第49話

 車を走らせ、山へ辿り着く頃には八時近くになっていた。市内ではちらつく程度だったが、町はもう雪の中に埋もれていた。

 麓で車を止め、雪明かりを頼りに車からダンボールを下ろす。悴む手は寒さ以外のものでも震えていたが、行くしかない。細かな点描を落とす雪の向こうに、黒く聳え立つ山を見る。ふと視線を落とせば、さっきより多くの化け物達が私を囲んでいた。主の帰還に、山から迎えに下りてきたもの達もいるのだろう。これはもう、幻覚ではない。

 唾を飲み、ゆっくりとダンボールを抱え上げる。少しずつ暗くなる景色の中を、雪を踏みしめて山へ入った。

 震える足をどうにか進め、がちがちと鳴る歯に荒い息を吐く。大丈夫、大丈夫だ。もう大人になっているし、雪明かりでちゃんと見える。それでも、いのりぃ、とあの声に名前を呼ばれた瞬間、突き上げる恐怖に動けなくなってしまった。

 どうしよう、やっぱり怖い。

 立っていられず、ダンボールを置いてゆっくりとうずくまる。吹き荒ぶ風に凍える耳を塞ぎ、深呼吸を繰り返す。大丈夫、大丈夫。宥める声を自分に掛け、縮こまった胸を落ち着かせる。きちんと返して謝って、できる限りの償いをしなくては。でも非力な私に、何ができるのか。

「祈」

 塞ぐ手のひらを突き抜けて聞こえた声に、はっとして顔を上げた。いつの間にか風は止み、雪だけがただしんしんと降り続けている。

「箱を、開いてくれ」

 どこからか、太くて低い落ち着いた声が響く。頷いてダンボールに積もる雪を落とし、蓋を開く。ギィィ、と鳴く声に怯えて手を引いた。

「大丈夫だ、襲いはしない」

 開いた箱の中から白い光がいくつか浮かび上がり、揺れながら山の奥へと消えていく。その光に付き従うかのように、黒い化け物の群れが我先にと続くのが見えた。無事に、返せたのだろうか。おそるおそる手を差し込んだ暗い箱の中には、もう何も残っていなかった。安堵して蓋を閉じ、改めて山の奥へと向き直り土下座をした。

「この度は、申し訳ありませんでした。このような謝罪で済むことではありませんが、私の命を以って償えるのであればどうか」

「それはできぬ相談だ」

 また聞こえた声に頭を上げる。雪明かりの中に現れた雄々しい白鹿の姿を、じっと見据えた。無事に、蘇ったのだろうか。続いて周りへ降り立ったあの化け物達に怯えると、主は軽く頭を振った。

「これらは私を崇め忠義を尽くす僕等だ。お前をひどく怯えさせてしまったが、偏に私を蘇らせるために為したこと。許してやって欲しい」

 実際には私は怯えただけで、死んでいない。みなを殺したことも許せというのなら、すぐには受け入れられない話だ。

「でも、どうして私のところにばかり」

 矛先を変えて尋ねた私を主は見据えたあと、まるで人のように溜め息をつく。白い鼻先がひくついた。

「お前がかつてここで迷ったのは、五つの年だったな。杼機の息子に置いて行かれ、泣きながらさまよううちに夜になり、足を滑らせて谷を転がり落ちた」

 やはり、助けてくれたのは主だったのだろう。当時の様子をまるで見ていたように語り、少し間を置いた。

「お前はその時、死んだのだ。岩に頭をぶつけてな」

 しかしその結末は、私のまるで知らないものだった。

「お前の魂は死んでもなお泣きながら、母を求めていた。この山で命を落とし黄泉へ行く魂は、僕等が先導をすることになっている。しかしお前は僕等がどうやっても泣き止まず、母を呼び続けた」

 あれは、迎えに来た僕達だったのか。あの記憶は、「死んだあと」の記憶。

「……あの時見えた光は、あなただったんですか」

「母を求めて泣き続ける姿があまりに稚く、不憫でな。それにお前の祖父は、よく山に尽くし我らを敬った。その血を引いたお前なら、悪しきことにはならぬだろうと思ったのだ」

 主は雪を踏みしめつつ道を下り、私のすぐ傍に頭を寄せる。白く輝く毛並みの中で、金色の瞳が燃えるように揺らめいていた。

「我が魂を分け与え、人と変わらず生きられるようにしたのが今のお前だ」

「分け御霊、ということですか」

「私は神ではないがな。神なら与えぬ」

 主は、ふ、と笑い、頭を起こす。

「私の器が死した時、核である魂を取り戻そうとするのは当然のこと。『分け与えれば既に別のものである』とは、僕等は元より理解ができぬ。弱った状態では十分に守ってやれず、すまなかった」

