3-3 物理少女と魔法使い(前)


 ──帰りたい、なんて、言えなかった。


 そんなことは当然のことだ。


 リタさんには返しきれない恩がある。


 彼女はこの世界で最初に手を差し伸べてくれた人であり、今でも背中を支えてくれている人だ。

 わけのわからない世界で居場所を与えてくれた人。

 得体の知れないわたしに、温かい食事と、暖かい言葉をかけてくれた人──。


 わたしは、誰よりも彼女を尊敬しているし、誰よりも彼女に感謝している。


 だから、せめて受けた恩を返しきるまでは──。

 そう考えていた。




 それにもとより、わたしには元の世界に帰る手段もなく、それを探す知識もなかった。


 だからこそ、諦めるしかなかったのだ。

 諦めなければならない理由があることに、それはそれで安堵していた。

 不可能であると目を背けることで、目の前の幸せにひたっていられたから。



 でも、わたしの前に、彼女が──、一人のエルフの魔法使いが、現れてしまった。


 彼女の転移魔法を見たとき、酷く動揺し、同時に期待している自分に気づいた。

 もしかしたら、帰れるのかもと、戻れるのかもと──、そう、思ってしまったのだ。



 とたんに、なんだか自分がとてもあさましい人間に思えた。


 一度諦めたくせに、目の前に餌が転がってきたとたんに食いつく自分が。

 恩を感じているといいながら、今になって心を揺らしている自分が。


 酷く、みじめで卑しい人間に思えたのだ。


 だから、遠ざけようとした。

 興味を持って接触しておきながら、距離をとろうとしている自分は、本当に自分勝手で嫌なやつだと思う。

 

 だが、いくらそっけない態度をとろうと、否定の言葉を投げようと、──彼女は諦めることなくこちらに踏み込んできた。


 きっと、彼女も、わたしに負けず劣らず自分勝手な人間で、意固地な人間なのだろうと思う。


 でもそれはなぜか、悪くはない気分で──。

 むしろなぜか、心地よかったのだ。








「ねえ、ミナ。月並みな言葉だけどさ、ミナが迷ってる気持ち、なんとなくわかる」


 湖畔に面した岩の上。


 足首から先に触れている水面が、自らの足の動きで小さく波紋を作る。

 夕涼みにはちょうどいい立地と気候だ。


 隣から聞こえるアーニャの言葉に、わたしは無言で彼女の方に視線を向けた。


「どちらかを選択するのってイヤだよね。片方を選ぶことは、もう片方を失うってことだから」


 アーニャの金色の髪が風に揺れ、長い耳がぴくりと動く。


 その瞳には、強い光が宿っている。

 きっと彼女は、わたしが何を言おうと、誰に何を言われようと、自らの意思を曲げないのだろう。

 何かを成し遂げる人とはこういう人なのだろうな、とわたしは思う。


「でも、わたしは我儘で自己中なエルフだから、はっきり言う。迷惑だと思われるかもしれないけど、躊躇なく言わせてもらう。


 ──わたしは、あなたの背中を押したい。あなたの手を引っ張りたい」


 アーニャは、一度大きく息を吸い込み、笑顔を浮かべて、言った。


「ミナ、わたしと一緒に行こう。一緒に異世界を目指そう。わたしがミナを助けるから、ミナもわたしを助けて欲しい」




 そう言って彼女は、華奢な背筋を伸ばし、

 真っ直ぐに、ぶれることのないその瞳で、



「わたしは、一人よりも、ミナと一緒に夢を見たい」



 躊躇わずに、そう告げたのだった。





 自分の中で、何かがことりと動く音がした。


 まるで止まっていたものが動き出すような。

 つっかえていた何かが外れるような。


 はぁ、と何もかもを吐き出すように、大きく息をついた。

 二年間、肺の底にとどまり溜まり続けていた空気が、体の外へと抜けていくようだった。


 新しい風が胸の内を満たし、古く凝り固まった空気が捨てられていく。


 その感覚はとても心地よく──、なぜだか少し切なくもあった。



「……しょうがない人ですね、本当に」


 きっと、わたしも彼女も、我儘で、自分勝手で、小狡い性格なのだろう。

 思っていたよりもずっと、わたしと彼女は似た者同士だったのかもしれない。

 


「それじゃ──、家に帰ろっか、ミナ」


 差し出される手を取る。


 夕暮れ時の湖畔に、茜色の空を抜け、爽やかな風が吹き抜けていった。





 

 

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