第40話

 翌日、吉継に連れられて向かったのは沢瀉町だった。しかも鹿峭山の中にある滝とくれば、吉継が斡旋したとしか思えない。あの一件が呪いを引き起こしたと思ったからだろうが、いらない気を回しすぎだ。私はあれ以来、一度も入ったことがないのに。

 大丈夫だよ、と促す手を掴み、しぶしぶ車から降りる。滝の音は寒々しく響き、空気は凍てつくような冷たさだ。針葉樹の清々しく厳かな香りを吸い込むと、肺が冷えて小さく咳をする。見上げれば、雪を被った山が聳え立っていた。雪をまとった冬の山は、一層神々しく見える。

 懐かしい感覚が、怯える胸に拡がっていく。あの日迷うまでは、山は身近な遊び場だった。祖父に連れられ山菜を摘み、沢ではカニを見つけた。ほかの子供達と一緒に駆けずり回り、木の実を拾ってネックレスも作った。山が、悪いわけではないのだ。

 視線を落とす私の向こうで、既に着いていたバンから寺本が姿を現す。挨拶をする二人に切り替えるように首を回し、視線を上げた。

「最初にお伝えしておきたいことがあるんですが」

 切り出した私に、ダウンコートに身を包んだ二人が揃ってこちらを向く。

「先日、あのCDを鑑定に回しました。サブリミナル効果はないとの結果でした。あと、製作会社ともどうにか連絡をとったんですが、あの会社にはそもそもサブリミナル効果なんてオプションはないそうですね。証拠もありますが、どうされますか」

「本当、ですか」

 驚いたように尋ねる吉継に、寺本は不敵な笑みを浮かべる。

「幸いあまり売れていなかったようですし、販売した方達に謝罪と返金を行うのであれば大事にはしません。従われないのであれば、警察に証拠を持ち込み詐欺罪で訴えます」

「祈、証拠は?」

 戸惑う吉継に、証拠のコピーを詰めた茶封筒を差し出す。吉継は目を通したあと、促されて寺本へ渡す。寺本は受け取って内容を確かめたあと、苦笑した。

「困りましたね。確かにこれは、この世界では証拠となりうるものです。ただ、あのCDのサブリミナル効果や浄化効果は、三次元で添付したものではないのですよ。全て私が、私自身の能力で八次元のものを添付したのです。三次元の機器で鑑定できないのは当然ですよ」

 言うに事欠いて、八次元とは。思わず呆然とした私に、寺本は微笑を浮かべる。

「ご主人にはご理解いただけると思いますが、肉の器に囚われたあなたには難しいでしょうね。このようなものは、なんの意味もなさないのです」

 目を細めて頭を横に振りつつ、茶封筒ごと証拠を破いていく。もしかしたら原本だと思っているのかもしれない。焦っているのは確かだ。

「それでも、三次元で犯した罪は三次元で償うべきでは? 八次元では三次元での罪は掻き消すのが常識なんですか? それほどこの世が疎ましいなら、さっさと昇天されてはいかがですか」

「三次元には、不便を味わうために降りているのです。ままならぬ肉の器でしかできない学びを得るために」

 丁寧に破いた証拠を、吹き荒ぶ寒風に散らす。紙は散り散りに、あるものは山へ向かい、あるものは谷の底へと向かった。こんな日に滝壺へ沈められたら、間違いなく凍え死ぬ。風に乱される髪を押さえ、白い息を吐いた。

「では、三次元の法に従って逮捕及び懲役を受けるのはむしろ良いことですね。三次元で生きていても、一握りの人しかできない学びですから」

 まともに議論をする気になれず、溜め息交じりに皮肉を返す。寺本は呆れたように頭を横に振りつつ、薄く笑った。

「あなたのような下賤な魂には、何を言っても無駄なのでしょうね。でもそれも今日までです。その身に取り憑いた魔物を祓えば、あなたの魂もご主人のように澄んだ色を取り戻すでしょう」

「でも先生、今日は水が冷たすぎますし、祈は手に怪我をしていて」

「大丈夫ですよ、私が行う以上は安全です。魂を浄化して魔物を祓うには、清らかな水の流れに身を預けるしかありません。杼機さんも、昔の奥様に戻って欲しいのでしょう?」

 それは、と視線を落とす吉継に溜め息をつく。吉継は本当に、こんな方法で私を元に戻せると信じて……いるのか。幼い日から、ずっと背負い続けてきた責任だ。下ろせる方法が、逃れる道があるのなら、どんなものでも縋りついてしまうのかもしれない。