「いえ、とんでもありません。何度となく窮地を救っていただき、ありがとうございました」

 やっぱりあれは、意図的な救いだったのか。何度となく助けられた場面を思い出せば、自然と頭が下がる。でもこれも、「本当の私」ではないからなのかもしれない。

――昔は、あの時山で迷うまでは、祈は優しかったよ。

 山で迷った恐怖なんて、全く関係なかった。私は本当に、あの日から別人になったのだ。いや、人のように生きているだけで「人ではない」のか。白い光の下で悴んだ手をゆっくりと握って、開く。周りと、何も違いはない。無理をすれば熱が出るし、肩も凝る。切れば血が流れるし、傷が特別早く治ったわけでもなかった。分け御霊といっても、そんな。

――鋼メンタルがよく言うよ。

 もしかして、「そういうこと」なのか。私の感じる苦しみや痛みは、「人間よりずっと少なかった」のかもしれない。今こうして動揺する胸も感じているショックも、ほかの人に比べればずっと些細なものなのかもしれない。

 長い息を吐き、冷えた手で顔をさすりあげる。動揺が収まるのを待って、また顔を上げた。今は、個人的な問題に揺れている時ではない。

「あなたはこれでもう、完全に蘇られたのですか」

「いや。血肉を再び顕現させねばならぬ。人の魂で言えば、あと七つ八つ足りぬところだ」

 率直な答えに、落ち着いたばかりの胸が揺れる。そこに何が含まれているか分かるのは、根が同じだからだろうか。

「吉継は確かに、決してしてはならないことをしました。ただ彼はまだ人として未熟で、模索している最中です」

「あれが未だ命を保っているのは、私がかつて杼機に与えた加護あってのこと。なければ即座に僕等が突き殺していた。それすらも悟れぬとは杼機の驕りであろう」

 分かっている。問題は撃った事実よりその後の態度だ。本来ならば杼機の人間なら決して白鹿を撃つわけがないのだから、教えを徹底していないことも重大な過失だろう。山を全く恐れず悪びれない吉継や明将の態度を、主が快く受け止めているわけがない。吉継や明将が所詮口伝の昔話だと軽んじるのは、それを許す上の世代がいるからだ。

「私は山を、我らを冒涜することなく民を導けと言ったのだ。全ての長であるかのように振る舞い君臨せよと言ったのではない。雨が降り山が崩れ大地が揺らげば生きることすらままならぬ弱き者が、その弱さを忘れるのは愚かであろう」

「ですが」

「愚かな者が一人なら、聡き者が三人もいれば救えよう。ただ愚かな者が三人になれば、聡き者は十人では足りぬ。愚かな者は集えば一層愚かになるからだ。今の町は、杼機の育てた愚民で満ちている」

 ぴしゃりと塞ぐ主の言葉に、頭を下げる。「昔は優しかった」とか「良いところもある」とか、そんな話ではないのだ。今の町は、全て杼機ありきで回っている。そこに杼機の思惑はあったのだろうが、ぶら下がり依存している町民にまるで責任がないわけではない。杼機が潰れれば町も潰れる、共依存の関係だ。

「私がかつて分けていただいた魂をお返しすることで、お許しいただけないでしょうか」

「分け与えた魂はもう別のもの、お前が死んだところで我が魂に戻りはせぬし同族は喰わぬ」

 即座に却下された提案に、唇を噛む。

「己が死ぬ原因を作り、私を撃ち殺した人間を庇うか」

「申し訳ありません。浅はかだとは分かっています。ただ私を置き去りにしたことは、妻に娶るほどには責任を感じています。どうしても、『仕方ありません』とは」

 口ごもりつつも、受け入れられない処置に食い下がる。もう私なんて待っていないかもしれないが、守れるのなら守りたい。

「何度見ても、人間の色恋は愚かで厄介なものよ。私の魂を分けたとは思えぬが仕方あるまい」

 主は軽く笑い、頭を横に振る。雄々しい角に降り積もっていた雪が散り、凍てつく空気の中で煌めく。私を囲んでいた化け物達がまた、ギイィと鳴きつつ翼を震わせた。許された、のか。

「あれを寄越さぬのなら、これより新たに出会った命を捧げよ。良いな」

 主は代わりの条件を与えつつ、踵を返す。

「主さま」

「人の世で生きればお前も人だ。人のように小賢しく泥臭く、強かに生き延びよ」

 山奥へ向かう後ろ姿を覆い隠すように、飛び立った化け物達が黒い壁を作る。壁は少しずつ重なって濃密になり、やがてふっと消えた。

 辺りは再び、雪明かりが作る赤みがかった暗がりへと戻る。傍らで転がったダンボールに我に返り、再び中を覗く。丁寧に残された梱包材を確かめて蓋を閉じた。

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