすでに気づいている。
男の姿は犯行現場で目撃された
男が歩く度に靴からは溜まった水が溢れ、上着の裾から水滴がしたたって点々と痕跡を残す。
男は入り口から一番近かった中年夫婦の近くまで歩み寄った。
「金、持ってる……?」
しゃがれた小さな声。あまりひとと話し慣れていないようなたどたどしさを感じる。
「え?」
中年の女が聞き返す。
「金持ってるかって聞いてるんだよぉ!」
男は突然激昂し、ポケットに突っ込んだままだった右手を取り出すとその手にはナイフが握られている。
幅の広い大振りなナイフ、左手でケースを掴んで抜き去ると真っ黒な刀身が現れた。アウトドアで使うようなサバイバルナイフだ。
フードの男はケースを投げ捨てる。
「聞こえてんのか? なぁ、おい!」
座って驚いたまま動けずにいる中年夫婦へナイフを向けて、切っ先はふたりの間を行き来するように揺れている。
上ずった声の語尾は震えていて、凶器を持った男のほうがむしろ怯えているようにすら見える。
「……まぁまぁ少し落ち着きなさい」
中年の男がゆっくりと、フードの男を刺激しないよう立ち上がる。
両手のひらを男に見せて抵抗の意志がないことを示す。
「お金がほしいのか? なにに使うんだ?」
「う、うるせぇ! 金つったら金だよ! 有り金全部寄越せ!」
ナイフの切っ先は中年の男に向かっている。
「ちょっと! 金金って、なんだと思ってるのよ! お金が欲しかったら自分で働きなさいよ!」
男の言動が気に食わなかったのか今度は中年の女も立ち上がって男を非難するように金切り声を上げる。
「お、おい……!」
男を刺激したくない中年の男は女をなだめ落ち着かせようとするがすでに遅かった。
「んだこのババァ!」
フードの男は右手で持っていたナイフを中年の女に向けて振るう。
「ひっ」
息を呑む音。
私の位置からでは距離があって間に割って入ることは間に合わない。
「っ!」
中年の男は凶刃から中年の女を守るため後ろへ突き飛ばし距離を作り女は辛うじてナイフを
「ぐぅ」
遅れて痛みを感じたのか中年の男がうめき声を上げる。幸い傷は深くないのか薄っすらと血がにじむ程度で大事には至っていないようだ。
「お前が、悪いんだぞ!」
フードの男は再びナイフの切っ先を中年の男へ向ける。
「ひとまずそれをしまいなさい……!」
なおも懸命にフードの男に話しかける。
「ちょ、ちょっと!」
「いいから!」
女がこれ以上事態をややこしくしないよう声で制す。
「お前、俺のこと見下してるんだろ……?」
「いや、そんなことはない。ただ話がしたいだけだ」
「騙されるわけないだろ、そのババアだって俺のこと見下してた! お前のツレだろ? なら、お前だって同じだろうが!」
フードの男が言っていることはめちゃくちゃだ。
恐らく男を傷つけてしまったことであとに引けなくなってひどく興奮しているに違いない。
周りのことが見えておらず、自分がどうしたいのかもわからなくなっている。
「あんた引きこもりってやつでしょ! ひととろくに話もしないで引きこもってるからそんな風に被害妄想ばっかり!」
「ちょっと、黙ってろ!」
フードの男はうつむいて動かない。
いや、よく観察すればわかる。肩がブルブルと小刻みに震えている。
「この、クソが……。もう知らねぇよ、ぶっ殺してやる……」
ぶつぶつと呟くように溢れる言葉は最早正気を失っている。
「お、おい、ちょっと待て!」
「うるせぇよ……、思い知らせてやる」
どうすべきか逡巡、向かいに座る彼女は心配そうに私の顔を見つめている。
フードの男が一歩を踏み出した瞬間、バァンッと大きな音がした。それは強くテーブルを叩いた音。
思いがけない大きな音にフードの男はビクリと体を震わせ、機先を制されたのかその足は止まって音のしたほうへ顔を向ける。
「あんちゃん、金が欲しいんか」
強面の男だ。
どうやら先程の音もこの男が鳴らしたものらしい。テーブルを手のひらで強く叩いたのだ。
「……」
フードの男はその強面に臆したのか視線を向けたまま黙っている。
強面の男は立ち上がってフードの男のほうへ歩み寄る。
