Episodio 6 Il Fiore, o La Tempesta 《花か嵐か》
「皆さん、これは私の推測にすぎないのですが……」とやおら口を開いたのはジョルジュである。疲弊だけでなく、苛立ちの色が顔ににじみ、いっそう老け込んだように見えた。
「もしや、誰がロレンツォに見合うかという観点で画家を選ぼうとしておりませぬか。確かに彼の絵画は目を見張るものがある。この斬新な画風は間違いなく、王都に新たな道を開くでしょう。ですがそれが逆に問題なのです。彼は新しすぎます。彼に対抗できる画家は、この中にはいないに等しい。
ならば逆に考えるのです――ロレンツォを抜きにしてはどうかと」
「待て、ジョルジュ」と後方から鋭い声を飛ばしたのは、意外にも、いやははりというべきか、学芸係最年長のヨセフだった。
「ヨセフ……まさか君が反対するとは夢にも思わなかった。いったい何故だね」
「君の意見は間違いなく正しかろう。ロレンツォはまさしく新しい。青天の霹靂の如く王国に現れた存在だ。新しすぎるが故に、逆に皆の行きつく先になるかもしれんという見方はな。しかしだからといって排除していては、この国の芸術は先には進まん。
乗り越えられるか否かの壁があってこそ、芸術というものは進歩するのだ――『越えられる壁』しかそこになければ、我らが後にみるのはおままごとじみた稚拙なものになることだって、考えられないことではないのだぞ」
「なるほど、それも一理あろうよ……が、何も劇的な変化こそが進歩ではない。既存の集団の中に微かに現れる小さな光、たったそれだけであっても十分変化となり得るのだ。確かに壁は越えるためにある。だが越えられなければ意味はない。
かつての画学院においても、絹の国《ヤムタル》とか海を下った南の
なるほどジョルジュの視点はもっともなものだった。かつて東方の文化について読んだとき、絹の国には「守破離」という芸術を学ぶ筋道の概念があるとあった。最初は師範や親方、流派の手法を確実に身につけ、次に他の師範の教えを取り入れて己の中で発展させ、最後は己の属する流派を離れて独自に新しいものを生み出す、というものだ。
ことばで説明するのは簡単だが、実践するのは困難を極める。たゆまぬ努力と厖大な時間、そして常に己を冷静に見つめ続ける別の自己を抱き続けねばならないからだ――したがって最後の「離」を実現した者は往々にして「名人」となるが、その数は全体の一握りにもならないという。
もし今ロレンツォが御抱え画家となれば、すでに工房を構えている親方とか独立した画家にとってはとても刺激的で有益なものになる。しかし徒弟からしてみると、修行の途中で無視するにはあまりにも大きく、魅力のある別の世界が視界の端に開かれるようなものだ。彼らはいずこへ進むべきか迷い、中には親方に隠れてその世界を覗く者も現れよう――そして戻ってこれなくなるかもしれない。
或いは、その世界に魅了された親方を見て、自分たちの行く末を不安に思う者も現れるかもしれない。そうなれば、これまで画学院で伝えてきた油彩の手法が――或いは街中の工房で継承されてきた絵画の方法が――一挙に崩れ落ちる。この国の栄華の一翼を担ってきた芸術は凋落の一途をたどり、国内はおろか国外にも芸術の買い手がつかなくなることもあり得る。
文化の凋落は国の運営にも大きな影を落とす。経済と文化という二本柱の片方が折れれば、周辺諸国はエートル王国の没落に乗じて、この国を内部から喰らっていくこともあり得るのだ――そうなったとき、国家崩落の責任は誰の背に終われることになるだろうか。そう、ヨシュア皇子である。彼は文化凋落の責任と、大衆から売国奴の烙印を押され、短い生涯を閉じることになるだろう。
あまりに考えすぎか、と思いつつも皇子の方をちらりと見やると、頤に片手を添えて冷静を装っているが、顔が蒼い。彼もわたしと同じように、ロレンツォの登用がもたらすおそれがある最悪の事態を想像していたのだろう。しかし――
「しかし、その危険性を孕んでいてもやはり、ロレンツォは候補に入れられているべきだと思うがね」ヨセフがなお食い下がった。
「もちろん、皇子の御身を軽視しているとか、そういったことではない。劇薬は時に毒だが、ならばその毒を打消すだけの別の劇薬があれば問題はない。毒を以て毒を制すというわけではないのだが。君は長年画学院長をしていながら、わが国に彼に匹敵しうる画家が存在しているのを忘れたかね――この二十枚のカンヴァスを見たまえ。ロレンツォの作品に比べれば皆似たり寄ったりで凡庸に見えるところもあるが、フェリーぺ・ストロッツィは一味違う」
