Episodio 4 I Pittori sotto La Luna 《月下の画家たち》
それから三か月が過ぎた、ある満月の夜のことだった。宿舎の庭先で、三人の画家が何やら議論している――或いは言い争っているらしいのが聞こえた。その声の主の一人がロレンツォと分かったので、わたしは近くから様子を窺うことにした。もちろん、何か暴力沙汰になりかけた時に止めに入れるよう、杖は懐から出しておいた……。
「だからさっきから何度も言っているだろうに。俺は弟子などとらねえって」
うんざりしたように頭を掻きながら言っているのはロレンツォである。彼と向かい合っているのは、同じく試験に挑んでいる二人の画家らしい。
「なんとか考えていただけないか。このニコラスの頼みは、何もおべっかとかご機嫌とりとか、断じてそういうものではない。純粋に、君の芸術に対する感動ゆえなのだ」
「感動だと?――あんた、俺の絵を見てそう思ったのか。ならばますますお断りだね。第一、俺とあんたは生まれと育ちが真逆だ。それに絵に対する態度も真逆だし、出来上がる作品の
ロレンツォの言い分はあながち間違っていなかった。師事を請うているらしいニコラスはボルネーの豪農の生まれであった。雄大な自然に慣れ親しんだ彼は、父の理解と兄の薦めによってロムルス随一の工房に入り修業を積んでいる。一方ロレンツォは、今の今までクラヴァト村で暮らしていた。父親が金細工師ということであったが――しかしそれほど「真逆」と言える程だろうか。それに「絵に対する態度」が真逆であるとは?――私は彼の発言の真意を図りかねた。
「いや、真逆ではありえない。表現の方法が異なるだけで、君とわたしが目指すものは同じだ」とニコラスがなお食い下がった。束ねたブロンドの柔らかい髪が、馬の尾のように揺れる。
「自然を清澄に見つめ、そのありのままを描き出すのが君だ。対する私は、生命に真直ぐに愛情を向け、彼らの歓びを描き出すのだ。私たちは、美しき世界を描き出すという野心の上でまさしく一致しているのだ」
「清澄……清澄ねえ。あんたにはそんな風に見えているんだな」
途端、ロレンツォの声が低くなった。
「ニコラス、この際だから言わせてもらうが、俺はあんたが嫌いだ。二次試験通過者の発表の後、俺に話しかけてきたときからな」
ニコラスの顔がさっと白くなるのが遠目に見てとれた。ロレンツォの両目にあの時の怒気が滾っているためではない――ニコラスの性格と生い立ちからして、正面から拒絶されるのに慣れていないためだろう。
「ニコラス、あんたは何のために絵を描くかと問われればこう答えるよな――『真の美を追うため』とか『美しい世界を描きだすため』とか『いのちの歓びを分かち合うため』とかな。言っておくが、俺はそういうご都合主義で夢想的な、理想家の
教えてやるよ、ニコラス。あんたが荷物をまとめて宿舎を出てった後、俺に二度とそのツラを見せないように。俺が絵を描く理由――俺自身のためだ。誰のためでもなく、俺自身の名誉と名声と、地位のためだ。どうだ、あまりにも俗的だろう?
