第46話

 食肉衛生検査所が爆発炎上したのは十二月二十三日、水曜日の昼だった。俄に騒がしくなる課内で、私も落ち着かない指でキーを叩いていた。まさかと思いつつも、いやな予感しかしなかった。でもそれなら、トキソプラズマとはまるで関係なくなってしまう。

 心待ちにしていた次の一報が入ったのは夕方頃、検査を終え産廃業者への引き取りを待つ残渣が爆発を起こしたらしいことが分かった。

――なんで残渣爆発させてんだよバカだろ。

 あれは、いつだったか。

 ふと思い出したいつかの会話にモニター画面を見つめていると、杼機、と声が呼ぶ。慌てて向いた隣で、矢上が受話器を差し出していた。浅黒い肌はくすんでつやがなく、顔色が悪い。あれから少し痩せて、黙り込むことが増えた。祖父の事件は杼機のおかげで広く知れ渡ることはなかったが、水薙町で起きた放火事件はしばらく新聞紙面やワイドショーを賑わせていた。火葬場でぼんやり眺めたテレビには、燃えた家が映っていた。最近は犯人の母親が命を絶ったと、そんな真偽の分からない噂まで流れている。

 愛妻弁当のない昼の机を眺めるのは、隣の私もつらい。でも矢上は私以上に、包帯が巻かれた私の手をつらく思っていただろう。傷は塞がり包帯も消えたが、もう以前のようにはなれないのかもしれない。

「副知事から」

 待ち兼ねていた相手に、礼を言って受話器を受け取った。

「お待たせしました、杼機です」

「悪いな、早い方がいいだろうから内線にした。適当に相槌を打ってくれ。今日のニュース耳に入ってるか」

 早速切り出した笹井に、はい、と答える。

「先に検査結果を伝えとくと、あの鹿肉にはトキソプラズマに感染した形跡はなかったそうだ」

「そう、ですか」

 少しの間を置いて答え、長い息を吐く。じゃあ、なんなんだ。何が起きているのだ。

「一つ、気になることがあるらしくてな」

 ついでのように切り出された話題に、どきりとした。

「あの肉を受け取ったあとから、これまでにない頭数の動物が山から下りてきて敷地をうろつくようになってたらしい。烏も集まってくる異様な雰囲気で、職員達が『地震が来るんじゃないか』と怖がってたとな。まあ偶然かもしれないと言ってたが」

「そうですか。私の方では全く、何も」

 全く予想していなかった状況に戸惑いつつも、まるで関係ないとは思えない。ただ、伝えても混乱させるだけだ。

「ご迷惑をお掛けして、申し訳ありません」

「いや、杼機が謝ることじゃない。気を落とさないでくれ。落ち着かない時に悪かったな」

 少し慌てたようなフォローを経て、通話を終える。また何かあれば頼れ、と懲りずに言ってくれるありがたさが胸に沁みた。

「副知事相手にやらかしたか」

「ちょっとお願いしてたことがあったんですけど、ご迷惑をお掛けしてしまって。凹みますね」

「鋼メンタルがよく言うよ」

 苦笑した私を、矢上は鼻で笑う。これまでにない反応に驚くと、気づいた様子で顔をさすりあげた。

「悪い、刺があったな」

「大丈夫ですよ、気にしないでください。私も刺々しくなる時ありますし」

 心労を抱える身なのは分かっている。誰だって余裕がなければ当たりがきつくなるだろう。責めるつもりは全くない。しかし矢上は、がしゃりと音を立てて腰を上げた。

「許され続けるってのも、つらいもんだぞ」

 私を見ないままぼそりと零して、パーテーションの向こうへ消えた。

 一息ついて、再び受話器を手にする。凹むのはあとでもできる。今は、あの残渣を爆発炎上させた産廃業者を確かめなければならない。

 最近言われるようになった「鋼メンタル」が決して良い意味でないことは、自分が一番よく分かっている。家族が四人も死んでいるのに、たった一週間休んだだけで当たり前のように働いているのだ。譲は警察対応だの保険だの相続だので忙しいのもあるが、休みがちになっているらしい。今は友達の家に転がり込んで、助けてもらいながらどうにか毎日を送っている。

――姉ちゃん、よく普通に生活できるよな。

 苛立ちと蔑みを含んだような口調で叩きつけられたのは、昨日だ。まさか譲にまで言われると思わず唇を噛んだが、言い返さなかった。

 家では、あの日からずっと吉継が寝たきりのようになっている。投資もブログも何もかも放棄して、一日中ベッドの中だ。処方された薬を飲んで落ち着いてはいるが、それでも不安定な言葉を口にすることもある。夜は子供のように私に縋りついて眠る日々だ。私が普通を放棄して泣き暮らせば、吉継は間違いなくもっと崩れる。譲も、私が崩れないと分かっているから言えたのだろう。

 平気なわけはないし、普通に働けているわけもない。多分、誰も分かってはくれない。それでも、今はしなければならないことがある。私の勘が正しければ、二つの事件には繋がりがあるはずだ。