「こんなやり方しても大した金は手に入らんだろ。そんなことは自分でもわかってるんじゃないか?」
ニヤリと笑ってみせる。
「ウチで働かないか? 十分稼がせてやる」
「は……?」
フードの男はあっけに取られて歩みが止まった。
「どうだ? 悪い話じゃないだろ?」
「ちょ、ちょっと! うちのに怪我させてそいつは警察へ連絡するに決まってるでしょ!」
黙っていられないのは中年の女だ。金銭を要求された上に夫を傷つけられて、そんな事実を無視するような言葉を許容できるはずがない。
「怪我ってちょっとかすっただけだろ、怪我のうちにも入らねぇよ。俺が若い頃にゃ仕事中に切り傷なんて日常茶飯事だったぜ」
「あんたみたいに見るからに怪しい輩の仕事と一緒にしないでよ!」
「あぁ? ウチはヤマブチコウギョウっていうれっきとした会社でだな」
「それにそいつの格好、ニュースで言ってた連続殺人——」
「うるせえ!」
言い合いを続けるふたりに割って入ったのはフードの男だ。
「お前らは黙って座ってろ! おっさん、お前もだよ!」
「いや、しかしだな……」
「アニキ」
強面の男はなおも食い下がろうとするが、弟分も引くように声をかけてようやく椅子に座った。
「はあ、わかったよ」
強面の男が再び椅子に座って大人しくなったところで、フードの男は改めて休憩スペース内をぐるっと見回した。
切りつけられた腕を押さえる中年の男とそれを心配そうに見つめる中年の女。強面の男は大人しく座ったままフードの男の様子を見つめていて、ジャージ姿は事態に興味なさそうにぼうっとしている。
フードの男が私たちのほうへ顔を向けると視線があった。目深に被ったフードとマスクで表情ははっきりとはわからないが年の頃は存外、若そうだ。
私の向かいに座る彼女はフードの男と目があわないように顔を少しうつむかせて視線を下げていたが、ひとの少ないこの空間ではそれはあまり意味をなさない。
「おい」
こちらへ向かってフードの男が声を投げかける。ビクリと震えた肩が視界の隅に入った。
「おい、そこの女」
明らかに彼女に向かって話しかけているフードの男。
「な、なんですか……?」
「こっち来い。お前は俺と一緒に来てもらう」
ナイフの切っ先を揺らしてフードの男は近くへ来るようにジェスチャーする。
「え」
向かいの席に座る彼女は驚愕の表情を見せる。
「いいから来い!」
大きな声が休憩スペースに反響する。
他のものたちも成り行きを黙って見守っているようだ。
「こいつらじゃ話にならないからな。お前には俺とドライブしてもらう」
ナイフの切っ先で中年の夫婦と強面の男たちを指し示し、最後にはナイフを彼女のほうへ向ける。
「……」
突然の事態に、男の言葉に従うべきか判断がつかなかったのか彼女は私のほうを見て助けを求めてくる。
いま我々は丸腰だ。下手に抵抗すれば男の持つナイフで怪我では済まない反撃を受けるかもしれない。他のものたちと一斉に飛びかかれば取り押さえることも可能だが、怪我人の出る可能性は否定できないしなによりうまく連携が取れなければ場が混乱して、余計な被害を生むことになる。
ここはひとまず大人しく言うことを聞いて、隙を見計らって反撃に出るしかない。
男に気取られないよう私は小さく頷く。
「——」
逡巡、彼女は私の意図を察したのか大人しく立ち上がって男のもとへ歩き出す。大した距離ではない、数歩も歩けばすぐにたどり着く距離。
——さて、どうしたものか
せっかくこうして出会った彼女をみすみすあんな男にくれてやるというのは忍びない。
「逃げなさい! そいつ連続殺人犯よ! 殺される!」
手の届く距離まで近づいて、中年の女が声を張り上げた。危険を伝え、逃げるよう促す。
「はぁ? なにを言って——」
フードの男が中年の女に気を取られそちらへ顔を向けた一瞬、彼女は踵を返し逃げようとしたが男はそれを見逃さなかった。
ふたりの距離はすでに触れられるほどに近く、フードの男が素早く伸ばした左手が彼女の右腕を捕まえる。
「逃げるな!」
「はな、して……!」
右腕を握る力が強いのか彼女は苦痛に歪ませながら逃げようとするもフードの男はそれを許さない。
