だから私は今日も食堂に行く

黒乃

ごほうびにプチ贅沢の【エビチリ天津飯】

「どうも~」


 慣れた手つきで引き戸を開け、中にいるであろう店長に挨拶する。ここは彼女、折笠美香の元アルバイト先である"このみ食堂"だ。


 数年前から彼女が住んでいた地元に店を構えていて、ラーメンを中心に様々な中華料理を出すお店。ただし中華料理専門というわけでもなく、時にはオムライスなどの洋食も出している。何度か地元雑誌の取材にも取り上げられた、いわゆる地元民に愛されるお店だ。

 店長いわくここは中華料理屋ではなく食堂なのだ、とのこと。これはアルバイト時代に店長から聞いた話である──正直全く意味が分からないんだけど、言わぬが仏、触らぬ神に祟りなし。


「おお~久し振りだな美香。仕事終わりか?」


 軽快な声で返事をしたのは、バンダナがトレードマークのこの食堂の店長。ちなみにこの店に店長以外の他に従業員はいない。基本的に店長一人で切り盛りしている。

 美香がここでアルバイトをしていたのは、彼女が専門学生だった頃の話。彼女が通っていた調理師専門学校に講師として来ていた人物と、ここの店長が師弟関係だったのだ。美香は何故か講師に気に入られていたらしく、アルバイト先を斡旋してくれた。簡単に言ってしまえば、コネだ。


 しかし美香は卒業後は本格的なレストランに就職することなく、地元スーパーの正社員として働いている。元々調理師になりたいとは強く思っていなかった。専門学校も、親の命令で嫌々行っていただけにすぎない。苦痛の専門学生生活だったが、このお店を知れたことだけは唯一感謝できる点である。


「そうなんですよ~。疲れましたわ」

「お疲れさん。今日は何にする?」

「そうですねぇ……」


 メニュー表を手に、本日の夕食を選んでいく。

 ここの食堂は先にも記したように、ラーメンなどの中華料理が売りになっている。実際野菜や牛肉から抽出したスープで作られた中華麺は美味しい。しかし今日の美香には、ある目的があった。


「じゃあ、エビチリ天津飯で!」

「はいよ」


 そう、本日の彼女の目的はエビチリ天津飯だ。名前の通り、エビチリと天津飯が合体した、ここのお店の一番高いメニュー。高いと言っても食堂のメニューの中では、という前提が入るのだが。それでも安月給なスーパーの店員である自分にとっては、月一のプチ贅沢なご褒美メニューなのだ。

 なにせ本日は給料日。お賃金が入ったのならそれまでの自分を労わってもいいじゃないか、たまの贅沢だって許されたっていいじゃない。


 セルフサービスのお冷を飲みながら待つこと数分。エビチリの刺激的な臭いが厨房から漂い、やがてカウンターに座っていた美香の前にお目当ての褒美が提供された。


「お待ちどうさま~エビチリ天津飯です」


 キター! 心の内で思わずガッツポーズ。


 目の前に差し出された出来立てのご褒美。アツアツの湯気が立ち込め、空腹の身体にツンとした山椒の香りが癒しとなって、鼻腔から全身に届けられる。

 天津飯のあんかけの代わりにかかっているのは大ぶりなエビを、これでもかといわんばかりに使われ作られたエビチリ。まるで宝石のように、つやつやと光る赤色と黄色のコントラスト。


 オムライスもそうだが、どうして赤色と黄色が合わさった料理ってこう、食欲が刺激されるのだろう──なんて考えているうちに料理が冷めてしまうのはもったいない。レンゲを片手に、まずは一口。


 出来立て熱々。火傷しそうな熱さに口をハフハフさせながら味わう。甘い半熟たまごの風味を、ピリリと辛いエビチリが包み込む。

 この天津飯は一人前で3つ分の卵を使用している。中華鍋で程よく煽られ、適度な塩梅に作られた半熟たまご。その蕩けるようなまろやかさの、なんと優しい味わいか。そしてそれがエビチリにふんだんに使われている山椒の刺激的な辛さを、ひどく穏やかにして味をまとめてくれている。

