最終話

 『四月から県警の配属になりました。職場近くなりましたんで、何か手伝えることがあれば言ってください。』

 『ありがとうございます。一緒にお昼食べられる距離になりましたね。心強いです。何かあった時は頼らせてください。四月からも、よろしくお願いします。』

 県警は第二庁舎の裏だから、歩いて二分ほどの距離だ。来月辺り、県庁食堂で昼食をとりつつ近況報告するのもいいかもしれない。

 市谷もあれ以来、我が子と共に遺されてしまった私のことを何かと気遣ってくれている。あの時、状況を隠さず教えてくれたのも市谷だった。

――都内ホテルのスイートルームに宿泊中、ルームサービスを運んできたスタッフの目の前でバルコニーから飛び降りたそうです。「僕は鳥だ、鳥みたいに飛べるから見て」って。

 離婚が成立したのは、昨年十二月二十八日。妊娠の事実を告げないままサインをして、一億円の財産分与を受けた。一銭もいらないと言ったのに、罪悪感が疼いたらしい。

――これでもう、お互い自由だね。

 指輪を外しながら、吉継は長い呪いから解放されたような息を吐いた。あれが、最後の言葉だった。

 『着いた』

 短く告げるメッセージに柱から背を起こし、庁舎を出て来庁者用の駐車場へ向かう。隅に止まる見慣れたセダンの後部座席に乗り込み、一息ついた。

「おかえり。体調はどうだ」

「大丈夫です。周りが過保護で、箸より重いものを持たせてもらえませんから」

 溜め息交じりに答えた私に、運転席で明将は笑う。

「夕飯、何がいい。うどんか」

「うどんはつわりの時を思い出すので、しばらく見たくありません。翡翠餃子が食べたい」

「翡翠餃子か。じゃあ点心でいいな」

 バックミラー越しに一瞥をくれたあと、車を出す。バッグを足元へ起き、ごろりと横になった。ふっと体が楽になる。これまでと同じ姿勢でいられないせいか、あちこちに負担がかかり始めているらしい。以前とは違う線を描く腹を撫で、目を閉じた。

 約束どおり明将と会い、離婚と妊娠を報告したのは十二月二十九日の夜だった。離婚は既に知っていたが妊娠は当然初耳で、酒を飲まない私を前に呆然としていた。それから「どんな形でもいいから杼機の庇護を受けろ」「一人で産もうとするな」と真人間のような説得を始めた明将をかわしてようやく店外へ出る頃には、この冬一番の積雪になっていた。

 タクシー数台に打診して断られ帰路の術を失った明将を、仕方なくウィークリーマンションへ連れ帰って泊めた。もちろん私達の間には何もなかったが、町では未曾有の事態が起きていた。三十日の未明、町はかつてない規模の大雪崩に襲われ五十名以上の死者を出した。その中にはかつての義祖父母や義父母、明将の妻子、周囲に連なる杼機分家の面子が多く含まれていた。中には正月休みで里帰りしていた者もいたらしい。しかし老若男女、血の濃さなどまるで無関係に、みな押し潰されて雪に沈んだ。主の鉄槌だった。

――主さま、申し訳ありません。この子だけは、お渡しできません。

 祈るように希った時、久しぶりにあの化け物を見た。不気味なあの丸い目で私を見据えたあと、聞き遂げたように消えていった。どちらが大事かなんて、一瞬も迷わなかった。

 吉継が上京したと明将に聞いたのは、明けて一月の半ばだった。まずは都知事になって最終的に総理になると言い出し、止めるのも聞かず町を出て行ったらしい。バルコニーからの転落死は、確かその二日後だった。市谷からの連絡は「例の件、トキソプラズマじゃなかったんですよね?」と再度の確認を兼ねていた。新山は吉継の協力を得て杼機の不正を調べていたが、これで水泡に帰したらしい。オフレコだと言って、苦笑した。 

「仕事、もう慣れました?」

「ああ、おかげさまで良くしてもらってる。いい職場だ」

 全てを失い唯一遺された弟が東京で変死を遂げてから、町は手のひらを返したように弱りきった明将を攻撃し始めた。吉継の葬式も「雪崩の原因は杼機が管理に金を回さなかったから」とまことしやかに流れ始めたデマにより、まともに行えないほど荒れた。中には変わらず杼機を慕う者もいただろうが、とても割って入り手を差し伸べられる状況ではなかった。私以外は。

――葬式に喪服も着て来ない下衆を、人として敬う理由はありません。

 真っ向から言い放った私に、場は静まり返った。整田は未だ杼機の味方だと、宣言したようなものだった。

 そのとばっちりで身の危険を感じた譲は町役場を退職し、私が迷惑料として握らせたあの一億円を持って県外へ脱出した。現在は友達のところに身を寄せ、カフェ経営の計画を練っているらしい。

「祈が戻って来てくれるならいつでも席作るって言ってるぞ」

「県庁にいられなくなったら、頼もうかな」

 明将の今の職場は、私が出向で世話になった鉄道会社だ。ここ数年は義父の秘書をしていて会社勤めにブランクはあったものの、公認会計士の資格は強い。普通なら会計事務所を斡旋するところだが、出向中に感じていた課題点を埋める人材として明将は最適だった。三年経ってもまだ課題が解消されていなかった点はさておき、かつての上司はすぐに面接を約束してくれた。

 ほどなくして無事採用されたあとは、町を捨て市内で暮らしている。私とは、たまにこうして夕食を共にする関係だ。仲良くはないが、以前ほど悪くもない。

 不意に笑う声が聞こえて、薄く目を開く。

「何かありましたか」

「いや、葬式の時に祈が誰かの胸倉掴んでたの思い出してね。『本当に掴み返すんだな』って、ぼんやり見てた」

「だって掴まれたから」

「普通は掴み返さないんだよなあ。あの時の相手も、それで驚いて逃げたんだろ」

 そうですね、と返して笑うが事実ではない。あの時、彼は私の後ろに黒い化け物の群れを見たはずだ。私が「人ではない」証拠を。

「まさか祈に守られる日が来るとは思わなかったよ。でもどこかで、何かあった時でも祈だけは助けてくれるような気がしてた」

「守りますし、助けますよ。手が届くものなら、全部」

 一つあくびをして、あやすように腹をさする。

 息子は今年の夏、私からは主の魂を、吉継からは全ての遺産を引き継いで産まれてくる。総資産は約八十億、産まれたら相続手続きを始めなければならない。望む望まないに関わらず、敵が増えるのは分かっている。金の管理に長けた明将を味方につけておくに越したことはない。

――人の世で生きればお前も人だ。人のように小賢しく泥臭く、強かに生き延びよ。

 一息ついて体を起こし、窓際に凭れる。白く輝く主の光とは似ても似つかぬ小汚いネオンを眺め、笑った。




                              (終)

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