「痛い目……見ないと、わからないかぁ?!」
男がナイフを振り上げる。
「——!」
助けを求める彼女と目があった。
「……刑事さん」
小さく消え入りそうな声。不安げな眼差し。これ以上様子見というわけにはいかない。
立ち上がるのと同時に私はフードの男へ向かって走り出す。勢いで座っていた椅子は後方へ倒れる。
大した距離ではない。一息で距離を詰める。
フードの男は右手で順手に持ったナイフを振りかぶり、左手で彼女の腕を捕まえている。逃れようとする彼女に引かれて自然と左半身になった男。
「へぁ?」
開いた身体に右足で踏み込んで振り上げた男の右手首を左手で掴んで外側へ捻る。
本来腕が曲がるはずのない方向へ力を加えられ激痛が走り、ナイフを手放してしまう。床に落ちたそれを私は左足で蹴り飛ばすと、床を滑るように遠くへ転がった。
「ぐあっ」
男が痛みのうめき声を上げ、ようやく状況を認識したのか左手を離して今度は私のほうへ伸ばしてくるが、私は男の右手首を持ったまま体の位置を入れ替えて背後に回ってそのまま右手首を捻り上げる。
「あいでででで……!」
男の足を勢いよく払えば、男はバランスを崩して私がかけた体重を支えられるわけもなく床に倒れ組み伏せられる。
「なっ、おい! 離せ! 話せよ!」
こうなってしまっては余程の体重差か技術の差がなければ覆すことは難しい。
上着を着た状態ではわからなかったがこうして密着しているとフードの男は痩せこけていて格闘技どころか運動の経験もあまりなさそうな肉付きだ。
じたばたと男はなおも抵抗しているが体重をかけて決して逃しはしない。
「ちょっと、あなた」
中年の女が様子を見に近寄って来た。
「なにか縛れるものを探してください。紐状の長さのあるものがいい」
「え、あ、はぁ」
フードの男の身柄を拘束するものが欲しくそう指示をするが、中年の女は状況がよく飲み込めておらず立ちすくんだままだ。
「おい、車にロープあったろ。あれ持ってこい」
強面の男がジャージ姿のへ指示を出すとジャージ姿の男はすぐに外へ飛び出していった。
「あんた素人の動きじゃないな、なにか格闘技でもやってたのかい?」
フードの男の丁度目の前で蹲踞のような姿勢で様子を覗き込む強面の男。フードの男はようやく己の状況を理解したのか抵抗はやめて大人しくなった。
とはいえ、油断して力を緩めることはしない。
「アニキ、これ」
ずぶ濡れになったジャージ姿の男の手には荷造りで使うロープが握られている。
「おう」
男たちと協力してフードの男の両手を後ろ手に縛り近くのテーブルに固定すれば、これで自由に動くことはできない。
ひとまずは一安心といったところか。
「あ、あの……」
床にフードの男を押さえつけていたせいでついた汚れを払って立ち上がると彼女は申し訳無さそうに立っている。
「怪我はないか?」
「あ、はい……。ありがとうございました」
深々と頭を下げる。
「それはそうと、君。どこかで会ったことことがあるのか?」
彼女は私に向かって『刑事さん』と言っていた。それはまさしく私の職業で間違いない。
「私が高校生の頃に、変質者に襲われそうになっているところを助けてもらったんです。五年も前だから覚えてないとは思いますけど」
——五年前
記憶がハッと蘇る。
確かに私は数年前に制服姿の女子高生が男に連れ去られようとしている現場にたまたま出くわしてその女子高生を助けたことがあった。
被害者の女子高生とその両親にはひどく感謝されたことを覚えている。
あのときの女子高生がどんな風貌の少女だったかはいまいち思い出せないが、目の前にいる彼女がそうなのだとしたら確かに面影を感じるというか見覚えがあるというか断言はできないが言われてみればあのときの少女の成長した姿に見えてくる。
「君があのときの。すっかり見違えて気が付かなかった」
「いえ、五年も経てば仕方がないです」
と彼女はいたずらっぽく笑ってみせた。
「——私はすぐにわかりましたけどね!」
「大手柄じゃない! 連続殺人犯を捕まえるなんて!」
「表彰モンだな、これは」