 この組み合わせでなら、辛いものが苦手な人でも存分に楽しめることが出来るだろう。


 とろとろ、ピリリ。

 二つの違う味わいを楽しんでから嚥下する。食道を通り、空だった胃に食料が満たされていく感覚に、ようやくそこで本当にお腹が空いていたと自覚する。嗚呼、お疲れ様一ヶ月頑張った私。ひとまず一週間分の活力は手にできたような気がする。


「うっまぁ……」


 疲れた身体に効く、温かい贅沢な味わい。二口目はエビチリのエビを乗せて口に運んでみる。大ぶりなエビは艶やかな見た目を裏切らない、プリプリ食感。噛めば身の繊維がはらりと解けて、エビ本来の味わいが口いっぱいに広がる。

 味が絡みやすいようにしているのか、ここの食堂のエビの下処理をする際は、ワタを取った後に片栗粉をまぶしている。エビチリを作る際にその片栗粉が溶けて、とろみ粉の代わりになっているのだろうか。

 専門的な知識はほとんど忘れてしまった美香だが、そんなことは彼女にとっては些細な問題にすらならない。エビチリは美味しいのだから何も問題はないのだ。


 本当ならここにビールを合わせたい。キンッキンに冷やされた生ビールを、ジョッキで人目も憚らずに煽りたい。しかし悲しいかな、今日は車でここまで来た。飲酒運転ダメ、絶対。


「また美味そうに食うなぁ」


 他のお客も来ず、手持ち無沙汰になったのだろうか。店長が笑いながら話しかけてきた。咀嚼していた天津飯を飲み込んでから、にやりと笑う。


「だって私これのために仕事してるようなもんですから」

「しかしまぁ美香がしっかり働いているようで一安心だよ。バイトしてるときはヒヤヒヤさせられたけど。仕事は順調なん?」

「それなりにですね。でも最近はこう、お局様とチーフとの板挟みがツラい……。私にしてみればどっちも上司なんで……」


 そこまで説明して、己の言葉で一気に現実に引き戻されてしまったかのような感覚に陥る。せっかく美味しい時間を過ごしていたのに、自分で壊してしまうなんて。どこぞのアニメに出てくる人物のように手の甲に額を乗せ、思わず深くため息を吐く。


「そんなに深く考えすぎなくても大丈夫だって。美香は難しく考えすぎなんよ」

「そんなこと言われても……」

「為せば成るんだって軽く考えときゃいいんだって」

「それが出来れば苦労しませんって」

「まーま、頑張んなさいよ──いらっしゃい!」


 背後の引き戸が開く音にすかさず店長が反応する。新しいお客様だ。会話もそこそこに、店長はラーメンが注文に入った時のため、お湯が入った寸胴のコンロの火を強める。

 放り出された美香は、残っていたエビチリ天津飯を再び口にする。最初は至高の味だったのに、今はどうしてかな慰めの味に思えるよ。


 やがて食べ終わり、会計のタイミングを窺う。新しいお客様への注文の品は、どうやら運び終わったようだ。帰宅の準備をして、伝票を片手に席を立つ。


「ごちそうさまでした~」


 それはもう慣れてしまった、会計をお願いするときの合図。美香の意図を汲み取った店長も、いつものようにレジカウンターに立つ。


「また来いな」

「はーいまた来ますよー。今度は友人も一緒かもです」

「おお、いつでも大歓迎だ。それと悪いんだけど、これ持ってってくんない?」


 その言葉のあとに手に渡されたビニール袋。中にはお持ち帰り用に使われている、使い捨て容器が入っている。袋の底を触ればほんのり温かい。


「今週あんまり餃子が出なくてな。このままじゃ廃棄になっちゃうから、よかったら家で食ってくれや」


 まさかのお土産に、沈みかけていた美香のテンションが急激に右肩上がりに上昇する。


「いいんすか!?」

「いいっていいって。そっちの方が俺も助かるし」

「そんじゃあ遠慮なく~」


 会計を終わらせ、店長お手製の餃子を片手に店を出る。ありがとうございました、と背中に店長の声を受けた美香は、回復したテンションのまま己の車に乗った。

 明日の仕事は好都合なことに休みだ。せっかくなら出来立ての内に餃子を楽しみたいよね、もちろんお供にビールを添えて!


 日中の仕事でストレスの溜まる毎日だが、こういった贅沢をするためなのだからもうしばらくの間は頑張ってみるか。まったく単純な思考である美香は、その日もこのみ食堂で元気をもらって帰路につくのであった。

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