17:友香①

 ふわ、と鼻先を掠めた風は、白木蓮の香りがした。

「……ふぁー……」

 空が高い。

 刷毛ではいたような薄い雲が、そよ風に乗って流れていく。

 病院の中庭のベンチに座って、私はぼんやりと空を見上げていた。


 少し前に自力で歩き回ることを許されてから、私はほとんどの時間をこのベンチで過ごしていた。

 開放的な外の世界を感じたかったから、というのもある。

 だけどそれだけじゃなくて、常に複数の人が通る場所なら、独りでいても怖くないことがわかったからだ。私を独りにしないようにと気を使ってくれるみんなに、少しでもゆっくりしてほしかったから。

「あーぁ」

 小さく息を吐いて、私はそっと後ろに重心を移した。ベンチの背もたれには、父さんの用意したクッションが敷かれていて、背中の傷が痛まないようになっている。

 柔らかく背中を包むクッションを感じながら、私はもう一度溜息を吐いた。

「これから、どうしよう……」

 独りになると、どうしてもこれからのことを考えてしまう。最終選抜が始まるまで、あと三週間を切った。背中の傷はそれまでに治るけど、独りでも過ごせるようにならなくちゃ、選抜には参加できない。

「やっぱり、諦めるしかないのかな……」

 ううん、それ以前に――私は、このままここにいてもいいんだろうか。


 胸を過ぎった暗い考えが、心臓を鷲掴みにした。ぐっと息が詰まるような痛みを覚える。

 それは、あれ以来ずっと、心の奥深くにわだかまっていた思いだった。

 私は、私を助けてくれるみんなに――父さんやアレクや、ロンやハルや……、沢山の人たちに何を返せるだろう。そう考えれば考えるほど、胸が詰まる。何も返せない、それどころか負担を掛けてばかりの自分が歯痒くて悲しくて、情けなくなる。

 ――お前ごときが肩を並べてよい場所ではない

 私の隙を見透かしたかのように、耳の奥でランディスの声がよみがえった。

「…………っ」

 瞬時に鳥肌の立った腕を抱え、私は目を瞑ってその声をやり過ごす。

 けど。

 どんなに無視しても、夜ごと昼ごとに繰り返されるその言葉は、私を緩やかに追いつめていく。


 ――私がいなければ……


 最後に行き着くのは、いつもそこだ。

 私の存在が、みんなを不幸にしてるんじゃないか。みんなに迷惑を掛けることしか、私にはできないんじゃないか。だって――私は親にだって捨てられたんだから。

 顔も知らない父にも母にも、恨みなんか抱いたことはない。けど、もし私さえ生まれなかったら、兄さんは今でも母さんと幸せに暮らしていられたかもしれない。私さえいなければ、兄さんは失踪なんかしなかったかもしれない。


 ほら――やっぱり、私が悪いんだ。

 私がいるから、みんな不幸になる。だからみんな私を置いていく。今だってほら、みんなに迷惑ばっかりかけて、心配させて。こんな私――いつかきっと見捨てられるに決まってる。

 それくらいなら、今、潔く姿を消した方がいいのかもしれない。


 だけど。


 ――君は、水くさいんだよ


 自分を追いつめて追いつめて、行き着くところまで行った所で思い出す――ハルの言葉。


 ―― 一人で堪えなくていい


 ロンの声。


 ――無理するな


 アレクの温もり。


 いなくなった私を必死になって探してくれた。

 進む道を見失った私に手を差し伸べ、先に立って待っていてくれる。


 そんな彼らを裏切る選択だけはどうしてもできなくて。

 結局、どうしたらいいのか答えは出ないまま、私はこうして空を見上げるしかなくて。

「ほんと、どうしよう……」

 小さく呟いた、その時だった。



※今回は3話連続更新です。

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