中年の女と強面の男が身動き取れないフードの男を見下ろしながら話している。
「あんたみたいなヤクザもんが表彰なんてされるわけないわよ」
「だぁれがヤクザもんだ! さっきも言ったが俺はヤマブチ工業っていうれっきとした会社の経営者だ!」
女の言葉に反論する強面の男。その顔は真っ赤に上記してさながら赤鬼といったところか。
「それって有名な暴力団でしょ?」
「うちはただの金属加工工場だ!」
「その顔で?」
「普通の顔だろうが!」
ジャージ姿の男が強面の男をまぁまぁとなだめて落ち着かせようとする。
「アニキは少し自覚を持ったほうがいいよ」
「ほら! 『アニキ』ってやっぱりそっとの筋なんでしょ!」
したり顔でふたりの男を指差す女。
「……顔は似てないし歳は離れてるけどホントに血の繋がった兄弟ス、俺たち」
「ええ? 本当に?」
「そうだよ! オヤジが危篤だから見舞いに急いでたのにこの顛末だ!」
「その『オヤジ』っていうのは……」
「実の親に決まってるだろ!」
どうやらあらぬ誤解は解けたようだ。
「——はぁ、まぁいい。おたくの旦那さんの傷は具合どうだ? まだ痛むのか?」
強面の男の言葉に中年の女は驚いたように目をパチクリさせている。
「旦那ぁ?」
休憩スペースにこだまする大声。
「……違うのか?」
「違うわよ! 彼は私の部下! もう三十年来の付き合いだから多少気安いところはあるけどただの仕事仲間!」
「へぇ、見かけによらないもんだな」
強面の男の言葉に、ひとのことを言えた義理かと思ったが、すんでのところで言葉を飲み込む。
私は携帯電話をポケットへ仕舞うと縛られたフードの男のもとへ歩み寄った。
「所轄へは連絡したが、この雨でしばらく来られないらしい。悪いがしばらくはこのままだ」
「……」
フードの男はうなだれたまま微動だにしない。
「こんな危ない連続殺人犯と一緒にいられるわけないじゃない! あなたも刑事なら融通利かせてもらいなさいよ!」
中年の女が金切り声を上げる。
「雨はあと一、二時間もすれば止むそうですよ」
腕時計で時間を確認するといまは三時前、いまから一、二時間後となれば夜明け前にはこの雨も止むことになる。次第に弱くなるのであれば所轄の警官がこのパーキングエリアまでやってこられるようになるにのはもう少し早いはずだ。
「そういうことじゃなくて! 危険だって言ってるの!」
「彼の身柄は拘束していて凶器も没収しました。身体検査もしたが他に武器になるようなものも持ち合わせていません。丸腰の相手であれば大人の男が四人、いざとなっても大丈夫ですよ」
「そうだよ。アンタ心配しすぎなんじゃないか」
「凶悪犯相手に心配しすぎるなんてことないじゃない」
私は中年の女にばれないよう小さくため息をついた。
「彼が連続殺人犯だという確証はありません」
「目撃者の証言と同じ見た目だわ」
「……市販の服であれば同じものを持っている人間は大勢いますし、中肉中背というのは目立つような背格好ではないありふれた体型ということです。つまり見た目だけで断定することは不可能です」
それに、と一呼吸開ける。
「そもそも目撃された人物が犯人という証拠も現在ありません」
理路整然と説明しても中年の女は納得していないようで、中年の男になだめられているが不機嫌な様子は変わらない。
「心配というなら私が彼を見張っておきます。刑事の私が見張っているなら文句はないでしょう?」
「そういうことなら……」
しぶしぶといった体で中年の女は先程まで座っていた席へ中年の男を引き連れて戻っていった。
「アンタもずっと見張ってるわけにはいかないだろ。疲れたらいつでも声をかけてくれ、交代するよ」
「痛み入ります」
強面の男も席へと戻り、私と床に座らされたままのフードの男ふたりだけが残った。
「いやー、なんだか大変なことになっちゃいましたねー」
もうひとり残っていた。
「……君はあんなことの後で怖くないのか?」
私が椅子に座ると彼女は再び私の向かいの椅子に座る。
「刑事さんが守ってくれるって信じてますから」
無邪気に微笑む彼女のその表情が私の心をざわつかせる。