あんたと俺は、見ているものが違う。この世で得られるありとあらゆる富のために、俺は絵を描くのさ。豊かな都会でそこそこの注文を受けては絵を描き、魔法使いや金持ちに媚びへつらって、ぬくぬくと自分の理想に浸っているやつらなど、皆くたばっちまえばいいのさ……。フン、あまりに衝撃的すぎたんで、どうやら言葉も出ないか」
突き放すように鼻で笑うロレンツォを前に、ニコラスは目を白黒させて反論のことばを探していた――が、何も言えなかった。無理もないことだ。ニコラスはロレンツォより五つ年上だが、歩んできた方向がまるで違う。自分の知らない世界を前に、ニコラスは閉口するよりなかった。
「俺から言わせれば、君も十分理想家だよ」と口を挟んだのは三人目のフィリップである。
彼もまた選抜試験に臨んでいた。そして、二次試験を通過し、最終試験に挑む二十人のうちの一人でもある。パイプをくゆらして、鷹揚に笑っている。
「まあそう睨むなよ、
「……フェリーぺ、俺はあんたのことはそこそこ尊敬してたんだぜ。描くものも立派だし、口達者で話していると面白いからな。だが今、それも終わりだ。その理想論をこねくり回しながら、自分の事を棚に上げて俺を批評しやがる。一番こすいやり方だよ――結局あんただって理想主義のままじゃあないか」
「そうかもしれんな」
「いいだろう、俺が真に俗の人間であって、あんたたちとは違う世界に生きていることを証明してやる。誰にも話したことのない事だ――名誉とか名声とか富とかは、通過点に過ぎない。俺は俺のために絵を描く。俺に対する復讐のために、憎悪を以てカンヴァスに臨むんだ」
俺に対する復讐ということばをやけに強調しているので、またもわたしは彼の発言に戸惑いを覚えた。ニコラスもフェリーぺも、おそらく同じ気持ちだっただろう。
「この名前は聞いたことがあるだろうさ――『
瞬間、二人が息をのんだのがはっきりと分かった。芸術家の間では相当有名な名前なのだろうが、わたしはすぐには思い当たらなかった。『酒の子』とは……。
「親父は金細工師だった。一流の奴には劣るが、それでも北部の方じゃ腕は悪くなかったさ。絵画も良く描けたもんだ。俺の技法は、仕事が忙しくてたまにしか帰ってこない親父にせがんで教わった、あいつ直伝のものさ。……だが酒癖がひどかった。そいつがあのクソ爺の、唯一にして最大の欠点だった」
今や、あの気さくなロレンツォの姿はなかった。彼はことば通り、憎悪と怒りに燃えている――彼の父と、彼自身に対するそれらのために。
「俺が十二のときだ。親父は仕事がちょいと捗らなかったんで機嫌が悪かった。まあ、それだけでむしゃくしゃしてるような、ケツの穴の細けえ老人といえばそれまでだが――兎に角、ワインを瓶ごと呷ると、お袋に何やらグチグチ言い出した。いつものことだと思って、俺もお袋も相手にしなかった。でもそれが間違いだった――あいつはあろうことか、思い切り殴ったんだよ、お袋を。皿を片付けてたお袋を、後ろから……しかもワインの瓶で! 当然、お袋は死んだ。頭を割って即死だ。医者を呼びに飛んでいったし、医者も飛んできた――でももう、遅かったのさ」
まさか、という驚愕がふたりの顔に浮かんでいるのが見えた。一方のわたしは、彼のこれまでの言動について、一人でなるほどと納得していた。
自分の絵に対する誇り、それは苛烈なまでの怒りの感情ゆえのものだった。同時にそれは、誰にも明かしたくない、もっとも繊細で傷つきやすい、自分だけの内なる聖域だった。だからこそ、わたしが迂闊に触ろうとしていた画材と彼自身の絵に対して異常なまでの執念を燃やしているし、見た目には良く振舞っているが、どこかよそよそしいという矛盾がある。
そして、『試験の後のこと』への言及――あれは驕りでも自信でもなく、彼自身の強い決意と本心から出てきたものだ。彼は、皇子の下で描き続ける自信があったし、何としても描かねばならなかった。このロムルスという街で。
ロレンツォは自分を憎み、自分に怒り、絵を描いている。しかも敢えて、彼の父親直伝の手法で。それは、母を失ったあの日の、自分自身の弱さと、父の弱さに向き合うという、彼が彼自身にかけた呪いなのだ。
そして、御抱え画家という地位とか、ロムルスで働いているという実績とか、それについて回る名誉とか富は、その一生消えない呪いの気休めになる。それらが周囲の記憶から『酒の子ロレンツォ』の忌み名をかき消すことで初めて、彼は戦うことができる。だから彼は、描き続けねばならないのだ。
