16:友香

「――――ッ!」

 夢の世界から逃げ出すように、私はガバッと身を起こした。

 背中の傷が引き攣れて痛んだけれど、そんなことはどうでもよかった。ただ、ぜえはあと荒く鳴る気管支の音だけが耳に響く。


 ――暗い


 深夜の室内には、窓からの月光と、扉の隙間から差し込む廊下の仄かな灯り以外に光源がない。その薄暗さが、私にあの地下牢を思い出させた。

 それほど広くない筈の病室が広がっていくような錯覚。背中に当たるクッション以外、右も左も――空間把握能力が散逸して、まるで無限の空間の真ん中に、一人で取り残されたみたいだ。


 ――落ち着け、落ち着け……


 沸き上がる恐怖心を抑えようと、胸に手を当て、ゆっくりと呼吸を整えながら自分に言い聞かせる。


 けれどその時。


 ――カツン


「――!」

 廊下から聞こえた靴の音に、私はビクリと飛び上がった。

「…………ぁ」


 ――カツン……カツン


 足音は、ゆっくりとこの部屋の方へと近づいてくる。

「……いや…………来ないで」

 ガタガタと、身体が震え出す。譫言のように呟きながら、私は足音から身を守ろうと両耳を塞ぐ。

 けど、音は聞こえなくなるどころか、一層大きく頭の中に響きだした。

「……や……、やだ……」


 ――来る。彼らが、来る


「――友香」

「い……やぁぁぁぁぁっ」


 その瞬間。

 不意にすぐ傍から聞こえた声に、私は訳も分からず、悲鳴を上げた。

「――っ、友香、落ち着け」

 声と同時に、誰かの手が私を引き寄せる。

「……いやぁ! や……ッ」

 もう、何もわからなかった。

 ただ沸き上がる恐怖の中、私は相手を遠ざけようと、無我夢中で藻掻く。

 けれど、その腕は私から離れてはくれなかった。強すぎる程ではなかったけれど、しっかりと抱き込むように私の肩を引き寄せる。

 触れられてもいないのに、背中の傷が猛烈な痛みを主張した。

「……っ! 落ち着け、俺を見ろ」

 半狂乱になった私をしっかりと押さえ込みながら、耳元に繰り返し吹き込まれる囁き。

「大丈夫だ、友香。怖くない、もう怖がらなくていいんだ」

 やがて。

 繰り返される囁きが、しっかりと抱かれた肩から伝わる温もりが、次第に私を現実へと引き戻していく。

「――落ち着いたか?」

「…………アレ、ク?」

 私の声に、アレクは小さく息を吐いた。

「ああ――少しだけ、離れるぞ」

 囁く声がして、彼がゆっくりと身じろぎする。冷たい空気が、温もりに慣れた身体に触れて、私はぴくりと身体を強張らせる。

「大丈夫。すぐだから」

 私の緊張を素早く感じたらしいアレクの声がして、温かな指先が頬を撫でる。

 そして、少しの間の後、チッと音がして、ボゥ、と周囲が明るくなる。

「……アレク」

「ん?」

 マッチの火に照らし出された従兄の顔を見て、ようやく本当に安堵して名前を呼ぶと、アレクは火をランプに移しながら、こちらを見て柔らかく微笑んだ。

「これで怖くないだろ?」

 小さなランプだったけれど、私の周りを明るくするには――私が独りじゃないことを確かめるには、充分だった。

「うん……」

 頷くと、アレクは傍にあったタオルで私の額の汗を拭ってくれる。

 近づくと、その頬に真新しいみみず腫れがあるのが見えた。うっすらと血が滲んでいるところもある。さっき私がひっかいてしまったんだと、すぐにわかった。

「アレク……ごめんね」

 あの日から。

 私が彼に「独りにしないで」と言ったあの日から、アレクは毎晩のようにここに来てくれる。一晩中、父さんと代わる代わる傍にいて、悪夢を見ては飛び起きる私を、こうして宥めてくれる。

 ――私は、泣いて暴れて、彼に傷を負わせてばかりなのに

「――謝らなくていいよ」

 けど、そんな私にそう言って、アレクは笑った。そして、少し揶揄うような表情を浮かべて、私を眺める。

「それ、あの二人にも注意されてただろ、お前」

「……何で知ってるの」

「さあ?」

 朗らかに笑って、アレクは私をゆっくりとベッドに横たえる。

「ほら、寝ろ。灯りはつけておくから」

 そう言って、彼は私の手をとり、指を絡めて握り込む。

「アレクは?」

「俺は、少し本でも読んでから寝るよ」

 空いた方の手で、隣のベッドの脇に伏せてあった本を取りながら、アレクは言った。

「それとも、添い寝でもしようか?」

「……結構ですー」

 揶揄うような声に膨れ面を返して、私はゆっくりと目を閉じた。あれから何日か経ったけど、まだどこかが疲れているらしく、目を閉じた途端、柔らかい絹のように眠気が身体を包んでいく。


 けれど。

 ――また、夢を見るかもしれない。またアレクを起こしてしまうかもしれない

 そんな考えが脳裏を掠めた途端、ムクムクと鎌首をもたげた不安が、私を睡魔から引き離した。

「――」

 うっすらと目を開けると、本に目を落とすアレクの横顔が見えた。

 ――私、この先どうなるんだろう

 独りでいるのがこんなに怖いなんて。

 あとひと月もしない内に、最終選抜だって始まるのに。

 ――兄さん……私、公安長にはなれないかもしれない

 暗い部屋に怯え、独りでは眠れないような――こんな状態で、公安長になんかなれるはずない。兄さんの目指した道を追うために、兄さんを捜すために、公安長を目指していたはずなのに。あともう少しで手の届きそうなところまで近づいていた筈の目標が、今はとてつもなく遠く感じる。

「どうした?」

 そっと盗み見ていたつもりだったのに、ふっと活字から目を上げ、アレクがこちらに視線をむけた。

「……何でもない。おやすみ」

「――――」

 私の反応に、彼は何か言いたげに目を眇める。慌てて誤魔化すように瞼を下ろすと、アレクが小さく嘆息したのがわかった。そして。

「……」

「こんな夜中に考え事しても、いいことはないぞ」

 穏やかに諭すような言葉とともに、絡め合ったアレクの指が私の指を撫でる。

「特に――今みたいに気が弱ってるときにはな」

 もう一度、力づけるようにぎゅっと握られたてのひらから、温かな体温が伝わってくる。

「今は何も考えなくていい。俺が、傍にいるから」

 大丈夫だと、握った手が、傍らの気配がそう告げる。

「うん――」

 意識をやんわりと包み込む眠りの幕に、自分でも不思議なほどすんなりと身を委ね、私は眠りについた。

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