「殺人犯かもしれないんだぞ」
「——俺はひとなんて殺してねぇ」
私と彼女は声のした方、フードの男へ視線を向けた。
「……」
「俺はただ強盗しようとしただけだ。だけど失敗して逃げてきて……このざまだ……」
うなだれたまま独り言のように小さな声でつぶやく男はどこか哀愁が漂っている。
「だそうですよ?」
「みたいだな」
「でも刑事さん、最初からそのひとが連続殺人の犯人じゃないってわかってるみたいだった」
先程までと打って変わって真剣な顔をする彼女。
「なにか確信があったんですか?」
どう答えればいいのかわからず、沈黙してしまう。
「……」
彼女はそんな私を見つめている。
「確信があるわけじゃない」
私はそんな彼女の眼差しに根負けし、うまく言葉にならないかもしれないがとつとつ話し始めた。
「ただ、この事件とは付き合いが長いんだ。多くの時間を使っている、他の誰よりも」
彼女から視線を外してガラス戸の向こう、雨のカーテンで遮られて視界の通らない夜暗を見つめる。
かつてともに生きた愛するひとへ思いを馳せ、懐かしさと悲しみ、後悔が去来する。
「だから私の中にある犯人の姿と彼との間には違和感があった、それだけだよ」
「どんなひとなんですか、その犯人って」
「私はプロファイリングの専門家ではないからただの印象でしかないが」
そう断ってから、この突然の嵐に切り取られた空間で気が緩んだのか私はいままで誰にも話したことのなかったことを言葉にする。
「承認欲求の強い目立ちたがり屋で幼い人間、その一方で狡猾で無慈悲。そういう人間な気がするんだ。だから彼は、例の事件の犯人とは到底思えなかった」
「——犯人、すぐ見つかるといいですね」
彼女はそうとだけ静かな声で言った。
それからはなにが起こるでもなく時間は過ぎていった。
時刻は四時になろうかという頃で、あれだけ激しかった突然の嵐はだんだんとその勢力を弱めていった。
夜明けも近い。
明けない夜がないように、この雨も次第に弱くなってそのうちに止むのだろう。
駐車場の暗闇を車のヘッドライトが切り裂いて一台の車が停車したのが見えた。
ヘッドライトは点いたまま、しばらくすると雨合羽を着たひとりの男が休憩スペースへ入ってきた。雨合羽の隙間から見え隠れする濃い色の制服は警察官が身につけるそれだ。
「あー、えーと……」
警官は休憩スペースを見回しながら雨合羽のフードを下ろす。顔つきはまだ年若い。
「
休憩スペース全体へ行き渡るハツラツとした声だ。
「私だ」
そう言って椅子から立ち上がると警官は小走りで私の元までやってきて敬礼をする。
「現行犯逮捕、ご苦労さまです! 傷害と聞いておりますが犯人はどちらでしょうか?」
「そこの彼だ、引き取りを頼む。被害者はあちらに座っている男性だ」
警官はフードの男に改めて手錠をかけ、紐の拘束を解く。
「さきほど強盗未遂の自供もあったので事実確認もしておいてくれ」
「はっ、かしこまりました!」
警官はフードの男を休憩スペースの外へと連れて行く。おそらくここまで運転してきたパトカーに乗せるのだろう。
「これで一安心ね!」
中年の女はフードの男が休憩スペースの外へ出ていったのを確認してからそう言った。
「そちらの男性は傷害事件の被害者になりますので、診断書の提出や聴取を求められると思いますのでご協力お願いします」
「ああ、もちろんだ」
中年の男は二つ返事で引き受けてくれた。
それからもうひとりの警官が現れてその場にいる関係者たちへ事件の様子の聞き取りを行った。
フードの男が彼女へ行った態度も暴行事件として成立するが、面倒事に巻き込まれるのを嫌ってか被害届は出さず大事にするつもりはないと明言していた。彼女がそう思うのであれば他人である私がそれにとやかく言うことはないだろう。
警官たちの聞き取りが終わる頃にはすっかり雨は止んで外は白み始めていた。
「それでは我々はここで失礼いたします」
再び警官たちと敬礼を交わすと、フードの男を乗せたパトカーは去っていった。ちなみに駐車場に停まっていたコンパクトカーはフードの男の乗ってきた車らしく、後日回収されるそうだ。