「それ以来俺は、他でもない俺自身のために絵を描いた。もちろん、あんな家にはいられなかったから、近くの工房でな。でもそこでも俺は、『酒の子ロレンツォ』呼ばわりされた。あくまで、あのトンマでろくでなしの親父の息子だった。それに耐えるよりなかった。何とかして、俺を俺と認めないクソどもを見返してやりたかった――その復讐心と憎悪が、俺をますます絵に向かわせた。
俺の絵に対する原動力は、本来あってはならないもんさ。なぜなら絵画は、目を喜ばせるものだから――絵を見る眼のあったお袋の受け売りだけどな。俺は、俺の過去と戦わなくっちゃいけない。だがそのためには、俺を認める奴らの存在が必要なんだよ。だから俺は今、ここにいる。
理解できただろう、ニコラス。あんたは俺の対極にいる。俺は嫌いだが、あんたは十分立派な画家さ。俺みたいなのには目をくれず、光の照らす道を歩けばいいんだよ――フェリーぺ、あんただって同じさ。立派な工房の
さっきまでの烈火のごとき口調は既に消えうせ、代わりに零れてきたのは弱弱しい、優しい声だった。まるで神に救済を哀願する、憐れな信徒のような。あるいは審問官に悪事の許しを請う、身寄りのない孤児のような。
「いや、俺だって同じようなもんだよ。もちろん、立派な親方なのは間違いないが」
と相変わらず軽口を叩けるのは、フェリーぺならではだろう。
「じゃあこの際だから俺も言おう。俺が絵を描くのはな、ロレンツォ、君と同じ理由からだ。俺自身に対する復讐のため――まあちょいとばかりその経緯は違うが。俺はこう言っちゃなんだが、結構いいとこの出なんだよ。親父は公証人だったし、お袋も図書館に足繫く通うような、所謂知識階級ってやつさ。
でもそれが裏目に出た。お袋はとにかく、俺に偉くなってほしかったらしい。家庭教師をつけて、とにかく勉強させた。ほとんど一日中さ。俺の唯一の楽しみは教師が帰って次の奴が来る間のほんの短い時間だったよ。妹と喋って、勉強に使った紙を引っ張り出しては裏に落書きして……裏庭の木や、花や、鳥たちを……」
「……ふうん。いいとこの人間といっても、苦い過去があるってわけだ。で、そんなあんたでも耐えきれなかったってか」
「さすがにな。当時の俺には重かったのよ、お袋の過度な期待は――俺は家を飛び出した。十四のときだ。それまでずっと家にいるような人間だったから友達はいねえ、外の世界なんて全然わかんねえし、身体も大して強くない。幸いにも親父にロムルスの話を聞いていたから、親父の名前を使って工房に転がりこめた。俺はやっと解放されたと思った……」
そこでフェリーぺはパイプを吹かした。煙草の煙が夜風に乗って、私にも流れてきた。
「五年の後だったかな。妹が死んだという報せがあった。瞬間、俺はすべてを悟り、後悔した。なぜ親父とお袋は俺を探さなかったのか、便りの一つすら寄越そうとしなかったのか。妹にすべてが向いたんだ。彼女は俺の殆ど唯一の話し相手だった。俺は妹の世話すら放り出して、俺自身が逃げるためだけに、逃げていたんだって思い知らされた。あいつがどうやって死んだのかは分からず仕舞いだ。病気か、事故か、自殺か……でもそれは俺にはどうでもよかった。その時から、俺にとって絵は、過去の後悔を思い出させる鎖なんだよ。
俺も君と同じように、描き続けないといけないんだ。過去と戦う、それだけじゃあない、俺は贖罪の義務がある。絵を描くことに、その二つを俺は背負っている」
「私はそのような話、まったく知りませんでしたよ。まさかそのような過去を背負っていただなんて……私にとってあなたは、博識で頼りになる兄弟子でしたから」
「おいおい、今更歯の浮くようなこと言うんじゃねえよニコラス。俺にゃ似合わんことばだ」
むずかゆいと言わんばかりに彼は短く整えた頭をガリガリ掻き、その様子にニコラスとロレンツォは顔を見合わせて笑っていた。
――どうやら三人の間で理解が深まりつつあるらしい。わたしはそっとその場を離れようとした。満月も天上に昇っていた。
「しかし、いくらお世話人さんとはいえ立ち聞きはよくねえぜ」と言ったのはフェリーぺである。わたしをその場に押しとどめるには十分なことばだった。いつから気づいていた、とわたしが言うと、いいや今さっきだ、といつもの調子で嘯いた。ロレンツォがあの社交的な顔で笑い、ニコラスも苦笑顔だったので、わたしはかなり赤面した。
最終試験の日程と画題が受験者に通告されたのは、その翌朝のことだった。
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