第74話 広がる青空

 どれくらいの時間が経ったのかはわからない。


「いたた……」


 千紘の口から苦しげな声が漏れ、ゆっくりまぶたが開かれる。


「千紘、りっちゃん! 帰ってきたぞ!」

「うーん……」


 上の方から秋斗の元気な声と、律の寝ぼけたような声が降ってきて、千紘はアンシュタートから地球に帰されたことを思い出した。


(帰ってきた……?)


 ふと、頬に心地良い冷たさを感じる。ひんやりとしたそれが床のタイルであることには、すぐに気がついた。

 そこで千紘は、自身がうつ伏せになって倒れていることを知る。


(もうすぐ夏なのに、何だかやけに涼しいと思ったら)


 冷えたタイルの上に倒れていれば、涼しいのも納得できる。そう考えながら身体を起こそうとした時、全身に違和感を覚えた。


 上から聞こえてきた秋斗と律の声。そして、なぜか思うように動かない身体と、背中に感じるずっしりとした重さ。


 違和感の正体はこれしかない、とすぐさま思い当たる。


「秋斗、早く下りろ! 重い!」


 千紘は息を一気に吸えるだけ吸うと、首から上だけをひねるようにしてどうにか動かし、自分の上に乗っている人物を一人、名指しで怒鳴りつけた。


 そう、秋斗と律がずっと千紘の背中に乗っていたのである。


 すると、


「あ、すみません! 今下ります!」


 完全に覚醒したらしい律が、慌てて秋斗よりも先に千紘の背から下りた。律の重さがなくなった分、身体が少しだけ軽くなる。

 だが、秋斗はまだ乗ったままだ。


「秋斗早くしろ!」

「えー、りっちゃんだって一緒に乗ってたのに、何でおれだけ怒られるんだよ」


 千紘がさらに声を張り上げると、秋斗はブツブツと文句を言いながらも、最終的には素直に下りた。


「律は軽いからまだいいけど、アンタは普通に重いからだ」


 まったく、と千紘が呆れたように零す。ようやく自由になった身体を起こし、辺りを見回した。

 瞳に映る景色から察するに、どうやらここは階段の踊り場らしい。


「おーい!」


 そこにバタバタと騒がしい足音が、声と共に近づいてくる。


 千紘たちが音の聞こえてくる方、階段の上へと揃って視線を向けると、


「何か今すごい音したけど、大丈夫か!?」


 上の階から男性スタッフが一人、焦った様子で顔を覗かせた。


「……ああ、はい」


 千紘は小声で答えながら、気まずいと言わんばかりにそっと目を逸らす。


 前回も秋斗と一緒に階段から落ち、医務室に運ばれていたのだ。今回も自分の意思ではないとはいえ、いい大人が短期間に二回も階段から落ちたなど、恥ずかしいことこのうえない。


「おれも全然大丈夫です!」

「千紘さんと秋斗さんのおかげで平気です!」


 千紘とは対照的に、秋斗が元気よく手を上げる。律も同じく返事をするが、どことなく二人は嬉しそうだった。


「ならいいけど。三人揃って怪我なんてしたら撮影に支障出るから気をつけてな」


 千紘たちの無事を確認したスタッフは、安心したように一つ息を吐く。次には「じゃあお疲れ様!」と明るい口調で言い残し、背を向けた。


 先ほどまで騒がしかったスタッフの足音が、今度は静かなものに変わり、ゆっくり遠ざかっていく。


 その音を聞きながら、千紘は心底疲れた様子で長い息を吐いた。



  ※※※



 スタッフの気配が完全に消えた今も、三人はまだ踊り場に座り込んでいた。


「この状況から考えるに、階段から落ちた直後の時間に戻ってきたってことか」


 千紘の言葉に、秋斗が自分の腕時計を見る。どうやら日付も一緒に確認しているようだ。


「お、時計もちゃんと動いてる。確かにヒーローショーが終わった後みたいだな」

「何日も経ってなくてよかったですね」


 律もほっとしたように、笑みを零した。


「つまり、一瞬のうちにあれだけのことを体験したってことだよな」


 とても信じられないとでも言いたげに、千紘が頭を抱え、うめく。


「それってすごくないか!?」

「一瞬であんなにたくさんのことって普通は体験できないですもんね!」


 途端に前のめりになった秋斗と、それに全面的に同意した律はとても嬉しそうである。

 そんな律を眺めながら、千紘はさらに頭を抱えた。


(絶対秋斗に毒されてきてる……!)


 このまま床に突っ伏して嘆きたくもなったが、今は懸命にこらえることにする。

 しかし、千紘のことなどお構いなしに、秋斗が口を開いた。


「じゃあ今から昼ご飯食べに行けるな!」


 いつもの明るい声が踊り場に響く。


「またいきなり脈絡のないことを……。まあ別に食事するのはいいけど、しばらくイカは見たくもないな」


 ついダイオウイカのことを思い出してしまった千紘が、げんなりしたように言った。


「じゃあ何にします?」


 首を傾げる律に、秋斗は何かを閃いたように顔を上げる。


「なら、やっぱりカレーにしよう!」

「秋斗さんはホントに脈絡ないですね! どうしてそこまでカレーにこだわるんですか! イカを使わない料理なんて他にもいっぱいありますよ!? それにシーフードカレーにはだいたいイカ入ってます!」


 すぐに律が頬を膨らませるが、秋斗は意にかいしていないようだ。


「おれがカレー食べたい気分なんだよ!」


 楽しそうに秋斗が立ち上がり、まだ座り込んだままの律に向けて手を差し出す。


「俺も今はカレーが食いたい気分だな」


 続いて千紘も立ち上がった。服の汚れを払いながら、いたずらっぽい笑顔を浮かべ、秋斗と同じく手を差し伸べる。


 そんな二人の顔を見回した律は、数拍置いて、諦めたように息を吐いた。


「……もう、仕方ないですね。カレーは今日だけですよ!」


 秋斗と千紘の手を両手で取り、立ち上がる。しかし台詞とは正反対に、その顔には満面の笑みをたたえていた。


「さあ、行くか!」


 満足げに目を細めた秋斗が、近くに無造作に放り出されていたバッグを拾い上げる。そのまま千紘と律に背を向けて歩き出し、残りの階段を颯爽さっそうと下りていった。


「まったく、秋斗はどこに行っても変わらないな」

「そうですね」


 半ば呆れている千紘と、対照的に嬉しそうな律がそれぞれ自分のバッグを拾い、秋斗の後を追う。


(相変わらずめんどくさいけど、それほど嫌だと思わなくなったのは、俺もかなり慣れてきたってことなんだろうな)


 やっぱり自分も律と同様に毒されてきているのだろうか、などと千紘はつい考えてしまうが、なぜだか口元は自然と緩んだ。


 ガラス張りになっているドアの向こうには、「早く、早く!」と急かす秋斗がいる。


「律、行くぞ!」


 そう言って千紘が後ろを振り返ると、嬉しそうな律の顔があった。


 ドアを大きく開けて外に出ると、途端にまぶしい太陽が照りつける。その光を全身に浴びながら、千紘はつい先ほどまでいた世界のことを振り返った。


 残念ながら、今は潮風の香りを感じない。


 けれど千紘たちの上には、アンシュタートと同じ、雲一つない抜けるような青空がどこまでも広がっていたのである。


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