「ふぅー」
喫煙スペースで紫煙をくゆらせる。
地面はまだ濡れていてアスファルトは黒く変色している。強力な雨風が吹き飛ばした葉っぱや枝が吹き溜まりに溜まっていて、雨は止んだとはいえこれから運転するにはまだまだ注意が必要そうだ。
「これ吸い終わったら俺たちは出発するよ」
強面の男がだんだんと明るくなっている空を見上げながら煙を吐き出す。
「道中お気をつけて。お父上もご無事だといいんですが」
「オヤジもいい歳だし、何度も病気に手術だ。覚悟はしてるよ」
灰皿に吸い殻をねじ込んで強面の男は歩き出す。
「刑事さんもご安全に」
ジャージ姿の男が運転席で待っている黒塗りのバンへ強面の男が乗り込むとヘッドライトを数度瞬かせてこのパーキングエリアを後にした。
私もそろそろ出発しよう。
その前に運転中に飲むために缶コーヒーをいくつか仕入れておこう。
「あら、まだいたのね」
「コーヒーを買っていこうかと思いまして」
中年の女と最後の雑談をする。
「飛行機も新幹線もダメだから車にしたけどこれなら朝まで待って新幹線のほうが良かったわね」
「だからそう言っただろうに」
「うるさいわね!」
「まだ路面は濡れていますので無理な運転はしなようお願いしますね」
「ああ、そうするよ」
ふたりはシルバーのセダンに乗り込み、力強い加速で駐車場を走り去った。
私は自動販売機で缶コーヒーを二本買って車に乗り込んだ。
携帯電話を取り出す。
まだ寝ている時間だろうが、急いで向かうと言った手前足止めを食らってしまってバツが悪い。一本連絡を入れて落ち合う予定を決めておこう。
——プルルル……
コール音が耳に当てたスピーカーから聞こえてくる。
例の連続殺人事件、その被害者家族から昨晩突然の連絡が来た。事件当時のことで思い出したことがあるから相談したい、そういう内容だった。電話で聞こうとも思ったのだが、重要なことなので会って話したいと言われ、興奮するような怯えるような上ずった声でそう言われて私には断ることはできない。
だから、ひとに任せておくことはできず無理矢理仕事の合間に事件の調査をしている。
彼とはそんな中に出会った。同志とてでも呼ばべいいか。多くの被害者家族や周辺のひとたちは事件を忘れようとしていて、嫌な過去を掘り下げようとする私の存在は忌み嫌われた。けれど、彼はそんな私に協力的でつらいにもかかわらず懸命に協力の姿勢を見せてくれた。
早いところ犯人を捕まえて、すべての被害者とその家族に報いたい。
「いや、それはおためごかしだな」
——プルルル……
コール音はするが一向に出る様子はない。
まだ寝ていて気づかないのだろうか。しかし、来てくれと言われ急いで行くと答えた。そんな状態で熟睡などできるのだろうか。
コンコンと車の窓をノックされた。
音の方向へ視線を向けると彼女がこちらを覗き込むように立っていた。
にこやかに微笑み、こちらに手を振っている。
彼女とも行きずりの相手ではないとわかった今では無下にもできない。
私は電話を切って、パワーウィンドウのボタンを操作して窓を開けた。
「どうした?」
「まだお別れ言っていなかったので」
休憩スペースに姿が見えなかったのでてっきりもう出発してしまったのかと思っていたが、そういえばパトカーと黒いバン、シルバーのセダン以外に出発した車はなかった。少し疲れているのかもしれない。
「……そういえばそうだったな」
「と、実はひとつだけお願いがあって……」
「なんだ?」
「後部座席に載せてた荷物をトランクに移したかったんですけど、ひとりだと重くて手伝ってもらえませんか?」
ここまで来たのであればその程度のお願い大したことではない。
「ああ、わかった」
私はドアを開けて車を降りた。他にひとはいないのだし、鍵は指したままでいいだろう。
「わ、ありがとうございます!」
そう言って嬉しそうな様子の彼女の後ろを私はついて行く。
駐車場には私の車を除いてコンパクトカーとSUVしか停まっていない。コンパクトカーはフードの男が乗ってきたものだと警官が言っていた。ということはあの大きなSUVが彼女の乗ってきた車ということになる。