「あなたが真の自由を手に入れるためには、これしか方法がありません。私が力を貸しますから」

 励ますような寺本の言葉に、吉継はぎこちなく頷く。私の耳には「一緒に殺しましょう」と言っているようにしか聞こえない。「真の自由」のために、か。

 確かに今のままでは、吉継に自由は訪れないだろう。これからカウンセリングに通い始めたところで、何年掛かるか分からない。それなら、元凶を消した方が早い。でも本当に自由になるのは、寺本だけだ。

「では、奥様を滝へお連れしましょう」

 寺本の声に、吉継は私を見ないまま腕を引く。少し距離をとってついてくる寺本を確かめ、小声で吉継を呼んだ。

「相槌は打たなくていいから、黙って聞いて。さっき渡した証拠の文書は、全部コピーなの。原本は明将さんに預けてある。多分あの人は自分が損しない方法で、吉継のせいにして私を殺すつもりでいる。何を言われても『できない』って断って、全部あの人にさせて。あと、もし私が死んだら明将さんに連絡して」

 雪で滑る坂を、吉継の腕を頼りつつ下りる。近づいても不審に思われないから、ちょうどいい。これから殺されるかもしれないのに、意外と怖さは湧いてこない。一晩考え続けたおかげで、腹が括れたのだろうか。

「もう一度言うけど、先生は詐欺師だよ。あれだけ八次元八次元って自分の力を自慢してる人が、CDのサブリミナル効果を説明するのにさっきみたいな説明をどうして今まで省いてたの? よく考えて」

 薄く雪の積もった河原を、滝壺の傍まで辿り着く。

「では、コートを脱いで裸足になってもらってください」

「いえ、僕は……かわいそうで、とてもできません」

 私が伝えたとおり、吉継は拒否してあとずさる。寺本を見ると、少し驚いたような表情を浮かべた。すんなり言うことを聞くと思っていたのかもしれない。

「これはあなた方夫婦の問題です。あなたがされなければ、意味がありません」

「本人が無理だと言っているのだから、無理なんです。中止にしますか? それともあなたが直接、手を下しますか?」

 見据えた私に、寺本の表情から薄っぺらい笑みが消えた。能面のような生気のない顔に、少し戸惑う。光の消えた目が、いつかのように暗く澱んでいた。

「本性を現せ、お前が悪魔なんだろう!」

 顔を歪めて突然叫んだかと思うと歩み寄り、勢いよく私の胸倉を掴む。

「俺を地獄へ引きずり込むつもりだろうが、そうはさせんぞ! 死ね!」

 そのまま、鬼の形相で私を滝壺へと押し始めた。悪魔が、悪魔め、とうなされたように繰り返す寺本の姿は常軌を逸していて、私を睨んでいるのに焦点が合っていない。さすがに、これは予想していなかった。

 迫力に圧倒されて、私を呼ぶ吉継に視線をやる間もない。聞こえる音と冷たさに、川へ入ったのが分かった。

「死ね、悪魔!」

 猛る声に胸倉を掴み返した時、背後の山から凄まじい音が響き渡る。寺本はびくりとして力を緩め、背後へ視線をやった。続いて聞こえ始めた羽ばたきの音には、聞き覚えがある。呆けたように口を開け視線を揺らす寺本から、ゆっくりと視線を移した。

 私のすぐ背後に下り立ったのは無数の、あの黒い化け物達だった。今日も私より背が高く、見上げた先で頭がいつものように回っていた。群れは寺本を威嚇するように翼を広げ、黒く鋭いくちばしを開く。漂う生臭さに、思わずえづきそうになった。

 ギィィィ、と空へ響く不気味な声に寺本は血相を変え、私を手放し慌てて逃げ出す。転げそうになりつつ川岸へ辿り着いたあと、声を掛けた吉継を突き飛ばして坂道を上がって行く。

 これが、見えたのか。

 一人、何が起きたか分からない様子で私を窺う吉継には、やはり見えていないのだろう。心配そうな顔で、どうしたの、大丈夫、と尋ねた。

「ああ、うん。なんともない」

 戸惑いつつ答えた時、群れが一斉に飛び立つ。しかし役目を終えて山へ戻るのかと思いきや、寺本を追い掛けるように麓の方へと向かった。

 助けてくれたのだろうか。でもあんなに私を殺そうとしていたのに、なぜ。

 川岸へ戻ると、待っていたかのように吉継が抱き締める。

「ごめん、本当に……ごめん」

 寺本の本性を目の当たりにして、ようやく目が覚めたのだろう。良かった、戻ってきてくれた。泣きそうな声で詫びる吉継に、安堵の息を吐きつつ頷いた。

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