第42話

 寺本の訃報が届いたのは、夕食を食べ終えた頃だった。

 あのあと院へ戻った寺本は意味不明な言葉を発しつつ院長室に入り、内側から鍵を掛けて閉じこもったらしい。中から聞こえ続ける叫び声に不安になったスタッフ達は、救急車を呼び状況を見守った。しばらくして静かになったものの呼び掛けても応答はなく、結局、救急隊の到着を待ってドアをこじ開け突入した。

 部屋は、血塗れになっていたらしい。血溜まりの中に横たわる寺本の手には鋏が握られていて、体中には刺した痕があった。すぐに病院へ搬送されたが、失血により間もなく死亡した。

――「悪魔が来る、見えないのか」って必死の形相だったので、みんな怖くなってしまって。

 松前は洟を啜りつつ、豹変した寺本の様子と顛末を律儀に報告した。落ち着いたら退職して、次の職場を探すつもりらしい。最後に、もう連絡はしないから自分の連絡先を消して欲しいと願って通話を終えた。正義感で私に協力してしまったことを、後悔したのかもしれない。受け入れて、その場で連絡先を消した。


 吉継の姿は片付けを終えたキッチンではなく、自室にあった。夕食に、きつねうどんを啜ったばかりだった。

 小さく呼んだ私に、モニターへ向かっていた吉継は振り向く。ブログの更新だろう。昨日、セミナーの状況を尋ねるコメントに参加者側の事情で中止になったような返信をしていた。間違いではないが、引っ掛かる書き方だった。もしあの鹿肉によるトキソプラズマ症が原因だと推測できる状況になったら、ちゃんと書き直すのだろうか。

「寺本さんに、連絡してくれた?」

「してないよ。余計ナーバスになるだけだと思ったから」

 予想はしていたが、どうしようもない。電話をしたところで、どのみち間に合わなかったかもしれない。

「今、院の人から連絡があったよ。亡くなったって。自殺みたい」

 抑えた声で伝えると、吉継は絶句した様子で私を見据える。やがて腰を上げ、私の傍を走り抜ける。青ざめた顔で向かったトイレを覗くと、便器を抱えて吐き続けていた。ショックだったのだろう。洗脳が解けたとはいえ、一度は心酔した「理想のメンター」だ。

「トキソプラズマって、どうすれば治るの。次は僕だ!」

 背をさすろうと伸ばした手を弾き、吉継はヒステリックに叫ぶ。そっちだったのか。やっぱり話すのは早すぎたかもしれない。

「落ち着いて。まだトキソプラズマだと」

「よく平気でいられるね。先生が死んだのに! 僕も死ぬのに!」

 口元を拭い、顔を歪めながら怒鳴るように遮る。別れ際の寺本の表情が重なり、背筋に冷たいものが走った。違う。

 大丈夫、大丈夫なはずだ。少し不安定になっているだけだろう。吉継にはなんの症状も出ていない。守れるはずだ。

「平気じゃないよ。でも今は、泣き暮らすより何が起きたのか事実を確かめる方が先だから。不本意な理由で亡くなったことになってる彼らと家族の名誉を、少しでも」

「やっぱり、先生が正しかったんだよ。祈は悪魔だ。冷酷で、残酷で。僕達と同じ血が通ってるとは思えない。祈がみんなを殺したんだ。次は、僕だろ。僕も殺すつもりなんだろ!」

「そんなことない!」

 同じ強さで言い返したあと、溜め息をつく。不安と恐怖で、思わず揺らいでしまった。震える手を、忙しなくさする。

「ごめん、怒鳴っちゃって。でも」

 宥める台詞を伝えきる前に、インターフォンが鳴り響く。

「心配なら、休みもらうから一緒にトキソプラズマの検査を受けに行こう。大丈夫だから」

 ね、と親のように宥めたあと、リビングへ戻る。再び鳴り響いた音にモニターをチェックすると、見慣れない顔が二つあった。

 はい、と控えめに答えた私に、彼らは警察だと答えて手帳を見せる。用件を尋ねると、予想どおり寺本の名前を挙げた。

 オートロックを解除して彼らを通し、再びトイレへ戻る。

「吉継、寺本さんの件で警察が来たよ」

 床に座り込み項垂れている吉継に伝えた途端、弾かれたように顔が上がった。

「どうしよう、祈」

「大丈夫だよ、落ち着いて」

 縋るような視線と声を向ける吉継の前にしゃがみこみ、手を伸ばす。久しぶりに触れる頬は、浅く窪んでいた。

「私が話をするから、大丈夫。吉継は、無理に話そうとしなくていいよ」

 子供のように私のニットを握る手が、力を込める。

――お父さんもお母さんもお兄ちゃんのことばっかりで、僕にはなんにもしてくれない。

 息子が産まれない今もいろいろあるだろうが、息子しかいなかった一代前もそれなりにいろいろあった。長男である明将は何においても優先され、次男の吉継は基本的に放置でお手伝いさんが育てたようなものだった。ただ小説や映画でよくある「お手伝いさんが母親のように育ててくれた」わけでもない。吉継が壁にぶち当たったらすぐに辞めていたのも、その先まで根気よく続けさせる、要は忍耐強く親の仕事をしてくれる存在がいなかったからだろう。吉継が時々母親を求めるように私に縋るのも、多分、求められなかった頃の反動か何かだ。

 小学校の頃は、なかなか家に帰りたがらずベソを掻く吉継を連れて公園や川へ寄り道をした。特に何かしたわけでもなかったし周りの目には私が連れ回しているように見えていたらしいが、悲しそうな顔のまま帰してはいけない気がした。

 明将はもちろんだが吉継も深く付き合う友達は幼い頃からコントロールされていて、許された私は産まれた頃から傍に置かれた子供の一人だった。女子はほかにもいたが、あの一件があっても私が選ばれたのは、おそらくはその献身が目に留まったからだろう。

――祈、大人になったら杼機にお嫁に行こうか。

 父が杼機への嫁入りを口にし始めたのは、小学三年か四年の頃だった。あの頃にはもう、金を受け取っていたのかもしれない。

「ベッドで寝てて。体調不良ってことにするから」

 手を貸して吉継を立ちあがらせ、寝室へ向かわせる。可能かどうかはともかく、会わせないですむならその方がいい。

 寝室へ入る背を見送ったあと、玄関へ向かった。

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