「随分大きな車に乗ってるんだな」
「変ですか?」
「変、というほどじゃないが、若い女の子が乗るには珍しい車だと思ってな」
「ええ、実は知り合いから借りてるんです。ちょっと荷物を運ぼうと思って」
近くで見るとその車の大きさがよくわかる。この手の車種はアウトドア好きだったり金に余裕のある男性だったりがよく乗っているイメージだ。
「じゃあ、私トランク開けますんで後部座席から荷物持ってきてもらってもいいですか?」
「ああ」
後部座席のドアを開ける。一見するともぬけの殻だ。荷物は見当たらない。
「なにもないぞ?」
「ええー? 後ろですよ後ろ、上がっちゃっていいんでー!」
車の後方から彼女の声がする。
「ふぅ」
重い荷物ということだったが、もしかしたら少し大変な作業を安請け合いしてしまったかもしれない。
車高は高く、私のスネくらいの高さだろうか。
車の中に乗り込むと、真新しいフロアマットが敷かれていてふかふかとした感触が心地よい。
座面に片膝を着いて背もたれ越しに覗き込むよう後部座席を確認する。
「?」
座席には特になにも見当たらない。視線を巡らせると、黒いビニールでくるまれた長いものが横たわっている。フロアマットも黒かったためすぐには気づかなかった。
「……」
これが彼女の言っていた荷物だろうか。荷物というからカバンやスーツケース、あるいは箱詰めされたなにかを想像していたが、これはそれのどれとも違う。
「これは、いったい……?」
刑事の
——ガンッ!
後頭部に衝撃が走った。
視界はキラキラと明滅し、歪んで焦点が合わない。
なにか硬いもので頭を殴られたのだと理解した途端、体の力が抜けてシートの上に倒れ込んだ。
「な、なに、が……」
ろれつもうまく回らない。彼女に危険を伝えなければと声を出そうとするがうまく出ない。
バタン、と後部座席のドアが閉められ、続いて運転席へ乗り込む音。
「刑事さーん、まだ意識ありますかー?」
それは、彼女の声だった。
「き、きみ……、これ、は……」
「あはは、さすがまだ元気がありますねー」
彼女の声は嬉しそうな明るい音色だ。
車がバックして、私は慣性力に抗えずシートから転げ落ちた。
そうするとシートの下から後部座席に横たわっていた
——目が合った
ビニールの隙間から覗くひとの顔。
「!!!」
それは今日会う約束をしていた彼。
驚きなのか、恐怖なのか彼の目は大きく見開かれて決して瞬きすることはない。
「〜〜〜〜〜〜ッ!」
声にならない叫び声。
「もう、刑事さんが悪いんですよ? 私をすぐ見つけてくれないから、ずっと待ってたのに」
拗ねた子供の声。
「五年前に私を助けてくれて、あのときに刑事さんのこと隙きになって。また会いたいなって思ったんです」
いったい、なんの話をしてるんだ。
「それだったらひとを殺せばまた会えるって気づいたんです、でもなかなか会いに来てくれないから何人も殺しちゃって……」
車が走行する振動が伝わってくる。
「本当は見つけてもらいたかったんですよ、犯人を逮捕する刑事さんが一番カッコいいから。でももう我慢できなくなっちゃってそいつを使って呼び出すことにしたんです。そしたら突然の大雨、本当にツイてないーい」
あはは、と笑う声が耳障りだ。
「でもでも! そしたらたまたま入ったパーキングエリアに刑事さんが来たんですよ! 車種もナンバーも覚えてたからすぐわかりました! もうあのときの嬉しさといったら忘れられないなぁ。こんなに幸せなことあるんだって、だって運命ですよね? こんな偶然なかなかないんだから!」
意識が朦朧としてきた。
「あれ、もう寝ちゃいます? いいですよ、寝ちゃって」
私はどこで間違えてしまったのかいまではもうわからない。ただ、いまは亡き妻の仇を取りたかっただけなのに。
「これからはずぅっと一緒ですよ」
その言葉を聞いて私の意識は暗闇に落ちていった。
了
殺人鬼は南の方へ向かう 与野半 @nakaba-yono
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます