アンバーブライト

有明 榮

序 Lui Dipinge L’ombre 《彼は影を描く》

Episodio 0 La Ricordanza 《回想》

 わたしは彼の絵を二度、見たことがある。一度目は彼の泊まっていた部屋で偶然見かけた、娼婦か貴族の娘か、ともかくどこかの美しい女の、王室書記官スクリーヴェの帳板くらいの大きさをした肖像画だった。

 

 そして二度目は、彼が皇子の御抱え画家になることが決まるかと思われた時の、静物画である。最初にそれを見た時――つまり持ち込みのイーゼルにかけられた肖像画を見た時――、ひどい動揺を覚えたことを今でも鮮明に記憶している。なにしろ当時では考えられないような技法で描かれていたのである。


 まず、その画面には像主の女のみが描かれているのだ。ふつう肖像画というと、我々のあいだでは長方形のカンヴァスの上に、像主の全身を側面から見たように、或いは四分の三正面から見たようにして描き、その背後には――大概の像主は王族とか貴族とか、あるいは国を乗っ取った傭兵隊長とか、すなわち男だった――偉業を讃える様々なものを添える。


 例えば、彼とも皇子の御抱え画家の座を争ったフェリーぺがかつて描いた先王アビアタルの肖像の背後には、王国と国境を挟んで北東に跋扈ばっこする遊牧民の酋長しゅうちょう――蛮勇王イル・バルバロイと呼ばれた馬乗りである――の侵攻を跳ね返した後に復興した東の都・ボルネー郊外の、黄金色に波うつ穏やかな麦畑と、その遥か彼方に薄らと見える国境警備のための石造りの要塞が、中央の王宮から窓越しに見えるようにして描かれている。


 わたしの度肝を抜いたのはそれだけではない。絵が黒いのだ。像主の女がはっきりと描かれているその周りは、黒色の顔料でこれでもかと塗りつぶされている。まるで彼女が、新月の夜に丁度明かりを灯したばかりのランプのように、今しがた闇からぼんやりと浮かび上がったような具合なのだ。このような技法は未だかつて目にしたことはなかった。


 王宮学芸係として、わたしは巨大な壁画アッフレスコから、遥か東に浮かぶ絹の国ヤムタルよりもたらされる磁器に描かれた細密な陶彩まで、少なからぬ数の絵画を見てきた。だがこれほど見る者の眼を撃つ絵画もそうそう存在しないだろう。それほどに物珍しく――いや、そのような生易しいものではない。真新しすぎたのだ。見る者の眼を楽しませ、世界に満ちる光の中に像主を美しく描き出す。それが本来の肖像画の在り方であったはずだ。


 だが彼の描く絵から放たれるのは、美しきものも、醜きものも、その両面を真正面から覚悟を決めてとらえる、ありのままの世界。対象のみを純真な目で捉え、そのほかの世界を闇のなかに葬り去る、人間の視覚にもっとも肉迫した、それでいて観念的な世界。


 その二つの世界が、肖像画でも静物画でも、見事に一つの世界に融合されていた。人物の顔のしわから傷跡から、静物であれば果物の傷んだ部分に枯れかけの蔓と葉、そうした『目を覆いたくなる部分』を臆することなく描いていたのだ。


 当時文化の最先端を走っていた王都、ロムルスの知識人階層にあったわれわれは、自分たちの眼のご都合主義に対する批判をまざまざと突き付けられることになった。あるものは彼の絵画に唸り、またあるものはこんな絵画は画学に対する冒瀆とさえ批判した。われわれでさえ、正当な評価を下しえなかった……。


 そういえば、わたしが彼を一目見た時、ある確信に近い直観があった。



「彼のような芸術家はきっと生きてはゆけまい」……



 正直に言うと、はじめて会ったときは、ロレンツォ・グイドバルドが特別な人間だなどとは思いもしなかった。今では、ロレンツォの価値を認めない人間はいない。

 

 ロムルスよりさらに北、モンテ・アルピの麓にあるクラヴァト村から出てきたとき、彼は二十歳にもなっていなかった。ひげはきれいに剃られていたものの、癖の強い黒髪が肩にかかっており、服装もロムルスにおいてはかなり見劣りするさまだった。袖口を絞った長袖シャツに色褪せた褐色のズボン、よれて繊維が所々ほつれている焦茶色のブーツ。確かにこの社会における芸術家の服装としては一般的なのだが、それでもロムルスの芸術家たちはもう少し色鮮やかな印象がある。


 彼は魔法が使えなかったので、王宮そばの宿舎には荷物は所有の黒毛の馬に括りつけてきていたわけだが、それも質素な麻袋二つと革袋一つにまとめられていた。革袋の方はかなり年季が入っていて、中には画材をまとめていたらしく、わたしが馬から荷物を外そうとすると、


「いや、それは自分で外すよ」


 と言って馬との間に割り入ってきた。やんわりとした口調だったし、見た目に反してかなり社交界に浴してきた言い方だったのだが、底知れぬ怒気が両の眼から一瞬零れたのをわたしは見逃さなかった。その分野においては、確固とした自分の領域をもっているらしかった。


 なんにせよ、いくら身の振り方に磨きがかかっていたとしても、言ってしまえば『田舎者』然とした格好で出てきた、このロレンツォ・グイドバルドという若者が、王宮という社交と思惑の坩堝るつぼの中で生き延びていけるなどと、誰も考えもしなかったのだ。

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