火星で鍋は使えません

華川とうふ

第1話

 火星には鍋がない。

 なので、なにか温かい物が食べたくなったら薬缶で湯を沸かすか電子レンジを使う。


 薬缶を火にかけるのは嫌いじゃない。

 大抵の男はめんどくさがって電子レンジを使うけれど。


 火星では薬缶を火にかけるとラジオが聞けるから。


 水を入れた薬缶が温まるに連れて振動して、そこから今日のニュースが流れ始める。


 音だけで入ってくる情報は静かで心地よく体に染みる。


 映像付きでみると、ど派手なミュージックビデオでつまらないと思っていたシンガーの曲が思いの外、味わい深く心に入り込んでくる。


 聞き入ってしまうため、時々薬缶のお湯が蒸発してしまうくらいだ。


 今日は薬缶ラジオからは知らない女性の声が流れてきた。


 明確な歌詞はなくて、鼻歌みたいだった。

 ぜんぜん気取って無くて、自然で、とても気持ちよさそうな鼻歌だった。

 あまりにも気持ちよさそうなので、薬缶の中の水が沸騰しても聞き続けた。

 なんというアーティストのものなのだろう。

 せめてそれだけ聞いてからラジオを切ろうコーヒーを入れようと思っていたが、その鼻歌はドアのベルが鳴る音でとまってしまい。

 そこからは、何の音も聞こえなくなってしまった。


 インスタントコーヒーをいれてパンを囓った。

 生きるのに十分な栄養だ。

 パンには必要な栄養がすべて入っている。

 コーヒーは昔ながらのもので特別栄養があるわけじゃないけれど、嗜好品なので問題はない。

 香りは良いけれど、苦いだけ。

 だけれど、なんとなく求めてしまうのだ。


 あの鼻歌はなんだったのだろう。

 数日経って、再び僕はあの鼻歌を思い出した。

 思い出したというより、忘れられなかったのだ。


 また、あの歌、いやあの声が聞きたいと思った。


 ただ、流れていくだけで心地よかっただけのラジオがこんなに気になるなんて。そう気が付いたのは流しの中にマグカップの山がたった数日でできあがったあとだった。

 あの声が聞きたいばかりに、僕は数日間で一ヶ月分のコーヒーを飲んでしまっていたのだ。


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