 繋がった生活環境課に「総務課です」と身元をぼかし、今回の一件を引き合いに出して残渣で爆発炎上を起こした産廃業者の件を尋ねた。担当によると、予想どおり先月末の爆発炎上も動物性残渣が原因らしい。ただその産廃業者がどこの動物性残渣を引き受けていたのかまでは、県は把握していなかった。なぜ爆発炎上したのかも、未だ調査中らしい。奇妙な事故が続くもんですね、と呑気に話す担当者に苦笑した。

 次は産廃業者、だが。一番頼れるのは吉継だろうが、今は無理だろう。私が尋ねるのは県職員としても整田としても、おそらく不審がられてしまう。対外的な交渉で県環境部を騙るのは、何かあった時に問題になるから避けたい。町職員の譲なら私より不審がられないが、多分うまく聞き出せないだろう。仕方ない。産廃業者の名前をメモした用紙を手に、腰を上げた。

 和徳に『鹿肉はトキソプラズマ感染の形跡なしでした』と一報を送り、明将に電話をかける。どのみち、こちらにも報告はしておこうと思っていた。

「最近、ほんとよくかけてくるね。俺に惚れた?」

「気持ちの悪いことを言わないでください」

「そういうこと言われると、こう、意地でもねじ伏せたくなるっていうか」

「本題に入っていいでしょうか」

 性癖の暴露を無視した私に、明将は笑う。促す声にトキソプラズマの結果と今回の爆発、調べてもらいたいことを伝えた。

「私の勘が正しければ、十一月末に爆発炎上を起こした産廃業者は、吉継さんがいつも獲物の処理を頼む加工場が契約していたところのはずです」

 爆発炎上を起こしたのは多分、処分を待っていたあの初物の鹿の残渣だ。

「なるほどな。確かにその勘はいいところを突いてる気はする。ただ」

 明将は納得した様子だったが、一旦言葉を切って唸る。

「そうなってくると、今回の原因はなんなんだ。俺は、眉唾だけどトキソプラズマが落としどころかと思ってたよ」

「私もです。ただ、まだウイルスやバクテリアが人体や環境にどんな影響を与えるのか、全て分かっているわけではありません。トキソプラズマの説さえまだ実験段階ですから。安全だとスルーされたものに、隠された原因があるのかもしれません」

 科学が進めば明らかになる分野に今は眠っている、としか予想できない。

「調べていただいて勘が正しかったところで、釈然としない結果に変わりはありません。金曜日に血液検査の結果は出ますけど、おそらく感染していないか過去の感染でしょうし。でもそれでも、ここでは終われないので。すみませんが、お願いします」

「了解。まあ、譲にはうまいことごまかして聞き出すなんて芸当は無理だろうしね」

 相変わらず一言多いが、それで頼ったわけだし仕方ない。

「二十九日の晩、空けといてくれ。サシで飲みたい」

「分かりました。また連絡を」

 断るには借りがありすぎる誘いを受け、通話を終える。サシで飲み、か。ふとこみ上げた気持ち悪さにトイレへ向かった。

 続く悲劇による衝撃を考えれば当たり前だが、最近胃の調子が悪い。鋼メンタルでも、大丈夫なわけでもない。体は悲鳴を上げ始めている。それでも。

 個室へ滑り込み、突き上げた吐き気に便器へ吐き出す。肩で荒い息を逃しつつ視線を上げると、あの化け物がタンクに止まっていた。今日はふくろう程度の大きさだ。目が合うとにたりと笑い、顔を左右に回す。寄生虫やウイルスが原因なら、このまま死ぬまでこいつらと付き合う可能性もあるのだろう。性格は変わらなくても、気が狂って死ぬかもしれない。

「爆発炎上させたのは、あなた達なの?」

「おくれぇ……や、ま……」

 いつもどおりの片言だったが、聞き慣れない単語があった。いや、確か一度どこかで。体を起こし、口を拭う。山? と聞き返すと、化け物はにたりと笑って消えた。

 山……?

 山とは多分、鹿峭山だろう。幼い頃に私が迷って前回寺本に沈められかけた滝壺のある、あの山だ。

 水を流し、個室を出て手を洗う。

 被害者は私や吉継を含めて全員、吉継が仕留めた鹿の肉を食べていた。肉の検査を頼んだ食肉検査場では、おそらくあの鹿肉を含んだ残渣が爆発し炎上。勘が正しければ、十一月末に爆発炎上した産廃業者の残渣にもあの鹿肉が含まれているはず。

 まさか、肉を「集めていた」のか。

 思い浮かんだ動機に水を止める。流水で冷え切った手を軽く払い、頬に当てた。じん、と沁みていく冷たさに浮き立つ胸が落ち着いていく。それなら、いつかの幻覚で投げた鹿肉に群がった理由も分かる。奴らの中では、食べても殺せば肉が山へ還ることになるのかもしれない。でもこれまで何十頭と鹿を撃ってきたはずだ。なぜ今回だけ、こんなことが起きているのだろう。

 冷えた肌に一息つき、トイレを出る。洗い桶を抱えて給湯室へ向かう臨職達の姿に、近づく定時を知った。

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