一度きり

@9pm

一度きり

 飲み放題のラストオーダー時刻が迫る頃になって、ナナがエヘンと咳ばらいをした。

 その時ぼくは別の友人のスマホを覗き込むのに忙しく、何か発表することがあるのだなと思いはしたけれど、すぐには顔を上げなかった。ぼくに紹介したい女の子がいると聞いて、相手の写真を見せてもらっていたのだ。不自然に瞳の大きな女の子だった。加工よりも、カメラが顔に寄り過ぎていて胸の大きさがわからないのが痛い。

「えー、この度わたくし、結婚することになりました!」

 ナナのそんな宣言が耳に入ってきて、ぼくは鼓動一拍分の間を置いてから顔を上げた。はす向かいの位置に座ったナナが、恥ずかしそうに笑いながら顔の横に手をかざしている。薬指には指輪が光っている。芸能人の結婚会見みたいな。

 程よく酒が回って話題も出尽くし、だらけていたはずの飲み会の空気があっと言う間に二時間巻き戻った。皆が競うようにテーブルの上に身を乗り出して、口々に祝福の言葉やら相手の追及やらを発していく。

 ぼくも皆に調子を合わせて「おめでとう」と言葉を贈った。ナナも「ありがとう」と返してくれた。

 「どんな人なの」というお決まりの質問によって、ナナの結婚相手の写真が酒の肴として供出された。印籠のように掲げたスマホの画面に、ナナと男性のツーショットが映し出されている。

 ぼくがナナとセックスした頃の恋人とは違う人だったことに、意味もなくほっとした。

 ぼくらは大学の頃からの付き合いだけれど、ぼくとナナが恋人関係だったことは一度もない。当時ナナには恋人がいたし、ぼくもぼくでアルバイト先の先輩と付き合っていた。

 だからぼくとナナのセックスは言ってみれば浮気以外の何物でもなかったのだろうけど、ぼくは全く罪悪感というものを持たなかった。今でも持っていない。あれはむしろお互いに別に恋人がいたからこそ起こったことなんだと思っている。

 もしどちらか一方だけでも恋人がいないなんて状況だったなら、間違いなくあれは起こらなかった。お互いに、好きなのは別の人だよ、という暗黙の了解があったからこそ、ぼくとナナはセックスをしたのだ。

 ぼくとナナは仲がよかった。あくまでも友人として。趣味は合わなかったけれど、話す時の呼吸が合っていた。お互い、相手が盛り上げようと言った言葉に笑って、相手が話したがらない話題は別の話題で流して、そういうことが意識せずともすんなりとできた。だから皆で集まっていても、ふと気づくと会話のグループが分かれていて、ぼくとナナだけで喋っていることがよくあった。

 恋人にはならなかった。何なら二人きりになったのだってセックスをした時の一度きりだ。会う時はいつも他に誰かがいた。まるで二人きりになったらセックスするしかないと知っていたみたいに。

 実際そうとしか思えない流れだった。ぼくの家で鍋パーティーをやって、一人また一人と友人たちが帰っていって、最後にナナが残った。座卓で対面して座っていたのがいつの間にか横並びに座ってテレビを見ていた。いつの間にかお互いの肩が触れていた。いつの間にか向かい合って唇同士が触れていた。いつの間にか服を脱がせ合っていた。

 当時の恋人とだって、もうちょっと手順を考えてことに及んでいたはずだ。でもナナとの間では全部がいつの間にか、意識せずともすんなりと進んで、そして終わっていた。二度と始まらなかった。

 今のナナの幸せそうな顔を見ていたら、二度目がなかったのはよかったことなのだと思う。

 ただ、結婚の報告は、できればぼくに恋人がいる時にしてほしかったな、とも思うけれど。

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