ヨセフは、ジョルジュに向けた強い視線を外すことなく、部屋の隅から強烈な異彩を放つロレンツォのカンヴァスの隣に立つ、フェリーぺの絵画に歩み寄った。いつもの粛然としたヨセフからは想像もつかない、力強い足取りで。たしかにフェリーペの絵画は、左隣の鮮烈な油彩画に比べると、大きく見劣りする。
だが他のカンヴァスも合わせて考えると、ロレンツォに対抗できそうなのはこの画家くらいだ、という私の考えと、ヨセフは同じものを抱いていたらしい。
「彼は従来の手法を生真面目に踏襲しつつ、彼独自の要素も見いだせている。明瞭な線描とか筆致の見えないつややかな画面はジョルジュ、君の教育の賜物だろう。しかしよく見てほしい――画面全体を明るく照らしつつ、色彩によって沈むような陰影をなしている。いいかね皆さん、これはこれまでの手法では出来なかったものだ。
これまでの絵画では
さて、フェリーぺの絵画に戻ろう。花々は奥に行くにつれて色を落とし、光を失う。花瓶の口の辺りをよく見ていただきたい。葉も茎も、光が届かないのでほとんどが暗い灰色に覆われているが、とてももっともらしいじゃないか。どうだね、これほど斬新さと伝統的な手法を見事に併せ持つ者がいるだろうか」
ヨセフはまるで伝道師のように演説した。彼のことばに納得した学芸係もいたようで、なるほど、とか確かに、とかぼやき、周りの者と顔を見合わせている。先ほどまでは青ざめていたヨシュアだったが、今はすっかりいつもの調子を取り戻し、満足気に窓のそばに立ち、夕暮れの外を眺めている。
「ふん、それほど嵩じるとは、君には魅力的に見えるらしい――私にはまったくもってそうは映らないな。普段は保守的な君が相当に熱を入れて語る程というのは興味深いが、誰かの差し金なのかね」
「聞き捨てならんぞ、ジョルジュ。私が純粋に批評しているというのに、君のねじ曲がった性格はこういう場でいつも水を差す。私が高く評価すれば批判し、私が判断を保留すれば見る目がないのなんだのと言う。昨年の総覧会のときもそうだったな」
「まあ落ち着いてくれ、二人とも。他の者の意見も聞いてみようではないか」
険悪になりつつあった雰囲気をいち早く察して、ヨシュアが話題の転換を試みた。
周囲の空気に戸惑わず流れをつかむ賢明さは、敏腕の父親譲りのものだろう。そうだな、と周りを見渡したヨシュアの目は、わたしをとらえた。
「君はどう思う。君はロレンツォの世話人だったはずだが」
「しかし皇子、かの者はロレンツォの絵を近くで見ておりますゆえ、公平な判断はできかねるはず。他の学芸係に尋ねるべきでは」
「まあそう急くでない、ジョルジュ。確かに世話人としてロレンツォの絵をよく見ているだろうが、だからこそ他の者にはない眼を持っていることも考えられよう。さて、君の意見を聞こうではないか」
ヨシュアに促されたので周りを見渡すと、三種類の視線がわたしに向いている。一つは、ジョルジュと彼の主張に賛同する者たちからの、敵意とか嘲りに似たもの。一つは、ヨセフと彼に賛成する者たちからの、期待がこもったもの。あと一つは、なんでもいいから早く終わらせてくれという無関心なものだ。
正直に言うと――
「正直に申し上げますと、私は彼を御抱え画家に推薦したいと思っております。否、さらに申し上げれば、彼はその地位にあるべき者です」
部屋の向かい側のジョルジュが鬼のような形相で私を指さしながら批判しているが、皇子は腕組みをして軽くうなずき、わたしに続きを促した。皇子とは視界の反対側にいたヨセフは、すでにいつもの聡く静かな老人に戻っていた。
「たしかに彼の絵は非常に斬新です。それはもう、ロムルス中の皆がこぞって模倣するような人物になるでしょう。ですが、王都の芸術家は彼だけではありません。現時点でも、彼に匹敵する画家は大勢いるでしょう。ヨセフ殿も申し上げましたが、フェリーぺ・ストロッツィもその一人であるとわたしは思います。
それから惜しくも二次試験で落選しておりますが、ニコラス・ドナルド・バルディも彼に比肩しうるでしょう。彼は今回、画題によって落選であったといっても過言ではありません。彼の本領は神話画で発揮されます――むろん、それだけに留まらないのが好ましいですが。量感のある人体と力強い線描において右に出るものはありません。メディオラの
とにかく、ロレンツォを登用したとして、我が国の芸術がそう簡単に打撃を受けるとは思えません。むしろ一人の画家の影響を大きく語るのは、時を同じくする他の芸術家たちを見くびった浅はかな判断と言えましょう――僭越ながらわたくしはかように思っております」
ヨシュアは常のように頤を支え、ゆっくり、だがしっかりと頷いた。
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